カカリコ村の陥落により、王党派の軍事勢力は消滅し、ハイラルの覇権はガノンドロフと  
ゲルド族の手に落ちた。地域によっては、敗残兵や住民が散発的に反抗を示すこともあったが、  
それらは簡単に鎮圧され、恒久的な対抗勢力とはならなかった。  
 ゲルド族の移住が始まった。ハイラルの西端にある『幻影の砂漠』は、ゲルド族にとっては  
故郷であり、特別な意味を持つ場所ではあったが、環境は厳しく、生活に適した土地とは  
いえなかったのだ。ハイラル平原へ進出したゲルド族のもとで、王国の──もはや旧王国と  
呼ぶべきであったが──住民たちは、奴隷として酷使されることとなった。  
 とはいえ、ハイラルの地は広く、人口が多いとはいえないゲルド族が、その全域を強圧的に  
支配することは不可能だった。ゲルド族の移住範囲はハイラル平原の西部にとどまり、東部では  
ゲルド族の締めつけも比較的ゆるやかであった。  
 たとえばカカリコ村は、物流の中継地としての価値があるため、陥落後も破壊を免れた。村には  
ゲルド族の一部隊が駐留を続けたが、それに反抗しない限り、住民は生活の自由を、一応は保つ  
ことができたのだった。  
 
 新たな土地で恵まれた生活を享受し始めたゲルド族であったが、そこで問題となったのは、馬の  
確保だった。ゲルド族は馬を大切にする。そのために、馬を安定して供給できる施設が、支配下の  
地域に必要だった。ガノンドロフはその問題を解決しなければならなかった。  
「あの牧場はどう?」  
 合体した姿のツインローバが、玉座にすわるガノンドロフにしなだれかかった。  
「ほら、平原の真ん中あたりに牧場があったでしょ。このハイラル城からも遠くないし、ちょうど  
いいんじゃない?」  
「そうだな……」  
 その牧場のことは、反乱勃発直後、すでに部下から報告を受けていた。いずれは役に立つ場所  
かもしれないと思い、難民や敵軍の巣にならぬよう、とりあえず処置はしておいたが、うち続く  
戦闘で、その後の対応を忘れていた。  
「では、そこを奪い取るか」  
「それも悪くないけど……」  
 ツインローバが意味ありげな口調で応じた。  
「いまさら仲間に、しんどい牧場仕事をさせるのもどうかと思うのよ」  
 やけに優しいことを言う……とガノンドロフは奇異に感じ、相手の顔をじっと見たまま、返事を  
しなかった。その視線に動じず、ツインローバは言葉を続けた。  
「疲れる仕事はそこの住人にやらせておいてさ、あたしらは、その上前だけいただくってのは  
どう?」  
「牧場の住人が、黙ってこちらの言うことを聞くか?」  
 力による支配は簡単だが、馬の飼育を任せるとすれば、表面的な服従だけでは不充分だ。真剣に  
仕事をしてもらわなければ困る。が、ゲルド族を恨みこそすれ、心から協力する住民があろうとは  
思えなかった。  
 ツインローバの顔に笑いが浮かんだ。  
「聞くようにしてやったらいいのよ」  
 その笑い、その声に秘められた、暗い意思。合点がいった。  
「洗脳か……」  
 他人の心を読めるツインローバは、最近では一歩進んで、他人の心を変化させるという、新たな  
能力を開発しているところだった。  
「いいだろう。やってみろ」  
 ツインローバが顔を近づけ、  
「ありがと、ガノン」  
 とささやき、唇を合わせてきた。脂がのった胴をぐいと引き寄せ、向かい合わせの形で、膝の  
上に抱きかかえる。ツインローバの手が、すばやくこちらの股間を開放する。そそり立つ逸物は、  
同じく露出された花弁を押し分け、すでに淫らな液体を湛える肉筒の中へとすべりこんでいった。  
「いいのね、ガノン……やるわ……あたし……やってやる……思い切りやってやるわ!」  
 激しく腰を振るツインローバ。その欲望の叫びが、玉座の間に大きくこだました。  
 
