9
その少女はこの学園においては、ある意味で、とても目立つ存在だった。
生徒達は皆何かしらの個性、それはもちろん子荻ちゃんや姫ちゃんみたいな、物語に関与できるだけの飛び抜けたものではないが。
「な、なによ」
家鴨の群れに白鳥がいれば一目でわかるし、どんなにじゃれつく姿が同じ様に愛らしくても、猫と虎の子ではまるで違う生き物である。
澄百合学園。
「ど、どうしてわたしをそんな、じ、じっと見てんのよ」
この学園の生徒は、程度の差こそあれ、全員が全員、白鳥であり虎だ。
そのまだ未完成な美しさと強さで、一般人、特に男が、気軽に近寄るのを思わず躊躇ってしまう存在。……なんだけど。
「はっ!? ひょ、ひょっとしてっ!!」
「ひょっとしない」
今風の茶髪少女に皆まで言わせず、ぼくは即座に否定する。
赤い縁の眼鏡の奥、くりくりっとした瞳が、その言葉にむっとしていた。感情がすぐに顔に出るのも、今風の女子高生の特徴だろう。
要するに少女は家鴨や猫だった。
まぁ、これはこれで可愛いんだけどね。
お昼休み。
食堂は例によっていっぱいだったが、今日のぼくは昼飯の心配をする必要はなかった。
朝アパートを出るときに、一人と二人が互いを牽制しながら渡してくれた、こんなに食べられないよ、というくらいデカい弁当包み。
それを手に廊下をてふてふと歩いていたらば、オナカを撫でながら歩いていた少女、古槍頭巾ちゃんと出くわした。
なんつぅかいつもいつも、頭巾ちゃんを見るそのたびに、ぼくは思ってしまう。
「普通」
「普通って言うなっ!!」
ほらね。つっこみまで普通だ。
しかしこの異常が売りの学園では 《普通》 この属性を持つ者は極めて特殊であり稀有だろう。
だから彼女がオナカを撫でている理由は、お昼休みにトボトボと、喧騒から逃げるようにしている理由はおそらく――否、ズバリ。
「ダイエット」
「ズバリ当てるなっ!!」
なんだかこの娘の行動のことごとくが、手に取るようにぼくには読めてしまった。
自慢にはならないけど。
なにせ頭巾ちゃんはぼくに月並みにつっこみながらも、視線は風呂敷包みにピントを合わせて微動だにしない。
「食べる?」
包みをちょいっと上げると、頭巾ちゃんの視線もそれに釣られて動く。
風呂敷をゆらゆらとさせると、それにシンクロして、頭巾ちゃんの茶髪もゆらゆらと揺れている。……ちょっと面白い。
「ダイエットしなきゃって、女の子は必ず言うけど無理は良くないよ。頭巾ちゃんなんかは、もう少し食べた方がいいくらいだ」
ぼくは右に左にと風呂敷を振りながら訊いてみた。
「余計なお世話」
人が親切で言ってやってるというのに、餌を貰う雛鳥のように首を振りながらも、頭巾ちゃんは素直にはなれない若者みたいだ。
まあいいけどさ。
これでもかというくらい普通な存在の頭巾ちゃん。どうせこの後は月並みな展開になるに決まっている。
“グウゥゥウウ〜〜〜〜”
「はぅ!?」
頭巾ちゃんは刹那で顔を真っ赤にさせると、ぱっと、慌ててまだ鳴り止まないオナカを押さえた。
ほらね。
このタイミングでオナカを鳴らせるなんて、昭和のコメディじゃあるまいし、ぼくにはとても恥ずかしくて出来ない。
普通恐るべし。
「ぶっちゃけると助けてほしいんだ。一人で食べきれる量じゃないけど、心が篭もってるからね。こっそり捨てるのは些か忍びない」
「う、うぅうっ」
おおっ。なんかすごい視線で睨まれてるぞ。
やはり普通に、月並みに、頭巾ちゃんは乙女として、オナカの音をぼくに聴かれたのが恥ずかしいらしかった。
いや、そりゃそうだろうけどさ。
でもそうやってぼくに恥を晒したおかげで、どうも頭巾ちゃんは開き直ったらしい。
「お、お祖父ちゃんが言ってたわ」
「うん?」
「最近の若者は贅沢すぎるって。もっともっとお百姓さんに感謝しなきゃいけないって。……わたしも、わたしもそう思う」
「うん」
「手伝うわ《いーちゃん》。仕方ないけど、本当は全然まったくこれっぽちも食べたくないけど、どうしてもって言うなら食べてあげる」
「……うん」
予想通りの答えが得られた。だけど釈然としないのは何故だろう?
