22
驚くには値しない。
こうなるだろうことは誰にでも、そう、あの性悪の占い師でなくとも、少し想像力を働かせれば、容易に見えたはずだ。
わからないなら《怠けてんじゃねぇっ!!》、などと言われても、これはもう致し方ない。
だからぼくは振り返らなかった。
粛々とグラブを上げると、わざわざゆっくり回ってるとしか思えないバッターを無視して、キャッチャーに新しいボールを要求する。
「うん?」
「…………」
だがぼくなんかとは、比べるのもおこがましいくらい聡い彼女は、立ち上がって、ボールの飛んだだろう方向を見ていた。
振り返る。
打球の飛んだ方向ではなく、子荻ちゃんの視線を追って、首だけで後ろを振り返る。
「……ああ」
そういうことか。
哀川さんのかっ飛ばした特大のホームラン。
その着弾点はおそらくあそこだ。
職員棟の最上階。
飛距離はどんなもんだろう?
学園長室の窓が派手に割れていた。
打席に立ったとき、哀川さんがぴたりとバットで指した意味は、予告ホームランもあるが、どうもそこに打つということだったらしい。
学園長の趣味は人に嫌がられることらしいけど、その友人である哀川さんも、その辺は何だか似たり寄ったりだった。
「仲がいいのやら悪いのやら」
わかったようなことを言って、ぼくはゆっくりと振り返る。
「…………」
子荻ちゃんはまだじっと見ていた。
特定の目的を持たず、常に最善最良の手段を選んで策戦を遂行する。
そんな風なとてもクールな印象だが、そしてそうなのだが、これでかなり母親想いの娘なのだ。
ぼくの知り合いでは珍しく家庭内円満。
別段それが羨ましいとは思わないが、出来ればこのままでいってほしいね。
「ホームインッ、と」
最後の一歩をぴょんっと跳ねて、グラウンドを悠然と一周してきた、この赤い人みたいに、世界中を巻き込んだ親子喧嘩は勘弁だ。
「…………」
ま、この親子も四年前からは、それなりに上手くはいってるみたいだけど、さ。
人ん家のことだから、勿論深くは突っ込まない。
「騒ぐな騒ぐな小娘ども」
その哀川さんは随分とまた上機嫌である。
さっきチームメイトになったばかりの、姫ちゃん始めとした生徒達の頭を、かいぐりかいぐりくしゃくしゃしてる。
「…………」
いきなり授業に乱入して《あたしチームといーたんチームで対戦しようぜ》、そう言われたときは全員、ぽか〜〜っんとしてたけど。
姉御肌。
若い娘には哀川さんみたいなキャラは受けがいいらしい。
すっかりと短い時間で馴染んでいた。
当然のように一年生チームを率いているのは哀川さん。
必然のように三年生チームを率いているのは(ぼくではなく)子荻ちゃん。
只今六回表の一年生チームの攻撃、哀川さんの三度目の打席で三点目。
ちなみに一年生チームの得点は全て、DHである(守備までされたらゲームにならない)哀川さんのソロホームラン。
こちらは子荻ちゃんとぼくのタイムリーヒット。
一年生チームのピッチャーは姫ちゃんだが、目をつぶって適当に振ったバットが、今日に限っては滅茶苦茶良く当たっていた。
四対五。
意外にいい勝負になってる。
「先生」
「うん」
子荻ちゃんは新しいボールを、丁寧に二、三度擦ってから、手持ち無沙汰で待っていたぼくに投げて寄こした。
ここまで哀川さん以外は綺麗に零封。
ひとえにそれは女房役の、絶妙の配球に拠るものである。
ぼくの打ちごろのへろへろ球は、びっくりするくらい、ダブルプレーの山を築いていた。
と。
以上がここまでの状況説明である。
「さて」
それじゃ。
どうしようか?