『今日も、お天気がよくないわ』  
 母屋を出たマロンは、暗い気分で空を仰いだ。真昼に向けて昇りつつある太陽の部分が、  
まわりより少し明るく見える程度で、あとは一面、どんよりとした灰色の雲に覆われている。  
 この数ヶ月、晴れの日がずいぶん減ったような気がする。雨が増えたわけではない。ただ  
曇りの日が長く続くのだ。  
 デスマウンテンが噴火したせいだ、と父は言っていた。しかしマロンには、それだけが理由とは  
思えなかった。根拠はない。ないのだが……  
 ため息が出る。  
 重苦しさを振り切ろうとして、空から目をそらし、母屋の前の掃除に取りかかったマロン  
だったが、心の澱は消えなかった。  
 世の中で何が起こっているのか、詳しいことは知らない。けれど、自分が見聞きしただけでも……  
『いやなことばかり……』  
 
 最初は十ヶ月ほど前のこと。突然、大勢の人たちが牧場へやってきた。城下町から逃げ出して  
きた人たちだった。  
 ──ゲルド族が反乱を起こした。  
 ──お城が攻め落とされた。  
 ──首領のガノンドロフは魔王となった。  
 ──王様が亡くなった。  
 ──王女様は逃げた。  
 いろんな話が飛び交っていた。正確な意味は理解できなかったが、何かよくないことが起こった  
のはわかった。ただ、その時のあたしは、みんなの手伝いにてんてこまいで、それ以上の何かを  
感じる心の余裕はなかった。  
 ほんとうに怖かったのは、ゲルド族の女兵士たちが襲ってきた時だった。ゲルド族は逃げてきた  
人たちを無理やり牧場から追い出した。自分はどんな目に遭うかと、生まれて初めて、身の危険と  
いうものを感じた。でもゲルド族は、あたしに手を出そうとはしなかった。父さんとインゴーさんも  
無事だった。  
 しばらくして、また人が逃げてきた。西の方で戦争があったと聞いた。あとからゲルド族が来て、  
前と同じようにみんなを追い散らしてしまった。その時もやっぱり、あたしたちは放っておかれた。  
 そのあとは、東の方で長いこと戦争が続いたようだ。逃げてきた人はいなかったけど、  
デスマウンテンが噴火して、この牧場にも、薄汚い灰がうっすらと積もった。  
 最近、東の戦争は終わったらしい。なのに、世の中が、元のように、よくなっていくふうには  
思えない。それどころか……  
 
『何もかも悪くなっていくみたい……』  
 空が晴れないのは、そのしるしなのではないか、と、マロンはまた、重苦しい思いに囚われる。  
『それでも、うちは安全だから』  
 気分を引き立てるために、マロンは物事のよい部分へ目を向けようとした。  
 いまもゲルド族は時々、牧場へやってくる。でも人が隠れていないのを確かめると、いつも  
すぐに帰っていく。どういうわけか知らないけど、あいつらは、あたしたちに危害を加える  
つもりはないらしい。  
 不安に満ちた生活の中で、それだけが唯一の救いだった。  
 このまま、ここで無事に暮らしていけたら……  
 ひたすら願うマロンの心に、引っかかるものがあった。  
 あたしが思うこと。それに関係のある何かが、記憶のどこかに残っていて……  
 何だろう。いつ? どこで? 誰と?  
 ……そう、誰かがかかわっていること。あたし以外の誰かが。  
 父さん? インゴーさん? ううん、そうじゃない。  
 じゃあ、誰?  
 ……思い出せない。だけど気になる。  
 そもそも、何がきっかけ? あたしは何を思ったかしら? そう……  
『何もかも悪くなっていくみたい』  
 そうだ。その言葉。  
 ……悪くなる……悪いこと……  
 