「それじゃどこで食べようか《いーちゃん》。出遅れてるんだし、早くしないといいとこ取られちゃう」
「…………」
あんなに抵抗してたのが嘘みたいだ。
しかし切り替えが早いのが今風の若者。その早さをぼくもたまには見習うことにしようか。
崩子ちゃんとこの間一緒に食べたベンチにでも行くかな、などとと考えていたら、くいっと、後ろから服の袖を引っ張られた。
振り向くとそこには、女の子が眼鏡の奥の瞳で、じっとぼくを見上げている。
「…………どうしてここに…………いたりするのかな?」
二人で風呂敷包みを大事そうに持ちながら、ぼくを狂おしいほど慕う姉妹は、左右線対称のシンメトリーで澄百合学園に存在していた。
「ぼくた…………わたしたち、《いーちゃん》さんがデザートを忘れたので届けに来ました」
「ぼくた…………わたしたち、《いーちゃん》さんがデザートを忘れたので届けに来ました」
もちろん知っている顔である。
この二人の正確な年齢はわからないが、まだ高校の制服を着てても、なんら可笑しくないだろう年齢なのは間違いないはずだ。
澄百合学園の制服がとても良く似合っている。
「もう一着手に入ったんだね。深空ちゃん、高海ちゃん」
澪標姉妹。
どちらかといえば頭巾ちゃんより、深空ちゃんと高海ちゃん、二人のほうがこの澄百合学園には相応しい生徒かもしれない。
「わっ!? 双子だ。わたしはじめて生で見た」
そしてあまり相応しくない、っていうか似合わない頭巾ちゃんは、深空ちゃんと高海ちゃん、そっくりの二人を見て素直に驚いている。
本当に普通。
「デザートってそれなの? その大きさその丸み、わたしには西瓜としか思えないんだけど?」
だがそんな頭巾ちゃんの、極めて普通の指摘でぼくは気づかされる。
風呂敷に包まれている豪勢な重箱といい、デザートだとわざわざ持って来た西瓜といい、二、三人で食べるならちょうどいい量だ。
もしかして確信犯?
ぼくが疑いの目を向けると、二人は露骨に顔を背けて、ふいっと明後日の方向を見る。
崩子ちゃんならともかく、この二人に腹芸なんて無理な話だ。
と。
「でもわたし西瓜大好きなんだよね。よしっ!! はいはい、は〜〜い!!」
これはこの間来たときに味を占めた、お気に入りの抱きまくらの計画だろうな、と考えていたら、頭巾ちゃんがさっと手を上げた。
「《いーちゃん》、西瓜はわたしに任しちゃってよ。西瓜だったらわたし、いくらでもイケちゃう人だからさ」
言いつつ頭巾ちゃんは上げた勢いそのままで、分担まで勝手に決めて、深空ちゃんと高海ちゃんの持ってる西瓜の包みに手を伸ばす。
だが。
“スカッ”
「あっ!?」
二人にあっさりと避けられた。
「あんたに食べさせる為に持って来たんじゃない」
「あんたに食べさせる為に持って来たんじゃない」
「うっ!?」
じろりと二人に睨まれて、頭巾ちゃんの腰が思わず引ける。
そりゃそうだ。
ぼくも四年前は夜の京都御苑で、やはり同じ様に睨まれてえらい目に合っている。
頭巾ちゃんのいまの気持ちは、背中が痛いくらいによくわかった。
しかしそういった自分の心の弱さを、二人が同性でもあるし、中々認めることの出来ない年頃なんだろう。
「い、いいじゃん。《いーちゃん》はどうせお弁当だけでお腹一杯になっちゃうんだし」
「…………」
多分そうなるとは思うけど、なんか言い方が引っかかるなぁ。
頭巾ちゃん、もうちょっとでいいから、目上の人に対する言葉遣いを覚えよう。いや、これは戯言ではなく。
「そんなことはない。《いーちゃん》さんはこのぐらい一人でペロリだ」
「そんなことはない。《いーちゃん》さんはこのぐらい一人でペロリだ」
……ん?
