丘の上に野兎が見えた。  
 地面に伏せ、生い茂る草の間から、じっと対象を観察する。  
 曇天の夕暮れ時。視界はよくない。かなり離れてもいる。それでもいまの自分なら、短刀を  
投げて仕留めるのは容易。  
 しかし、試したいのは別のことだ。  
 音をたてないよう細心の注意を払い、じりじりと丘の上へ這ってゆく。  
 野兎は草を食べている。無警戒に見えるが、こちらがちょっとでも不用意な行動をとれば、  
たちまち逃げてしまうだろう。  
 速すぎれば察知される。遅すぎてもそのうち去ってしまう。どちらの場合も失格だ。  
 あと少しというところで、野兎がぴんと耳を立て、後ろをふり返った。瞬時に身体の動きを止め、  
同時に呼吸をも止めて、全身を地面に貼りつける。  
 こっちは草に隠れている。直接は見えないはずだ。だが、ここで少しでも動いたら終わりだ。  
野生動物の知覚はきわめて鋭敏なのだ。  
 十秒……二十秒……  
 背後の一点を見据えていた野兎が、くるりと向きを戻し、食事を再開した。  
 よし。  
 これまで以上に神経を張りつめさせ、じわじわと獲物に近づく。もう手が届くという至近  
距離まで達し、そっと身を起こす。野兎は草を食べ続けている。背後に迫ったこちらへは、全く  
注意を払っていない。  
 詰めだ。  
 飛びかかり、頭部を押さえつけ、即座に頸椎を脱臼させる。野兎は手の中でびくびくと痙攣し、  
やがて動かなくなった。  
 最後まで気づかれず、素手で動物を捕らえられた。ここまで気配を絶つことができれば、自分に  
合格点をやってもいい。  
 行動すべき時がきたのだ。  
 シークは立ち上がった。  
 カカリコ村を出てから、三年の月日が流れていた。  
 
 三年の間、シークは南の荒野に潜伏していた。  
 初めてインパに出会ったこの地は、シークにとって、辺境の中では唯一、土地勘のある場所  
だった。人が全く住んでおらず、自由な行動が可能であるのも利点だった。二、三度、ゲルド族の  
小部隊を遠くから見たことがあったが、発見されるような危うい状況にはならなかった。  
 獣を狩る訓練は受けていたので、質素ではあったが、食に窮することはなかった。栄養が  
偏らないよう、時には遠くの森や草原に赴き、植物性の食材を入手した。水も確保できていた。  
荒涼とした土地ではあっても、丹念に探せば、飲むのに適した水を得られる小川や泉は見つけ  
られた。住居としては洞窟を使用した。住み心地がよいとはいえなかったが、雨露をしのぐだけ  
なら問題はなかった。別れの時にインパから貰った服は素材が丈夫で、将来の成長を見越した  
仕立てにもなっており、着るものには困らなかった。  
 健康にも大きな障害はなかった。原因不明の腹痛で寝こんだことが数回あったが、一眠りすると  
回復していた。あとは打撲や捻挫くらいのものだった。  
 かつてインパは言った。「幼いお前には、酷な生活になるだろう」と。  
 たった一人の荒野での生活。客観的に見れば、確かに酷であったといえるかもしれない。しかし  
シークには、その自覚はなかった。いかに酷であるかを意識する暇もなかった、といえば正確  
だろうか。  
 一人で戦えるようになるために、シークはひたすらおのれを追いこみ、おのれをいじめ、  
おのれを鍛え抜いてきた。カカリコ村での戦闘訓練で、得手不得手はわかっていた。体格と体力が  
劣っていては、剣技を誇ることはできない。代わりに、気配を消し、飛び道具を駆使して、影の  
ように戦うことを第一義とした。  
 実戦でも充分やっていけるだろう、というくらいの自信はついていた。野兎狩りの成果は、その  
