25
足の裏がぬるぬるして気持ち悪い。
プールの中で一年もの間、丹念に培養された苔だろう。
「…………」
梯子を伝って水のない床に降りたぼくは、デッキブラシを肩に担いで、辺りをぐるりと大仰に見回した。
「…………」
プール開きまで今日を入れても後二日しかない。
失敗した。
こんなのだとあらかじめ知っていれば、体育の授業に託けて、クラス総動員で一気にやってしまってたのになぁ。
広い。
五十メートルのコース八本って、一体どこのオリンピック会場なんだよ。
一人で掃除しなければいけなかったのかと思うと、それだけで何だか、夏の暑さもあってくらくらしてくる。
良かった。
暇人が捉まって、それも土曜だというのに三人も捉まって、本当に本当に良かった。
と。
“ふわぁ……”
そんな感じで小さな人影が、ぼくの頭を飛び越して、目の前に、ぬめる床などないかのように、見事なバランスで着地した。
「姫ちゃん」
“ふわぁ……”
に、続くように、やはり小さな人影が、ぼくの頭の上をを飛び越す。
ん? でもそこにはいま、
「にゃぎ〜〜!?」
玉藻ちゃんは豪快に姫ちゃんにダイブした形になり、二人仲良くもつれ合って、ぬめる床にとすっ転んだ。
額と額がぶつかって、ゴズゥと、何か鈍い音が聴こえたりする。
「やれやれ」
頭を押さえて蹲る二人を、助けようと一瞬だけ仏心を起こしたぼくだが、二瞬には、二次災害を恐れて見なかったふりをした。
代わりに頭の上を見上げる。
「何ですか?」
「いや、この位置からだと子荻ちゃん、余計に大きく感じるな、て思ってね」
「はい?」
「うん。その説明はまた今度にでもする」
そこでずっこけられたりすると、ちょっとばかり危ないからさ。
「はぁ?」
ぼくのいまいち要領を得ない返答に、子荻ちゃんは軽く小首を傾げると、後輩二人のようにジャンプで頭を飛び越したりはせずに、
梯子を伝ってゆっくりと、ぬるぬるに汚れた床にと降りてくる。
頭をさすりながら立ち上がった二人と並んだ。
ちなみに三人とも体操着。
ちなみに子荻ちゃんの着ているのは、新しく購買部で買ったものである。
「さてそれじゃそろそ――」
「その前に師匠ぅ」
「何? 姫ちゃん」
「約束覚えてるですか?」
「ん?」
「プール掃除を手伝ったら」
「んー」
「補習を失くすって」
「ん?」
「どっか遊びに連れてってくれるって」
「んー」
「あんたいつもいつも、嘘で塗り固めた人生ですかぁ!!」
「ん?」
早くも弟子は涙目だった。
若いのに涙腺緩いなぁ。
感情豊かに育って結構なことだ。
「おいおい姫ちゃん、滅多なこと言うもんじゃない。ちゃ〜〜んとどこにでも連れてくさ。どんと任せて大船に乗った気でいろって」
「その名はタイタニックですかっ!!」
「この夏は一生忘れられない思い出になるぞ」
「そんなのは思い出じゃねぇ!! トラウマって言うですよっ!!」
姫ちゃんは身体をまだまったく動かしてもないのに、すでに叫び過ぎて、ゼエハァゼェハァと肩で息をしている。
やはりスタミナはない。
「で、子荻ちゃんと玉藻ちゃんはいいのかな?」
ぼくは呼吸を整えてる姫ちゃんから、隣りに立っている、予想外の助っ人二人に視線を移した。
腕を組んで周りを見回してる子荻ちゃん。
左右に頭をふるふる振ってる玉藻ちゃん。
楽しい夏休み。
その予定の三分の一は、すでにぼくと教室で過ごすのが決定している姫ちゃんに負けず劣らずで、この二人もかなり学校好きらしい。
見かけたのは偶々の偶然である。
姫ちゃんの待つ二年生のエリアへと、三年生のエリアを通った途中、
何故か教室で《少女病》を読んでる子荻ちゃん。
何故かそれを正座をして眺めている玉藻ちゃん。
ああ、この二人は滅茶苦茶暇なんだな、と、ぼくにはすぐにわかった。……いや、まぁ、誰にでもわかるか。
「京都郊外の山ん中だけど」
「……別にどこであっても、わたしは構いません」
「そう」
台詞からは窺えないが、多分、喜んでくれてるんだろう。
落ち着けようと努力しているような声にも、どうにもならない顔の表情にも、色を付けるなら赤色が、うっすらとだが付いていた。
「策戦や強化合宿以外で遠出するの、実はわたし、初めての経験なんです」
「そう」
わかり辛いがどうも子荻ちゃん、遠足の前は興奮して眠れない、というタイプらしい。
