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己を殺してまで続きを書くのが嫌なら、代わりに主要な登場人物を殺してしまえばいい。
1
そういえば明日で丁度、このマンションに越してから一ヶ月になるのか。
空々空はこの状況――剣藤犬个の抱き枕になりながら、そんな事を考えていた。
思えばここに二人、時に三人、あるいは二人と一匹で生活した30日間で、色々な事があった。
しかしだからと言って。
だからと言って思い返してみても、自分の周りは実のところ、ここに越してきたばかりのころと、あまり変っていない様に空々には思われた。
勿論、ここに越してきたそもそもの理由――過去という過去全てを切り裂かれ、焼き尽くされたという事が、余りにも重大イベント過ぎて、その後の出来事が霞んでしまったと考えられなくもないが。
それにしたって、それを含めて、特に空々空自分自身には、全くと言っていいほど変化が無かった。
まあ、人類の3分の1が死んだとしても動かされなかった、その彼の心が高々数十人の人や人ならざるものの死に触れたからといって、たかが一度生命の危機をくぐり抜けたからといって、変化する方が可笑しいのかもしれないが。
だからそんな彼にとっての一番の変化といえば、毎晩こうして剣藤の抱き枕となって眠る様になった事だった。
いくら空々空といえど、自分の家族を殺されたその晩に、こんな風にその犯人と一緒に眠る様な事は無かっただろう。
じゃあどれ位時間が経ってからならそんな事が起こり得たのかというと、一週間かもしれないし、もしかしたら翌晩にはあり得たのかもしれない、その程度の変化である。
だからこそ、その変化のない自分に、空々は少し苛立ちにも似た焦りを感じていたのだった。
2
その晩はなかなか寝付けず、横になったままそんな事を考えていた空々に後ろから声がかかる。
「眠れないの? そらからくん」
剣藤は空々を背中から抱きしめながら、上体を起こすようにして彼の顔を覗き込んだ。
「いや、そんな事はありませんよ。ただ少し考え事をしていただけで」
「ふうん、そう」
剣藤はそう言うと再び身体をベッドに落とした。
変わったと言えば、空々とは対照的に、剣藤の空々に対する態度は1月前とは大きく異なっていた。
最初こそつっけんどんで、空々との干渉を極力避ける様に務めていた彼女であったけれど、今ではそれなりに普通に接している。
普段から仲睦まじそうに見える程ではなくとも、険悪そうに見えない程度にはなっていた。
人の面倒を見るという、今の立ち位置に慣れてきたのもあるのだろう。
ペットを(正体はともあれ)飼っていた事もあり、元来こういう事をするのにストレスを感じるタイプでは無かった事も幸いしたようだ。
もっとも、その世話をする対象を、こうしてセキュリティブランケット代わりに使っている事もあって、今はあまり本人には空々の世話を焼いてやっているという自覚は無い。
それには空々が剣藤に対して一度たりともお礼を言った事がない事も、少なからず影響しているのだが。
「あのさ、そらからくん。ちょっと変な事聞いてもいいかな」
「ええ、構いませんよ」
だから剣藤は、世話をしている立場とは関係なく、そんなニュアンスを全くと含まずに、空々に質問した。
「そらからくんって、えっちな本とかって持ってないよね?」
「……はい?」
空々は動揺した。
それは恥ずかしい事を聞かれたから、という訳ではなく、本当に一瞬、何を言われているのか意味がわからなかったのだ。
「だってそらからくん位の男の子って、丁度その手の物に興味津々なお年頃だと思うのに、そういうものが部屋に一つもないし」
「はあ」
「実は私の目の行き届かない所にあるのかもしれないし、それならそれでいいんだけどさ、その……」
と口ごもる剣藤。
いいんだけどさ、というのはどういう意味なんだろう。
さっきから剣藤さんが何を言いたいのか本当に解らない。
「一度落ち着いて整理しましょう整理。どうやら僕たちは今、お互いに意思の疎通が上手くいってない気がします」
「う、うんそうだね」
「えっとまず、剣藤さんは僕にえっちな本を持っていられると困るんですか?」
「ううん、むしろ逆かな」
「逆?」
逆というのはどういう事なのだろう。
エロ本の一つも持っていない中学生男子なぞ異常極まるとでも思っているのだろうか。
「えっと別に、えっちな本でなくてもいいんだけどさ。その……」
そのまま再び口籠もる剣藤。