「ちょいと、お嬢ちゃん」  
 突然、後ろから声をかけられ、マロンの心臓は縮み上がった。  
 おそるおそるふり返る。  
 いつの間にか、馬に乗ったゲルド族の女が数人、そこに来ていた。時々やってくる連中と  
同じようないでたちだ。ところが、今日はその中に、見慣れない風貌の女が一人いた。  
「この牧場の主人に会いたいんだけど」  
 女が言った。  
 しっとりと響く、低い声。背が高く、きれいな顔立ち。でも、気味の悪さも感じさせる。  
どこか近寄りがたいような雰囲気。  
 マロンは返事もできず身体を硬くしていたが、やっとのことで頷くと、小走りに母家の中へ  
駆け入った。  
 
「──だから、タロンの旦那。気分が落ちこむのはわかりますがね、俺たちはここで生きて  
いかなきゃなんねえんですぜ。何とか方法を考えねえと」  
「インゴー、そうは言うがな、いったいどうすればいいんだ? 城下町がゲルド族の手に落ちて、  
ロンロン牛乳を売る先もなくなってしまったし……」  
「そいつは……俺も……いい知恵があるってわけじゃありませんがね……だが、あのいまいましい  
ゲルド族の奴らに、やりたい放題やらせておくわけにゃいきませんや。どうにかしねえことには……」  
「どうにもならんよ、もう……何もかも、いやになっちまった……」  
「旦那……そんなこと言わねえで……」  
 母屋に入ると、父とインゴーが話をしていた。  
 もともと怠け癖のあった父は、ゲルド族の反乱以来、すっかりやる気をなくしてしまった。  
仕事熱心なインゴーは、それが歯痒くてしかたがないようで、何とか父を励まそうとするのだが、  
効果があったとはいえなかった。以前から父の怠けぶりに不平を漏らしていたインゴーだったが、  
最近では愛想を尽かし気味にも感じられた。  
 今日も、いつもと同じような会話だ。  
 二人の話をさえぎるのは憚られたが、あまり待たせるとゲルド族の連中が気分を損ねるかも  
しれない、と思い、マロンはおずおずと口を開いた。  
「あの……表にゲルド族が来てるわ。ここの主人に会いたいって」  
 父が、ぎょっとしたような顔でふり返った。  
「何の用ですかね」  
 父の顔をうかがいながら、インゴーが声を低くして言った。父は黙ったまま、動こうとしない。  
「行かないと、まずいんじゃねえですか?」  
 インゴーが言葉を重ねた。やはり父は動かなかった。インゴーは唇を噛み、じりじりしたような  
表情で父を見据えていたが、どうにもならない、といった様子で肩をすくめ、  
「俺が話を聞いてきますよ」  
 と言い置いて、母屋の外へ出て行った。ほっと息をつく父を見て、マロンは子供心にも  
やりきれなさを感じた。  
 ほんとに、父さん、どうしちゃったのかしら。確かにのんきな性格だけど、こんな引っこみ  
思案じゃなかったはずなのに……  
 それに比べれば、インゴーの方がよほどしっかりしている。いまの対応もそうだが、前に戦争で  
人が逃げてきた時、てんやわんやの状況を一人で仕切ったのはインゴーだった。父はその時も  
おろおろするばかりだった。インゴーがいなければ、牧場はどうなっていたかわからない。  
 父にかける言葉もなく、マロンはそこに立ちつくしていた。  
 
 三十分ほども経った頃、インゴーが母屋に戻ってきた。父はおびえた目でインゴーを見、  
「やつら、どうだった?」  
 と訊いた。  
「帰っていきましたよ」  
 インゴーの声は冷静だった。あまりに冷静で、マロンは背筋がぞくりとした。  
 いかにも安堵したように、大きなため息をつく父。そこへインゴーが声をかぶせた。  
「ゲルド族の方々は、自分たちの馬をここで世話しろ、とおっしゃってますぜ」  
「え?」  
 父がいぶかしげな声を出した。マロンも奇妙な感じがした。  
 馬を世話しろ、というゲルド族の要求も意外だが……いまのインゴーの言葉は……  
 ゲルド族の「方々」? 「おっしゃって」?  
 インゴーがじろりとマロンを見た。声と同じように冷静な──いや、冷酷、と言っていい  
目つきだった。  
「おめえは外へ出てな。俺はこれから、タロンに話があるんだ」  
 マロンはびっくりした。ふだんのインゴーではない。  
 あたしのことを「おめえ」だなんて。いつもは「お嬢さん」と呼ぶのに。言葉づかいも、  
もっと丁寧で。父さんを「タロン」と呼び捨てにするのも、これまで聞いたことがない。  
「出てろと言ったんだぞ」  
 インゴーの語調が強まった。マロンは、ぞっとした。声も出せず、逃げるように母屋を出た。  
『何なの? どういうこと?』  
 マロンの胸は、疑惑と恐怖に大きく波立った。  
 正午になろうかという頃なのに、あたりは薄暗い。  
 空を見上げる。  
 雲の厚みが、さらに増していた。  
 