待て。待て待て。みんなで食べるんじゃないの? そんな量を一人でペロリって、どっかのどこかの《人喰い》じゃあるまいし。
そんなことを思っていたら。
「ん? んん? あれれ? おにーさんなにしてんだよ? 昼飯まだならさ、理澄の財布から金パクってきたし一緒しねえ?」
ややこしいのがまた来やがった。
結局その日の昼御飯を《戯言遣い》は、ぎゃはは、と大声で笑う《人喰い》含めた五人で、妙に緊張した雰囲気で食べましたとさ。
めでたし。
10
十二月。
さすがにいくら盆地の京都であっても、冬という季節を感じずにはいられない。
ぼくの目の前で温かい湯気と、ぐつぐつ音を立てている鍋は、掛け値なしに美味そうだった。
また人間は決して味覚だけではなく、視覚でも食を楽しむ生き物だが、そちらでも文句の付けようがない。
ぎりぎり京都と呼べる郊外。
人里離れた山の中。
窓の外の景色は雪が積もっていて一面の銀世界。
ここまで来るクルマの中では、なんでぼくが参加せねばならないんだろうか? そんなことを真剣に考えたりしていたが。
「悪くはないかな」
少なくとも塔アパートで、答案用紙にひたすらバツ印を付けるという虚しい作業よりは、精神が何百何千倍も癒されるだろう。
姫ちゃんは五教科赤点という偉業を、まるで予定調和のように、またしても鮮やかに達成していた。
補習確定。
これでぼくは学園が冬休みだというのに、放課後も結構勉強をみてやったというのに、ほぼ毎日姫ちゃんと顔を合わすことになる。
別に姫ちゃんといる時間は嫌いではないのだが。
しかし、それはそれ。
恩を仇で返された感は否めない。
ぼくはハラハラと舞い堕ちる雪を見ながら、姫ちゃんが例え知恵熱を出しても、涙を呑んで勉強漬けにすることを決意した。
「覚悟しておけよ、一姫」
「なにを一人でぶつぶつ言ってるさ《いーちゃん》、まだあんたは呆けるには早すぎるさ」
景色を見ながら補習計画を練っていたぼくは、話しかけられて窓の外から室内に、蓮っ葉な口調がよく似合う彼女に視線を移す。
「…………」
「ん? どうしたさ? 若いんだからもっと食べるさ」
彼女と知り合ったのは四年前。
そのときのことは、あのときの騒動は、他の階段を含めて、ぼくには珍しくいまでもはっきりと覚えている。
「…………」
「本当にどうしたさ? 人の顔をじっと見たりして?」
でも記憶している四年前の彼女と、いまこうしてしゃべっている彼女が重なるまで、もう少しだけ時間が掛かりそうだ。
右下るれろ。
そりゃあ当たり前だし、本人にそんなつもりは、まったくこれっぽっちもなく不名誉だろうが、トレードマークの包帯はどこにもない。
非常に女性に対して失礼かもしれないが、なんだかとても違和感がある。
「そうだぜ、いーたん。ちゃんと喰わねぇと大きくなれねぇぞ。好き嫌いせずになんでも喰っとけよ」
「それ。きみにだけは言われたくないんだけど、ぜろりん」
年齢はぼくとそう違わないはずだから、もちろんいまさら成長期がやって来るはずもなく、身長はその辺の女の子より小さい。
右顔面には灰色の刺青が彩られ、右耳に三連ピアス、左耳には携帯ストラップを2つ付けている。
零崎人識。
こちらは気持ち悪いくらい変わらず、昨日別れたみたいにあのときのままだ。
ぼくの隣りで魚の切り身から、チマチマと小骨を丁寧に、殺して解して並べて揃えて晒している。……おまえこそカルシウムを取れ。
「喉に引っかかったりしたら痛ってえじゃん」
きみの生き様の方が余程痛い。
と、言いたいところだが、じゃおまえの生き様は痛々しいだな、切り替えされるのはわかってるので沈黙を選択。
この四年でぼくも随分と大人になったもんだ。
「本日はこのような辺鄙なところまで、わざわざご足労戴いてありがとうございます。《いーちゃん》さん」
いつの間にか真後ろには、真面目で上品そうな、図書館で詩集でも読んでいそうなイメージの女性が、にっこりと微笑んで立っていた。
「そんなの全然構いませんよ。こっちこそ社員でもなんでもないの呼んでもらっちゃって」
さっきからずっと彼女は、当然のように《最悪》の隣りに陣取っておきながら、忙しなくあっちこっち動き回っている。
社長というよりは王様のように、まるでなにもしない人の代わりに、客の接待から鍋の具材の追加までと、一人落ち着かなかった。
