15  
 
 羽目を外すとは、多分、こういうことをいうんだろう。  
 ミニスカートが宙を舞っていた。  
「《冬山で雪女に遭遇 ただしマッチョで色黒 なおかつ死因は撲殺》みたいなっ!!」  
 勿論ミニスカートが自由意志で飛ぶわけもなく、それは誰かに投げられたと考えるのが、論理的に極めて妥当なところだろう。  
 そして胡坐を掻くぼくの前に落ちているミニスカート。  
 智恵ちゃん家に一緒に来たとき、巫女子ちゃんの穿いてたものと、寸分違わずとてもよく似ていた。  
 ベランダに陣取るのはむいみちゃん。  
「あたしは――あたしを許してるぅうううぅうううぅううううぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」  
 似合わないと思っていた白衣が、意外なことに結構似合っている。  
 でも、どこか、戯れで巫女子ちゃんが着せたときから、ぼくは違和感を感じていたのだが、それがなんだかいまになってわかった。  
 後姿を見たからわかった。  
 窓ガラスを全開で叫ぶその姿は、バリバリ特攻服にしか見えない。  
 近所迷惑も大概だが、時刻はまだ八時にもなってないので、この程度のご乱行なら、まあギリギリ大目に見てもいいだろう。  
 今夜は珍しく彼女も酔っていた。  
 玄関で土下座したみたいな格好で、さっきから、ぴくりともしないのは秋春くん。  
 またしても電車が混んでいたらしく、毎度の事ながら遅刻した罰ゲームに、すでに酔ってきていたむいみちゃんに、駆けつけ十杯なんて  
無茶をさせられて、来てから三十分ほどで早々にダウン。  
 最後の一杯がスピリタスだったのが、おそらくは彼の早過ぎる退場の原因だろう。  
 ダイイングメッセージはない。  
 そして彼女。  
「今日は来てくれてありがとね。いっくん」  
 落ち着いた感じで礼儀正しく話す彼女も、さっきまではえらく酔っていたのだが、いまはアルコールがいくらか醒めたみたいだ。  
 良い子のポジションの彼女。  
 一人で酔っ払い軍団を相手しなければならないと思ってたので、これは敵の戦力を削っただけでなく心強い援軍でもある。  
 
「…………」  
 だからここではあえて何も言うまい。  
 ぼくの身体のあっちこっちに、赤い斑点を付けたことには。しばらくは人前じゃ風呂にも入れない。  
「いや、別に礼を言われるようなことじゃないと思うけど」  
「でもいっくんは、いまもこういうの、嫌いってほどじゃなくなったかもしれないけど、あまり好きでもないんでしょ?」  
 ぼくと彼女は決定的に違う。  
 だけれどどこか似た匂いのするこの家の主、智恵ちゃんは気まずそうに、しかしそれでも、当たり前のようにその台詞を言った。  
 正面に愛らしくちょこんと座って、ぼくの表情を見つめる円らな瞳。  
 それはまるで。  
 見透かすように。  
 脳内を裏側から覗くように。  
 周りははっちゃけて大騒ぎしているが、ぼくと智恵ちゃん、二人の共有する空間だけは、台風の目の中のように静かだった。  
「そんなことはないさ。四年前とかと比べたら、大分この雰囲気にも慣れたぜ?」  
「確かに慣れたみたいだけど、やっぱり、好きではないんでしょ?」  
「そんなことはないさ。中々に楽しいもんだ」  
「嘘だね」  
「本当だよ」  
「嘘だよ」  
「嘘だけどさ」  
 くすり、と智恵ちゃんは可笑しそう笑う。  
 その瞳に映る寂しさも悲しさも、無論消えてなどはいないが、勿論消えるわけもないが、本当に心から笑ってるみたいに見えた。  
「…………」  
 ぼくは戸惑う。  
 江本智恵がそんな風に笑ったことに戸惑う。  
 その笑顔はもうすでに、二十歳を越えてるのに、ぼくよりも一つだけど年上なのに、あどけない少女みたいで可愛らしかった。  
「…………」  
 まぁ、そうは言ってみたものの、ぼくよりも八つ年上で、まんま中学生のような三つ子もいるけれど。  
 ロシア語で絶望の果てを意味する鴉の濡れ羽。  
 あの人たちは、あの島の住人たちは、今頃一体全体どうしてるだろうか?  
 毎月毎月社交辞令のように送られてくる招待状。  
 またポストに入っていたら、日本海に浮かぶ孤島に、ほんの少しだけ、メイドさんも居ることだし、行ってもいいかな、そう思った。  
 ぼくのメイドさんたちは、あの三姉妹は元気だろうか?  
 
「はい、これ。いっくんは2Pね」  
「はい?」  
 物思いに耽っていたぼくの手に、智恵ちゃんが何かを握らせる。見るとそれは、黒く四角く重厚な――。  
「スタンガン?」  
「コントローラーだよ」  
 答えながら智恵ちゃんがプレステのスイッチを入れると、ジョオォォオン、と音を立てながら、テレビ画面に浮かぶソニーのロゴ。  
「グランツーリスモ。いっくんとは、まだ対戦したことないよね?」  
「……うん。でもカーレースは、助手席だったけど、先週嫌になるくらいやったから……」  
 と。  
“パサッ”  
「うん?」  
 ぼくの頭に何か軽いものが乗っかる。手に取ってそれを見た。布地がふんわりとしてて柔らかい。  
「…………」  
「…………」  
 しばしそれをじっと眺めてから、これはアレですか? わかりきった答えを確認するために、ぼくは智恵ちゃんを見ようとして。  
“バシンッ!!”  
 背中を叩かれた。  
 女の子の力であっても、不意打ちなので結構痛い。  
「《貞子のビデオを見て今日で七日目 ただし場所は伽耶子の家》みたいなっ!!」  
 などと言いつつ巫女子ちゃんは、ぼくの首に腕を廻して、しなだれかかるように抱きついてくる。  
 背中が柔らかい。  
 手にしてるものを見る。  
「…………」  
 背中が柔らかい。  
 酔ってる所為なのかどうなのか、巫女子ちゃん、男に対する警戒心が、かなり猛烈に薄くなってるみいたいだ。  
 これは注意しておくべきかも知れない。  
 ぼくだからいいようなものの、そうじゃなかったら、勘違いされても仕方ないくらいの、くらくらと眩暈がしそうな大胆さだ。  
 天真爛漫にもほどがある。  
 そういう女性のある意味では無責任な部分が、大人しい羊だったはずの男を、一瞬で獰猛なオオカミに変貌させるのだ。  
 