 インゴーは人が変わってしまった。  
 決してゲルド族のことをよく思っていなかったはずなのに、一転して、ゲルド族のために馬の  
世話をして働こうと言い出した。生活のためにしかたなく、というのではない。本気でゲルド族に  
心酔しているような口ぶりだった。首領のガノンドロフ──あの魔王のことを呼ぶのに、「ガノン  
ドロフ様」と敬語を使ったりもした。  
 自分の主張を通そうと、インゴーは連日、父を責めたてた。父は相変わらず、煮え切らない  
返事をするばかりで、それがいっそうインゴーを怒らせるようだった。インゴーは口汚く父を  
罵った。とても主人に対する使用人の態度ではなかった。  
 マロンへの態度も一変した。もともと愛想のいい男ではなかったが、それでも以前は、もっと  
気軽に話ができた。優しい言葉をかけてくれることも、時にはあった。ところが、あの日以来、  
インゴーはいつも怖い目でマロンを睨みつけ、口を開けば乱暴に命令ばかりを吐きかけてくる。  
マロンは毎日、びくびくして暮らすようになった。  
 インゴーの父へのふるまいは、日に日に荒っぽさを増し、暴力を振るうようにさえなっていった。  
 ある夜、マロンが母屋の二階で寝ていると、一階から、インゴーの怒鳴り声と、許しを請う父の  
哀願の言葉とともに、荒々しい物音が聞こえてきた。インゴーが父を殴りつけているのだ。  
マロンにできるのは、布団にもぐり、震えていることだけだった。  
 翌朝、父の姿が消えていた。驚いて探し回ったが、父はどこにもいなかった。茫然と牧場に  
立ちすくむマロンのそばへ、インゴーが歩み寄ってきた。  
「タロンは出て行ったぜ」  
 インゴーは言い放ち、さらに嘲るような口調で続けた。  
「もう牧場をやっていく気はねえんだとさ。ろくに仕事もしねえ穀潰しだったし、いなくなって  
くれてせいせいすらあ」  
「父さん、どこへ行ったの?」  
 マロンはやっとそれだけ訊いた。  
「知るもんかよ。どっかで野垂れ死にでもするだろうさ」  
 あまりの言葉に、マロンは思わず、かっとなった。  
「出て行ったなんて、嘘よ! インゴーさんが父さんを追い出したんでしょ!」  
 インゴーは何も言わず、じっとマロンを見据えた。蛇のように冷たいその視線に、マロンの  
怒りは一瞬で消えてしまった。インゴーの無言が怖ろしかった。  
 いきなりインゴーの手が飛んできた。頬を張られたマロンは、悲鳴をあげて地面の上に転がった。  
他人に暴力を振るわれたのは初めてだった。  
「口のきき方に気をつけろよ」  
 もはや逆らう気力もなかった。マロンは地に這いつくばり、冷淡な笑いに満ちたインゴーの顔を、  
ただ見上げるばかりであった。  
 