でもそういうのがなんだか性に合うのか、嬉々としてやってるようにも見える。
肩書きは《空間製作者》ということになってるが、意外にメイドさんでもイケるかもしれない。
一里塚木の実。
この変わり者集団の処理係にして、潤滑に、我侭に動く為のバイパス役。
本質的にはともかくとして、この集団の実質的なリーダーが彼女であることに、半畳を挟む者はいないだろう。
「その上なんか妙なオマケまで付いて来ちゃってすいません」
鍋に箸を伸ばそうとしていたオマケの視線が、鋭く痛いくらい頬に突き刺さるが、それは全身全霊でぼくは無視した。
この殺人鬼、ちょっと会わなかった間に、益々持って胃袋キャラが板に付いてきてやがる。
「いえいえそんな、正直助かってるんですよ、忘年会みたいなイベントは、やはりある程度は人数が多い方がいいですから」
つまりそんな理由でぼくはここにいるわけだ。
ここに。西東診療所に。
有限会社《十三階段》の忘年会に。
元々集団行動の出来なさそうな人達ばかりだが、忘年会の出席者は、ぼくと零崎を除いてしまうと四人しかいない。
確かにそれだけの人数では、ちょっとばかし淋しいだろう。
「まぁ連絡自体が取れない方もいますし、 木賀峰助教授は朽葉さんの反抗期を予測出来なかったらしくて、いまてんてこ舞いですしね」
「反抗期ですか?」
すげぇ周期で来たな反抗期。そりゃ予測できないだろう。
「…………」
ってか朽葉ちゃん八百歳じゃ〜〜ん。 木賀峰助教授より遥かに年上じゃ〜〜ん。
「朽葉さん、万引きをしてしまったらしくて、警察に迎えに行ってますが。木賀峰助教授、体当たりでぶつかってみるそうです」
「……頑張ってください、としか言えませんね」
「ええ」
あまり他人が深入りしない方がいいだろう。少し覗いてみたい気もするが、とてもデリケートな二人だけの問題だ。
そんなわけでそれはそれでいい。
とりあえずいまは、ここにいる残りの二人だ。
チラリッと窺うと、哀川さんにも匹敵する存在感の、ぼくの対面に座っている男は黙々と杯を重ねている。
狐の面を外しているので表情はわかるのだが、詰まらないのか愉しんでいるのかは、相変わらずぼくにはよくわからなかった。
「…………」
とりあえずこの人はややこしいので後回し。もう一人の男に目を向ける。
「……重症みたいですね」
「いつもはさすがに、あそこまでひどくはないんですけどね。今日は《いーちゃん》さん、あなたがいますから過敏になってるんです」
冷たくなってるだろう白菜を、彼はひたすらじーっと見ていた。
口だけがもごもごと小さく動いてる。
ぼくには一般人の領域を逸脱した聴覚はないので、なにを呟いてるのか聴こえないが、彼がどんな言葉を紡いでいるかはわかっていた。
いまにして思えば、《正義の味方》ってのはちょっと言いすぎだったかな。
時宮時刻。
そのひどく憐れな姿を見ても、自業自得だ、そんな風にしか思えないぼくは、やはりまだどこか壊れてるんだろうか。
「お肉とか食べます?」
「ひっ!!」
お皿を取ろうと手を伸ばしたら、時刻さんはびくっと身体を震わせて、カサカサと、素早く動いて、ぼくの視界から消えてしまう。
やっぱり四年前はやり過ぎた気がした。
「そっとしといてあげてください。絵本さんも、あまり刺激しない方がいいと言ってましたし」
時刻さんにとって、きっとぼくは、劇薬以上の刺激物なんだろう。
「うん? そう言えば絵本さんはどうしたんです?」
彼女が来ているのは間違いない。
なんせここまでは彼女の運転するクルマで、ぼくも零崎も来たんだから。
ガタガタ震えてる《人間失格》は、ここに来るまでの車内で、中々のいい暇潰しになった。降りた瞬間殺されかけたけど。
ちなみに彼女は復社はしてはいない。
だがるれろさんとの付き合いは続いてるみたいだ。
「二階で看病です」
「看病? 誰のですか?」
「奇野さんのです。風邪をこじらせてしまって。《いーちゃん》さんも気を付けてくださいね」
「…………」
奇野頼知。
呪い名序列三位、感染血統奇野師団の一人。通り名は《病毒遣い》……なんだけど。
キノラッチ。あんたなにしてんだよ。
「弘法も筆の誤りと言いますか、猿も木からと言いますか……。でも同情とは違う感情が湧き出すのは、どうしても否めないところです」
頬に手を当てて小首を傾げた木の実さんは、やれやれ、といった顔をしていた。