案外に子供っぽい部分の残ってる娘だ。
「…………」
でもだったら《きゃるぅ〜〜〜んダ〜〜リン、子荻メチャメチャ嬉しいだっちゃっ。きゃはっ☆》、このくらいやってほしいけれど。
「…………」
しかしそこまでイッたらもう、避暑地よりも先に病院に行くべきだろう。
「玉藻ちゃんは?」
「ゆらーりぃ……ゆらぁりぃ…………、えっと、んーーっと、ああ……何でもいいですよ、面倒だから、先生にお任せします」
「そう」
自分の予定だというのに、ここまで自主性のなさ過ぎるのもどうかとは思うが、いきなり玉藻ちゃんにそれを求めるのも詮無い。
「…………」
それに焦って手に入れる必要もないさ。
少しずつゆっくりと表現できるように成れればいい。
――成れたらいい。
ぼくは特に何も考えずに、くしゃくしゃと、玉藻ちゃんの小さな頭を撫でた。
少女は刹那だけ驚いた顔をする。
「ゆらぁりぃ……ゆらーりぃ…………」
だけどその不躾な手を、払いのけたりはしなかった。
大人しく撫でられている。
その玉藻ちゃんの小さな背中の後ろを、やはり小さな姫ちゃんが、何か言いたそうな眼をしながら、うろうろとうろうろとしていた。
何だろう?
「よし、そいじゃ適当に散らばって、そろそろ始めようか」
わからない。
なのでとりあえず、当初の予定通りに、時間もそれほどないので、プール掃除をとっととすることにした。
各々適当に散っていく。
「乙女心のわからん師匠ですぅ」
横を通り過ぎるとき、姫ちゃんにぼそっと言われた。
「ふうん?」
本当に何だろう? まったく持ってぼくには、この年頃がまるで全然わからない。
ましてや女の子の気持ちなど、ぼくにわかるわけがない。
もっともそれは女の子に限らずで、ぼくには誰の気持ちであれわかりはしないが。姫ちゃんのリボンを見つめながらそう思った。
て
「前にもこんなことが、あったような、なかったような……」
デェジャヴュ?
などと考え思い出しながら三時間後。
光を照り返す水面が眩しい。
上の空でしていた掃除も、ほとんどぼくは役に立ってなかったが、姫ちゃん達の頑張りもあって、事の外に早く終了してしまった。
爽やかな疲労感。
汗が流れているのにちっとも清潔感を失わない、プールをきらきらとした、澄んだ瞳で見つめる少女達。
何だかちょっと、
「ポカリのCMみたいですぅ」
「だね」
いかにもな青春のワンシーン。
五月蝿いだけの蝉の声が、いまこの瞬間は、最高のBGMになっていた。
「水着があったら泳ぎたいところですね」
目を細めて薄く笑ってる子荻ちゃん。
そんなシーンもポカリのCMだったらいかにもありがち。
ポカリは良い飲み物だ。多分最高に良い飲み物だ。良い飲み物は決してなくならない。
スパークリング・カフェ
おそらくこの夏で終わる飲み物だろう。
「萩原さん、泳ぎましょうよ。どうせこの後は寮に帰るだけですし。姫ちゃんさっきから、飛び込みたくって仕方ないですですよ」
「やめなさい」
「ええっ!! 泳ぎましょうよ」
「やめなさい。体操着じゃ…………透けるでしょ」
子荻ちゃんは言ってぼくを見る。
その言葉に釣られて遂、子荻ちゃんの名札を見てしまったら、思いっきり睨まれてしまった。……無理だよそんなの。
「タオルとか巻いとけば大丈夫ですよ」
「そんなの危な過ぎます」
「…………」
ぼくはこの二人の会話に、率先して参加する気はない。参加する気はないけど、頑張れ姫ちゃん負けるな姫ちゃん。
心の中では血を吐き張り裂けんばかりに魂身のエールを送ろう。
きっと勝つって信じてるぞ我が弟子よ。
「あ、じゃあじゃあ、水着を持って夜にこっそり忍び込むっていうのは? それも姫ちゃん一回やってみたかったですよ」
「…………」
仮だけどぼくの職業を知ってるかい姫ちゃん。
「先生の前でそんなことをいうなんて――そこはかとなく愚かですよ、紫木」
覚えていてくれたんだね嬉しいよ子荻ちゃん。
っても
「どうせ宿直はまたぼくだから、今夜は思う存分気兼ねなく、こっそりと忍んでくるといいよ。なんなら更衣室の鍵も開けておくから」
三人にはこのくらいのご褒美があってもいいだろう。
やたらと毎回ぼくばかり、宿直をしている気もするのだが、女子高生の水遊びを目の保養にすれば、別段苦にもならないさ。
自分にもご褒美。
……勿論戯言ですよ?