 インゴーとマロンの地位は、完全に逆転した。雇われ人であったインゴーは、牧場の主人に  
成り上がり、「お嬢さん」であったマロンは、いまや下女の身へと転落した。  
 家事全般がマロンに押しつけられた。子供には無理な馬の調教や他の力仕事は、インゴーの  
役回りだったが、家畜への給餌や給水、馬小屋や牛小屋の掃除、牧草の管理、雑草抜きなど、  
牧場の仕事でも可能なものは、みなマロンが受け持たされた。もともと牧場にいた動物だけでなく、  
ゲルド族の馬も預かるようになったため、仕事の量は倍増していた。  
 朝から晩まで毎日休みなく働かされ、マロンはへとへとになった。ちょっとでも仕事が遅れると、  
インゴーは容赦なく暴力を振るった。初めのうちは涙にくれていたマロンも、そのうち泣く暇も  
なくなるくらいに疲れ果て、日々の作業を機械的にこなしていくのに精いっぱいとなった。  
 身体はすりきれ、心は重く沈澱した。  
 救いはなかった。救いを求めようという気がおこる余裕すらなかった。  
   
 ハイラル城外の練兵場で、ガノンドロフはゲルド女たちが駆る馬を眺めていた。  
「最近、馬の調子がいいな」  
 傍らに立つツインローバが応じた  
「そうね、あのロンロン牧場──おっと、いまじゃインゴー牧場だっけ──あそこに任せて  
よかったじゃないの」  
「インゴーというのが、そこの主人なのか?」  
「いまはね。元は使用人よ。あたしが牧場に行ったら、その時の主人じゃなくて、そいつが出て  
きたのさ。見こみがありそうだったんで、そいつを洗脳してやったんだけど、うまくいったわね」  
 にやりと満足げな笑いを漏らすと、ツインローバはガノンドロフに向き直った。  
「忠誠心も申し分ないわ。あんたに挨拶したいと言ってるそうよ。一度会ってやったら?」  
「うむ……」  
 洗脳の結果とはいえ、ゲルド族以外の人間に傅かれるのも悪くはない。今後、ハイラルの支配を  
強化してゆくためには、そういう便利な奴を飼っておく方がよい。  
「よかろう。適当な時期に呼んでおけ」  
 と言い置き、ガノンドロフは練兵場をあとにした。  
 
 その日もマロンは仕事に追いまくられた。が、いつになく心は軽かった。ガノンドロフに  
拝謁するために、インゴーがハイラル城へ出かけていたからだ。インゴーに怯えることなく、  
一人で日を過ごせるのは、父がいなくなって以来、初めてのことだった。インゴーがいない分だけ  
家事の手を抜くことができ、心の軽さも手伝って、いつもよりは多い牧場の仕事も順調にはかどった。  
昼過ぎにはもう、おおかたの作業が終わっていた。  
 マロンは牧場の真ん中へ歩み出て、草の上に腰を下ろした。  
 家畜への夕べの給餌と、日暮れまでには戻ってくるであろうインゴーへの夕食の準備が残って  
いたが、陽のあるうちに一息つくことができるのは、久方ぶりのことだった。  
 しかし、いざ一息ついてみると、マロンの心に湧くのは、悲しみばかりだった。  
 空は今日も厚い雲に閉ざされている。父の行方はいまも知れない。唯一の友であるエポナは、  
将来ガノンドロフに献上するとインゴーが決めてしまった。  
 何の希望もない、この生活。  
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。  
 こんな目に遭わなければならないような、何か悪いことを、あたしがしたというのだろうか。  
 目から涙があふれ出る。  
『誰か……助けて……』  
 底のない泥沼から逃れ出ようと、必死に手を伸ばす。あてもないのに。  
 いや……  
 何かが心に引っかかっている。  
 いまの自分の思い。  
『何か悪いこと』  
 そして、  
『誰か』  
 前にも同じような引っかかりを感じたことがある。その時は結局、思い出せなかった。だけど  
いま、もう一度、同じ引っかかりを経験してみると……あれは……確か、あれは……  
『この世界には、いま、悪いことが起こり始めていて……』  
 ──そう。その言葉。  
『ぼくはそれを防がないと……』  
 ──誰か。「ぼく」と言った、その誰か。  
「リンク!」  
 思わず声が出る。  
 悪いこと。リンクはそれを知っていた。  
『ぼくには使命があって……』  
 使命。リンクの使命。  
 世界が悪に堕ちていこうとしている、いま、この時、リンクはどこかで、その悪に立ち向かって  
いるのだろうか。そして……  
 