自分から話題を降っておいてどうにも煮え切らない剣藤に空々は少し苛立ちを覚え始めていた。
「遠慮する事はありませんよ、どうぞ?」
このままでは埒があかないと思い、空々は剣藤を急かすように続きを促した。
「えっとね、そらからくんはどうやって性欲を解消しているのかなあって、ちょっと気になって」
「……はい?」
「いや、ここまで踏み込むのは余計なお世話なのかなって思ったんだけど、もし私と二人でこうして暮らしているせいで、私がそらからくんのプライベートな部分を犯してしまっているのだとしたら、それは申し訳ないなって」
ここまで言われれば、というかほぼ質問の内容の全てを剣藤は明かしたわけだが、これだけ聞けば普通、何を言わんとしているのか解りそうなものだがしかし、それでも空々は、こう聞き返した。
「えっと、性欲ですか? ……」
「もしかしてそらからくん、性欲が無いの?」
「いえ、そんな事あるわけないじゃないですか。ありますよ」
と、反論したが、しかし空々はさらにこう続ける。
「でもそれって別に解消しないからと言って死ぬ訳ではないでしょう?」
「え?」
驚いたような声をだして、しばし考え込む剣藤。
「いや、もしかしたら命に関わるんじゃないかな」
「そんな馬鹿な」
「だって3大欲求なんていうくらいだし、人間食べなかったり、眠らなかったら死んじゃうでしょ?」
「3大欲求、ですか……。まあそう言われればそう一つにまとめてくくられちゃってますけど、現に僕はこうして生きている訳ですし」
「それはつまり、そらからくんは今まで自分でその……処理した事が無いって事?」
「ええと……はい、そうだと思います」
「我慢してる訳じゃあ、ないんだよね?」
「ないですね」
ここでもう少し剣藤に知識があれば、女性同様男性の精通や二時成長期にも時期に個人差があり、中学生でも性に目覚めていない事が異常でないと、そう結論づけられたのだろうが、そうはならなかった。
「やり方は知ってる? そういう事って学校で習うんだっけ?」
「いえ、知らないです。もしかしたらそういう授業はあったのかもしれませんが」
「そっか……大丈夫かな」
それきり考え込む剣藤。
彼女は幾らか過剰に深刻に空々の事を考えていた。
「あの、剣藤さん。そんな心配するような事じゃないんじゃないですか? 性欲が少し弱いくらいで。現に僕はこうしてピンピンしているわけですし」
「解らないよ、そんな油断が命取りになっちゃうかもしれない」
「命って、ある日突然欲求不満で死ぬなんて話聞いたことありませんし考え過ぎですよ」
「でも、ある日突然ムラムラきて私を襲っちゃうかもしれないでしょ?」
「それは……え?」
実のところ、剣藤が本気で心配しているのは空々の事というより、この事だった。
「最近毎晩、私達はこうして一緒にベッドで寝ているわけだけど、よくよく考えたらこれって結構危ないのかなって。
勿論さっきまではそらからくんは私にそんな事しないって、そんなつもりにもならないんだろうなって、思ってたけど。
でももし急にそらからくんの溜まってた性欲が爆発するなんて事はあるかもしれないじゃない?」
「それはえっと……そう言われたら僕には反論の余地は無いですけど、じゃあ寝る時は僕の手足を縛っておきましょうか?」
「そんな荒っぽいことしたくないよ……ていうかそらからくん、それじゃあ問題は殆ど解決してないよ。今問題なのはそらからくんの性欲の話なんだから」
「それじゃあ一体どうすればいいんですか?」
3
空々空が剣藤犬个の前で下半身を露出するのはこれが3回目だった。
前2回は空々がグロテスクに着替えるのを剣藤が手伝った時の事だったが、しかし今回はその時とは意味合いが大きく違う。
「あの剣藤さん、やっぱりやめませんか」
「ダメ。私の言ったとおりにして」
前回前々回はむしろ剣藤は空々のそれから目をそらしていたが、今は逆。
むしろ注視していた。
今彼女は、ズボンもパンツも下ろしてベッドに腰掛けている空々の隣に座って、そのディティールを観察している。
「弄るって言ったって、僕だってトイレやお風呂で触ってますけど、気持ちいいなんて感じた事はありませんよ」
「それはそういう弄り方をしてないからだよ、きっと」
少し興奮したような口調で断言する剣藤。
自覚はしていないが、彼女はこの年下の少年の痴態を観察するという状況に少し酔ってしまっていた。
そのせいで数分前まで、まさか剣藤自信、空々に自慰の手ほどきをする事になろうとは夢にも思っていなかっただろうに、謎の積極性を見せている。