「おおっ!! 話せる師匠ですぅ。それでは萩原さん《全部脱げ》ですよ。早速いますぐ寮に戻りましょう」
光を照り返す水面が眩しい。
顔に突き刺さる視線が妙に痛かった。
どうして子荻ちゃんは、ぼくを睨んでいるんだろう?
言いたいことは大概わかるんだけれど、姫ちゃんは怪しい格言や諺を遣うのを、そろそろいい加減にやめてほしかった。
でも
「いまのは正直、心が躍ったな」
「……戯言、ですか?」
「わりと本気だったりそうでなかったり」
「ふしだらです」
「ゆらぁりぃ……ゆらーりぃ……」
「八月の後半にでも、木賀峰助教授の研究室に遊びに行こう。そのぐらいなら姫ちゃんの補習も終わってるだろうし」
十五日辺りがいいかな。
と。
こんな感じで《戯言遣い》の夏はスタートした。
26
ボンネットを開けて中を覗いてみる。
フィアット500というのは、イタリア産というのを差し引いても、相当以上に手のかかるクルマだ。
タンクトップ姿が眼にも眩しい。
この夏は暇さえあれば、みいこさんはアパートの駐車場で整備していた。
「…………」
二週間で六つ。
みいこさんがバイトをクビになった数である。
かなり暇だったんだろう。
昨日だってわざわざ貸す方の身だというのに、借り受けるぼくのために、ほとんど一日中、カチャカチャとしてくれていたのだ。
今朝、アパートを出るとき、
『べつにいいのだけれど、いの字』
『はい?』
『このクルマ、持ち主である私よりも、お前の方が圧倒的に乗ってるな』
『……いつもすいません』
『姫の夏休みの思い出、楽しいものにしてやれよ』
そう言ってぼくに鍵を投げ渡す。
くるりと背を向け肩に羽織った甚平には、鮮やかな刺繍で《青春》の二文字。
『土産、期待してるぞ』
『外郎でいいですか?』
『そこはお前に任せる。くれぐれも事故にはあわないように、気をつけて行って来い』
と。
こんな風にいつも通りに、図々しくも有り難く借り受けたわけだが、しかも、ガソリンも満タンにしてもらっていたわけだが。
わけだが。
“トントンッ……”
ぼくはスパナで軽く肩を叩いた。
なかなかにオーナーの愛情が伝わらない奴である。
八月の十五日。
只今の時刻は午後の六時半。
フィアットは路上で白い煙を上げていた。
おそらくはラジエーターがオーバーヒートでもしたんだろう。
「やれやれ」
とりあえず開けてみたものの、さりとてどうにもできず、それっぽいポーズだけ取ってるぼくの後ろには、三人の少女が立っていた。
クーラーのない車内は灼熱地獄である。
ここらは京都とはいえ郊外の山間なので、外にいる方が圧倒的に涼しい。
「師匠、直りますですか?」
とはいえ暑いものは暑いわけだが、補習から解放された姫ちゃんの元気には、まるで関係ないみたいだった。
声が弾んでる。
ここから西東診療所までは、まだ結構あるが、何か走っていけそうな感じだった。
ふむ。
姫ちゃんっていかにも夏ってイメージの娘だよな。
子供は風の子って言うし。
そうやってちょっと現実逃避気味な、よくわからないことを考えながら、ぼくはゆっくりと、勿体つけるかのように後ろを振り返る。
「…………」
いや、意味なんてないけどさ。
何だか最近ぼくは、それこそ意味もなく、こんなことをしてる気がする。
誰かのクセが移っちゃったのかもしれない。
『あなたは最悪に似ているのよ』
朽葉ちゃんの言葉が思い出される。
「…………」
頭が夏の暑さも手伝って滅茶苦茶痛くなってきた。
改めよう。
いまならまだ間に合うはずだ。
あんな人生自由落下みたいな中年には、ぼくは絶対になりたくない。
「うん。それ無理」
だから姫ちゃんには、短く簡潔に、そして他の二人にも聞かせるように、出来ないことは出来ないと、さわやかに胸を張って言った。
「…………」
これもどこか違う気がするが、まあ、それはこの際はどうでもいい。
「はぁ〜〜」
ため息。