 あの夜。リンクと別れた、あの夜。別れ際に、あたしは訊いた。  
『また来てくれる?』  
 あの時、リンクは……ああ、リンクは……  
『来てくれる!』  
 マロンは胸の中で叫んだ。  
 来て欲しい。いや、来るに違いない。そう信じるだけで、あたしは……  
 思い出す。  
 あまりに苦しい生活のため、心の底に封じられていた、リンクの記憶。それがいま、堰を切った  
ようによみがえる。  
 城下町で初めて会った時のリンク。緑色の変わった服を着て。キスするカップルをじろじろ見て。  
キスっていう言葉も知らなくて。なのにキスの経験はあって。その時は、とりとめのない会話だけ。  
それでも同じ年頃の友達がいないあたしには、心楽しいひとときだった。  
 牧場を訪ねてきてくれたリンク。再会の喜びを顔にあふれさせて。それをあたしはからかって、  
忘れたふりをしたりして。ほんとうは嬉しかったのに。会いたかったのに。  
 ハイラルの風景に感動するリンク。あたしの知らない世界を語るリンク。そんなリンクに、  
あたしは……  
 その夜。そう、いまと同じこの場所で、あたしはリンクの横にすわって……  
 キスをせがんだ。  
「もっといいこと」も。  
 結局、それは果たせなかったけど……そのあと……夜空いっぱいの星の下で、ひとり、あたしは  
……あたしを……  
 胸が動悸を打つ。強く。激しく。  
 股間が疼く。じんじんと。ひたひたと。  
 ずっと幼い頃から、ひそかにふけってきた、あの楽しみ。  
 生きるだけで精いっぱいの日々、長いこと忘れていた、あの悦び。  
 オナニー。  
 これまで、たいていは、夜だった。家の中だった。日の暮れないうちに、外でしたことなんて  
なかった。  
 でも、もう我慢できない。  
 
 右手が服の裾をくぐる。両脚のつけ根へと、まっすぐ手が進む。そのまま下着の上から触れてみる。  
 ほんのりと湿った布。  
 下着ごしに、指を押しつける。  
「あ……んん……」  
 これ。この感じ。すべてを忘れさせてくれる、この感触。  
 奥に溜まった粘液が、じっとりと布から染みだしてくる。濡れる。指が濡れる。  
 濡れるのなら、とことんまで濡らしたい。  
 右手を腹まですり上げ、下着と皮膚との間に差し入れて、今度は下へすべらせる。何の飾りもない、  
下腹の皮膚。その下端の真ん中に始まる、細い谷間。すぐ指に触れる、硬いしこり。  
 圧を加えながら、指をぬるりと下へ。  
「ん……!」  
 反射的に両脚が閉じ、ぎゅっと右手をはさむ。それでも指は動かせる。  
 また上へ。また下へ。上へ。下へ。上へ。下へ。  
「んぁ!……ああ……」  
 快感を生むそのしこりを、さらに押して、圧迫して、今度は、左に、ぐりっと。  
「うぁッ!」  
 右に、ぐりっと。  
「ひぁッ!」  
 身がすくむ。身が固まる。身が震える。  
 止まらない。止まらない。左へ、右へ、上へ、下へ。  
 粘液にまみれるその場所で、マロンの指は踊り狂った。  
『もっと……』  
 しこりの下。谷間の奥。そこにも触れたい。感じたい。  
 脚を大きく開く。裾がまくれ上がる。太股が、下着が、外気にさらされる。  
『丸見えになっちゃう』  
 理性のささやきも、もはや妨げにはならない。どうせ誰も見てなんかいない……  
 指を伸ばす。狭い入口へと。指を進める。奥へと。  
 肉壁が抵抗し、痛みを訴える。でも、大丈夫。そっとやれば。  
 初めは無理だった。痛みに耐えられなかった。それでもずっと続けるうちに、指もあそこも  
慣れてきた。少しずつ、指を挿しこめるようになった。痛みを打ち消す気持ちよさを、あたしは  
知ってしまったから。  
 じわ、と指を押し進め、  
「くぅ……ッ……!」  
 次いで、引く。  
「は……ぁッ……!」  
 きつい圧迫に抗して、指を前後にすべらせる。ゆっくりと。ゆっくりと。  
 いい。感じる。気持ちいい。とても。  
『だけど……ほんとうは……』  
 ほんとうは、ここに入ってくるのは、指じゃなくて、あれなんだ。  
 男の、あれ。  
 あたしがまだ知らない、あれ。  
 あれだと、もっといいのかしら。もっと気持ちがいいのかしら。  
 想像する。  
 男の人が、あたしの上にいて、あたしを抱いて、あたしの中に入ってきたら……  
「あぁッ!」  
 思わず、指をいつもより深く突っこんでしまう。痛いけど、平気。快さの方が、はるかに大きい。  
 欲しい。欲しい。あたしを満たしてくれる、あれ。自分じゃなくて。指じゃなくて。  
 誰? あたしに入ってくるのは、誰?  
 決まってる! それは……  
 
