朝のHR。控えめにざわつく教室内。
生徒達の視線は説明を求めるようにぼくと、ぼくの隣りに立っている生徒の間を、忙しく何度も何度も行き来させている。
その当たり前な反応に、何だかぼくはひどく安心した。
このおかしなおかしな学園であっても、少なくとも生徒達とは、ぼくは常識というものが共有出来てる。……いまのところは。
「まあ、みんなの訊きたいことはわかるよ。でも、ぼくの口から言えることは、実はあまりないんだ。教えてやれるのは名前くらいかな」
だがその程度の情報は当の本人が、すぐに自らの口で語ってくれることだろう。
ぼくの隣に立っている少女はそわそわしながら、ぼくとみんなの間を、やはり何度も何度も視線を行き来させていた。
その様子は間違いなく、早く話を振ってほしいんだねっ!!、とぼくに催促しまくっている。
悪いがもうちょっとだけ待ってくれ。これだけはみんなに言っておきたい。
「大人になるってことは、訊いていいことと悪いことの区別をつけるってことだ。みんな……わかるよね?」
もしくは触れちゃいけないものは、面倒なのがわかっているものは、どんなに好奇心が刺激されようとも、断固として触れないことだ。
記憶にございません。
このセリフを臆面もなく言えるようになったら、それはそれはびっくりするくらいの立派な大人だ。
“こくん”
クラス全員の動きが見事にシンクロした。ぼくを含めて、隣に立っている少女以外、全員の心が一つになった瞬間である。
「じゃあ、いくよ?」
後になって考えてみれば、何だか妙な進行だが、クラスのみんながそうであるように、ぼくもこのとき冷静ではなかったみたいだ。
背中を軽く、ポンッ、と押すと、溜めに溜めていた彼女の元気が、火山の噴火みたいに大爆発する。
「あたし、匂宮理澄だもんっ!!」
ぺこりと、理澄ちゃんはみんなに頭を下げた。
その姿は一度見たらば、忘れたくても忘れられないだろう。
説明文がまんまトラウマな黒いマントが、勢いよく戻された頭の反動でパサリと揺れた。
「名探偵だねっ!!」
この学園の女の子達は、あまり何事にも動じそうにないが、理澄ちゃんの衝撃の告白に、全員の身体がちょっとだけ引いている。
だがこのとき、彼女達は誰一人としてまだ、わかってはいなかった。真の衝撃とはどういうものかを。
頭を下げて上げる。
わずかこれしきのアクションで、きっちりと固く結んであったマントの紐が、本来であれば解けるわけがない。
片付けられていた机をどこかから持ってきて、勝手にぼくの隣りに陣取った神出鬼没系教師が、そういえば職員室で言っていた。
『こういう言葉は趣味じゃないんだけど ――嫌な予感がする ん……だよね』
そのときのぼくは、気にも留めてなかった。
でもいまならわかる。
スローモーションで堕ちていく理澄ちゃんの黒マント。はらりと舞い堕ち、綺麗に教室の床に、花びらのように広がった。
――嫌な予感がする
いまならはっきりとわかる。あれはこのことだったんだと。
ハンニバル・レクター博士以上に、この服を着こなせる人間はこの世にいないだろう。少なくともぼくの知り合いにはいない。
良かった。本当に。
そして今日とりあえず知り合いになった理澄ちゃんも、決してそれが似合っているとはいえなかった。
胸の前で袖がクロスされてそれが服と一体化、なおかつその上を二本の革のベルトで縛られていて、サイズが身長にあっていないのか
裾が長く、理澄ちゃんはそんな拘束衣をまるでワンピースのように着ている。
少女虐待。
心が冷えるようなフレーズが、自然と浮かび上がってきた。
可愛い生徒達を見ると、みんな円らな瞳を目一杯、ちょっと怖いくらい見開いて固まっている。そしてぼくはといえば。
「………………………………………」
ひどく落ち着いていた。
おそらくは生徒達のそんな、極めて普通の反応を見せられたからだろう。
パニックになった者を見たときの反応は、だいたい二通りで、釣られて自分もパニくるかのか、それとも冷静になるかのどちらかだ。
ぼくは後者だったらしい。
情ではなく状況に流されるのが、ぼくという人間だが、何事においても、例外というものがあったりする。
非日常こそはぼくの、この欠陥製品の《戯言遣い》のフィールドだ。――――でもさぁ。
「………………………………………」
やっぱこれは駄目です。《戯言遣い》は嘘を吐いてました。限界です。いっぱいいっぱいです。
もう骨董アパートに帰りたい。みいこさんに会いたくて堪らない。無口な崩子ちゃんとおしゃべりしたい。哀川さんに殴られたい。
心が癒されたい。友に。玖渚友に会いたい。