可愛い。
だけどこの人の場合は、そんな仕草も演出でやってそうで、とにかく油断ならない。
いまは四年前のように戦闘状態ではないけれど、木の実さんを見ていると色んな意味で、なんだかざわざわする。
それはぼくの、というより《戯言遣い》としての、四年前とまるっきり変わらない感想だった。
「ではごゆるりと、愉しんでくださいね」
しかし木の実さんは、やはり四年前のようにぼくの警戒を見抜いても、にこやかに屈託なく微笑む。
そして礼儀正しく丁寧にぼくにお辞儀をしてから、小走りに、甲斐甲斐しく、空の徳利を受け取りにいった。
……ちょっと羨ましい。
「ふん。少しばかりぬるめで頼むぞ」
偉そうだ。根拠なしに相変わらず偉そうだ。この人はきっと死んでも偉そうだろう。現に一回死んでるのに偉そうだし。
「さて、《俺の敵》。人心地ついたし、話しをしようか。」
ぼくと狐面の男は再会してから、軽く挨拶をしたぐらいで、まだ会話らしい会話はなにもしてない。
前に理澄ちゃんと三人で卓を囲んだときは、食事中にくっちゃべるなと怒られたが、どうやら忘年会ではいいらしかった。
自分が会話の輪に加わりはしないが、忘年会は一年間ともに苦労した者同士が、親睦を深める場であって、食事は二の次だかららしい。
「…………」
あんたは苦労をかけただろう。
言いたいがそれは、ぐっと黙っておくのが、客としての、社会人としての礼儀というものだ。
「それじゃ、いまは、なにをしてるんですか?」
「『なにをしてるんですか?』。ふん。そりゃ忘年会に決まってるだろ? これでも俺は柄じゃねえが社長だぜ」
言って不敵に笑った。
「…………」
ぼくが言うのもなんではあるが、言い方が回りくどい。わかってるだろうに。そんな意味じゃないのは。
「どうして会社なんて、柄にもないものを起ち上げたんですか? おかげで一人の少女の人生が、派手に狂いそうになりましたよ」
「萩原子荻。俺は欲しくて欲しくて堪らねぇんだよ」
「…………」
なんかここだけを聞いてると、ちょいとばかりやばいセリフだ。
同じ年頃の娘達と比べれば、随分と大人っぽく見える子荻ちゃんだが、そしてこちらも年齢よりかなり若く見える狐さんではあるが、
知らない人が聞いたらば、いくらなんでもロリィの謗りを免れるのは難しいだろう。
まぁ狐さんはあんまり女性には興味ないみたいだけど。
この人の興味は、世界の終わり、物語の終わり、《ディングエピローグ》それだけにしかない。
「萩原子荻。あの娘の代わりを見つけるのは、ちょいとばかり難しいんでな。やっとこさ繋がったこの縁は、俺は絶対に逃がさねぇ」
そう言った狐さんの瞳は、間違いなく愉しそうで、爛々と輝き狂気じみていた。
怖い。
ぼくを恐怖する《想操術師》のように、ぼくはどんなに成長しても一生、《人類最悪の遊び人》の恐怖を拭い去れないだろう。
西東天。
だがぼくは哀川さんとそっくりのその顔を、正面から逸らさず見て、内心すげぇびびってたけどはっきり言ってやった。
「……そうはいかない」
そして少し早いが心の中で来年の抱負を一つ。
及ばずながらもこのしがない《戯言遣い》は、可愛い生徒を、お気にの女の子を、最悪の変態の魔手からなんとしてでも守ってみせる。
決めたよ。ぼくは来年も正義の味方になってやる。
と。
こんな感じで渋く、後から思い出したら赤面もので、話をオトしたかったぼくだが、やはりそうはいかないみたいだった。
「うっ、うぐっ、うぅううっ……」
小さな声。でも気づいて欲しいと訴えかけるような声。
そしてメチャメチャ嫌過ぎるが、四年前から聴き慣れてる涙声に、ぼくはゆっくりと入り口を見る。
目が合った。
「……えぐっ……うふぅう……」
「…………」
逸らしたいのを我慢する。
端正な顔を涙でくちゃくちゃにして、彼女はぼくと、ほぼ空になっている鍋を、行ったり来たり交互に見ていた。
「……ど、どど、どうして?……どうしてそんなことが出来るの?………だっ……て……ううっ……な、鍋なんだよ?………鍋って………
鍋って、み、みんなで、みんなでつつくもんじゃないの?………うぐっ……みんなの中に……わ、私は入ってないの?………うぅぅう、
ふ……ふふ……え、えへへ……そ、そうだよ…ね?……ご、ごめんなさい………私なんかが、私なんかが数に入ってるわけない……よね?