「おい」  
 声!  
 心臓が破裂しそうになった。  
「ずいぶんとお盛んじゃねえか」  
 インゴー! いつの間に?  
 空に目をやる。日が暮れかかっている。どれくらいの時間、あたしは……  
 はっと気がつく。あわてて指を引き抜く。手を下着から引き出す。が、もう遅い。  
 見られてしまった。  
 インゴーが近づいてくるのに、どうして気がつかなかったのだろう。それほどあたしは夢中に  
なって……  
 あたしのいちばん恥ずかしいところを、どうして……どうしてインゴーなんかに……  
 すぐ近くに立つ、インゴーの脚。それより上に視線をやれない。顔が、かっかと火照って  
いるのがわかる。  
「別に恥ずかしがるこたあねえよ」  
 え……?  
 意外な言葉に、思わずインゴーの顔を見る。下卑た笑いが浮かんでいた。  
「俺は知ってんだよ。おめえが前からしょっちゅうマンズリしてることくらいな。いまさら俺に  
見られたって、どうってこたあねえだろう」  
 マンズリ。それが何を意味する言葉か、マロンにはわかった。自分の行為が、そんな下品な  
言葉で呼ばれるのはいやだった。  
 でも、そう呼ばれてもしかたがない。あたしのしたことは、下品なことなんだ。だからあたしは  
恥ずかしいんだ。  
 恥ずかしいといえば……  
 インゴーの言葉が、やっと脳に染みこむ。  
 いまだけじゃない。ずっと前から知られていたんだ。オナニーにふける、あたしのことを。  
「いや!」  
 首を振る。激しく。  
 すべてを知られて、すべてを見られて。しかも、相手が、インゴーだなんて。  
 マロンの嫌悪の情も知らぬげに、インゴーは言葉を続けた。  
「いまじゃ、城下町で娼婦を相手にすることもできねえんだ。おめえがガキだといっても、  
これだけマンズリしまくってるんなら……」  
 声が上ずっていた。マロンは再びインゴーの顔を見た。  
 血走る目。  
 危険な臭いを感じて、マロンは逃げようとした。が、あっさりと腕をつかまれた。地面に  
押し倒される。上にのしかかられる。近づくインゴーの顔。荒い息。  
「おめえのせいだぞ。溜まってる俺の目の前で、あれだけ見せつけやがって」  
 そんな。見せたわけじゃない。見たのはそっちの勝手じゃないの。  
 けれど言えない。ぎらぎらと燃え盛るインゴーの目。  
 怖じる心を励まし、腕で押し返す。脚をばたつかせる。叩く。蹴る。  
「おとなしくしてろ!」  
 ばしッ──と頬に感じる衝撃。  
 続けて、二度、三度と平手打ちをくらい、それ以上、動けなくなった。  
 服がまくり上げられ、下着をはぎ取られる。  
 インゴーが自らを開放しようとする気配を感じながら、マロンはどうすることもできなかった。  
 