「あの、後で一人でやっておきますから」
「だってやり方知らないんでしょう? それにこうやって異性に見られている方が効果があるらしいよ」
知識が中途半端であるがゆえの随分と酷い極論ではあったが、空々も似たようなものだったので反論出来なかった。
言われて渋々、グニグニと皮の上から揉むように年相応の大きさのペニスを弄る空々だったが、多少弾力を得ただけで射精に至るようなそぶりは見せない。
「うーん、なんか違うような気がするのよね」
「あの、流石に恥ずかしいんですけど。僕だって羞恥心はあるんですよ?」
「我慢して、これはそらからくんの為でもあるんだけら」
「そうかもしれませんけど……」
「ああ思い出した。確か剥くんだよ」
「え?」
それは不意打ちだった。
しかもそれは空々にとってだけでなく、奇妙な事に剣藤自身にとっても、予想外の行動だったのである。
冷静な状態だったら絶対しないであろう事をした。
なんとおもむろに、剣藤は空々のペニスを皮の上からつまむと、つるっとそれを剥くようにしてしごきはじめた。
「う、うわっ!?」
「えっと確かこんな感じだったよ……わっ!!」
3、4回、お手本を見せてやるつもりで亀頭部分を皮でしごいただけ。
しかしそれだけで、無自覚に溜め込んでいた空々には十分過ぎる刺激だった。
びくりと腰をはね上げた空々は、呆気なく絶頂を迎え、剣藤の寝室に精液をぶちまけた。
「ええっと……」
意味もなく気まずい沈黙が流れた。
「ごめん、大丈夫?」
「はぁ、はぁ……すいません、よく何が起こったのか解らなかったんですけど」
「ええとね、今君は射精したんだよ、そらからくん」
「はあ、これが射精なんですか……」
何だか釈然としない様子の空々に、今度は逆に剣藤が戸惑う。
「あれ、もしかして気持ち良く無かったりした?」
「だからよく解らなかったんですって、なんだか一瞬だったので」
「そっか」
「えっとこんな感じでしたっけ」
そう言いながら、再びペニスを弄り始める空々。
「う、うん。そんな感じ」
「すいません剣藤さん、もう一回やってもらっていいですか?」
「もう一回? 私がさっきみたいに?」
「ええそうですけど、どうかしました?」
「いや、何か汚いかなって」
「……」
剣藤も間がさすように冷静になってしまい、つい本音が口をついてしまったのだが、この彼女の言葉に珍しく空々は普通に傷ついた。
まあ殆ど剣藤主導で事に及んだというのに、この剣藤の言い分は流石に随分なものだったわけだが。
「ああっ、ごめんごめん。冗談だよ」
空々の様子に罪悪感を覚え慌ててフォローに入る剣藤。
一度ベッドに上がり、淵に腰掛けている空々を後ろに座り、二人羽織のように手を回す。
そしてさっきと同じように空々の可愛らしいと言える程度の大きさのベニスを摘まんだものの、一度射精した事により硬度を失っているそれをしごくのは中々難しい様だった。
「あれ、難しいな……そうだそらからくん、何かえっちな事考えて」
「え? どうしてですか?」
「何かそうするとココが硬くなるらしいから」
そんな事を言われるまでもなく、この状況そのものが相当えっちなのだが。
剣藤は後ろから空々に抱きつく様な姿勢をとっているわけで、無意識ではあるけれど胸を背中に押し付けているし、右肩に顎を乗せるような感じで顔を出しているため二人の頬は殆ど触れ合う様な距離にあった。
「ああそうだ、確かこっちも触るといいんだっけ」
そう言って反対の手で空々の睾丸に触れる剣藤。
「あうっ」
その刺激に空々は再びびくんと体を震わせた。
剣藤の一挙一動に、一々敏感に反応する空々。
「……」
彼のそんな様子を見て、やはり無意識に、剣藤はゴクリと唾を飲み込んだ。
そしてふと、股間を覗き込んでいた目線を横にずらすと、空々と目が合う。
未知の感覚に翻弄されている為かうっすらと潤んでいる両眼に、引き寄せられるように剣藤は顔を近づけていった。
しかしあとほんの少しという所で我に帰り、顔を離す。
「さ、あとは自分でやってみて」
そう言うと急に両手を離し、二人羽織の姿勢をやめてもとの位置に戻ってしまった。
「自分で、ですか?」
「だってそらからくん自身が覚えないと意味がないでしょ?」
と言いながら空々に自分のペニスを握らせた。
「そういえばそうですね、解りました」
促されるままに、再び自慰を始める空々。
「ところで剣藤さん」
「ん、なあに?」