わ、私なんか余り物で雑炊食べれば十分よね?……うふふ……ぐふっ……雑炊もお、美味しいんだよ……いっくん……え、えへへ」
絵本園樹。
彼女とこの四年間というもの、最も親しかったのはこのぼくだろう。
まぁそうは言っても比べられるのが、後は精々が意外に気が合う元同僚の、るれろさんくらいしかいないわけなのだが。
ぼくは精神科医じゃないが断言できる。
白衣の下の水着のカットが、何故か年々際どくなっていく彼女も、間違いなく一生こんな感じだ。
絵本さんを外界から守るATフィールドは、さらに一層強固になって、いまもなおこうして健在である。
「零崎、後ででいいからきみ、責任持ってフレンチクルーラー買ってこいよ」
鶏肉にかぶりついていた零崎が顔を上げた。
骨には犬が見たらがっかりするくらいに綺麗に身がない。
「ええっ、なんでだよ? 外は雪がガンガンに降ってんだぜ。ミスドなんてこっからどれくらいかかんだよ?」
「ほとんど一人で喰ってんだから当然だろ? あんまり駄々をこねるな。買って来ないと帰りは助手席に座らせるぞ」
「……ひでぇ」
「フレンチクルーラー百個な」
あの京都御苑での《ドクター》との約束が、まさかこんな形で果たせるとは思いもよらなかった。
窓の外を見ると雪が、さっきよりも激しい勢いで振っている。
クルマでは事故りに出かけるようなもので、どちらにしても零崎以外は、とてもではないが麓までいけそうもない。
そしてその白い光景に魅入られながら、ぼくはなんとなく、この色が大好きな青色と、どこにいるのやらの赤色のことを考えていた。
11
まあ、初めからわかってたけど、さ。
とはいえ新年早々、気持ちが滅入ってくるのは、致し方ないだろう。
努力というのは例え実を結ばなくとも、それだけで認めてもいいと思うし、もしかしたらその姿は、美しいのかもしれないけど。
「…………」
ある意味ではぼくの手にするこの、採点し終えたばかりの答案用紙も、そんな感じではあるのだけれど。
「どうですぅ師匠? 姫ちゃん頑張ったでしょ?」
柑橘系の匂いがする。
赤ペンを置いたぼくに気づいて、人ん家の蜜柑を遠慮なしにパクパクと、暢気にバラエティ番組など見ながら食べていた姫ちゃんが、
一応は口元を抑えながら、でもモカモカと頬を動かしつつ、期待に瞳を輝かせて振り向いた。
コタツに入って蜜柑を食べながらテレビを見るのは、正しい日本人の正しい正月の過ごし方だから、まあそれは別段どうでもいい。
「…………」
訊きたいのはどうしてそんなに、一体全体いかなる根拠があって、季節外れの向日葵みたいな笑顔を向けてくるのかということだ。
「どんなもんですですぅ? 師匠に特訓してもらった成果、ちゃんと出てますですか?」
うん。
ちゃんと出てはいる。答案用紙からは努力した後は確かに窺える。
駄々をそれこそ毎日毎日、一時間おきにこねまくってくれたが、それでも姫ちゃんは、塔アパートの空き部屋に勝手に住み込んでまで、
冬休みの校外補習を皆勤賞で出てくれた。
「…………」
だがいまこの《戯言遣い》が、教師として姫ちゃんに伝えるべきは、答案用紙に記入された点数、その残酷な結果のみなのだろう。
「完全に間違っているという点に目を瞑れば、姫ちゃんの答案用紙は概ね正解だけだよ」
「ふぅん?」
ぼくも大概丸くなったもんだ。
昔のぼくであれば点数を告げた後で、甘えるな、と容赦なしの追い討ちを掛けてるだろう。本当に丸くなったもんだ。
などと感慨にふけながら、姫ちゃんに貰った腕時計を見る。
「それじゃ今日は終わりにしようか。……そろそろ時間みたいだし、みいこさんを呼びに行こう」
時間はちょうど八時を回ったところだ。
みいこさんだけでなく、崩子ちゃんも萌太くんも、行く準備はもう出来てるだろう。
「初王手ですか?」
「それは初詣と言いたいんだろうけど、残念ながらどっちも違うよ。巡回……みいこさん風に言うと、市中見回りに行くんだ」
そしてもちろんだが、市中見回り、その言い出しっぺもみいこさんだ。
一時ほどではないにしても、このアパートは建て替える前からずっと、様々な問題をこれでもかとばかりに次々と起こしている。
知り合いの女刑事さんのところで、大体は止めてもらっていたりはするのだが、一般人の近隣住民の方々にはいつも迷惑を掛け通しだ。
これで印象が少しでも良くなるなら、安いものだろう。
荒唐丸さんと奈波の二人は、正月だというのに仕事で不参加だが、残りの面子は、久々に帰って来た萌太くん含めて全員参加である。
ちなみに姫ちゃんには、今日のことは誰も伝えてない。
いや、ぼくが伝えるはずだったんだけどね。さっきまでそりゃもう、キレイさっぱり忘れてた。
「どうする? 姫ちゃんも来る?」
「そりゃもちろん行きますですよ」
類は友を呼ぶと言うべきか、姫ちゃんはこの短い期間ですっかりと、昔から住んでいたように、塔アパートの全住民と馴染んでいる。