などと。
現実逃避を一通り終えたところで、ぼくは黒マントを拾い上げた。
生徒達を見るとまだ、あっちの世界からは誰も戻って来てない。自慢にも何にもなりはしないが、こういったシチュでの場数が違う。
「理澄ちゃん」
「あ、ありがとうだねっ!! 着せてください」
無論そのつもりだ。そうしないと可愛い生徒達は、延々あっちの世界を彷徨ったままだろう。
ぼくは一流の洋館に仕える執事セバスチャン(仮名)よろしく理澄ちゃんにマントを着せてあげた。
「またまたありがとうございます、だねっ!!」
言ってまたまたぺこりと頭を下げる理澄ちゃん。
「……いや」
ぼくは理澄ちゃんの旋毛から生徒達に視線を移す。
拘束衣という凶悪なインパクトが視界から消えた所為か、ちらほらとこちらの世界へ帰還して来ている。
あからさまに怪しい黒マントが防護壁ってのが、彼女達の受けた衝撃の威力を物語っていた。目と目の間を揉んでいる生徒多数。
「みんな、最初にぼくが言ったことは、ちゃんと覚えてるよね。オーケー。それじゃ質問タイムだ」
さっと手を上げた生徒は、え〜〜っと確か。
「慶紀……ちゃん?」
「はい」
どうやら当たっていたみたいだ。
他にこのクラスでは、あと三人ほど目立つ生徒がいるのだが、名前と顔が一致しなくて曖昧模糊なぼくは、毎回が神経衰弱状態である。
「あの、匂宮さん……名探偵ってなんですか?」
「生き様……なんだねっ!!」
にやりと、理澄ちゃんは格好よく笑った。
「よしっ、次いこ次」
まだ何か言いたそうな理澄ちゃんを無視して、ぼくは次の生徒を指差す。生き様なんて言い切っちゃう馬鹿は高速でスルーだ。
「え〜〜っと、ろ、いや、あ、いやいや、……朱……喜……ちゃん?」
「はい」
相当おまけをしてもらったみたいだが何とか二連勝。
「その拘束……きゃっ」
ぼくの右手が唸りを上げて、白い軌跡が朱喜ちゃんの机を直撃する。
教壇に立つ者なら、誰でも一度はしてみたいチョーク投げが、我ながら見事なスピードとコントロールで炸裂した。
「それは違う。それは違うよ朱喜ちゃん」
「は、はい」
こんな風に話すぼくを見たのは、生徒達は初めてだろう。
声は淡々としていて低い。映す瞳が随分と醒めているのが自分でもよくわかる。
しかしわかってほしいんだ。こうまでしてでも突っ込み厳禁の話題が、深入りしてはいけない話題が、この世にはあるということを。
「うん。それじゃ理澄ちゃんへの質問はこれくらいにして、そろそろ授業を始めようか」
素直に頷く可愛い生徒達。
ああ、いいなぁこのクラスは。くせのある娘がいない上に、みんなぼくの言うことをわりかし聞いてくれる。
何だか教師も悪くないな。何て勘違いさせられそうになるのが、難点といえば難点ではあるが。うん。悪くない。
もっともその感想も。
「わたしはどこの席なんだねっ!!」
すでに過去のものになってはいるようだが。
邪気の欠片もない、聖なるエネルギー全開の理澄ちゃんの笑顔を見ながら、ぼくはこっそりとため息を吐いた。……まあ悪くないかな。
「先生、大好きっ!!」
「…………どうしてここに…………いたりするのかな?」
お昼休み。
食堂がいっぱいだったので、今日の昼飯はどうしようかと考えていたら、くいっと、後ろから服の袖を引っ張られた。
振り向くとそこには、両手で風呂敷包みを大事そうに持ちながら、女の子が黒目がちな瞳でじっとぼくを見上げている。
知っている顔だ。
お気に入りの抱きまくら。もうかれこれ四年は愛用している。これからも手放すつもりは微塵もない。
「崩子ちゃん? 何故ここにいるのかな?」
高校にこそ崩子ちゃんは通ってないが、なにせ年齢は女子高生ど真ん中の17歳なので、澄百合学園の制服がとても良く似合っていた。
その可愛らしい姿は学園の風景に自然に溶け込んでいて、どちらかといえばぼくの方が浮いてるくらいである。
しかしそれでも、残念ながら闇口崩子ちゃんは、この澄百合学園の生徒ではない。
いまは開店休業中ではあるが、ぼくの事務所のマスコット兼お茶汲み係兼助手見習いが、何を隠そうこの少女の正体である。
「戯言遣いのお兄ちゃんも、毎日毎日学食では飽きるだろうと考えまして、お弁当などを作って、闇口崩子、澄百合学園に参上しました」
「…………そう」
最近は随分と世間も物騒になっていて、おいそれと学校施設などに部外者は入れない。
だがだからといって、どこかから調達した制服を着て、こうして校内へと侵入してくるのはどうだろう。
少女の育成を間違えてしまったかもしれない。ごめん萌太くん。
