12  
 
 授業を終えて職員室に戻ってくると、ぼくの席には、女の子が背を向けて座っていた。  
 顔は見えない。  
 だが例え後姿だけであっても、2分の1の確率で、それが誰なのかは、然程の洞察力がなくとも、それこそ誰にでもわかるだろう。  
 長い黒髪に黒マント。  
 この澄百合学園。エキセントリックな性格の人間は数いれど、外見でそれがわかるのは、あの《人喰い》兄妹を於いて他にはいまい。  
「…………」  
 しかし考えてみれば、ぼくの周りにはやたらと、双子とか三つ子が多いよなぁ。  
 首切り死体があったら入れ替わりを疑え。  
 推理小説であれば定番の格言だが、もしも彼、彼女らが一堂に会し、事件が起こったりしたら、それはそれは大変なことになるだろう。  
 どんな名探偵であっても、きっと途中で匙を投げ出すのは、想像するに難しくはない。  
「戯言だけどね」  
 口の中で小さく言って、兄か妹か、どちらかはわからないが、殺戮奇術集団《匂宮雑技団》、その最高の失敗作の真後ろに立つ。  
 何だか随分と熱心に話し込ん、いや、うんうんと、頷きながら、正面に座っている彼女の言葉に聞き入っていた。  
「どんなに新しい恋愛をしても忘れられない男というのは確かにいるものだよ。最低の酷い男だけどあの日の甘い夜が忘れられない」  
「お姉さん捨てられちゃったの?」  
 ああ。これは妹の方か。  
 大人しく席に座って、話を聞いてるのを見た段階で、理澄ちゃんだと大体はわかっていたけど。  
「そうなるね。彼は抱いた女を鼻をかんだティッシュと同じ感覚で一方的に突然捨てる。きっとあの夜のことなど覚えてないだろう」  
「まだやっぱり好きなの?」  
「それはどうなんだかわたしにもわからないな。でも大人の恋愛は好きと嫌いだけで成り立ってないんだ」  
「…………」  
 これ以上このとびっきりの駄目大人を、純粋無垢な穢れを知らない少女の前で、得意気にしゃべらせてもいいもんだろうか?  
「…………」  
 答え。いいわけがない。  
 決まってる。  
 この倫理のない人に、何もない人に、選ばない事を選んでる彼女に、年端もいかない少女に対する配慮があるとは、とても思えない。  
 
「身体の相性というのもすごく重要なんだよ」  
 でもそれは思っただけ。  
 元々そういったことが得意じゃないのもあるが、話に割り込む間が何となく掴めず、手持ち無沙汰で立ち尽くしてるだけだった。  
 そこにはいつも通りに行動が伴わず、ぼくはいつも通りに、まるで予定調和のように後悔する。  
 答えが出てるのなら、飛びかかってでも、手のひらを、あの長く艶かしい舌で舐められても、とっとと止めるべきだった。  
「それにわたしはどんなプレイでもオッケーなんだけど彼のあの趣味は感銘を受けたね。メイドというのはベタベタだけど奥が――」  
「黙れ。殺すぞ」  
 したくない事としなくちゃいけない事。それはこういう事なんだろう。……ええ。勿論戯言ですよ。  
「やあいっきー。人が悪いなぁ。居たのなら言ってくれればいいのに。いまちょうどきみのことを理澄ちゃんと話してたんだよ」  
 誓ってもいい。このお姉さんは絶対気づいてた。  
「あっ!! 先生……いつから……いたんだね」  
 理澄ちゃんがぼくに気づいて、ささっと立って席を空ける。  
 それは教師と生徒という立場なら、目上と目下(あれ? 理澄ちゃんって何歳だっけ?)という立場なら、その行動はおかしくはない。  
 だがその動きは敬意を表したものではなく、どう考えても逃げてるようだった。  
 本当に押し倒してやろうか。  
 などと、出来もしないことを、刹那だけ思ってみる。  
 脳裏に浮かび上がった出夢くんの八重歯、いや犬歯が、キランッと、怖いくらいに妖しく光っていた。  
「……びびったわけじゃない。誰かと違ってモラルがあるだけだ」  
「人はそれを負け犬の遠吠えと言う。そう言えば知ってたいっきー? 犬が遠吠えするのはストレス発散だけじゃ説明が付かないんだよ」  
 春日井春日さん。これでも一応動物学者。  
「……読心術もできたんですか?」  
「うん。動物の心理を読むことに比べたらずっと楽だからね。それに愛し合っている二人の心は通じ合ってるものだよ」  
 言いつつしなを作る春日井さん。  
 多分いま、ぼくの中で膨れ上がっている感情は、殺意と呼ばれるもので間違いないだろう。  
 アパートの部屋。そこにある机の鍵の掛かった引き出し。  
 その奥で眠っているジェリコには、まだまだ人一人殺せる残弾が、余裕であったはずだ。鍵が絶賛行方不明なのが残念でならない。  
 勿論ぼくに人など、殺せるわけはないのだけれど。  
「ああそうそう理澄ちゃん。いっきーはやっぱりベタだけど裸エプロンも好きなんだよ。男の夢だね。いいものはなくならない」  
「…………」  
 やってやれないことはないかな、とぼくは思った。  
 