要するにこの試合の見せ場は、盛り上がるのは、物語で言うところの、主要登場人物のシーンしかない。
ってわけで。
だらだら明記するのもなんだから。
“………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………”
「ここですよ」
マウンドまで上がってきた子荻ちゃんが、ポンッと、力づけるようにぼくにボールを手渡す。
色々はっしょっての九回表。
四対五で変わらず、何とかぼくらは、一点のリード守っていた。
バッターボックスに鵜鷺ちゃん。
「敬遠しましょう」
「でも次は――」
ネクストサークルには哀川さん。
にやにやと愉しそうにこっちを見ている。
「ええ。わかってます。ですから、こんな策はどうでしょうか?」
キャッチャーミットで口元を隠して、子荻ちゃんはすっと唇を寄せてきた。
耳朶にかかる吐息。
バッテリーの相談。
それは野球の光景としては、珍しくも何ともないが、可愛い女の子が相手だと、これが結構どきどきするもんである。
「――です」
子荻ちゃんの献策は短く簡潔だった。
「正々堂々真っ向から不意討ってご覧に入れましょう」
「……オーケー」
なるほど。
それならば確かに《人類最強の請負人》でも絶無で手の出しようがない。
立ち上がったままの子荻ちゃんと、力ないキャッチボールを、テンポ良く四球続けて、ぼくはいよいよ赤い最強打者を迎える。
その哀川さんは肩にバットを担いで、何か子荻ちゃんと喋っていた。
「てっきりま〜〜た敬遠でもすんかと思ったぜ」
子荻ちゃんから確認を取ったらしい。
哀川さんは満足そうに、極上の微笑を浮かべて、ぴたりと、狙いを定めるようにバットをぼくに向ける。
怖ぇよ。
「それで痛い目見てますからね」
敬遠は一度試みてる。
一塁側ベンチに向かって投げたのに、九メートルはジャンプして、あっさりと、ピンポン玉みたいにかっ飛ばしやがったからな。
世界記録って何メートルだっけ?
とにかく敬遠すらも、この人相手には許されない。
「哀川さん」
「潤」
言いつつ哀川さんは視線を、にこやかに、でもその眼は全然笑ってなくて、ぼくの眉間の辺りにバットを固定する。
「今度言ったらボール、顔にぶち込むからな」
「……潤さん、ここで潤さんがホームランを打てなかったら、それでぼくらの勝ちってのはどうです?」
「あん?」
「授業時間もそろそろ終わりですし」
それに延長戦なんてしたくないし。
何故ぼくが投げてるのか疑問だし。
「…………」
ま、これは九回まで投げといていまさらだけど。
「ここまで予想外に盛り上がってるんです。だったらこれを、このシーンを、最後のクライマックスにしたいじゃないですか」
戯言まみれだな。
言ってて恥ずかしくなってくる。
「ふふん」
哀川さんはぼくではなく、マスクを被って座る子荻ちゃんを見た。
「いいね〜〜いいね〜〜。そういうの嫌いじゃないぜ。裏あんのはモロバレだが、お膳立てもしてくれたし、ここはあえて乗ってやるよ」
にこにこして哀川さんはバットを構える。
こういうところ、何だか単純というか、子供みたいな人だ。
「…………」
でもまいったなぁ。
こうも簡単に乗ってくるとは。
子荻ちゃんの策には、一分の隙もないだけに、完璧に巧くいくだけに、ノリノリなだけに、それだけに……滅茶苦茶後が怖いです。
「さあ来いっ!!」
でももう後には引けない。
鵜鷺ちゃんを一度見てから、ぼくは覚悟を決めると、思考を停止させると、諦めの境地になると、セットポジションで脚を振り上げた。
「…………」
そしてしばし停止。
念のために脚の上げ下ろしを、二、三度ゆっくりと、アピールするみたいに繰り返す。
「こんなもんでいいかな?」
「ええ。ばっちりです先生」
応えてくれてのは言いだしっぺの子荻ちゃん。
ぼくが頑張って視界から、極力消そうとしてはいる不機嫌な赤色にも、怯えた様子も畏れた様子も、まるでまったく一切合切ない。
哀川さんに一言。
「ボークです」
堂々といい切る。それは不屈――いや、むしろ不遜だった。
「……やってくれんじゃん、策師っ娘」
「あなたに投げたら、その瞬間に負けですから」
にやり、と笑う子荻ちゃん。してやったりといった感じだ。
「お姉さん、こりゃ一本取られちゃたなぁ」
にやり、と似てはいるが意味の違う、尊大な笑みを返す哀川さん。
二人ともたったのそれだけで、極めて侵し難い、大物の雰囲気を醸し出していた。
「…………」
こっちとは大分違うな。
「ししょお〜〜!! あんたあれだけ煽っておいて、そんなんでいいと思ってるですかぁ? あんたオトコじゃねぇですよっ!!」
「黙れ。勝負は勝てばいいんだ」
「ロマンとかねぇですかっ!!」
