「…………っ!」
胸に衝撃が走った。
そこはまさに人体の急所。心の臓の位置。
鉄砲で撃たれたであろうその威力に、仰向けに倒れながら思考する。
これは死んだな、と。
そして否定姫の意識は闇に落ちた。
・
・
・
「姫さま、大丈夫ですか?」
「……ん?」
否定姫は目を覚ますと、がばっと身を起こした。
覗き込んでいた声の主は身体がぶつかりそうになるのも慌てずに身を引き、否定姫の様子を窺う。
「右衛門……左衛門……?」
「はい」
否定姫の呟いた名前に応える右衛門左衛門。
死んだはずの左右田右衛門左衛門が。
思考が混乱する。
周りを見ると尾張城下の自分の屋敷であることが確認できた。
(ああ、そっか)
これは夢か。もしくは撃たれた自分が死ぬ直前に見ている走馬灯。
右衛門左衛門が天井裏でなく傍らにいることから、おそらく前者であろう。
「ねえ右衛門左衛門」
「はい」
夢には自分の思いや願望が顕著に現れるという。
だから否定姫はひとつ試すことにした。
「その仮面、取ってくれる?」
「……それは出来かねます」
「なんでよ」
「これは姫さまからいただいたわたしの一部。これを取るということはわたしや以前の姫さまを否定することになります」
否定することになる。
それならば。
「はずしなさい、命令よ」
取らせないわけにはいかない。
今でこそ否定姫を名乗ってはいないが、その性質まで変わったわけではないのだ。
「……御命令とあらば」
右衛門左衛門は自分の仮面に手を伸ばし、否定姫はらしくもなく固唾を飲んでそれを見守る。
す、と仮面が外され、右衛門左衛門の素顔が晒された。
ああ、やっぱりこれは夢なのだ。
だって。
真庭鳳凰に奪われたはずのその顔がそこにはきちんと存在しているのだから。
「ねえ右衛門左衛門」
「はい」
「ありがとうね」
「はい…………は?」
常に冷静な右衛門左衛門が珍しく頓狂な声を上げた。
否定姫が他人に礼を言うなど現実には有り得ないからだ。
現実には。
「んー、せっかくあんたの夢を見てるんだから言えなかったことを言っておこうかと思ってね」
「は、はあ」
いまいち理解しきれていないような返事だが、それも当然のことだ。
まさか『これはわたしの夢で今のあんたはわたしの夢の登場人物よ』などと言っても信じはしないだろう。
「気にしないでいいのよ、わたしがやりたいようにやってるだけだから」
そう言って否定姫は立ち上がる。
そのまま傍に畏まる右衛門左衛門の頭に腕を回し、自分の胸にそっと抱き寄せた。
「ひ、姫さま!??」
右衛門左衛門が狼狽えた声を出す。
反射的に離れようとする身体をしっかりと捕まえ、より強く抱きしめた。
「そのまま聞きなさい右衛門左衛門」
思ったよりも真剣な声色に右衛門左衛門は押し黙る。
訥々と否定姫は言葉を紡ぐ。
「わたしはね、七花くんと旅をしているの」
「虚刀流……とですか?」
「そう。この国の地図を作ろうとして各地を回っているの。道中いろいろあるけどそれなりに楽しい旅よ、あの生意気な女も死んでしまっていないしね」
「…………」
「七花くんは強がってるけど時々あの不愉快な女のことを思いだしては寂しそうな顔をしているわ」
「…………」
「でもわたしも寂しくないと言えばそれを否定せざるを得ない」
「……あの奇策士がいないからですか?」
「あんたがいなかったからよ」
「…………」
「大切なものは失って初めてそれが大切だとわかる、とか言うけど身をもって体験するなんて思いもよらなかった」
「姫さま……」
「なんでもっとあんたを大事にしなかったのかしらね……あの頃の自分を否定したい気持ちよ」