「メイドさんはメイドさんであってメードなどではない愚弄するなぁ!! と怒鳴られたときにはびびっとキタね」  
「ほんと黙れ」  
 全部が全部作り話じゃないとこが怖い。  
「それじゃお姉さんお兄さん、これからアニキと約束があるので。タメになる話をどうもでした」  
 理澄ちゃんはタメになる話を《したらしい》春日井さんと、何の話もしてないぼくに、ぺこりと頭を下げると、微妙な距離を取りつつ、  
じりじりと後ろに、おっかなびっくりな顔をして下がっていく。  
「では……おさらばですっ!!」  
 そしてぼくと十分な距離を空けると、理澄ちゃんは本格的な逃走に移った。  
 おおっ!! 速い速い。脱兎とは先人も巧いことを言うもんだ。あ、マントを踏んづけた。手が使えないから顔面からダイブ。痛そう。  
「まさかあの理澄ちゃんから恋愛について訊かれるとは正直言って驚いたよ。いやぁ〜〜青春だねぇ」  
 平素とまったく同じ表情で、そんなことをのたまう春日井さん。  
「…………」  
 圧倒的に人選を間違ってるよ理澄ちゃん。こんなマニアックな恋愛をしてきた人に、きみみたいな初心者が意見を仰いではいけない。  
 まぁ、ぼくに持ってこられても、そりゃ困るんだけどさ。  
「いまどきの女子高生も、中々可愛いやないのん」  
 突然会話に加わってくる舌足らずな声。  
 ぼくの生涯が後どれだけ続くか、それはわからないが、嫌だろうが何だろうが、問答無用で一生忘れられない声。  
 どこから話を訊いてやがったのか、どこで話を訊いてやがったのか、敬愛する恩師はひょっこりと、ぼくの机の下から顔を出した。  
「……あなた、そんなところで何してんです?」  
「うん? 消しゴムが落ちたから探しとっただけやよ? いまだに思春期の自分の期待に応えられんで悪いんやけど、――えへへっ」  
「残念だねいっきー」  
「…………」  
 期待もしてねぇし残念でもねぇよ。  
 大体から春日井さんはともかく、心視先生は自分の姿を鏡で良く見たほうがいい。  
 自分こそ平日に街を歩いていたら、一発で補導されそうな容姿のくせに。いい歳して死体ばっかり、嬉々と見てる場合じゃないと思う。  
「でも本当にさ、若いってことは羨ましいよね。それだけでキラキラと輝いて見える。神足さんもそう思うでしょ?」  
「知らん」  
 今度は後ろから声がした。振り向くと白衣を着た二人組が立ってる。  
 いや、別に二人はコンビを組んでいるわけではないのだが、凸凹ぶりが妙に嵌っていて、並べて数えた方が自然な二人だった。  
 
 髪型はさっぱり体型はぽってりの根尾さんと、印象はそれしかないくらい長い髪の毛の神足さん。  
 いつも通りの相方の返事に、根尾さんは大袈裟に肩をすくめて、フレンドリーっぽく笑いながらぼくを見る。  
「きみは思うだろ? 若いってのはそれだけで、無条件に素晴らしいって」  
「……どうでしょうね?」  
 ぼくは勿論いまだって若僧と呼ばれる歳だけど、さらにガキだった頃などは、とても、口が裂けても素晴らしいなどとは言えない。  
 それに女性だったら年上の方が好みだし。童顔なら言うこと――あれ?  
「うん? なんや我が生徒?」  
「……いえ……いえいえ……何でも………‥アリマセンヨ」  
 違う。違う違う。そんなわけがあるもんかっ!! ああ猛烈にウオッカを瓶一気したい。徹底的にこの忌まわしい記憶を消去したい。  
 トラウマを自分で作ってどうする。  
 世の中にはわからないならわからないでいいことが、それこそ本当にいくらでもあるんだ。たまには学者を見習え。  
「どうしたんや自分? 顔がメッチャ蒼くなっとんで?」  
 だっ〜〜触るなっ!! お願いしますここみん。しばらくぼくのことは放って置いてください。ほんとにほんとにお願いします。  
 ぼくはさっきの理澄ちゃんみたいに、心視先生から微妙な距離を取る。  
「ほんまなんやのん? おかしなやっちゃなぁ? いまさらテレる仲でもないやんか?」  
「どんな仲なの三好ちゃん?」  
「それはいくら春日井ちゃんにでも、さすがにちょっと言えんなぁ。ま、背徳の匂いがする間柄、秘密の関係、とだけ言っておくわ」  
「若いのが無条件で良いかどうかはともかく、卿壱郎博士みたいな年寄りには、なりたかないですね」  
 セクハラお姉さんコンビは無視。もう勝手に言っとれ。  
「ああ、きみも見たんだ? 大垣くん、また殴られてたな。何があったか知らないけど、ああいうのは、理性的な行動とは言えないね」  
 卿壱郎博士は感情のスイッチ、その切り替えがやたら激しいジイサンだ。  
 普段は厭らしいくらい厭らしい狡猾な印象だが、一度頭に血が上ったら止まらない。  
 杖で殴る殴る、助手の志人くんを、とにかく殴る。  
 卿壱郎博士は昔、さる大きな研究所の所長をしてたらしい。  
 だから博士と呼ばれてるのは、そのときの名残だし、いまでは一教師に過ぎないはずのに、助手なんてのがいるのもそういうわけだ。  
 そして巨大で醜悪なコンプレックスの塊。  
 キレやすい子供が世間では、結構な社会問題になっているが、キレやすい老人もこれで結構な迷惑である。  
「まったくやで。《カツラずれてる》って書かれた紙背中に張られたくらいで、そんな一々殴られてたら、大垣くんもほんまたまらんで」  
「…………」  
「子供心を忘れん軽い茶目っ気やん。あんなん殴ったりしたらあかん、ちょいやけど胸の奥が苦しくなったわ」  
「…………」  
 だったら自首しろよ犯人。  
 