ぼくと姫ちゃん。
かなりの小物ちっく。
「そういうのを負け犬の遠吠えと言うんだ、覚えておけ我が弟子よ。今日は一つ賢くなれた」
「キェ〜〜〜〜!!」
マウンドに猛然と泣きながら突進してくる姫ちゃん。泣くことないだろに。これじゃぼくが悪者みたいじゃないか。
姫ちゃんがグーで殴りかかるのと、チャイムの音は同時だった。
23
ぱたんっと、読んでいた本を閉じる。
待ち合わせ場所の京都御苑。
先に来てベンチに腰を降ろしていた彼女は、後から来たぼくを、ゆっくりと首を巡らし仰ぎ見た。
表情は不機嫌。
でも、
「待たせちゃったか?」
興味なさそうに、関心なさそうに、どうでもよさそうに、ふるふると彼女は首を振る。
怒らせた。
と。
彼女を知りもしない人ならきっと思うだろう。
でもそうじゃない。
そうじゃないが、これは彼女に限らずで、あのアパートに住んでる人達は皆、一見さんに心中を図れというのは不可能だ。
不機嫌な表情。
だけどその瞳の奥をじっと見る。
「…………」
笑っていた。
世界を壊しそうな妖しい輝きを放って、彼女の瞳は愉しそうに笑っていた。
吸い込まれそうになる。
「…………」
て。
危ない危ない。
慣れてるからって油断してたら、それはとんでもないことになる。
親しくなってもやはり魔女は魔女だ。
取り扱い注意である。
さりげなくも何ともないが、ぼくはふいっと目を逸らすと、腕にしてるアナログ時計を見た。
「まだ三十分も前だけど、随分と早く来たんだな」
「…………」
訊いても彼女は何も答えてくれない。
答えてはくれずに、さっきぼくがしたみたいに、ふいっと目を逸らすと、ベンチを立ってすたすたと歩き出す。
まるで逃げてるみたいだった。
「おいおい、一体どこに行く気なんだよ」
ぼくがその背中に声をかけると、彼女は振り向きもせず、手に握っているものをひらひらとさせる。
それは映画のチケットみたいだった。
駆け寄って隣に並ぶ。
「ポセイドン・アドベンチャー?」
こくんっ、と頷いて、それ以上彼女は何も言わなかった。
「これって確かもうじき、リメイク版が公開なんじゃなかったけ?」
ぼくの記憶力は勿論怪しいが、今朝見たばかりのテレビの内容くらいは、何ぼなんでもさすがに覚えてる。
そしてそれは間違ってなかったみたいだ。
こくんっ、とまた小さく彼女は、前を真っ直ぐ見たままで頷く。
キャラにない幼い仕草。
「…………」
間違えて、思ってしまった。
可愛いじゃん。
「……ま、リメイクを観る前に、もう一回、オリジナルを観とくのもいいかな」
ぼくも前だけを真っ直ぐ見て歩く。
アイコンタクト。
そんな言葉があるけれど、そんなものすら、ぼくたち二人の間にはいらない。
そんなものがなくとも、ぼくと彼女は、もっと深い部分で、もっと根源の部分で、絶対絶無で通じ合っている。――なぁんてね。
「戯言まみれだな」
異常終了。
七々見奈波と過ごす休日の一コマでした。
24
夕立だろう。
窓の外では突然の雨がアスファルトを叩き、視界を覆わんばかりに白い水煙を上げていた。
梅雨明け宣言をされようが何だろうが、《雨》は《降る》。
容赦なく降る。
天気予報なんてものは当てになりゃしない。
さっきまではカラッと晴れていても、たとえ傘を持っていなくても、あとちょっとでホテルだったとしても、問答無用で降る。
つまり運命に対して人間ができることは、備えあれば憂いなし、ということぐらいらしい。
因果。
ぼくは外の景色をぼんやりと眺めながら、何となくそんなことを考えてみた。
「ふうん。……夕立、夕立、ゆーうーだーち。この時間に振るだろうということを、私はあらかじめ予測していました」
「そうですか」
まぁ、今更何も言うまい。
二人の着ている服から、ポタポタと雫が垂れてる。
喫茶店のガラスに映った木ヶ峰助教授と、その隣りにちょこんと腰掛けてる年齢不詳の少女は、頭の天辺から爪先まで濡れ鼠だった。
「あらかじめ予測していました」
「……そうですか」
あんた、やっぱ適当に言ってるだろ。
何も言うまいと思っていたが、思考ばかりは止められない。
「いっきー。教養というのは育ちが大いに必要だけど、礼儀というのは心掛け次第なのだから、ちゃんとこっちを見て話しなさい」
気の抜けた炭酸のような、相変わらずやる気のなさそうな声。
蒸し蒸しとした京都の夏には一層堪える。
人にはそう言っておきながら、朽葉ちゃんの視線は、コーヒーカップにと落とされていて、こっちを見ようとする素振りすらもない。
ちなみにぼくは、これでも結構、礼節を守っているつもりだ。
あまりいまの二人を、一応はオトコであるぼくが、じろじろと見るべきではないだろうと思う。