自信を裏づけてくれるものだった。  
 
 日が落ち、おこした焚き火のそばで、捕らえた野兎を夕食としながら、シークは思いに浸っていた。  
 生活の厳しさを意識しないでこられたのも、それ以上に厳しいと思われる、これからの自分の  
使命、自分の戦いのことを、常に考え続けてきたからだろう。  
 ガノンドロフを倒すためには、ハイラルに眠る六人の賢者を覚醒させ、彼らの力を得なければ  
ならない。その使命を負うのは、時の勇者、リンク。自分の使命は、リンクを助け、ともに戦う  
こと。だが、リンクは七年間の封印下にある。封印が解けるのは、まだ先だ。いまの自分の課題は、  
リンクの帰還までに、賢者を見つけだしておくことだ。  
 手がかりは、インパが教えてくれた。賢者の重要性を示したゼルダ姫の予知。それは、インパが  
知るシーカー族の伝説に合致するものだった。  
 ハイラルのどこかにあるという、五つの神殿。そこに五人の賢者が関わっている。  
 深き森、高き山、広き湖、屍の館、そして砂の女神。  
 その場所がどこか、という点は、インパとも議論したことだったが、ある程度の推測がつく  
ものもあり、皆目わからないものもある、という状態だった。  
 深き森──ハイラルに森はいくらでもある。そのうちのどこなのかは、全く不明。  
 高き山──山もまた、ハイラルには数多い。最高峰ならばデスマウンテンだが。  
 広き湖──これはわかる。ハイラルの広い湖といえば、ハイリア湖しかない。  
 屍の館──見当もつかない。そんな怪談めいた家のことなど、聞いたことがない。  
 砂の女神──砂は砂漠を連想させる。西にある『幻影の砂漠』か? では女神とは?  
 六人目の賢者である『光の賢者』、ラウルについては、敵であるツインローバの話を漏れ聞いた  
インパが、ある程度の情報を持っていた。神殿の場所もわかっている。しかし……  
 ラウルは精神だけの存在だという。そして光の神殿は地下にあり、生身の人間には到達できない  
場所なのだ。そんな相手に、どうやって接触すればいいのか。  
『何とかなる』  
 そう自分に言い聞かせる。  
 ラウルは賢者の長。リンクの封印もラウルの思慮によるものだ。ラウルの覚醒に関しても、必ず  
ラウル自身の方から、何らかの働きかけがあるはずだ。  
 楽観的に過ぎるだろうか──との危惧も浮かぶが、いや、決して楽観ではない、という確信にも  
近い思いを、シークは信じることにした。  
 頭を切り換える。  
『ともかく、まずは……』  
 神殿の場所が最も明確だと思われる、ハイリア湖を訪れることにしよう。幸い、この南の荒野から、  
大して遠くは離れていない。  
 方針が決まって、シークの心は安らいだ。その安らぎに、さらなる思いが重なった。  
『リンク……』  
 人となりは、インパから断片的に聞いている。誠実で、直情で、勇気があって、笑顔が印象的な、  
僕と同い年の少年。  
 会ったこともない、顔も知らないその人物が、いつも支えになっていた。ふと心が弱くなった  
時など、リンクのことを思うと、再び身体に力が満ちるような気がするのだ。助けるべき相手で  
ありながら、こちらこそが助けられている、と感じられ、なおさら、自分が強くあらねば、と  
奮起させられる。  
『君に会えるまで、あと四年か……』  
 先はまだ長い。が……言葉では表現できない、僕たちの間でしか成り立たない、この関係、この  
つながりは、これからも、絶えることなく……いや、いっそう強く、僕を励ましてくれるだろう。  