「でも大垣くんもオイシイよね。宇瀬さんも見てる前でしこたま殴られて」  
 冷たい眼差しを恩師から、また何か、どうせろくでもないことことを言うんだろう春日井さんに、ぼくはゆっくりと向ける。  
「……なんでそれがオイシイんですか?」  
 ぼくだったらそれはお断りだ。理不尽に殴られるだけで、勘弁してくれよ、って感じなのに、好きな女性の前で殴られるなんて。  
 それだけで苦痛が二乗されることは請け合いだ。  
「恋愛というものがまるでわかってないねいっきーは」  
 ちっちっちっ、とぼくに向かって軽く指を振る春日井さん。何だかその仕草は、ひどく気障りだった。  
「大垣くんが殴られる。宇瀬さんがそれを見る。可哀想。 二人っきりになったら慰めてあげようと思うよね。それは色々な方法で」  
「…………」  
 何なんだそのルナ先生方式は。志人くんが死んじゃう、と涙目になった後で、美幸さんが授業でもしてくれるのか?  
「……もしかしてですけど、あなた、理澄ちゃんにもこんな感じで、お話しをなさってたんですか?」  
 そう言ったぼくに春日井さんは、根尾さんにさらに輪を掛けた、アメリカ人みたいなオーバーアクションで肩をすくめる。  
「くっ…………」  
 この人の動作の一つ一つが今日は気障りだ。  
「馬鹿を言ってはいけないよ。見くびってもらっては困る。頼ってきた美少女名探偵に半端はできない。もっとかなり丁寧に話したよ」  
 と。  
 春日井さんのセリフが終わるのを、待っていたかのように、デヴィト・ボゥイの曲が鳴り響く。  
 ぼくの携帯だ。  
 ちなみにこのイカしてる着メロ設定をしたのは巫女子ちゃん。  
"ピッ"  
「もしもし」  
「あ、お兄さん? すげぇ大事な話しがあんだけど、すぐに来てくんねぇかなぁ? 何の話かは……お兄さん心当たりあんだろ?」  
「出夢くん、ちょっと待って」  
 ぼくは通話口を押さえて春日井さんを見る。  
 
「これからぼく、多分死にたくないって思えるくらい、ボコボコに殴られそうなんですけど」  
「慰めてあげるよ」  
「良かったやん、我が生徒」  
 アパートの部屋。そこにある机の鍵の掛かった引き出し。  
 失われた鍵の徹底捜索を、ぼくは崩子ちゃんに命じようと決意した。  
「はぁ……」  
 愛してるって言っても、許しちゃくれないだろうなぁ。人のことは言えた義理じゃないんだけど、出夢くんも大概ブラコンだし。  
「はぁ……」  
 もう一度これ見よがしにため息を吐いて、ぼくは携帯を耳に当てた。  
 
 
 13  
 
 マイブームは?  
 そう人に訊かれたなら、ぼくは散歩と答えるだろう。  
 実際歩くのは嫌いじゃない。  
 それに散歩のコースが夕暮れの校舎というのが、これで中々にイカしてて結構乙なものだ。  
 何より玖渚の代打とはいえ、教師でなければ、とてもではないが歩けないコースなのが、またポイントの高いところだろう。  
 澄百合学園。  
 いまさら説明をする必要もないほどの、超に超を二乗させた超々お嬢様学園。  
 本来であればぼくみたいな若い男が、悠長に歩いていい施設ではない。見つかったならば即座に、手が後ろに回ることは請け合いだ。  
 教師。  
 給料は安定してるし休みは山ほどあるしで、そこそこの力でやってる分には、これは本当に夢のような仕事だろう。  
 しかも女子校だと言うのだから、それこそ言うことは何もあるまい。  
 まぁもっともそれは、極々普通な世間一般の学校ならば、だ。  
 勿論この澄百合学園は、それこそ色んな意味で、そこそこの力ではできないし、極々普通な世間一般の学校なわけがない。  
 言っててちょっと悲しくなるが事実だ。  
 世間一般の普通の学校では、深夜に音楽室から悲しいピアノの演奏が聴こえたり、二宮金次郎が元気一杯に走り回ったりはするだろう。  
 でもナイフを持った女の子は徘徊してないだろうし、太った白衣の男の目撃情報もないはずだ。  
 しかもその二つが二つとも、嘘偽りのまったくない誇張ゼロの話なのを、ぼくは知りたくもないのに、とてもよく知っている。  
 何せ両方ともこの目で見てるからだ。  
 だがこの二つの学園徘徊話は、結構当たり前のように、ほとんど皆が皆知っている。――二つのうち一つは。  
「ナイフの方は西条でまず間違いないでしょうから、そちらはとりあえずいいのですが……」  
 言いつつぼくの隣りを歩ってるのは子荻ちゃん。  
「太った白衣の男、こちらは些か……いえ、かなり問題ですね」  
 その左手には日本刀。背中にはボウガン。由緒正しい女子高生の、気合の入った完全装備だった。  
「…………」  
 やっぱりこの娘も例外ではない。しっかりと骨の髄まで、プロのプレーヤー、あちら側の世界の住人だ。  
 こちらの世界の常識がまるで、一切合切で通じないときがある。  
 これから戦地に行こうというなら、イラクやアフガンにでも行こうというなら、まぁ、その格好もわからなくはないんだけれど。  
「体育着を盗んでいくような変質者を、総代表としては捨ててはおけません」  
「…………」  
 チラリッと盗み見る。  
 子荻ちゃんの顔が弱冠だが赤くなっているのは、夕日に照らされてるから、決してそればかりではないのだろう。  
 