「巫女子ちゃん」  
 声のトーンを落とす。  
 この娘に注意をするときは、少し大人気ないくらいに、キツめに言わないとてんで効果がない。  
「そんな格好で男に抱きついたりしたら、押し倒されても文句は言えないよ。巫女子ちゃんは、押し倒されたいのか? どうなんだ?」  
 言葉をもっと選ぶべきだったろうとは思う。  
 女の子に対してこれは、あんまりな言い草だ。  
 巫女子ちゃんは押し倒されても文句は言えないが、ぼくは泣かれても文句は言えないだろう。  
 でも背中から聴こえてきたのは、堰を切ったような嗚咽などではなく。  
「べ、べつにいいよ…………………………………………………………………………………………………………………………いっくんなら」  
 と、上ずりドモッた声で、巫女子ちゃんはそう言った。  
 最後に小さく小さくぼそっと、何か言ったようだが、残念ながらぼくの鼓膜は、その声を聴き取れなかった。  
「巫女子ちゃん、そんなこと言うもんじゃない。もっと自分を大切にしなきゃダメだよ」  
 我ながらこの台詞は言ってて恥ずかしい。  
 どの面下げて言ってるんだ。この《戯言遣い》は。  
 ぼくを見つめる智恵ちゃんの視線が、嫌が上でも羞恥心を煽ってくれる。  
 にこにことにこにこと、本当に愉しそうに、ぼくと、ぼくに抱きついている巫女子ちゃんを、眩しそうに見つめていた。  
「いっくんには、巫女子ちゃんがいるんだね」  
 自分の右肩の後ろ辺りを、くるんと、円を描いて指さす智恵ちゃん。  
 ぼくに抱きついてる巫女子ちゃんの指先が、何だかモジモジとゴニョゴニョと、組んでは離してを延々と、飽きもせずにくり返してる。  
 懐かしいと、ふっと思った。  
 在神館地下食堂。  
 出会ったあのときから、青井巫女子という名の女の子は、リアクションを取ってなきゃ気がすまない。  
 あれ? いつの間にか手に何か持ってるぞ。んん? 携帯ストラップネックレスか? こんなのまだ持ってたんだなぁ。  
 ぼくは一度聞いた声は忘れない。X/Yは筆記体の反転鏡文字。巫女子ちゃんの誕生日は四月二十日。  
 何もかもが傑作なくらいに懐かしい。  
 
 と。  
 まぁそれはそれとして、いまはそんなことよりも。  
「……《あーあ》って、ここで言ったら、それでオチつくかな?」  
「どうだろうね」  
 片目をつぶって問い掛けるぼくに、智恵ちゃんはにっこりと優しく微笑んだ。  
 
 
 16  
 
 始まりは一本の電話だった。  
 朝から聴くと妙な気分になる Let's Dance。ぼくの携帯がけたたましく鳴っている。  
“ピッ”  
 あまり考えもせずに出てしまった。  
 これが間違いの一歩目。  
 まあ例え確認してもしなくても、結果は何も変わらなかったろうが、せめて誰から掛かってきたかぐらいは、確認するべきだったろう。  
「あはは、少年。あはははは。あーはははははは。あーははははははははは…………」  
 聴こえてきたのはいきなりの大爆笑。  
「やーい。やーい。ざまーみろ。そいじゃ少年、まったねぇ〜〜」  
 狂ったみたいに笑うだけ笑って、そいで言いたいことを言うだけ言ってから、電話は一方的に切られた。  
「…………」  
 着信履歴を見ると、当然のように番号は非通知。  
 だがいまの電話が誰からのものかは、ぼくはわかりたくもないのに、はっきりと確信を持ってわかる。  
 残念なことに。  
 あんな風な《頭の回路がショートでもしてんじゃねぇか?》みたいな電話、ぼくの知り合いでは唯一ただ一人しか掛けてきやしない。  
「おっ?」  
 何て考えたらまた電話が鳴った。  
“ピッ”  
 即座に出る。ぼくも本当に懲りない男だ。……というより馬鹿なんじゃなかろうか。  
「きみみたいなやつにだけは、言われたくはないんだね」  
 切れる。  
「…………」  
 ぼくはそのまましばしの時間、ツーツーツーツーと、耳朶を打つ音を聴きながら固まっていたが、やがてそれにも飽きて呟いた。  
「あなたに電話番号、ぼく教えてましたっけ? 真姫さん」  
 今更そんなのは、あの人に対して、愚問もいいところだけどさ。  
 真姫さんにとって個人情報保護法などは、きっと笑いのタネでしかないのだろう。  
 しっかし。  
 だからあの人は嫌いなんだよ。  
 何て言ってた。《ざまーみろ》って言ってたのか?   
 放っとけよなもう。人の不幸な未来を嬉々と実況中継すんな。それも滅茶苦茶中途半端に。あんたはノストラダムスかよ。  
 