 静かに思いを馳せつつ、シークは修業時代の最後の眠りについた。  
 心温まる眠りだった。  
   
 ハイラル平原へと足を踏み出したシークは、そのあまりの変貌ぶりに驚いた。  
 荒野では目にしなかった奇怪な魔物が、平原には昼夜うろついており、シークの行く手を  
しばしば妨げた。最初はシークも大いに緊張したが、それほど強力な敵はおらず、戦闘の実技  
訓練にはちょうどよいともいえた。しかしその数はあまりにも多く、いちいち相手をしていると  
きりがなかった。敵の知能は低く、一定の距離をとっておれば襲われないことがわかったので、  
無駄な戦闘は避け、迂回して進むことにした。ただそのせいで、ハイリア湖までの行程には、  
当初の予想以上の日数を要した。  
 ハイリア湖は異常な状態にあった。シークがハイリア湖を見るのは、その時が初めてだったが、  
いかに異常であるかは容易にわかった。地形から見て本来の岸辺と想定される所から、実際の  
水際まで、かなりの距離があった。水量が減じているのだ。元の半分ほどの水位しかないように  
思われた。  
 シークは風景を見渡した。いくつかの小さな島。それらを結ぶ橋。橋のたもとに建つ廃屋。  
そして……  
 本来の岸辺とおぼしき場所に立つ、数本の石柱。それらは何かの遺跡のようであり、遺跡という  
言葉は、すぐに神殿を連想させた。  
『ここに神殿が?』  
 石柱の並ぶ方向へ目をやる。湖岸の傾斜が水にもぐってゆく、その先には……  
 
 背後に気配を感じた。シークは湖から注意を引き戻し、その気配に神経を集中させた。が、  
危険な兆候は感じ取れなかった。  
 ふり返ると、一人の老人がゆっくりと歩み寄ってくるところだった。老人はシークのそばまで  
来て立ち止まり、穏やかな声で言った。  
「ここに人が来るのは、ずいぶんと久しぶりじゃの」  
 こちらも人に会うのは三年ぶりだ。けれども懐かしさより警戒心が先に立つ。  
 シークは目の前の老人をすばやく観察した。驚くほど醜い顔だが、表情には落ち着きがあり、  
軽い笑いが愛嬌さえ感じさせる。敵意はないようだ、と判断して、シークは初めて身体の力を抜いた。  
 逆にこの老人は、僕を警戒しないのだろうか──と、シークは不思議に思った。  
 ハイラルの南西の端にあたる、このような僻地へ、まだ子供の域を脱していない人間が、一人で  
やって来ているのだ。格好も異様に見えるだろう。白い布を頭に巻いて帽子代わりにし、同じく  
白い布で口元を覆い、のぞいているのは前髪と目だけという状態だ。おまけに服には奇妙な模様が……  
「お前さん、シーカー族かな」  
 シークは驚いた。服に描かれたシーカー族の紋章。この老人はそれを知っている。インパの  
話では、その紋章の意味を知る者はほとんどいないということだったが……  
 笑みを崩さず、老人は言葉を続けた。  
「面白い話ができそうじゃ。来なされ。大したもてなしもできんがの」  
 シークの答えも待たず、老人はくるりと背を向け、廃屋と見えた建物の方へと歩き出した。  
 信用できそうな人物だし、知識も深そうだ。神殿や賢者のことで、何か聞き出せるかもしれない。  
三年の間に世間の情勢がどうなったのかも確かめておきたい。  
 腹を決め、シークは老人のあとについていった。  
 
 老人はみずうみ博士と名乗り、世を捨てて博物学の研究に携わっている変わり者だと、自嘲を  
まじえた自己紹介をした。博士がシークを警戒しなかったのは、その後の博士の話から、存在すら  
稀となったシーカー族の出現が、学者としての興味をそそったからだとわかった。もっとも博士は  