 怒るのもそりゃ無理はない。  
 女性ならば理屈よりも生理的に嫌だろうし、特にそれが思春期の女の子ならば尚更だ。  
 正真正銘血の繋がった父親とさえ、一緒に洗濯されるのを、それこそ親の仇のように思ってる年頃なわけだし。  
「…………」  
 ぼくはどう思われてるんだろう。そして知られたら、どう思われるんだろうか。  
 変質者に盗まれたという体育着の中には、子荻ちゃんのものもあり、そしていまは、ぼくのアパートの部屋の押入れの奥にある。  
「…………」  
 初めにこれだけは断っておくが、体育着強奪犯はぼくではない。  
 根尾さんだ。  
 ただ根尾さんを一応は、擁護する理由はないが彼を擁護するなら、体育着にはこれっぽっちも興味がないだろう。……多分だけど。  
 ぼくがあの人と、最初に出会ったのは、職員室じゃなかった。  
 たまたま夜の巡回で通りかかった、核攻撃からでも生き残りそうな鉄扉、理事長室の前である。  
 嫌味のないにこやかな貴族風笑顔を浮かべて、無言でじっと佇むぼくの前を通り過ぎると、その日はひょうひょうと闇に消えた。  
 次の日に職員室で自己紹介されてからも、たびたびぼくは根尾さんを、理事長室の前や職員室の金庫で見かけている。  
 気にならなかった言えば嘘だが、ぼくは常のように、曖昧々に放っておいた。  
 のだが。  
 自称《内部告発の達人》《裏切りの有段者》《秘密工作の専門家》《背徳の体現者》……ヘマをしたらしい。  
 熟練者ほど初歩的なトラップに引っかったりする。  
 校舎内で警報ベルを高らかに鳴らしてしまったみたいだ。  
 しかしそこからは根尾さん、さすがにさすがで、慌てて逃げつつも、それ以上傷口を広げたりはしない。  
 更衣室の窓から脱出するとき、手当たり次第目につく体育着をバッグに詰めて、しっかり変質者を装うことも忘れてはいなかった。  
 でも。  
 アパートに《いつも黙っててくれるお礼》そんな手紙入りのバッグを送るのは止めてほしい。  
 とりあえずバッグを隠した押入れへと、崩子ちゃんの視線がいくその都度、ぼくの心臓は危険なほどバクバクしてしまう。  
 根尾さんは何をどう勘違いしているのか、ぼくがコスプレ好きだとでも思ってるみたいだ。  
 失礼な。  
 そう思って窓ガラスを見た。  
「…………」  
 思われても仕方なかった。  
 映ってるのは水面の向こう側。零崎人識。などでは勿論なく、澄百合学園の生徒――にしか見えない制服を着たぼくだった。  
 自分で言うのは本当に心底で嫌だが、ガラスに映る子荻ちゃんとのツーショットに、違和感がまるで気持ち悪いくらいに微塵もない。  
 