“コンコン”  
「失礼します。ご在宅でしょうか?」  
 と。  
 一体全体どこからどんな不幸がやって来るのかと、押入れの体育着が崩子ちゃんにでも見つかったのかと、いらない心配までして、  
頭がくらくらしてきたぼくの耳は、控えめなノックの音と慎ましやかな声を捉えた。  
「…………」  
 これか? これなのか? これがそうなのか? 早くも来やがったのか?   
 それはいささかせっかち過ぎる。まだ心の準備が、開き直りが、諦めが、ぼくは全然まったくできてはない。  
 ぼくはそ〜〜っと足音を忍ばせて、扉にぴたりと張り付くと、魚眼レンズで慎重に外を窺う。  
「あれ?」  
 ぼくの良く知っているメイドさんが、手を前に揃えた可愛いポーズで、この職業の正装であるエプロンドレスを着て立っていた。  
 でも。  
「さて……これは誰だろう?」  
 ぼくにだって希望がないわけではない。  
 彼女だろうか。  
 いや、彼女かもしれない。  
 できれば彼女がいいけれど、まあ、彼女でもいいだろう。  
 しかし、彼女も捨てがたい……。  
「…………」  
 やっぱ誰でもいいのか。  
 とりあえず、眼鏡をしてはいないので、てる子さんではないだろうが、後は話してみないことには、ぼくにはちょっと判別できない。  
 あかりさんorひかりさん。  
 丁か半か。  
“ガチャッ”  
 そんな心境で扉を開ける。  
 この不確定な状況を、もうしばらく楽しんでいたいというのはあるが、可愛い可愛いぼくのメイドさんを、寒い廊下に淋しくポツンと、  
いつまでも立たせておくわけにもいくまい。  
 
「どうも。ひさしぶりです――」  
 はたして後に続く台詞は、あかりさんと言おうか、ひかりさんと言おうか、そのときぼくは考えてなかったのだが。  
「…………」  
「……ん?」  
 そもそもそんな必要はなかった。  
 現在はまだ正体不明のメイドさんは、扉を開けて腹部ががら空きになったぼくに、無言です――っと身を寄せてくると。  
“ドンッ”  
「うぇ!?」  
 目の前が吐き気をともなって暗くなる。  
 この距離でどうしてそんなに威力があるのかと、惚れ惚れするくらい見事な正拳を不意撃つで叩き込まれた。  
「あぐぅ……ぐ、ぐ…………」  
 がくんと、脚が崩れる。  
「…………」  
 よろよろと倒れ込んでくるぼくを、メイドさんはす――っと、近寄って来たときとは逆回しのように、無言のままあっさりと避けた。  
「ぐぅ……あ……ああ……はぁ…………」  
 みっともなく四つん這いで、ぼくは寒く冷たい廊下に蹲る。  
 意識が電池切れみたいに途切れる前に、首を捻って最後に見た光景は、エプロンドレスから眼鏡を出して、虚ろな瞳でぼくを見下ろす、  
てる子さんの姿だった。  
 
 
 17  
 
 目が覚めたらベッドの上だった。  
 起き抜けで焦点が定まらない。ってかそれだけでは説明がつかないほど、頭がぼ〜〜っとしている。  
 しかし、それでもすぐに気づいた。  
 自分の部屋じゃないことに。  
 なにせ天井がべらぼうに高かったし、ところどころの部屋の調度、いや雰囲気が、嫌味なく上品に、とてつもなく豪奢すぎる。  
「…………」  
 そしてなにより、ぼくの首筋に、ぎゅっと抱きついているぬくもり。  
 例えお気に入りの抱きまくらにだって、これほどのものは、決して奪われはしないが与えてももらえない。  
 円らな瞳を見開いて、いつからそうしてたのだろうか、にこにことぼくに微笑んでる。  
「うぃす。……おはよう……ところでさ、お前、何してんだよ?」  
 そう訊いたぼくに、それを待ってましたとばかり、そいつはさらに一層笑みを深くした。  
 大きく息をすぅ〜〜っと、目一杯吸い込んで、誇張なしに滅茶苦茶広い部屋に、小さな身体から特大の声を響かせる。  
「じゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜で〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んちゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」  
 なるほど。  
 玖渚は只今充電中らしかった。  
「……友、それはいつものことだから、充電は勿論いいけど、ここは一体全体どこなわけなんだ?」  
 何とはなしにどことなく、見覚えがある気は、するようなしないような。  
「うに? ここ? ここはイリアちゃんのお家だよ」  
 玖渚はさらにさらに、ぎゅっとぼくの首筋に抱きつきながら、にこにこしながら当たり前のように答える。  
「そうなんだ」  
「そうなんだよ。でも僕様ちゃん安心したよ。このまま出番ゼロかと思った。ドキドキしてたのは、いーちゃん以外は内緒なんだよ」  
「そっか。そりゃ悪いことしたな」  
「ううん。別にいいよ。いーちゃんが僕様ちゃんを忘れるわけないもん」  
 確認するのも馬鹿らしい。  
 ぼくと玖渚の関係。ぼくと玖渚の空気。ぼくと玖渚の繋がり。  
 二人の間に、余計な説明や、余分な釈明や、無駄な台詞や、無為な質問や、邪魔な言葉は一切いらない。  
 しかし今回ばかりは、それにちょいと、甘え過ぎたようである。  
 