「お兄ちゃんのお口に合うどうかの保証は出来かねますが、あの厄介者の双子と協力して手間隙だけは掛けました」
でも優しい娘には育っている。
まあさらりと毒を吐く容赦のない性格だけは、出会ったあの頃からちっとも変わってはいないが。
「深空ちゃんと高海ちゃんは来なかったの? 一緒にお弁当作ったんでしょ?」
そしてあの二人のぼくに向けてくる狂おしいばかりの感情も、この四年間有難い事にちっとも変わってなかったりする。
涙が出そうだ。
四年前は試す気にもならなかったが、いまのぼくなら泣ける気がする。多分それは……いいことなんだとは思うけど、さ。
「制服が一着しか手に入らなかったので、澪標姉妹は快くわたしに、お兄ちゃんにお弁当を届けるという役目を譲ってくれました」
「…………そう」
快く、ねえ。帰ったら左右からサラウンドで愚痴を訊かされそうだ。
暴力を崩子ちゃんに対して行使してはいけないと、深空ちゃんと高海ちゃんに言ってからは、圧倒的にパワーバランスが崩れている。
体術であればともかくとして、口ではたとえ二対一であっても、澪標は闇口の敵ではないみたいだ。
部屋の隅で仲良く膝を抱えながら、捨てられた子犬オーラを出してる二人を、この四年というもの何度見たかわからない。
ちなみにそんな澪標姉妹を見て、崩子ちゃんが密かに膝を抱えているのを、ぼくだけは知っている。
「あっちのほうになにかいい具合に静かなベンチがあったので、そこで食べたいと思うのですが、お兄ちゃんはそれでいいでしょうか?」
「うん、いいんじゃないかな」
崩子ちゃんの指定しているベンチは、ちょうど二階辺りからボウガンで狙ったりするのにいいポイントなのだが、そんなことをする奴は
まさか、まさかいくらこの学園でもいるまい。――――と、信じたい。
崩子ちゃんに手を引かれながら、キョロキョロと必要以上に、誰かの視線を恐れるようにしているぼくは、やはりチキンなんだろう。
三階の窓際に一瞬だけだが、何かを抱えている子荻ちゃんの姿が見えた気がした。
高校三年生というのは、人によっては学歴の終着点であり、人によっては通過点でしかない。
しかし何にしたところで、日本の根強い学歴信仰主義の社会では、それが人生の一つの岐路であることに間違いはないだろう。
ぼくの目の前に座っている少女も、もちろんその例外ではない。
三つ書く欄のある進路希望用紙には、第一希望と第二希望の二つだけが、しっかりとした綺麗な字で書いてあった。
まず第一希望は神理楽。
うん。これはこの学園の生徒なら珍しくもない。
日本のER3とも呼ばれている神理楽は、四神一鏡を母体に持つだけあって、澄百合のほとんどの生徒がここに流れていく。
エスカレーター方式で安直ではあるが、しかしまあこれはこれで全然かまわない。
問題は第二希望だ。
「あの、さ。その、この、第二希望なんだけど…………どんな会社か知ってるの?」
有限会社、十三階段。
会社というか何というか。正直なところあれは、趣味のサークル活動というか、諦めの悪い中年のライフワークみたいなもんだろう。
なにせ何度殺されても諦めない。
他のことはこちらが拍子抜けするくらいあっさりと、それが自分の命であっても諦めるくせに、これだけは捨てることが出来ないのだ。
「社長さんにに直接スカウトされましたから、そのときに触りだけですがお話は窺ってます」
「会ったの? あの人に? それでも入りたいわけ? あの会社に?」
トレードマークのお面はもうすでに付けてないはずだから、昔より少しはマシな風体になってるんだろうが、…………それでもなぁ。
そもそもあの人の怪しさの要因は、外見に端を発しているものではない。
いや、そりゃ十分にお面も怪しいわけだけど、持っている雰囲気はそれ以上だ。
とにかく最悪に怪しい。
そして向き合えばおそらくぼくは、わずかながらだが成長したいまをしても、あの男に恐怖を感じずにはいられないだろう。
でもどういうわけなんだか、それが一部の女性には、堪らなく魅力的に映ったりするらしいのだ。
ああ。そういえば。ぞっこんの彼女も、中退ではあるがこの学園の出身者だったな。
もしかしたら、まあ若干の例外はいるものの、頭の切れる人ほど、あのわけのわからない雰囲気に狂わされるのかもしれない。
やれやれ。相も変わらず存在自体が迷惑な人だ。
「先生はお知り合いなんですか? あの狐面の男と?」
「…………まぁ、ね」
結局また付けてんのかよ。あの狐のお面。
なんか因果がどうとか、親友がどうとか、色々理由付けされてたけど、やっぱりただの趣味なんじゃないのか?