「…………」  
 頭が混乱する。混濁する。くるくると狂いそうになる。  
『あの手の犯罪は常習性がありますから、必ずもう一度するはずです。侵入した際見回りが女生徒二人なら、変質者も油断するでしょう』  
 制服を渡されたときに、子荻ちゃんからそんな説明はあった。  
 それは理解できる。  
 でも納得しろというのは無理だ。  
 そもそも男であるぼくが、わざわざこんな格好をせずとも、暇な女講師はこの学園にはいくらでもいるわけだし。  
「…………」  
 まぁ誰に着せたところで、ちょいとばかり、パンチが効きすぎてるか。  
 見てみたいような見てみたくないような。しかし好奇心猫を殺すとも言うことだし、止めておくのがここはやはり無難だろう。  
 それにその場合の猫は、きっとぼくだろうから。  
 てなわけでいーちゃんは、いつも通りに、状況に流されてみましたとさ。  
「めでたしめでたし、ってここで言えりゃ楽なんだけどな」  
 勿論言えるわけがなく、見せしめというか、晒し者というか、何か罰ゲーム的というか、後ろ指指されつつ、校内巡回三週目に突入だ。  
 それにしてもこの澄百合学園、改めて思うが異常なくらい広い。  
 ぼくは決まった巡回ルートしか歩かないので、ここで子荻ちゃんとはぐれたら、帰りは間違いなく深夜になってしまうだろう。  
 頼りない教師は隣を歩く、頼れる生徒をチラリと盗み見た。  
 いつもながらの綺麗で長いストレートの黒髪。その美しさにいつもながら見蕩れる。……触ったら怒るだろうか。  
「何をじろじろ見てるんですか?」  
 殺気(?)を感じ取られたらしい。  
 子荻ちゃんは足を止め、ぼくを不審そうな、警戒してそうな、戸惑ってるような、そんな色々な感情が、ごちゃまぜになった顔で見る。  
「いや、別に。何でもないよ」  
「そうですか?」  
「そうですよ。それよりも子荻ちゃん」  
 すぐそこの角を曲がると、生徒達の使ってる下駄箱がある正面玄関口だ。  
 窓の外を見るとはそろそろ、黄昏どきというには、いささか暗くなりすぎてる。このまま四週目に突入するんだろうか。  
「疲れましたか?」  
「うん。まぁ少しだけね」  
 実際それほど疲れちゃいないのだが、できれば、ここで終われるなら終わってほしい。  
 男がするにはファンキーでファンシーな格好をしてる所為か、足元からすーすー入ってくる風が、ずっと気になってしょうがなかった。  
 春夏秋冬をこの格好で通せる女性は偉大である。  
 ぼくには無理だ。  
 てか無理じゃない方が、この場合は問題だが、とにかくぼくには、これ以上は無理。  
 
「それでは今日はこのぐらいにしておきましょう。この時間さえやっておけば、夜は放っておいても西条が歩き回ってますし」  
「そうだね」  
 そういやいままでよくもまあ、あの二人は遭遇しなかったものだ。  
 根尾さんのラッキーは一体どこまで持つのか、完全無欠の人事ながら、だからこそ無責任に、ぼくの心臓は激しく震えてビートする。  
 あの人はあれで動けるデ、……いや、運動神経は悪くない人だから、プロだし、逃げに徹すれば死ぬことはないはずだ。  
「多分だけど」  
「何かおっしゃいましたか?」  
「いやいや、何でもないよ。疲れたなぁってね。どうも身体がなまりになまってるみたいだ」  
 本当はそんな必要があるほどには、疲れているわけではないのだけれど、ぼくは肩や首をぐるぐると回す。  
 そしてどういうわけだか、子荻ちゃんはそんなぼくを見ながら、何だか随分と真剣な顔で、何かを思案しているみたいだった。  
「あの、良かったら、チョコ……食べます?」  
「チョコ?」  
「身体が疲れたときは、やはり甘い物がいいですよ」  
 うん。それは知ってる。  
「……そうだね。じゃあ貰おうかな」  
 でも何だろうかこの違和感は。ひどく《チョコ》というキーワードが引っかかる。  
 何故だか今日は甘くとも、餡子や果物では駄目な気がした。  
 はて? 本当に全体何だったろうか? それはとても嬉しいことの気がするが、いまいち頭にモヤがかかって思い出せない。  
「…………」  
 いいか。思い出せなくても。  
 嬉しいのがわかってれば、理由なんてどうだっていいや。詮索すると詰まらないことになるかもしれないし。  
 綺麗にラッピングされてるチョコを、子荻ちゃんがじっと見ているので、ぼくはその場で丁寧に破いて、カリッと一口噛んでみた。  
 途端、嘘のような甘い味が口の中に広が――らない。  
「あれ?」  
 見るからに不恰好な形からして、このチョコは、おそらくは誰かの手作りなんだろう。  
「どうですか、チョコの味は?」  
 視線を明後日の方向に向けながら、でも意識ははっきりとぼくに向けて、子荻ちゃんは廊下の先を睨みながら訊いてきた。  
 ぼくはチョコを貰えて嬉しいが、どうも、子荻ちゃんは違ったみたいである。  
 もしかしたら一人で全部、食べたかったのかもしれない。女の子は甘い物がとにかく好きだから。遠慮しないぼくに怒ったのかな?  
 とりあえず一口食べた感想だけは言っておこう。  
 
「お店に出してお金が取れる味ではないね」  
「ええ、でしょうね」  
「美味しいと絶賛するような味では絶対ないし、かといって不味いと酷評するほどでもない。平たく言えば中途半端」  
「…………」  
 らしくない。  
 子荻ちゃんの顔は、ぼくが味の感想を言い出してから、急に無表情になったが、心が無感情ではないのが丸わかりだった。  
「でもぼくは、曖昧な味の方が好みだよ」  
 念の為に言っておくが、これは戯言ではない。  
 やれやれ。  
 らしくないのは、このしがない《戯言遣い》のぼくも一緒か。  
 まぁとは言っても、ぼくは例えそれがどんな味であっても、大概は美味しく食べられるんだけどね。  
 二口目。  
 気のせいかチョコの味がさっきよりも甘い。中々に食べ応えのあるチョコレートだった。もむもむと噛めば噛むほど甘くなっていく。  
「……………………あは」  
 そんなぼくを見て、萩原子荻は、まるで年頃の女子高生のように、笑った。  
 