否定姫は僅かに肩を震わす。
「ねえ、あんたはどうだったのよ。わたしに仕えてどうだったの?」
「姫さま」
右衛門左衛門がすっくと立ち上がった。
否定姫の悲しそうな、寂しそうな、そして不安そうな顔を見下ろしながら言葉を発する。
「わたしは、姫さまに仕えることができてとても幸福です」
「……本当に?」
「はい」
「……こんな否定的な嫌な女よ?」
「わたしは、姫さまのことを尊敬し、畏怖し、憧れ、そしてお慕いもうしております」
「……じゃあさ」
否定姫は立ち上がられたせいで解けた両腕を右衛門左衛門の背中に巻きつける。
そのまま右衛門左衛門の胸に顔を埋めながら続けた。
「わたしが今なにを望んでいるか当てて、それを実行しなさい」
「…………わたしには少々荷が重くはないかと」
「関係ないわよ、ちょっとの失敗や間違いくらい許すから早くしなさい」
「…………失礼いたします」
灯りに照らされてくっついていた二つの影がより強く重なり、やがて床に倒れ込む。
しゅる、と衣擦れの音がしばらく続き、やがて艶っぽい女の声が響き始める。
・・・
・・
・
・
・・
・・・
「ねえ右衛門左衛門」
「はい」
「あんたわたしのこと好き?」
「はい」
「あんたわたしのこと愛してる?」
「はい」
「あはは、あんたも意外と直情なやつだったのね。夢でも楽しかったわよ。楽しくて嬉しかったわ」
「それは何よりかと」
「ま、死んだ直後の天国を味わってるだけかもしれないけどねー」
「いえ、それはございません」
快活に笑う否定姫の言葉を右衛門左衛門が遮る。
彼にしては非常に珍しいことに。
「どういうことよ?」
「なぜなら姫さまはまだ生きておられるからです」
「?」
話がかみ合わない。
右衛門左衛門は何を言っているのだろう。
「わたしはすでに死んだ身、これ以上姫さまにして差し上げられることなどないのです」
「右衛門……左衛門?」
「どうかわたしのことなど忘れ、姫さまはご立派に生きてください」
「ちょ、ちょっと! 右衛門左衛門!?」
いつの間にか周りは屋敷内ではなく暗闇に囲まれており、右衛門左衛門の姿がゆっくりと遠ざかっていく。
直前まで一糸纏わぬ姿だったのにいつの間にか見慣れた洋装に戻り、仮面も着けている。
手を伸ばそうとしても動かず、名前を呼ぼうとしても声が出ない。
そして。
光が差した。
・
・
・
「おい、大丈夫か姫さん?」
「右衛門……左衛門……?」
名を呼ぶが、視界に入るのは七花の顔だ。
もちろん右衛門左衛門の姿など影も形もない。
少し思考を働かせ、意識を失う直前を思い出す。
「なんでわたし生きてるの?」
ぐるりと辺りを見渡すと、どこかの宿のようだ。
一応撃たれた箇所の手当てはしてあるが、手当てをすれば助かるという類の傷ではないと思ったのだが。
「あー、こんなのが撃たれたところに入っていて弾をはじいたんだ」
そう言って七花が放り投げたのは金属製の塊。
右衛門左衛門が使っていた炎刀『銃』の部品。
壊れたあとに何となく持ち歩いていたもの。
元の所有者が死してなお仕える主人を守ったのだろうか。
そんなのは実に馬鹿げた考え。
「……否定するわ」
馬鹿げたと思う自分の心を。
否定姫は否定する。
「ちなみにあんたを撃った幕府の追っ手はおれが……姫さん?」
否定姫は否定する。
涙を流すなんて有り得ないと。
そしてその有り得ないという思いを。
否定姫は否定する。
そして。
「絶対に……忘れてやるもんですか」
自分のことなど忘れろと言った部下の言葉を。
否定姫は否定した。
―― 終