参加するのは当然だと言わんばかりだった。
ぼくもそう思ったからこそ、姫ちゃんが来るのが当たり前だと感じたからこそ、伝えるのを忘れてた――ということにしといてほしい。
「戯言だけどね」
何年経とうが定評のある、ぼくの記憶力の悪さは、やはり今年も健在みたいだった。
「……でもさ、そりゃないだろ?」
右目だけにかろうじて名残を残す――元青色サヴァン。
直視できないほど眩く、そして悲しいばかりの、忘れない能力を失って久しい玖渚にさえ、病院に行こうと心配されたほどである。
真顔で言われたときには、さすがにちょっとヘコんだ。
あいつとはイヴから会ってないが、どうせまだ《チーム》の連中が居るんだろうから、とても城咲のマンションに行く気にはならない。
「特に兎吊木のやつがなぁ」
話しかけられたわけでもなく、意味深に微笑みかけられただけだが、それだけで、聖なる夜がとてつもなく穢された気分になった。
もうあの男の存在自体が猥褻物である。
ちぃくんはいまも服役中だから、直接会ったことはなく、その人と為りをぼくは知らない。
だから無責任に言えるのかもしれないが、刑務所なんぞを住処とするのは、あのロリコンの変態にこそ相応しいと思う。
などと。
心底からどうでもいいことを考えていたら、みいこさんの部屋の前に着いていた。
「…………」
「どうしたですか師匠?」
「……いや、別になんでもないよ」
新年早々から決して無限ではなく有限な時間を、ひどく詰まらないことに使ってしまった気がする。
細菌野郎め。
ぼくは偏頭痛でもあるように、ふるふると頭を軽く振って、チャンネルを無理から変えると、みいこさんの部屋のドアをノックした。
「応、しばし待て」
“カチャッ”
そう言ったのにドアはすぐに開いた。
「…………」
「ん? どうした、いの字?」
予想通りと言えば予想通りだが、それでも多分おそらく、ぼくの顔は複雑なものになってたんだろう。
みいこさんが、市中見回り、なんて名詞を使ったときから、何となくは思っていたのだが、やはりこの人は直球ストレートの人間だ。
今日もサムライみたいなポニーテールに甚平姿だが、その甚平は鮮やかな水色と白の、ど派手なだんだら模様である。
背中に記されているだろう文字は、敢えてわざわざ見るまでもあるまい。
「……キンノーでも斬りに行くんですか?」
「うん。それはわたしとしては望むところではあるんだが、いの字、残念ながらこの時代の京都に、悪逆非道のキンノーはいないぞ?」
「…………」
みいこさんはあまり冗談などは言わない人だ。
腰に差してあるものが気にはなったが、ぼくはなにも見なかったことにする。
「崩と萌は下で待ってるそうだ。早く行ってやるとしよう」
鍵をかけたとき見たみいこさんの背中には、やはり去需を許さない《誠》の一文字が記されていた。士道不覚悟は切腹なんだろうか?
訊いてみたい気もするが、表情一つ変えずに、みいこさんは頷きそうだから怖い。
触らぬ神に祟りなしで、それから無言で下まで行くと―― 玄関脇に二人。右に一人、左に一人。
まるで待ち伏せでもしているように、アパートの入り口に、二人が立っていた。
一人は垂れ目の少年。
脚が長く胴は細い、均整のとれた、いかにも敏捷そうな体型。黒い前髪を垂らしていて、両手をポケットに入れ、煙草を咥えている。
お正月だから帰って来ているが、彼は四年前にアパートを出て、現在は東京で一人暮らしだ。
仕事はホストをしているらしいのだが、それは本性さえ出さなければ、萌太くんには天職と言えるだろう。
彼が夜王と呼ばれる日も、そう遠くはないはずだ。
そしてもう一人はおかっぱの少女。
真っ白い肌にまるで血のように赤い唇。
酷く冷めた、軽蔑でもしているかのような冷たい視線で、こちらを、睨みつけている。
「萌太くん――崩子ちゃん」
二人の名を呼びつつ、ぼくは以前にも、こんな感じで対峙したことがあるような、そんなありもしないはずの既視感に襲われた。
ジャメヴュってやつなのか? なぜか妙に腹が疼いたりするが。
「崩子ちゃん?」
「…………」
そしてどういうわけだかぼくに、少女から浴びせられるプレッシャーは、重苦しい沈黙で持って容赦なくのしかかってくる。
「こうしてこのアパートを見上げたのは、まだ数えるほどですけど、どちらがいいとはいいませんが、前の方が味がありましたかね?」
萌太くんは空気を察したのか、それはわからないが、場を和ませるような美声で言った。
「どうだろうね? 建て替える前もかなりイカしてたけど、これはこれで住んでみると、中々に悪くはない。そうだよね崩子ちゃん?」
我ながら情けない。
ご機嫌伺いがありありのチキンの声だった。
「……どうでしょう」
でも崩子ちゃんの声は態度と変わらず、ひんやりとした冷気を纏ったままである。
おかしいなぁ。ぼくは気に障ることを何かしたんだろうか?