「まあそりゃな。でも正直、お前や哀川さん、それに真心みたいのは、切れすぎる手札だから、簡単には使えなかったりするんだ」  
 ぼくはぼくなりに気を遣ったのだが、どうもそれが、返って裏目に出たみたいだった。  
 ごめんな。  
 心の中だけで短く謝ると、黒髪を撫でつけながら、ぼくはゆるりと部屋を見回す。  
 玖渚の好きな色。  
 部屋にあるあらゆるものが、純粋な白一色に統一されていた。  
 鴉の濡れ羽島。玖渚友来賓仕様。  
「なあ友」  
「なんじゃらほい?」  
「この部屋ってさ、いつ来るか、いや二度と来ないかもしれないお前の為に、なのにいっつも白いままなのかなぁ?」  
「うに? うにうに? うううん。それはないと思うよ。予め来るのがわかってるから、その都度用意してくれるんじゃないかな?」  
「ふ〜〜ん。ま、そりゃそうか……って、待ってくださいよ玖渚さん」  
 すると玖渚は今日のことを、事前に知っていたわけか?  
「うん。知ってたよ。ちなみにいーちゃん、島に来てから今日で二日目だよん」  
「二日目?」  
 えっ? ちょっと待て。ちょっと待ってくれ。なんですか? ぼくはこの島に来てから丸一日、意識不明だったってことか?  
 それって結構ヤバかったんじゃ。  
「うにー。それは大丈夫だと思うよ。てる子ちゃんパンチが原因じゃないから、クロロホルム嗅がせすぎたんだってさ」  
「……そうか」  
 いや待て。  
 クロロホルム嗅がせすぎで、丸一日意識不明って、そっちも十分以上にヤバいだろう。  
 大体からして、クロロホルムとか持ってんだったら、初めっからそっち使えよな。腹部が思い出したようにズキズキしてくる。  
“コンコン”  
「友さん、わたしです。いま宜しいいでしょうか?」  
 ついでに頭もくらくらしてきたぼくの耳は、控えめなノックの音と慎ましやかな声を捉えた。  
「全然問題なく宜しいよ」  
「失礼します」  
“ガチャッ”  
 言って室内に入ってきたのは、勿論エプロンドレスを着たメイドさんである。これははたして……誰なんだろうか?  
「あ、お目覚めですか」  
 半身を起こしたぼくに、そのメイドさんは、決して演技などではなくて、心底ほっとしたように、その胸を撫で下ろしてくれる。  
 
「……どうも」  
 そんなわけでこのメイドさんは、三姉妹の次女、ひかりさんだった。  
「てる子ったら薬の量を間違えたみたいで、もう起きないんじゃないかと心配しました。姫菜さんは平気だって言うんですけど……」  
 ひかりさんは安心した顔をしてるけど、まだいくらか心配そうでもある。  
 この人のちょっとした優しさは、毎度のことだが結構嬉しい。  
「ああ、本当に大丈夫ですよ」  
 こういうのも慣れてる方だし。  
 良いものか悪いものかを考慮しなければ、ぼくはこの歳にしては、経験だけはそこそこ多い方だ。  
 自慢にならないものの方が、隠しておきたいものの方が、記憶から抹消してしまいたいものの方が、圧倒的に多いのが問題ではあるが。  
「そろそろお夕飯の時間ですけれど、お腹は空いてらっしゃいますか?」  
 壁に掛かってる大仰な白い時計を見ると、時刻は七時少し前を指し示している。  
「ペコペコです」  
 今時こんな表現する人いないよな、そう思いながら言うと、ひかりさんはにっこりと微笑んだ。  
「それではダイニングへお越しください。他の皆さんはもう席についておられます」  
「はぁ……」  
 他の皆さん、ね。  
 お腹は空いてるけど、正直、行きたくねぇなぁ。  
「お嬢様もあなたを待っておられますし」  
 行きたくねぇなぁ。  
「僕様ちゃんも、いーちゃんに付き合って何も食べてないから、お腹がペッコペコだよ。早く行こ。でもその前に、髪くくって」  
「……わかったよ」  
 こいつに言われてしまえば否応もない。  
 ぼくは腹を決めて、玖渚の髪をほどきにかかった。  
「いーちゃん、さんくー」  
 
 
 18  
 
 地獄の扉が、ゆっくりと開く。  
 ぼくの足取りは、クロロホルムのせいだけではなく、かなり重かった。  
「戯言だよなぁ……」  
 円卓。  
 二つの空席。  
 玖渚を座らせて、ぼくはその隣りに座る。  
 腰を落としながら、ぼくはぐるりと席についてる一同を、その一人一人を順番に見渡した。  
 誰が決めたわけではないが、この面子で食事をするときは、ぼくの席は暗黙の了解で、ラッキーナンバー七時の位置と決まってる。  
「…………」  
 ラッキーってなんだ? このメンバーでそんなもんがあるわきゃない。  
「どうかね? 身体の調子は? 頭はぼ〜〜っとはしてないか?」  
 どんな理由で七がラッキーなどと、どこのどいつが決めやがったのかと思ってたら、隣りの八時、赤音さんから話しかけられた。  
「大丈夫です。多少くらくらしますけど」  
 このおかしな状況に。  
「クロロホルムは注意した方がいい。あれはハマると、煙草なんて目じゃないくらい闇突きになるよ」  
「ぼくは使用したんじゃなくて、使用されたんですけどね」  
 十時の位置を見る。  
 てる子さんは視線に気づいてるだろうが、こちらを見る素振りすらない。  
 黒ぶちの眼鏡の向こうに、一体何を見ているのか、虚ろな瞳が覗いている。ピントのずれた、焦点の合ってない瞳。  
 いや……焦点が合ってないわけじゃない。  
 ぼくに焦点を合わせていないだけなのだろう。  
 とはいえ彼女のぼくに対する溜飲も、いくらかは下がってるはずだ。  
 腹部が絶妙な理、いやリズムで、こちらが忘れかけたのを見計らうようなタイミングで、しつこく丹念にズキズキしている。  
「赤音さんは、今日のこと知ってたんですか?」  
 物欲しそうにジ――ッと、食卓に並んでる料理を、いまかいまかと眺めてる玖渚友。  
 それをぼくは目の端で観察しながら、気になっていたことを、状況に驚いてる風もない赤音さんに訊いてみた。  
「ああ。勿論知ってたよ。さらに補足するなら、きみ以外は全員知ってる」  
「……おい」  
 おさげにした髪を引っ張る。  
「あうー」  
 玖渚は変な声を出して、料理からぼくへと視線を移した。  
「うに? なに? いーちゃん?」  
 ぼくが口元に手を当てて顔を近づけると、玖渚も小さな耳だけをすっと寄せてくる。  
 