木ヶ峰助教授も朽葉ちゃんも、そういうことを気にしない人達なのかもしれないが、ぼくなど気にするまでもないのかもしれないが。
頼むから気にしろよ。
うっすらとだけど透けてんです服が。
「最近は何か、面白いことなどありましたか?」
愉快そうに木ヶ峰助教授が唇を歪めているのが、ぼくにはわざわざガラスを見なくともわかる。
勿論、ぼくらが通じ合っているからではなく、単純に慣れの問題だ。
「いえ、特には」
こうして二人に会うのは、だいたいそう、二月に一度といったところか。
会うたびに必ず訊かれるのが、この質問なわけである。
「私が調べたところによると、あなたはつい最近だけでも、かなりの面白い目に合っているようですね」
木ヶ峰助教授は相変わらずだった。
人の話など右から左で、まるで聞いちゃいない。
「いつも不景気な顔してる癖に」
「どうも」
本当にいつもいつも、木ヶ峰約助教授、さり気に失礼な人だった。
「しかし、その輪の中に私がいないというのは、一体全体どういうことなのか、そんなことが許されてもいいのか、いや、そんなことが
あってはならない、決してそんなこと私は許さない、許さない、許さない。ゆーるーさーなーい」
ぼくの眼に長い人差し指をびしっと、突き刺しそうにしながら、木ヶ峰助教授は高らかに宣言する。
周りに人など誰もいないかのように。
周りに人はしっかりと大勢いるのに。
「…………」
窓ガラスに映る朽葉ちゃんは、我関せずと、同じテーブルに着いてるのに、他人のふりでもするように、悠然とコーヒーを啜っている。
慣れたもんだ。
でもぼくは慣れるほどには、こんな経験をしたくはないけどね。
どうでもいいといえば、どうでもいいのだけど、店内にいる人達の、ガラス越しの視線が程よくちくちくと鬱陶しい。
「そこでやはり思うのですが、面白いことというのは、待っているだけでは決してやっては来ない」
突きつけていた指を、ぐっと胸元に引き寄せると、木ヶ峰助教授は遠くを見た。
「運命とは自分で切り開くもの。座して待つなどということは、私にはできようはずがない。それは運命に恭順し迎合することと同意」
G線上のアリア。
ぼくが映画の音響担当で、この女優さんでこのシーンなら、この曲をきっと挿入するだろう。
要するにちょっとだけ、いや大分、《戯言遣い》はかったるくなってきていた。
まるでロボットみたいな印象の彼女。
心など搭載されていなさそうな彼女。
終わりなどないのに続いていた彼女。
四年間付き合ってみてわかったが、こんなんでもかなりのナルシスト、一切のアルコール抜きで酔える人である。
――自分に。
でもそうすると朽葉ちゃんのポジションは、実験体などではなく、少々辛口過ぎな評論家といったところなのかもしれない。
それはとても重要な役どころだ。
放っておくと小難しいこと並べて、何がテーマなのかわからない、勝手に自己完結してる映画が最近、特に日本映画には多いからな。
勿論詰まらないし。
オマケに金と時間を払った過去の自分に、滅茶苦茶呆れて自己嫌悪してしまうし。
後悔している間は正しい自分でいられるから。
「いわば因果に対する反逆。実存する運命に対する革命、来る必然を迎え撃つ独立せ――」
「先生、それはそれとして」
慣れたもんだ。
「何ですか朽葉?」
すくっと立ち上がって気持ちよく、半ば以上トリッぷしていた木ヶ峰助教授だが、強引なカットに気を悪くした風もなく席に座る。
「例のお話をそろそろなさってはどうでしょう?」
「ん? ああ、そうですね」
え? 何ですか? ここからが本題なのですか? そりゃまたすげえ長い前ふりだなぁ。
「あなたの知り合いを二、三人誘って、この夏の間にでも、私の研究室に遊びに来ませんか? ……ふふっ。きっと面白いですよ」
言って木ヶ峰助教授は、唇を笑みの形に歪めた。
一方で朽葉ちゃんはというと、カップで顔半分を隠してはいるものの、その眼は十二分以上にに含みたっぷりである。
あの辺りは京都とはいっても郊外で、避暑地としては悪くはない。
「…………」
だが何なのだろうか。
まだ行ってもいないのに、行くかどうかもわからないのに、背筋が随分と涼しくなってきた。
「今年の夏は退屈せずに済みそうですね。退屈、退屈、たーいーくーつ。ふふふっ……まったく愉しくなりそうですね」
いや、だからさ、まだ行くかどうか、微塵も決めてねぇよ。
「諦めなさいないっきー。あんたはそういう運命よ」
朽葉ちゃんは断定口調だった。
「《生きてれば》、妥協も必要だとは思わない?」
「……《死んでない》だけなら、そうなのかもね」
とはいえ運命は甘くない。
ぼくは朽葉ちゃんと睨むみたいに見つめ合いながら、誰だったら一緒に行ってくれるだろうと考えていた。