あれだけ盛り上げるだけ盛り上げて外したくせに。
とはいえ四年前付けていたお面は、あの人にしても代理品はないだろうから、同じものではなく新調はしてるんだろうけど。
「それで会社の趣旨というか、目的は訊いたのかな?」
「世界の終わりを見ることだとか」
「見たいの? 見たいんなら……………」
とても。本当にとても残念だけど、子荻ちゃん、きみはぼくの敵だ。
「いえ。そんなけったいなものに興味はありません」
「あ、そうなんだ」
それを訊いて安心した。真に世界の、物語の終わりを願っているのなら、ぼくと一生付き合っていくことになってたろう。
…………いまからでも遅くはない。願って欲しい。否、むしろ願ってください。
一生付き合いのある相手は、漫画大好きの狐面を被った中年なんかより、そりゃあ好みの女子高生の方が絶対良いに決まってる。
「でも如何にして見ようというのか。その過程は策師として興味がありますね」
なるほど。
狐さんの目的なんぞは、策師を自認している子荻ちゃんにとっては、何であれどうでもいいわけか。
「う〜〜ん。実はぼくも四年くらい前は、それに結構興味があったんだけど」
「どの程度まで近づけたんですか? 世界の、物語の終わりとやらに」
「うん? ……そうだなぁ。本人的な手応えとしては、かなり良いとこまでいってたみたいだよ」
でもまあそれが、次に生かされることはない。
成功だろうが失敗だろうが、同じ事を二度とやらないのが、何にも拘らないあの人類最悪の、唯一といってもいい拘りだろう。
「何にしたところで、あそこに、あの会社に、女の子としての幸せはないよ」
それは何も考えてない社長の代わりに、ハムスターのように細々と働いて切り盛りしている子荻ちゃんの先輩や、包帯ぐるぐる巻きの
姿になっても、健気に尽くそうとする人形士を見ていればあきらかだ。
――――なんてね。
幸せも不幸せも、それは全て彼女達のもの。他人であるぼくが決めることじゃないのはわかっている。
「すると女の子としての幸せとは、一体どこにあるのでしょうか? 誰かがお嫁にでももらってくれるんですか?」
「古風な考えだけど、それも悪くないんじゃない。子荻ちゃんだったら、良い相手がすぐに見つかるだろうし、何ならぼくがもら――」
セリフの途中でぼくはさり気なく、視線を子荻ちゃんから進路希望用紙へと移した。
どうも子荻ちゃん、ぼくの意見が気に入らなかったらしい。
顔を耳まで赤くさせて、長い睫毛をふるふるさせながら思いっきり睨んでいる。やべぇ。
これはセクハラ、てやつに引っかかったかもしれなかった。
「進路…………もう少し考えてみようと思います」
「うん。それがいいかもね」
珍しい。視線をいまだ上げることの出来ないヘタレな戯言遣いは、用紙にある第二希望の会社名を眺めながらそう思った。
子荻ちゃんの声が何でか上ずってる。
「用紙、貸してもらえますか」
どうして何だかは、まるでわからないが、やはりこれは緊張していると見ざるえない。
すっと用紙を自分の手元へと引いた子荻ちゃんの指先は、良く見なくとも、睫毛のように細かく震えていた。
そのわりに素早くささっと何やら書くと、子荻ちゃんは用紙をぼくに返して席を立つ。
「先生、それでは失礼します」
進路指導はまだ終わりだとも何も言ってないのになぁ。まあいいか。
ぼくは扉が閉じたのを確認して、用紙へと視線を戻すと、そこには小学生みたいな雑な字で、希望欄にお嫁さんが加わっていた。