気さくな人物で、ゲルド族のような乱暴者でなければ、訪れた人が誰であっても、客として歓迎  
しただろうと思われた。博士のそのような態度は、シークを安心させた。  
 シークは自分の名前を告げ、まずはシーカー族についての博士の質問に対して、インパから  
得ていた知識をもとに、差し支えない範囲で答えてやった。それが一段落すると、博士はシークに  
異なった質問をした。  
「時に……お前さんはここへ、何の用があって来たのかな」  
 シークは自分にとっての本題を切り出した。  
「神殿を探しています」  
 博士の目が丸くなった。  
「神殿とは……このご時世に、のんきなことじゃの。まあ、わしの生き方も、人のことは言えぬ  
ほど、のんきなものじゃが……」  
 またも自嘲めいた笑いを漏らしたあと、博士は真顔になった。  
「神殿なら、ハイリア湖の湖底にあるぞ」  
 シークは緊張した。  
「お前さん、湖畔の石柱を見ておったな。あれが並ぶ先にある小島の奥底に、水の神殿がある、と  
言われておる。水の底だけに、わしも確かめたわけではないがの」  
 予想は的中していた。ここに神殿があるのだ。ならば、賢者は……  
 賢者は神殿と密接な関わりがある。水の神殿に関わる人物が、この地に住む者の中にいると  
すれば……みずうみ博士が賢者──『水の賢者』なのだろうか。知識の深い老人。確かに賢者  
らしくもある。けれども博士は、神殿があることを知ってはいるが、存在を確認してはいないという。  
関わりとしては弱いように思われる。  
「ここには、博士の他に住んでいる人はいないのですか?」  
 飛躍した問いを、博士は奇異に思ったようだが、それでも答は返ってきた。  
「いまは、わし一人じゃ。以前には、釣り堀を営む親父がおったがの」  
 シークはさらに考えを進め、別の方向から訊いてみた。  
「その神殿は、誰が、何の目的で建てたものなのでしょう」  
「ゾーラ族が水の恵みに感謝するため、と言い伝えられておるな」  
 博士は即座に答えた。  
 ゾーラ族? 彼らが住むゾーラの里は、ここから遠く離れているが……  
 シークの疑問を見抜いたかのように、博士は説明を続けた。  
「このハイリア湖の水は、東のかた、遠くゾーラの泉に発する、ゾーラ川に依存しておる。  
ハイラルの水を司るのがゾーラ族なのじゃ。こことゾーラの里の間には、秘密の地下水路もあると  
いうし、ハイリア湖とゾーラ族の関わりは、昔から密なものがあったといえるじゃろうな」  
 関わり。偶然にも、自分の思いと博士の言葉が合致した。  
 ハイリア湖とゾーラ族の関わり。水の神殿を建てたのはゾーラ族。では『水の賢者』は、  
ゾーラ族の中に?  
 シークの胸は高鳴った。が、その高鳴りは、続く博士の話によって水を差された。  
「いまでは湖の水も、ずいぶん減った。ゾーラの里が凍りついてしまったせいでな」  
「凍りついた?」  
 思わずシークは博士の言葉を繰り返した。  
「知らなんだか? もう三年近く前になるかの。ゲルド族との戦いの最中に、どういう経緯か  
わからんが、ゾーラの里は全域が厚い氷に閉ざされてしもうた、ということじゃ」  
「ゾーラ族は……彼らはどうなったのです?」  
 声が上ずっているのが自分でもわかった。博士は沈鬱な声で言った。  
「全滅した──と聞いておる」  
 シークは茫然となった。  
 かつてカカリコ村の王党軍は、対ゲルド族戦を控え、ゴロン族、そしてゾーラ族と共闘した。  
僕もゾーラの里へ使いに行ったことがある。あのゾーラの里が……ゾーラ族が……全滅しただって?  