「さっきは聞きそびれたけど、お前はいつから、今日のこと知ってたんだよ? そして、どうしてぼくに教えなかった?」  
 予め知っていたならば、ぼくは率先して学校の宿直をやったろうし、それが叶わなくとも、腹部に雑誌を入れるくらいは出来たのだ。  
「だから教えないようにって、あたしが玖渚ちゃんにお願いしたんだよ」  
 九時の位置。  
 嫌らしく不敵そうに、にやりと微笑んで、ぼくに占い師が、よく通る冷たい声をかけてくる。  
 内緒話。  
 そんなものは、この占い師の前にしては、あらゆるで無意味だ。  
 本人にはその気がなくとも、番組が視えてしまう彼女には、物語が見えてしまう彼女には、姫菜真姫には、あらゆる意味で無意味だ。  
「まともにきみを誘ったりしたら、ごねるのはわかってたからね」  
 真姫さんは言って手にしたワイングラスを、チョイッと、ぼくをからかうようにして、にやにやとしながら持ち上げる。  
「…………」  
 そして沈黙で応えるぼくを見て、尚一層笑みを深くしてから、ビールみたいに一気に喉へと流し込んだ。  
 いつも思うがこの人は、どんなお酒だろうが、変わらず同じペースで飲み干す。  
 序でにその感想も、あまり変わらない。  
「アルコールって本当に素晴らしい。嫌なこと全部忘れられるから」  
 ぼくの全身のパーツを売っても、おそらくは買えないだろうワインが、コルクを開けてからの、あまりに短すぎる生涯(?)を終えた。  
 何か蝉みたいである。  
 主に葡萄が原料の高級すぎる液体も、こうなってしまえば悲しいもんだ。  
「きみほどじゃないけどね」  
 首を傾げてひひひと笑う真姫さん。  
「…………」  
 魂底からとことん性格悪いなぁこの占い師。  
 ぼくは真姫さんから背けるように、視線を逆サイドに持っていくと、四時の位置、苦笑している深夜さんと目が合った。  
「俺も知ってたし、結構きみとは顔を会わせてるから、出来るんなら教えてやりたかったんだけど」  
 悪かったね、とでも言うように、片目をつぶってみせる。  
 大概のことは許されそうな、柔和な顔立ちと柔和そうな口ぶり。  
 無意識に、無為式に、人を苛立たせ、落ち着かなくさせる才能に、望まず長けてる身としては、いつも思うがひどく羨ましい。  
 四年前より随分とマシにはなったけど……。  
「……別にいいですよ」  
 ぼくは内心の感情を悟られぬよう、何気なくそう言いながら、深夜さんの隣り、五時の位置をそっと窺う。  
 かなみさんは物思うような、そいでいて何も考えていないような目で、豪奢に光り輝く巨大なシャンデリアを、ただ、見つめていた。  
 ぼくも釣られてシャンデリア見上げる。  
「………あ」  
 そして思い出した。  
 記憶力の悪さは、自他共に認めるほど、とても不本意だが定評があるのに、珍しいことに一発で脳内検索ができた。  
 
 確かかなみさんって《死の直前》の、果敢ないもんが、好きだったんじゃなかったけ?  
 シャンデリア。  
 はらはらと散る桜の花びら。  
「…………」  
 まさか。  
 オペラ座……なのか?  
 この島の主人の性格を考えれば、そのぐらいの、常識の外にあるイベントが、冗談抜きに用意されてそうだから油断できない。  
「通じるといいけどなぁ……あれは勿体無いよなぁ……」  
“はぁあーー”  
 大きなため息をつきながら、かなみさんは何かぶつぶつと、わけのわからない独り言を呟いてるのが聴こえる。  
 意味不明だった。  
 天才の呟くことは毎度だがよくわからない。  
 わからないので早々に、ぼくは思考のチャンネルを切り替え、説明など一切不要のものを、微動だにしない玖渚に倣って視界に収める。  
「…………」  
 平凡な表現で何ではあるが、こんなものはひねっての仕方ない。  
 ご自慢の作品群は、掛け値なしに美味そうだ。  
 三時の位置に座って、十一時の位置に座ってる玲さんと、料理について話す弥生さんが、ぼくにはどこか誇らしげに見える。  
“グウゥゥウウ〜〜〜〜”  
 おなかがいつかの、普通少女みたいに、何のひねりもなく普通に鳴った。  
「…………」  
 丸一日以上食べてない。  
 ぼくの空腹感もさすがに限界が近かった。  
「…………」  
 だからそろそろ、この人に触れないわけには、やはりいかないのだろう。どうしても……いかないのだろう。  
 赤神イリア。  
 この鴉の濡れ羽島の主人たるイリアさんは、瞼を閉じて、唇を微かに歪ませて、何だかとても愉しそうに笑っている。  
 嫌な予感が――した。  
 最後の料理を並べ終えて、一時と二時の位置に、あかりさんとひかりさんが腰を降ろす。  
 これで役者は揃ったというやつだ。  
 ゆっくりと焦らすかのように、イリアさんは目を開けると、ぼくがしたみたいに一同を、その一人一人を順番に見渡す。  
 ぼくと目が合ったとき、笑みが深くなったように見えたのは、気のせいであると信じたい。  
 