 
 14  
 
"キッキュキュキュ〜〜〜〜"  
 タイヤの密度と寿命を確実に磨り減らしながら、風景とフィアットの車体が、物凄い勢いで横へと滑っていく。  
 みいこさんには一体何と言って謝ろうか。  
 滅茶苦茶にコストパフォーマンスの悪い走りだった。  
 スピードだってこのクルマの、能力以上のものが出てるだろう。ボンネットからはいつ、白い煙が出てもおかしくはない。  
「零崎、きみさ、もう少し普通には走れないのか?」  
 ぼくは視線を前方の、カーブを曲がる寸前、一瞬だけチラッと見えたベンツに向けたまま、ハンドルを握る零崎へと問い掛けた。  
「このクルマで普通に走ったら、普通にベンツにゃ追いつけないぜ」  
 言いつつ殺人鬼は、またしても鮮やかなハンドル捌きで、フィアットの車体を綺麗に滑らせた。……無免のくせに。  
 だが、零崎の言ってることも、まぁもっともだ。  
 フィアットとベンツ。  
 両方ともに名車ではあるが、基本ポテンシャルが、あまりにもあまりに違いすぎる。  
 普通に走っていたのでは、ドライバーの性能差があっても、零崎と絵本さんに差があっても、追いつくのはまず確実に不可能だ。  
 だからこの金のかかるドリフトを、この先も続けるしかない。  
「だいたいお前が悪いんだぞ。絵本さんのフレンチクルーラーまで食べちまうから」  
 そう。この追いかけっこ。そもそもこいつに原因がある。  
「んなこと言ったってよ、目の前に置かれてたし、腹が滅茶減ってたし、あの女が席立ったしでさ、そこまで条件揃ったら喰うだろ?」  
「知らん」  
 初めて自宅に遊びにきた客人に、ウキウキでコーヒーを淹れて戻ってきた絵本さん。  
 それはまさに零崎が、最後の一口を頬ばった、そのタイミングだった。  
 盛大にガシャンと音を立てて、トレイに載っていたコーヒーやら砂糖やらが、高級そうな絨毯の上にぶちまけられる。  
 わなわなと絵本さんは、何も持ってない手を震わせた後、こういうのも成長というんだろうか。  
『も、もも、も……もう……し、ししし、死んでやるっ!!』  
 絵本さんはいつものように、その場で泣き崩れるということはなく、ポジティブだけどネガティブに、駐車場へと嗚咽混じりで走った。  
 その間ぼくは絨毯に広がる染みを、何となく見てるだけ、零崎に至っては、もぐもぐと、丹念に咀嚼するだけである。  
 
『なにを悠長に落ち着いてるさっ!! 早く追いかけるさっ!!』  
 るれろさんが怒鳴らなければ、いまだ部屋の中で、ぼくと零崎は、揃ってまったりしていたろう。  
 仕方な、いや慌てて玄関に走ったときには、ちょうど絵本さんが駆るベンツ(Sクラス)が、駐車場から飛び出すところだった。  
『鍵貸せよ。俺が運転する』  
 運転手には零崎が立候補したので、ぼくとるれろさんは助手席と後部席に乗り込み、それから三十分ほどのカーチェイスで現在に至る。  
 しかしこの殺人鬼、本当に運転技術が、びっくりするくらいべらぼうに高い。  
 ちょっとずつではあるが、コーナーを曲がるその度に、絵本さんのベンツとの距離を確実に詰めていた。  
 とはいえ。  
「こりゃヤベえなぁ」  
「……うん」  
 いままではカーブの多い峠道を走ってたから、まだなんとか勝負になっていたのだが、それももうそろそろ終わりが近づいていた。  
 ストレートではどうやっても、追いつけやしないだろう。  
「だが安心しろよ、欠陥製品」  
 例の如く例の如しで、見切りの良すぎるぼくの心情を読んだのか、零崎は右顔面の刺青を、にっ、と笑みの形に醜く歪ませた。  
 ……この殺人鬼、ろくなことを考えない。  
 代理品。  
 こいつがぼくの心を読むのにも、ぼくがこいつの心を読むのにも、なんらの難しい技術は必要なかった。  
 わかるものはわかる。  
「グランツーリスモで鍛えた俺の腕を信じろよ」  
「……お前、勘違いしてるぞ。お前が腕を鍛えたと言い張ってるゲームは、きっとマリオカートだ」  
 ぼくは深くシートに身を沈める。  
 そしてバックミラーでるれろさんを見た。そりゃ当たり前なんだけど、今日も包帯はどこにもしてない。  
「慣れないなぁ」  
「うん? 何か言ったかい、《いーちゃん》?」  
「危ないですから、頭は引っ込めてた方がいいですよ」  
「ふうん?」  
 きょとんとしたるれろさんの顔。キリッとした頼れる姐さん風の印象だけに、そのギャップもあってかなんだかラヴリー。  
 クルマはカーブに差し掛かろうというのに、スピードをまるでまったく、落とそうという気配すらない。  
「えっ? ええっ!? ちょ、ちょちょ、ちょっとあんた……なに……なにを……なにを一体…………してる………………さ」  
 零崎の座ってる運転席、その頭部の辺りをゆさゆさと揺すりながら、るれろさんの顔が徐々に青ざめ、声は段々と小さくなっていく。  
 