では『水の賢者』がゾーラ族であったとしても……それはすでに……  
 
 惑乱する心を必死で抑え、シークは博士に、この三年間の世情の変化を教えてくれと迫った。  
自分も直接見聞したわけではないが、と断った上で、博士は知る限りのことを語ってくれた。  
その内容はシークを打ちのめした。  
 ゾーラの里の悲劇に先立つ、デスマウンテン大噴火とゴロン族の滅亡。カカリコ村の陥落。  
ゲルド族のハイラル平原移住。そしてガノンドロフによるハイラル支配体制の確立。  
 シークは言葉もなかった。やっとのことで、カカリコ村の王党軍の指導者はどうなったのか、と  
訊ねたが、博士はそれを知らなかった。  
 動揺が博士に伝わっていることは明らかだった。しかし語り終わった博士は、しばらく沈黙を  
保っていた。時間が経つうちに、それが博士の思いやりだとわかり、シークは徐々に落ち着きを  
取り戻した。その様子を察してか、博士は改めてゾーラ族のことを話題にした。  
「ハイリア湖とゾーラ族の関わりが密じゃと、さっきは言うたが、それも近年は薄れておった  
ようでな。ゾーラ族が水の神殿を訪れることもなくなっておった。わしがここで会ったゾーラ族も、  
ただ一人だけじゃったよ」  
「誰です?」  
 シークは機械的に訊ねた。  
 こちらがゾーラ族に興味がありそうな態度を示したので、そういう話をしてくれるのだろう。  
だが、ゾーラ族が滅んでしまったのなら、そんな話はもう……  
「ルト姫じゃ。ゾーラ族の王女じゃよ。地下水路を通って、時々ここへ来ておった。わしが神殿の  
ことを聞いたのもルト姫からじゃが、ルト姫自身は神殿には全く興味がないようじゃったな。  
王女というても、とにかくおてんばな女の子で……」  
 懐かしみの色が博士の顔に浮かんでいた。  
 ああ、あの──とシークは思い出した。会ったことはないが、カカリコ村にいた時に、その  
名前は聞いたことがあった。  
「そうそう、ルト姫が最後にここへ来た時には、どこかの少年と一緒での。この二人がまあ、  
まことに面白い組み合わせじゃったわい」  
 いかにもおかしそうに、くつくつと笑う。と、表情に深い翳りが差す。  
「あれ以来、ルト姫の消息は聞かぬ。あの少年も、いまはどこでどうしておることやら……確か、  
名前は……リンクというたかな」  
 どきっとした。ここでその名前を聞くとは思ってもみなかった。が、インパから聞いていた話を  
思い出して、シークは納得した。  
 リンクは『水の精霊石』を求めて、ゾーラ族に接触したはず。その時のことなのだろう。  
「面白い組み合わせ、というのは?」  
 妙に気になって、シークは問いを重ねた。博士の顔に笑いが戻った。  
「リンクはキングゾーラ──ルト姫の父親に頼まれて、ここへルト姫を迎えに来たんじゃが、  
ルト姫はお姫様だけあって、ずいぶんと態度が大きゅうての。リンクはかなり頭にきておったよ。  
ところが反面──ゾーラ族は常に裸で暮らしておって、それはルト姫も同じなわけじゃが……」  
 そこで博士の笑みがいっそう大きくなった。  
「年頃の娘の裸を見て、リンクはたいそう動揺しておったわい。そのウブなあたりが微笑ましゅうてな」  
 なぜか、胸がちくりと痛んだ。シークはそれを意識しないよう心を抑制し、リンクの名前だけに  
思いを集中させた。  
 勇気。  
 その言葉が、頭の中を駆けめぐる。  
 そうだ。失望するのはまだ早い。『水の賢者』が死んだと決まったわけではない。それに神殿は、  
まだ他にも……  
「シーク」  
 博士が呼びかけてきた。顔から笑いが消え、真剣な表情になっていた。  
「それで、お前さんの目的は、いったい何なんじゃ? なぜ神殿に興味を持つ? ここ数年の  