「今日は招きに応じてくださって、誠にありがとうございます」  
「…………」  
 ああいうのをお嬢様は、この筋金入りのお嬢様は、赤神イリアさんは、招きなんて言ちゃうんだ。  
 この人はまったくもって本当に素敵で素晴らしい。  
 どうも使っている言語が、イリアさんとぼく、相変わらず違うみたいである。  
「それでは皆さん、一日一番のお楽しみの時間と、洒落込みましょうか」  
 イリアさんは子供のように手を合わせて、  
「いただきます」  
 と言った。  
 この島だけが世界の全てなのだから、それはまあ当然なのかもしれないが、四年経っても、精神年齢にあまり進歩は無いようである。  
 それが可愛いと……言えなくもないんだけど。  
「言いたくはないな」  
「うに? いーちゃん、何か言った?」  
「可愛いって言ったんだよ」  
「さんくー。いーちゃんもカッコいいよん」  
「そりゃどうも」  
 両手に箸を持った姿でそんなことを言われても、イマイチどころかかなり説得力が足りない。……嬉しいは嬉しいけど、さ。  
 でもって。  
「ところであなた、いまは何でも、女子高生と――うはうはとか?」  
 それは《いきなり》という表現がぴったりだった。  
 イリアさんの歌うような音頭で乾杯をして(ぼくと玖渚はジュース)、そのグラスをまさに置いた瞬間である。  
 全員がイリアさんを見て、それから即座に、ざっと音をさせて、視線をぼくへと集めた。  
 え……?  
 いま何かさらりと、とんでもないことを、おっしゃりやがりませんでしたか? このお嬢様。  
 大体《うはうは》って何だよ……。  
 それは血統賞付きのお嬢様には、あまり相応しい言葉じゃないぞ。玲さんが目を見開いて、びっくりした顔をしているじゃないか。  
「夜の学校を連れ添って歩いたりとか、お弁当を一緒に食べたりとか」  
 ぼくは九時の位置をを睨む。  
 情報の発信元はどうせ、年中が南国気分の、酔っ払い超能力者に決まっていた。  
 もっとも、ぼくみたいな若僧が睨んだ程度じゃ、百戦錬磨の真姫さんは小揺るぎもしない。  
 どころか嫌らしそうに、にやにやしながら、目一杯グラスに注いだワインを、やはりビールみたいに楽しそうに飲んでいる。  
 
「バレンタインにチョコをもらったりとか、その女の子と同じ制服を着てたりとか」  
「あれれ? いーちゃん、遂にそっちの方向に目覚めちゃったんだ?」  
 それはどういう意味だ玖渚友。  
 皆の視線がドスドスと、容赦なく身体に突き刺さって、滅茶苦茶に痛い。確実にぼくはイタい人間だと思われてる。  
「前からだけどね。ちなみにいまきみのことを『コスプレ野郎』って、心の中で言った人がいるんだね」  
 ぼくは一時をさっと見た。  
 あかりさんがさっと逸らした。  
「…………」  
 ショックだった。  
「ああそれと、一人でこんな画を楽しんじゃ悪いから、かなみさんに絵に描いてもらったのが、これなんだね」  
 布の被せてあるカンバス。  
 五時の位置を窺うと、かなみさんは面倒そうに、興味なさそうに、だけどじっと、真姫さんが取り出したカンバスを見てる。  
 と。  
「えっ!?」  
 かなみさんがムール貝の磯蒸しを取った。  
 車椅子から自分の足で、しっかりと立ち上がって、ムール貝の磯蒸しを取った。  
 皆が絵へと集中した刹那の衝撃映像は、それこそぼく以外なら、真姫さんくらいしか見てはいないだろう。  
「んん? どしたのいーちゃん? そんなびっくりコンテスト優勝おめでとうみたいな顔して?」  
「……クララが立っ……いや、なんでもないよ」  
「はいは〜〜い。そこのお二人さん、こっちに注目なんだね」  
 真姫さんがばさっと布を取り去った。  
「タイトルはセーラー服を脱がさないで」  
 賭けたっていい。  
 このふざけたタイトル。  
 絶対にこのお気楽極楽占い師が付けてる。  
「わぁおっ!! いーちゃんすんごいカ〜〜ワイイ〜〜」  
 全然嬉しくない。  
 だけどそれは紛れもなく、見事なでき栄えだった。この距離でも、十分に分かる。頭じゃなくて身体が、愕然としているのが分かる。  
 見る者を選ぶようなものを、わたしは芸術とは呼ばない。  
 そう言われたのはいつだったろう。いつかの、かなみさんの台詞が、思い出された。  
 
「…………」  
 ……しかしこんな形では、思い出したくなかったなぁ。  
「うふふふ。いい絵じゃないか。きみ、本当に女の子だったらよかったのにな」  
 振り向きぼくに微笑む赤音さん。  
 手にしてるフォークには、ベルギー風うなぎのグリーンソース煮、それが丸々一尾突き刺さっていた。  
 何気にこの人も胃袋キャラ。  
「うん。こういうのを名画というんだろうね。見ていて惚れ惚れするよ。それでも――画家って職種は好きになれないけれど」  
 後半だけは小さな声で呟いて、赤音さんはまた絵に視線を戻す。  
 まるでその目は、絵に罪はないとでも、言いたそうだった。……いや、画家にも罪はないんだけどね。  
 と、まあそれはそれとして。  
 さりげなく見渡すと皆一様に、その浮かべている表情は様々だが、熱心に絵を見ている。  
「もう一つちなみに『きゅいぃい〜〜!! かわぴい〜〜!!』なんてことは、てる子さんは思ってないよ」  
 ぼくは十時をさっと見たりはしなかった。  
 そんなことをする必要はない。ぼくらの間にそんなものはいらない。同属意識。ぼくらは深い場所で通じ合っている。  
 おなかというよりは胃が猛烈に痛い。  
 けど。  
「…………」  
 なんなんだこりゃ?  
 このページをめくったら《犯人はヤス》って書かれてたみたいな、滅茶苦茶不意打ちの羞恥プレイ――どこまで続くんだ。  
 
 
 19  
 
 日本海の孤島から京都に戻ってきて、玖渚を城咲のマンションに送ったその帰り道。  
 疲れているとはいえ、もう夜も遅いとはいえ、京都に住んでいる人間が、市内でバスやタクシーを使うのは恥だと思ったが。  
「…………」  
 妙な意地などは張らずに、大人しく使っときゃよかった。  
 暗く人気のない道。  
 自動販売機の明かりに照らされている。  
 