「ショートカット」  
 一人だけわからなかった憐れな同乗者。  
 その疑問に答えてやった零崎は、さらにアクセルを踏み込んだ。  
 迫るガードレール。零崎の首に手を掛けたるれろさん。フィアットの損害。修理の見積もり。みいこさんへの言い訳を考えるぼく。  
"ドオオオオォオオンッ!!"  
 衝撃。  
 割れるフロントガラス。  
 真っ白になる視界。  
 ぼくは思い切り蹴りを入れて、運転する零崎のため、そしてなにより自分の身の安全のため、すぐさまクリアーな視界を確保。  
 野を越え山を越え。  
「舌噛むなよ」  
"バゥウウウウウゥウ!!"  
 零崎の声を追うかのように、ざわり、と纏わりつくみたいに襲っくる浮遊感。  
 その日フィアットは空を飛んだ。  
「っきゃあああああぁああああああああああぁあああぁあああああああぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」  
 半瞬遅れて絹を裂くような悲鳴。  
 ちなみにぼくも零崎も、声帯を震わせてはいない。  
 後部座席から響いてくる声は、長く甲高く、とても乙女ちっくなものだった。  
"ドオオオオォオオンッ!!"  
 着地。  
 しっかりと一拍堪えてから、零崎がハンドルを左に切る。  
 風景がコーヒーカップに載ったときみたいに、くるくるとくるくると、吐き気を覚えるほど気持ち悪く回っていた。  
 ネズミ花火みたいに爆ぜないのを、ただただ祈るばかりである。  
 と。  
 順調に、慎重に、大胆に、繊細に、強引に、丁寧に、緊急に、急速に、零崎は回転力を、殺して解して並べて揃えて晒していたが。  
 そこへ重量感を伴った白い影が飛び込んでくる。  
 対向車がもしいたら、なんてことは、まるっきり考えてはいないスピードだ。  
 しかも図ったよな正確さで、まっしぐらに小さなフィアットへと、巨大なベンツが問答無用で突っ込んで来る。  
 こういうとき、こういうときとは、死に直面したときと言う意味だが、事象がスローモーションで見えるというけれど、本当みたいだ。  
 ぼくにははっきりと見える。  
 ベンツの運転席。ハンドルを握ってる絵本さん。目をぎゅっと瞑っていやがった。  
 
「…………」  
 そこそこの修羅場を乗り越え、数々の死線を潜り抜けてきた《戯言遣い》が、まさかこんなところ、こんな形でお亡くなりになるとは。  
 人生の幕引きとは突然で、案外に詰まらないもんである。  
 走馬灯。  
 玖渚友との出会い。  
 圧倒的な存在に打ちのめされた。幼い嫉妬。無言で青髪を蹴り飛ばしったけ。あれは悪い事をしたといまでも思ってる。  
 お前に初めて触れたあのときのぼくは、自尊心が歪に肥大してるひねたガキだった。  
「…………」  
 でも謝ったら負けかな?  
 なんてことを二十歳越えても思ってるぼくは、あのときから、変わらずひねたガキのままで、あまり成長はしてないのかもしれない。  
 やれやれ。  
「戯言なん―――」  
"キッキュキュ〜〜〜〜〜〜〜〜ガシャンッ!!"  
 決め台詞は遮られた。  
 まだ残っていたフロントガラスを、派手に全壊させる音と、ぼくと零崎の間を通りすぎた物体によって。  
「やっぱ後部座席にもさ、シートベルトは必要だよな」  
 車内にいてもわかるタイヤの焦げた匂い。そして見ただけで、脳が勝手に作り出す、本能に染み込んでいる馴れた血の匂い。  
 ハンドルに顎を乗せながら、零崎は緊張感ゼロで暢気に呟いた。  
 しかしさすがはあの、《人類最強》哀川潤をして、《人類最速》とまで言わしめた反射神経。  
 ベンツから寸ででフィアットを逃すのに成功したらしい。  
「回想と反省、もう終わったか?」  
「……ああ、今日のところは、こんなとこだろう。後はまたの機会にでも取っておくよ」  
 それどころじゃなさそうだし。  
 バックミラーではなく、首を捻って後部座席を見るが、勿論そこには誰の姿もない。―――るれろさんの姿がない。  
 首を元に戻す。  
 七、八メートル先で、何かがぴくぴくしていた。血まみれでぴくぴくしていた。  
 ここからでも、関接が曲がってはいけない方向に曲がってるのが、わかりたくもないのに、はっきりとした確信を持ってわかる。  
 ……血まみれの……関節が……ぴくぴく……ぴくぴく……って。  
「オイオイっ!! いくぞ零崎っ!!」  
 いかんいかん。もっと慌てろぼく。  
 哀川さんや真心、それに《殺し名》連中の頑丈さに慣れてしまってる所為か、感覚がちょっと麻痺してしまってたみたいだ。  
 るれろさんはプロのプレーヤーといっても、肉体派とはいくらなんでも思えない。  
 十月には死ななかったのに、二月に死んだりしたら、それもこんなしょうもない理由で死なれたりしたら、かなりやりきれないだろう。  
 