世界の変化を知らんとは、なんとも浮世離れした生活を送ってきたようじゃが、どこで何をして  
おったんじゃ?」  
 シークは黙っていた。博士はシークをじっと見つめていたが、やがて目をそらし、肩をすくめた。  
「言いたくないなら、言わんでもいい」  
「すみません」  
 それだけ答えた。博士は再びシークに視線を戻し、微笑んだ。  
「気にしなさんな。簡単に口にはできんような事情があるんじゃろ。お前さんの様子を見ておれば、  
何となく察しはつく。じゃが、わしにできることなら、力になるぞい」  
 シークは心の中で博士に感謝し、そして詫びた。  
 親切な人だ。だが僕の使命は、あまりにも重い。博士の洞察のとおり、軽々しく話せることでは  
ないのだ。  
 
 その使命を果たすために、これからどうしたらいいだろうか──と、シークは思考をめぐらせた。  
 残る四つの神殿のうち、多少なりともあてがあるのは、二つだ。  
 高き山は、デスマウンテン。砂の女神は、『幻影の砂漠』。  
「お言葉に甘えることになりますが、教えてください」  
 と前置きし、シークは博士に質問した。  
「あなたは世を捨てたと言われましたが、世間のことをいろいろとご存じです。よそへ出かけて  
ゆくことがあるのですか?」  
「以前はしょっちゅう旅に出ておったよ。さすがに最近はそうもいかんが、それでもちょくちょくは  
出かけておる。さっきお前さんに話したことも、出かけた先で聞きかじったことの寄せ集めじゃ」  
「旅をする上で、気をつけておくべきことがありますか?」  
「お前さん、旅をするのか?」  
 博士は興味深そうな視線を送ってきたが、シークの返答を待つことなく、話を続けた。  
「ハイラル平原の西の方へは、足を踏み入れぬがよい。ゲルド族の支配領域じゃからの。住民は  
奴隷にされて、ずいぶん悲惨な目に遭わされておるらしい。下手をうてば、お前さんも同じ運命じゃぞ」  
「ゲルド族はこのあたりへも?」  
「いや、ここへはめったに姿を現さんな。以前、奴らが来て、この家をめちゃめちゃに荒らして  
いったことがあったが、幸い、わしは留守にしておった。釣り堀の親父は、その時に殺されたんじゃ」  
「東の方は、どういう状態でしょうか」  
「魔界じゃよ」  
 博士はぽつりと言った。  
「このへんもそうじゃが、空が常に暗雲に覆われておるせいか、生物の分布が狂ってしもうてな。  
ゲルド族の支配が厳しくない代わりに、昼も夜も魔物がうようよしておる。お前さんも、ここへ  
来る途中で見たじゃろう」  
 シークは黙って頷いた。  
「慣れぬ人間にとっては、危険きわまりない相手じゃが、奴らの習性を知っておれば、大して  
怖れる必要もない。わしが外へ出かけていけるのも、それを知っておるからじゃよ」  
 ここまでの旅で自分がとった行動を思い出し、シークは博士の言葉に心で同意した。  
 曇天が続く件は、荒野にいる頃から疑問だったが、博士は、科学的には説明できない、と言った  
だけだった。  
「で、どこへ行く? 別に答えんでもよいがの」  
 飄々とした声で博士が訊いた。シークは率直に答えた。  
「カカリコ村へ」  
 西へ向かえないのなら、デスマウンテンを調べてみよう。噴火したとのことだが、手がかりは  
あるかもしれない。  
 インパのこともある。  
 別れの前にインパはこう言った。「私は、この戦いで、命を全うできないだろう」と。  
 カカリコ村が敗北した以上、インパが生きている可能性は限りなくゼロに近い。が、それでも……  
かりそめにも「母」であった人の運命を、確かめないわけにはいかない。  
「カカリコ村か……」  
 博士が目を細め、またも懐かしみの色を顔に浮かべた。  
「あそこの薬屋の婆さんとは昔なじみでの。わしもだいぶ前に訪ねたことがあるが……平和で、  