しかしそんな記憶は、まぁ、ぼくの記憶など当てにはならないが、まったく全然これっぽっちもありはしない。
第一ここ最近は、クリスマスは玖渚&《チーム》の連中とつるんだり、暮れは突然お呼ばれして、狐さんとこの忘年会に出席したり、
年末から年始はといえば、姫ちゃんの補習に掛かりきりだったりと、ほとんど崩子ちゃんと過ごす時間などなかったのだ。
「…………」
そう。何か気に障ることを仕様にも、これでは何も、ぼくには出来るわけがないのである。やれやれ。ほんと年頃の女の子は難しい。
「あのさ姫ちゃん。姫ちゃんは何で崩子ちゃんが怒ってるか、わかったりする?」
小声で隣りにいる弟子に聞いてみる。
「……きっと師匠にデリカシーがないからですよ。ここで姫ちゃんに訊いたりしたら、能登の三つ編み、アブラカタブラです」
なんだそりゃ?
いつも通りに言葉を間違えてるんだろうが、姫ちゃんの意見を聞いて、ぼくは増々、崩子ちゃんが何を怒ってるのかわからなくなった。
弟子は言葉を間違ったが、師匠であるぼくは、人選を間違えてしまったかもしれない。
帰って来たらお年玉でもあげるとしよう。そうすると姫ちゃんにも、あげないわけにはいかないが、二人分くらいならお金も大丈夫だ。
ちなみに高海ちゃんと深空ちゃんは、渋々ではあるものの、ぼくに言われて澪標の実家に帰省中。
親孝行がまだ出来る環境があるのならば、出来るうちにやっておいた方が、それはやはりいいに決まってる。
彼女達の実家の稼業。
あちら側の世界の孝行というものが、一体どういうものか、ぼくは言ったときは、もちろんあまり深くは考えてはいなかったが。
「気合入ってたもんなぁ二人とも。帰るときは僧伽梨着てたし」
早まったかもしれない。
だが今年年賀状が出せない人がいても、そんなことは一切合切、ぼくの知ったことではない。
知りたいことではない。
だから、二人がこのアパートに戻ってきても、ぼくに孝行の内容は伝えないでほしい。……どうかお願いします。
と。
「いの字、どのあたりまで行こうか?」
ぼくが慣れた自責の念に囚われていたら、後ろから、心がざわついていたのに、それだけで落ち着きを取り戻し、安心させてくれる声が
かけられた。
朴訥な無表情。
このお姉さんをよく知りもしない人が見たならば、とてもじゃないが気づきはしないだろう。気づいたらその人はちょっとおかしい。
浅野みいこは燃えていた。
市中見回りがそんなに嬉しいのかなぁ?
けれど喜びを抑えきれない(これでかなりマックスに近いくらい喜んでる)みいこさんを見ると、それだけでこちらも嬉しい。
思わず舞い上がってしまった。
素面じゃこんなセリフ、とてもじゃないが言えやしない。ぼくは、精一杯格好つけて、彼女に応える。
「あなたと共に、行けるところまで」
完全確実に舞い上がっていた。何の戯言も出てこないくらいに、それはもう究極絶無で舞い上がっていた。
「…………」
「…………」
「…………」
崩子ちゃんは腕を組み、姫ちゃんは黒い手袋を填め、萌太くんは屈託なく笑い、みいこさんは……いつもと変わらない。
あれ?
と思ったら、ぼくからついっと目を反らした。でも照れているかどうかは微妙なところだ。
うっすらと、本当にわからないくらい、微かにうっすらと、頬が赤く染まって見えるのは、あまりにも自惚れが過ぎるだろうか。
お年玉を貰った気分。
色々な角度から色々な意味の視線が、ドスドスと、音を立てて身体に突き刺さるのを感じる。
しかしこの人は、ぼく以上に思わせぶりな人だ。たまらなくぼくを奮い立たせてくれる。あなた以外のサムライは考えられない。
「…………」
まぁそれはそれそれとして、結局何だかんだで出発は、それから三十分後だった。