「よう――俺の敵」  
 
 曲がり角を曲がったその先に――狐面の男がいた。  
「何を……してんですか?」  
 この人は出どころを心得ている。ここぞというところを――外さない。  
 でも今回に限っては、いくら狐面の男でも、運命や物語に、虚を突かれたんじゃなかろうか。  
 しゃがみ込んで釣銭口に、指を突っ込んでるその姿。  
「『何をしてんですか』ふん。そりゃお前、見たまんまのことだぜ」  
 見たくはなかった。  
 ってか、あんた一応ラスボス格なんだから、私生活もちゃんとしてくれよ。あんまり情けないと、正義の味方のぼくまで情けない。  
「それじゃ、何でそんなことしてんのか、まぁその事情を聞いておきましょうか」  
「いいだろう」  
 ゆらりと立ち上がる。  
 釣銭を探っていた男とは思えないくらい、その態度は当然のように偉そうだった。  
 この人、雰囲気だけなら、満点に近いんだけどなぁ。  
「寒さもかなり和らいできて、夜風が気持ちのいい最高の夜だ。ちょいとドライブにでも洒落込もうと、俺はクルマを走らせた」  
「ええ、それで?」  
「一時間ほどかな。そこでガスがないのに気づいて、俺はあっちこっちとスタンドを探し始めた」  
 狐面の男は《幽波紋じゃねぇぞ》、といらない台詞を吐いたが、勿論ぼくは、断固として聴こえないふりをする。  
「ええ、それで?」  
 無視して先を促した。  
「だが結局、ガスが切れる前にスタンドは見つからず、俺は仕方なく鴨川の辺りにクルマを捨てて、てめえの足で探して彼此二時間……」  
 そろそろいい歳なのに、この人、案外に体力あるんだなぁ。  
「ええ、それで?」  
「しかし、それでも一向に見つからねぇ」  
 きっと狐面の男とスタンドの縁が、絶対的に切れてたんだろう。  
 ぼくは適当にそう思った。  
 
「仕方ねぇから、タクシーを拾って帰ろうとしたんだが、懐をいくら探っても財布がねぇ、ついでに携帯までないときてやがる」  
「ええ、それで?」  
 入れる合いの手が、かなり、どうでもよくなってきたのは、決して気のせいだけじゃない。  
「さすがに小銭程度はあったんで、なら公衆電話だと探したが、最近はスタンド以上に、電話ボックスを探すのは至難の業だ」  
「ええ、それで?」  
 いい加減ここまで付き合えば、《帰ってもいいだろう》、そんな風に心のどこかで囁く、もう一人のぼくの声がはっきりと聴こえた。  
「まずは腹ごしらえだと、目に付いたコンビニに立ち寄ったんだが」  
「いや、小銭しかないんですよね?」  
「うん? ああ、その点についちゃ問題ねぇよ。俺だって馬鹿じゃねぇんだ。手持ちは二百四十円。肉まん食っても釣りがくらぁ」  
「はぁ……」  
 そんなに威張らないでほしい。  
 大人の所持金が二百四十円って、狐さん、かなり恥ずかしいことなんですよ。  
「そいで揚々とコンビニに入ったんだが、やはり、というより、こんなのはいまさらだが、運命や物語はまざまざと存在する」  
「ええ、それで?」  
 ぼくもおなかが減ってきた。  
 中年の戯言を早々に切り上げて、とっとと塔アパートに帰りたい。  
「すっかり、否、うっかり忘れていたが、今日はサンデーの発売日だったんだな」  
「……ええ……それで?」  
 いま気づいた。  
 狐さんが小脇に抱えている本、あれは一体全体何だろうか? そしてサンデーの値段は確か、二百四十円じゃなかったっけ?  
「買っても買わなくても――」  
 ぼくの視線に気づいたのか、小脇にしていた本を、すっと狐さんは差し出してくる。  
「それは同じこと」  
 表紙は美少女じゃない名探偵だった。  
「あんた、本当に何にも考えてないだろ?」  
 全然まったく同じじゃない。  
 せめて十円でも残ってればまだしも、手持ちの心許ない全財産、それを綺麗に使い切ってどうする。  
「……大体の事情はわかりました。とりあえず、木の実さんと連絡取りますから、そういう真似は、だからもうやめてください」  
 やるせない。  
 こんな人と一生付き合っていくのかと思うと、自分という人間が、ひどくいたたまれず、そして可哀想になってきた。  
「木の実を呼ぶのか?」  
「他に引き取り手がいないでしょ?」  
 血の繋がった身内ではあっても、哀川さんは、絶対に引き取ってくれそうもないし。  
 故意に恋して濃いになる。  
 恐るべきステータス異常から、まるで回復する兆しもない彼女、一里塚木の実さんに、ここは迎えに来てもらうしかあるまい。  
 
「だけどよ俺の敵。若作りだがこれで俺だって、もう結構なおっさんだぜ?」  
「ええ、それで?」  
 言いつつメモリーから、木の実さんの名前を探す。  
 ぼくは機械には滅法弱いので、グループわけとかはまったくしてない。  
 順番もランダム。  
 元々がそんなに数はないが、探すのはそこそこ面倒である。  
「そのおっさんがお前、帰れないから迎えに来てくれってのは、ふん、中々に恥ずかしいものがあるな」  
「気づいてもらえまし――」  
 やっと木の実さんの名前を見つけ、ボタンを押そうとしたそのとき、ぼくの視界の端を、何かが物凄いスピードで動いた。  
 ぼくが来たのとは反対側の曲がり角。  
 曲がろうとしたんだろうが、ぼくらを見つけてか、慌てて身体を引っ込めたみたいである。  
「…………」  
「どうした?」  
「……何だか怪しい人影が……」  
「俺はここにいたが?」  
「いや、狐さんじゃなくて」  
 自分が怪しいって自覚はあるんだな。  
「そこにいるんだろ? 出て来いよ――人間失格」  
「ほう? いるのか?」  
 それでもしばらくそいつは、じっと息を潜めていたが、狐さんはともかくとして、ぼくにはそんなこと無駄だと観念したらしい。  
 代理品。  
 奴が《陰身の濡衣》に匹敵するだけの、気配を絶つ技術を持っていても、そんなのはそれこそ同じことだ。  
「よう――欠陥製品。今夜は可笑しな奴とツルんでんじゃねぇか」  
 いつものことだけどさ。  
 そう、余計なことを言ってから、零崎はとてとてと歩いて、悪びれもせずに、ぼくと狐さんの前にその姿を現す。  
 毎度お馴染みの殺人鬼。  
「…………」  
 こいつもしかして、京都に定住してるんだろうか?  
 とてもエンカウント率が高い。  
 別れるときはいつも決まり文句のように《二度と会うことはない》、互いに言ってはいるが、週に一度は約束なしで会っている。  
 しかしまあ、京都の治安も、どうりで年々悪くなるわけだ。  
 これでもかと奇人変人大集合である。  
 最近は少し、いや、かなりお疲れ気味の女刑事さん。  
 年中消耗戦を繰り広げている沙咲さんに、この二人を紹介したなら、いくばくかは、失った元気を取り戻してもらえるだろうか?  
 