住み心地のよさそうな村じゃったな……」  
 自分の知らない頃の話だ、とシークは思った。  
 僕がカカリコ村にいた頃は、すでに戦乱が目前に迫り、平和な雰囲気は失われていた。  
「いまはどうなっているか、ご存じですか?」  
「これも聞いた話でしかないが……」  
 博士の顔が曇った。  
「通商の中継地点となっておるため、ゲルド族に降伏したあとも、破壊されることはなかったと  
いうことじゃ。じゃがそのせいで、密貿易に携わるうさんくさい連中が、我が物顔で村に出入りし、  
風紀は悪くなっておるらしい」  
 カカリコ村もまた、暗黒に染まってゆく、この世界の流れの外にはいられないのか。  
 シークの心は重く沈んだ。  
 
 気が向けばまたいつでも来い、という博士の厚意を謝し、シークは旅を再開した。  
 ハイリア湖からカカリコ村まで、ハイラル平原を横切ってゆく旅は、荒野で暮らしてきた  
シークにとって、肉体的にはそれほどの苦労ではなかった。食料は自力で確保できたし、以前に  
インパから貰ったルピーもとってあった。魔物の跳梁はあったが、多くの場合、回避は可能で、  
戦闘は最小限にとどめることができた。  
 しかし精神的には苦しかった。村々は荒廃し、人々は疲弊していた。シークは心を痛めながらも、  
おのれの使命のことを思い、ひたすら先へと足を進めた。  
 もう少しでカカリコ村、というあたりで、雲が一段と厚くなり、やがて空から雨粒が落ち始めた。  
村に着いた時には土砂降りになっていた。  
 真夜中に近い時刻で、家々のほとんどは寝静まっていた。戸外に人の気配はなかった。村の  
現況について詳細を知ることは難しかった。  
 シークはまず、以前、自分が暮らしていた、インパの家へ行ってみた。窓から灯りが漏れていた。  
中をうかがうと、色黒の女が数人、退屈そうにたむろしていた。見たのは初めてだったが、  
かつて聞いた話の記憶と合わせると、彼女らがゲルド族であることは明らかだった。シークは  
そっとその場を離れた。  
 激しい雨の中、周囲に注意を払って村の奥へと向かいながら、シークは考えた。  
 ゲルド族は村に常駐しているようだが、人数は多くはない。緊迫感はなく、だらけているように  
見えた。外にいても発見される危険性は低いだろう。が、これからどうするか。  
 右手に空き地が見えた。その隅に板葺きの薪置き場があった。とりあえずそこで雨宿りしようと、  
シークは空き地に入った。  
 薪置き場の屋根の下にもぐりこもうとした時、すぐ近くにある、空き地に面した家の戸が、  
いきなり開いた。シークはどきりとしてそちらを見た。戸口に人が立っていた。薪を取りに出て  
きたところなのか。こちらの気配は絶っていたが、偶然のことで避けようがない遭遇だった。  
「誰?」  
 戸口の人物が鋭い声を発した。家の中からの光を背にしており、顔はよく見えない。だがその  
声とシルエットから、女だとわかった。  
 どうやってこの場を切り抜けよう──と緊張した瞬間。  
 思い出した。  
 そうだ。この空き地……いや、この庭……そしてこの家は……  
 シークは緊張を解いた。数歩、戸口へと歩み寄った。顔が見えた。  
 アンジュだ。間違いない。  
 口元を覆った布を引き下げ、顔をあらわにする。警戒心に満ちたアンジュの表情が、はっと動いた。  
「……ひょっとして……シーク?」  
 二人はしばし無言で向かい合っていた。と、またアンジュの表情が動き、  
「入りなさい。ずぶ濡れだわ」  
 身体が戸口の片側に寄せられた。シークは黙ってその招きに応じた。  
 
 戸をくぐると、そこは台所と食堂を兼用する部屋だった。シークが中へ入ったところで、  
アンジュは勝手口である戸を閉め、  
「久しぶりね」  