「医者だ零崎、すぐに医者を呼べっ!!」  
「だから、その医者を追ってこうなったんだろうが」  
 ああそのとおりだ。  
 久方ぶりにぼく、滅茶苦茶パニくってるな。  
 くっそう。でもだったら一体どうする? ぼくはどうするべきだ?   
 折れてる手足の応急処置くらいならできるが、頭部を打っているのなら、素人が下手に動かしたりするのはまずい。  
 そしてるれろさんは間違いなく打ってるだろう。  
 八方塞だ。ぼくには何もできない。  
「零崎、お前は、お前は何とかできないのか?」  
「うん? ん〜〜? 悪りぃ。俺は殺すのが専門で治すのは埒外だ」  
 だろうな。  
 生粋の殺人鬼に聞いたぼくが馬鹿だったよ。ああ、でもほんと、こりゃどうしたらいいんだ?   
 いまからでは救急車を呼んでも、とてもじゃないが間に合いそうにないくらいに、るれろさんの傷の具合は滅茶苦茶救急に見える。  
 怪我する事に掛けてはぼくだってプロだ。  
 最近は幸いな事にそうでもないけど、決してるれろさんにだって引けは取らない。らぶみさんはどうしてるだろう?  
 などと考えている間にも、るれろさんの身体からは、血がどくどくと盛大に出ていた。  
「こりゃ本当に出血大サービスってやつだな」  
 巧い。  
 とか思ってしまったぼくは、不謹慎な事を言った零崎よりも、ずっとずっと、救いようがないほど罪深いのかもしれない。  
「い、痛い……さ。お医者さんを……は、早く…………」  
「るれろさん!? 大丈夫で――」  
 そんなわけないか。  
 上げた顔も血だらけだし。  
 でも意識があるのは不幸中の幸いだ。安心は勿論できないが、生命の危険レベルはそれだけで大幅に下がる。  
"キッキュキュキュ〜〜〜〜"  
 そしてさらに下げ、いや消してくれる救いの天使が、タイヤを軋ませて、満面の狂気の笑顔を浮かべてやって来た。  
「血の匂いでも嗅ぎつけたのか、あの女は?」  
「……サメみたいだな」  
 劈くようなブレーキ音とともに、ベンツをるれろさんの身体ギリギリに止めると、絵本さんはプロの動きで素早く駆け寄る。  
 スキップで。  
 いつの間に着替えたのかその格好は、レインコートに長靴、絵本園樹外出仕様。  
 
「えへ、えへへ、だ、大丈夫だから、大丈夫だからね、くふふ、るれろさん、もう、ももも、もう、大丈夫だから、こんなの大丈夫だよ、  
ね、ねね、うふん、うふふふ、い、痛いのは、さ、さささ、最初だけだからね、ぐふ、くふふ、こ、こんなの、あ、あたしすぐに、すぐに  
治しちゃうから、あ、ああ、あたし、や、役に立つから、えへへ、えへへへ、るれろさん………だから好きっ!!」  
 チラリと隣りを見ると、零崎が爪先立ちになってる。  
 いつでも逃げ出せる体勢だ。  
 まあ気持ちはわからないでもない。  
 絵本さんみたいな面白すぎる女性が、結構好みのタイプであるぼくでさえ、気づかぬ無意識のうちに半歩下がっていた。  
 だが絵本さんのアブないのは台詞だけで、、その治療技術には、微塵も危なっかしさはない。  
 元《十三階段》三段目、《ドクター》の異名は伊達ではなかった。  
「うん。内臓破裂はないみたい。手足の開放性複雑骨折とアバラが六本のヒビ、それと全身の打撲と擦過傷だけだね」  
 それはそれで十分重症である。  
 でも生命の心配はこれでなくなった。一安心。  
 絵本さんは手足に添え木をし、救急箱から塗り薬を出して塗ると、白い包帯を全身にくるくると巻きはじめる。  
「やっぱりこちの方が、ぼくはしっくりくるな」  
 その姿は四年前の右下るれろだ。  
 小さな声で言ったのだが聴こえてしまったようで、ぎろりと、るれろさんに睨まれてしまう。  
 切れ長の目はうるうると、ちょっとだけだが光っていた。  
 その理由は痛いからばかりでは、きっとないのだろう。  
 ここは目を逸らしてやるのが、大人の優しさというものだ。びびったんじゃない。本当だ。もう半歩下がってしまったが本当なんです。  
「本当に傑作だよな」  
「……そうだな」  
「うん? どうした欠陥製品」  
「なんでもないよ、人間失格」  
 本人には間違いなく自覚ゼロだろうが、零崎が話のオチをつけてくれた。  
 
 

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