「お前いまさらりと、ひでぇこと考えたろ?」  
 零崎がジト目になってる。  
「まさか。超楽しいとか、マジ楽しいとかは、まだ何とかついていけたけど、鬼楽しいは無理だなって思っただけさ」  
 ぼくは零崎から視線を逸らして、誤魔化すみたいに狐さんを見た。  
「くっくっくっく……」  
 思わせぶりに笑っていた。  
「…………」  
 でも多分意味なんてない。  
 この人はそういう人だ。いつだって何も考えちゃいない。そのくせ引っ掻き回すのは、ぼく以上に巧いときているから厄介だ。  
 本当に。  
 嫌になるくらい。  
「こうして因縁浅からぬ三人が、雁首を揃えたのも何かの縁…………よし、これからどっか呑みにでも行くか?」  
「すいませんが狐さん、ちょっと黙っててください」  
 何がよしだ。  
 そもそもあんた文無しだろうが。  
「ああ、それじゃさ――」  
「何だ人間失格。お前また律儀にキャラを守って、ここでおなかが減ったとか、まさか言い出すつもりなのか?」  
「何だ欠陥製品。お前目が怖いぞ。そうじゃなくて……いや、まぁそうなんだけど……」  
 よくわからないことを言いながら、零崎は自分が来た曲がり角の奥を見る。  
「縁が合ったのは三人じゃねぇんだ。 さっきぶらぶらと、吉野家かすき家か考えて歩ってたら、偶然にも運命の再会しちゃってさ」  
「あ」  
 親の不始末は娘の不始末。  
 こちらも出どころを外さない。  
 その人はゆっくりと、その圧倒的な存在感と、絶対的な赤色を現した。――滅茶苦茶嫌そうな顔で。  
「よう――いーたん。零崎くんと台詞がカブって何だけど、あたしも言っとくわ、今夜は可笑しな奴とツルんでんじゃねぇか」  
 そう言いながら哀川さんは、ぼくではなく狐さんを見ていた。  
 だがその視線には、まるで気づいないかのように、狐さんはにやりと、愉しげに笑いながらぼくを見る。  
 お面を被ってはいても、何故か確信を持って、それがはっきりとわかった。  
「財布が来たな。これで金の心配をする必要はねぇ」  
「ああ? 何言ってんだクソ親父」  
 凄む哀川潤。  
 ぼくには関係ないのにすげぇ怖い。  
 
「さてどこに行くか? 俺の行きつけの店は、ここからだとちょいと遠いしなぁ」  
「てめぇ聞けよっ!!」  
 顔まで赤くしている娘の怒声もどこ吹く風で、父親の思考はすでに、どうするかと呑みに行く店のセレクトに入ってる。  
 人類最強を子供扱い。――いや、まぁ子供なんだけどさ。  
 しかし、  
 狐面の男。  
 哀川潤。  
 零崎人識。  
 お面を被った着流しの中年に、美人だけど目つきの悪いど派手な赤色のお姉さん、それに顔面刺青の通り魔少年。  
 うん。  
 濃いメンバーが集まった。一般人がぼくしかいない。  
 店員の引きつった顔が目に浮かぶ。  
「いーたん、その肩書きはお前、とっくのとうで無理があるだろ? 諦めてもう認めめちまえよ。お前は胸を張っていい立派な変態だ」  
 心を読まれたらしい。  
 哀川さんが愉しげに声をかけてくる。  
 それは本人に言ったら間違いなく怒るだろうから、一生の内緒だけど、父親が持っている雰囲気にとてもよく似ていた。  
「全然似てねぇよ」  
 強烈な重力を感じる声音。  
 心を読まれたらしい。  
 墓まで持っていこうとした秘密が、僅か一秒足らずで見破られてしまった。  
 とはいえ哀川さんに対すれば、ぼく如き小ざかしい《戯言遣い》の決意などは、まぁ大体こんなもんだろう。  
「なぁ、まだ店決まんねぇのかなぁ?」  
 声に振り向くと零崎が、座り込んでおなかを撫でてる。  
 殺人鬼は行く気満々みたいだ。  
 そういやこいつは、金、いくら持ってるんだろうか? とは言っても今日のところは、哀川さんの奢りになるんだろうけど、さ。  
「潤、知ってる店はこの辺にないのか?」  
「何であたしがオキニの店を、お前に教えなきゃいけねんだよっ!!」  
 親子喧嘩が終わる気配がない。  
 どころか段々とヒートアップしているみたいである。まだまだ零崎が食欲を満たすまで時間が掛かりそうだ  
「堅いこと言うなよ。お前に酒を教えてやったのは俺だぞ」  
「…………」  
 あれ? 二人が袂を分かったとき、潤さんって何歳くらいだったけかな?  
 何にしても昔から狐さん、ろくな父親ではなかったみたいである。これこそわかりきっていまさらだけど。  
 
「…………」  
 それにしても、狐さんの台詞じゃないが、吹いてくる夜風が堪らなく気持ちがいい。  
 反転文字の玖渚仕様の時計を見ると、日付がちょうど変わるところだった。  
 しっかし自販機の前でこんなにダベるって、まるで春休みで浮かれてる高校生みたいである。……こんなのも……たまには悪くない。  
「傑作だな」  
「戯言だろ」  
 零崎は笑い、ぼくも微かに笑った。  
 

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