姫ちゃんの季節は、夏から一気に秋を飛び越して、空っ風の吹く冬になっていた。
春は近い。
「最初から負け犬ムードでしたけど、ガッカリさせてくれる師匠ですぅ」
「…………」
言うじゃねぇかデコスケ。
「先生、歩きますか? 助けも呼べないことですし、地図で確認した限りでは、西東診療所はここからそう遠くもないでしょう」
謀ったように携帯は圏外。
「時間的にはどの程度なのかな?」
「十一時過ぎ、遅くとも日付が変わる前には、着いているんじゃないかと」
「ふうん」
子荻ちゃんがそう言うのなら、それは間違いはないのだろう。
しかし、四時間も五時間も、正直歩きたくない。
「…………」
ていうか。
充分遠いじゃん。
「戻るのなら、大体その倍ですね」
けれど選択肢は一つ。
この閑散とした山間の道を、偶然、クルマが通りかかるのを期待するのは、いくらなんでも楽観が過ぎるというものだ。
「それじゃ、仕方ない。……歩こうか」
夜道は危険だが、道なりに進めば、問題は特にあるまい。
車内のサウナにしても、外にいる蚊の大群にしても、そんなんでは、どうせ寝られるわけもないんだし。
「…………」
まぁそれがなくても、ぼくの場合、他人と一緒に寝るなんて出来ないしな。
女子高生に囲まれて寝るなんて、そりゃかなり惜しいなと、ぼくだって成人男子ですから、思ったり思わなかったりしますけど。
だけどね。
「美味しいことなんて」
「は?」
「なんでもないよ。それじゃ、本格的に暗くなる前に、行こうか?」
「そうですね」
ラブコメの主人公じゃないんだから。
寝不足になるだけさ。
それは確実。
そう、コーラを飲んだらゲップが出るっていうくらいに、やはりそれは確実なことだろう。
寄り道なんかしなきゃよかった。
「…………」
でもみんな喜んでたしな。
姫ちゃんはともかく、他の二人は普段街で遊ぶとかなさそうだし、にしんそばも美味かったから、そこはそれで良しとしておこう。
思いで作り。
少しは手助けできてるのかな。
「姫ちゃん歩くのは得意じゃないですよ。ちっこいですから、人の倍は歩かなきゃいけないです」
「大丈夫だ。姫ちゃんは決して一人じゃない」
指差す先には玉藻ちゃん。
ゆらゆらとしながらも、すでに先頭を切って、夢遊病みたいに、右に左にと蛇行しながら歩いている。
その身体はもちろん、姫ちゃんと同じくらいちっこい。
「文句言わないできりきり歩け」
「にゃぎ〜〜」
毎度ではあるが、動物ちっくな変な声を上げて、姫ちゃんはがっくりとうな垂れた。
後輩が黙々と歩ってるのに、先輩が駄々はこねられまい。
「…………」
彷徨ってるという表現の方が、まぁ正しいのかもしれないが。
て。
ぼ〜〜っと十メートルほど先の、玉藻ちゃんの小さな後姿を見ていたら、突然、ふわりと身軽にガードレールを乗り越えた。
そのままずんずんと、雑木林の中に入っていく。
「子荻ちゃん」
「なんですか?」
「どう思う?」
「西条ですか?」
「どう思う?」
ぼくの視線は微動だにしない。そろそろ消えかけてる玉藻ちゃんから目が離せない。
「近道、……なのでは?」
「その根拠は?」
どうでもいいがクエスチョンマークが多すぎる会話だ。
「勘です」
「勘?」
「西条の行動に根拠を求められても、困ります」
なんとなく。
それこそが行動理念の彼女。
玉藻ちゃんは、なんとなくいま、闇に滲んで消えようとしていた。
「そりゃそうだね」
「で、師匠。どうするですか? 西条ちゃんを追うですか? それとも連れ戻すですか?」
「……追おうか」
後になってもわからない。
どうしてこのとき、ぼくは、こんなことを言ってしまったんだろう。
わからない。
まるでわからない。
ちっともわからない。もう自分という人間がわからない。いつも自分がわからない。ずっと自分がわからない。
千鳥足みたいな玉藻ちゃんと、ちまちました小走りの姫ちゃん。
「行こう」
「はい」
ぼくと子荻ちゃんが追いつくのは簡単だった。