「今キスしようとしてませんでした?」
「うっ」
ぎくり、と剣藤は体を縮こまらせた。
「別に嫌だった訳じゃないんですよ。というかむしろしてくれたら、剣藤さんのいうえっちな気分になれたかもしれなかったんですけど、どうしてやめちゃったんですか?」
「それはだって……一回目だけじゃなくて二回目も好きでもない人とキスするのはそらからくんだって嫌でしょ?」
そう言って顔を背ける剣藤。
こんな事までしておいて、かなり今更な感じではあったけれど、しかしそれは限りなく剣藤の本音だった。
「成る程、そういう気遣いだったんですね」
「そうだよ」
「まあ僕はもう2回目のキスは済ませてしまっているのですけれど」
「えっ!?」
心底驚きを隠せないと言った様子の剣藤。事実彼女はとても驚いていた。
「何時の間にそんな暇あったの? そらからくん、家から殆ど出てないじゃない……あ、そうか私が海外に行ってる時に」
「まあ、そうですね」
「ふうん、そっか……そうなんだ」
この時剣藤は空々の相手となり得るのは当然、あの時空々と接触があった数少ない人間、狼ちゃんこと左在存だと思った。
この推理はあながち完全に的外れと言うわけでは無かったのだが、しかし生憎と相手は空々と接触した、もう一人の方の人間である。
「そっか、じゃあ余計な気遣いだったかな。でも私だってそんな安い女じゃないからね」
さっきまでとうってかわって、何処か棘のある様な物言いになっていたが空々がそれに気づく様な事は無く、そうですね、などと当たり障りの無い相づちを打つだけだった。
「ていうかそらからくん、そんな事はいいから集中しないと、どう? また出そう?」
「いや、なんて言うか、触ってると段々痛くなってきたっていうか」
「痛く?」
それを聞いて、さっきから発揮されている、この中途半端な知識を剣藤に植え付けた友人の言葉が再び彼女の脳裏に浮かんだ。
「ああ、そういえば男の人って一度出しちゃうと次は中々出ないって聞いたことがあるような」
「……それじゃあ今やってるこれは無駄って事ですか?」
「そうかも、ごめんね」
と、依然口調に何処か棘を含ませながら剣藤は謝った。
「構いませんよ、十分やり方は教わったので、これからは自分で処理する事にします」
「うんそうして、じゃあ私は部屋の掃除をするから、そらからくんはもう一回シャワー浴びてきたら」
「解りましたそうします」
そして空々は剣藤の部屋を出ていった。
4
案外大した事無かったな、とシャワーを浴びながら空々は思った。
いくら空々に性に対しての関心が少なかったとはいえ、自慰の経験が無いわけでは無かった。
だというのに何故あんな態度をとっていたかというと、空々はただ確かめてみたかったのだ。
もしかしたらこの一月、剣藤と一緒に暮らす事で何らかの変化が自分の心に芽生えていないか。
彼女に対して好意、もしくはそれに準ずる何かしらの感情が芽生えていたりしないかという、一種の期待を持っての賭けというか実験だった。
もちろん嫌がる剣藤を使ってまで無理やりする様な実験では無かったのだが、彼女自身、嫌がるどころかむしろ乗り気な様子だったので、特に気にする事なく実験に利用させてもらった。
結果はほぼ完全に失敗、というか期待した結果は出なかったわけだけれど。
途中剣藤が一度、おもむろに空々にキスをしそうになったけれど、ああいう事をしたくなる様な何かが、自分の中に芽生える事を、空々は期待していたのだった。
確かに剣藤にペニスを弄られた時は自分でするよりも遥かに大きな快感を感じた訳だけれど、感想としてはそれ以上でもそれ以下でも無く、まして心に何か変化が現れる事など全く無かった。
なんて事を考えながら空々がシャワーを済ませ、部屋に戻ると、剣藤は既に部屋の掃除を終えていた。
うっすらと漂う芳香剤らしき香りは、空々の精の匂いをかき消す為のものだろう。
「それじゃあおやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
その日は結果的にかなりの夜更かしをしてしまっていたので、あんな事をした後だというのに、特にその後は会話をする事も無く剣藤は空々を抱き枕にし、空々は剣藤の抱き枕になりながら、いつもどおりに眠りについた。
翌朝、空々は寝坊してしまい、剣藤が買い物に出かける前に起きる事は無かったので、実はこの晩交わした挨拶が、空々と五体満足な剣藤とが交わす最後の物だったのだが、勿論この時の二人はまだそんな事を知るよしもない。