 股間に何かが押し当てられる。何か。あれ。男のあれ。  
「ひッ!」  
 指よりも、ずっと大きく、太い。  
 それが、ぐいと押しつけられる。  
 先には進まない。  
 インゴーの舌打ち。さらに荒々しく、マロンの秘部が蹂躙される。でも、無理だ。  
 ずっしりと身を圧する大人の体重に喘ぎながらも、マロンはひと筋の希望を持った。  
 これなら挿入されずにすむかも……  
 そうよ、あたしに入るのは、あたしに入っていいのは、一人だけ。  
「んぁんッ!」  
 その想いが、別のものを呼び起こしてしまう。さっきまで溺れていた快感。それが、谷間を、  
しこりを突きまくる男のものに喚起されてしまって……  
 どうして? 上にいるのはインゴーなのに。  
 いやよ! こんな男で感じるなんて!  
 だが、相手が誰かは関係なかった。すでに女の悦びを知っていたマロンの身体は、否応なく  
性器への刺激を受け入れてしまっていた。自慰によるぬめりが潤滑剤となり、乱暴なはずの責めが、  
なめらかな動きに変換され、かえって興奮を煽った。  
 硬いものが、しこりを押す。すべる。  
「あッ!……あッ!……あッ!……」  
 だめ! 感じちゃだめ!  
 自制もむなしく、身体は求める。刺激を。快感を。男を。  
 ぐりぐりと圧されるしこり。さらなる圧迫を求めて、マロンの腰も動いてしまう。  
「おめえ……」  
 インゴーがあきれている。淫らなあたしに、あきれている。  
 いやなのに。いやなのに。  
 けれど、もう、どうにもならない。  
 マロンの反応を理解したインゴーが、無謀な挿入をあきらめ、陰核への刺激に専念する。  
「あッ!……あぁッ!……うぁッ!……」  
 律動的な陰茎の動きに、マロンの腰も同期する。  
「このアバズレが」  
 インゴーのかすれ声。  
 アバズレ。最大の侮辱。  
 しかし罵倒すらも、燃え上がった欲情をとどめることはできない。  
 いやだと思う男に腰を振るあたし。どうしようもなく淫乱なあたし。  
 その自覚が、最後の一線を越えさせた。  
 
 終局に向かってマロンはひた走る。  
「来る!……来るわぁ!……あ……ああッ……あああああッッ!!」  
 股間の凝縮が爆発する。  
 身体は硬直し、火花が全身に飛び散り、全身にしみわたるのを感じ……そして、がっくりと  
力が抜ける。  
 その時だった。  
 まだ達していないインゴーの剛直が、抵抗のなくなった関門を、ついに突破した。  
「ぅあああぁぁぁーーーッッッ!!!」  
 予期しなかった衝撃に、マロンの喉から、吼えるような絶叫がほとばしった。  
 気が遠くなるような痛み! 痛み! 痛み!  
 が、それだけではなかった。  
「うおおぉぉッッ!!」  
 圧迫に耐えかねてか、インゴーも遂情の叫びをあげる。  
 膣の奥底に叩きつけられる男の噴射。膣を満杯にしてどくどくと脈動する男根。その不思議な  
充足感。  
 身を引き裂かれた激痛とともに、かすかに、しかし確実に生じたその感覚は、快感という名で  
呼ぶほかはないものだった。  
 なおさら、情けなかった。  
 心が急速に冷えてゆく。  
 ──どうして。  
 ──あたしの初めての交わりが、どうしてこんなことに。  
 叫びたくなる。  
 でも、これは、あたし自身のせいなのだ。  
 あたし自身の淫らさゆえに、あたしはこれからも、堕ちていくしかない。  
 はらはらと、涙がこぼれ落ちる。  
『リンク……』  
 別れ際に見た、リンクの笑顔。それはもう、あたしの手には届かない。  
 脱力したインゴーの下敷きとなり、いまだ治まらない痛みに苛まれながら、マロンはむせび  
泣いた。  
 牧場を吹き渡る、冷ややかな風。  
 すでに日は落ち、雲に覆われた空は、絶望的なほどに暗かった。  
 
 
To be continued.  
 
 

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