 と小さな声で言った。シークは改めてアンジュの顔を見た。  
 三年ぶりの再会だった。が、その顔は、アンジュがそれ以上の時の流れを経ているかのような  
印象を、シークに与えた。前のような生彩ある若々しさが薄れていた。かつてはほとんどして  
いなかった化粧を、いまは濃いともいえるくらいにしているが、それは素顔を無理に隠そうとする  
感じだった。実際の顔色はもっと悪いに違いない、とシークは思った。  
 室内を見回す。貧しげで、古びた様子だった。夕食が終わってそのままなのだろう、一人分の  
食器がテーブルの上に放置されていた。台所の流しに洗い物が溜まっていた。流しの下の床には  
酒瓶が数本並んでいた。  
 アンジュは一人で暮らしているらしい。三年前は家族と一緒だった。あの婚約者と結婚したの  
でもないようだ。彼らはどうなったのか。  
 シークはそれを推測できた。  
「とにかく身体を拭きなさい」  
 アンジュは隣にある別の部屋へとシークを案内した。  
「服を脱いで。とりあえずこれで暖まるのよ」  
 シークは軽く頭を下げ、手渡された毛布を受け取った。  
「晩ご飯は?」  
「すませた」  
 アンジュの問いに、シークは短く答えた。それが初めて発した言葉だった。素っ気ない返事  
だったが、アンジュは微笑むと、  
「じゃあ、お茶を入れてくるわね」  
 と言い、部屋を出ていった。  
 シークは部屋の中を観察した。そこは寝室で、全体に華やいだ雰囲気が感じられた。ベッドは  
清潔で、壁紙やカーテンの色調は明るかった。箪笥や棚の上には、ちょっとした装飾品が並べ  
られていた。女性の寝室とはこういうものか、と、シークは胸の中で独り言ちたが、先ほどの  
古びた部屋と釣り合わないのが不自然にも思われた。  
 棚の上に奇妙な品があった。  
 竪琴。  
 本物の竪琴だ。他の装飾品と一緒に並んでいるのが奇異に思えるほど、それは不思議な存在感を  
放っていた。  
 アンジュが戻ってきた。手にした盆には、ポットと二人分のティーカップが載っていた。濡れた  
格好のままでいるシークを見て、アンジュはあきれたような表情になり、やや強い調子で言った。  
「どうしたの。風邪をひくわよ。さあ、早く服を脱いで」  
 少しためらいがあったが、シークはその言葉に従った。  
 
 シークが頭に巻いた白い布を解き始めるのを見てから、アンジュは暖炉に歩み寄った。火を  
おこしながら、記憶にある過去のシークと、いまここにいる現在のシークとを、感慨深く比較する。  
 三年の間に大きくなった。だんまりなのは一向に変わっていないけど。  
 薪に火がついたのを確かめて、アンジュはシークに視線を戻した。  
 衝撃を受けた。  
 三年という時間は、予想以上の成長をシークにもたらしていた。  
 金髪が垂れかかる顔。鋭い目に象徴される、端正な面立ちは変わらない。が、いまは表情の  
そこここに、かつてはなかった強さと厳しさが染みついていた。ぴったりと身についた服を着、  
露光部を白い布で覆っているためか──そして曇り続きの天候のせいもあってか──ほとんど  
日焼けはしておらず、限りなく白に近いその肌は、眩しささえ感じられるほどだった。体型は細く  
しなやかであり、ただし適度に筋肉もつき、均整がとれていた。  
 これまで多くの男の裸を見てきたアンジュだったが、これほど美しい裸体を見るのは初めてだった。  
 子供という意識で気にもかけず、服を脱げと言った自分のうかつさ。しかしその結果は  
アンジュを魅了した。  
 もう子供ではない。さりとてまだ大人でもない。子供と大人の中間。思春期の少年。男を  
ほころばせつつも、いまだ中性的な純粋さを──特にシークにはその色合いが濃いと感じられたが  
──全身に残している。  
『わたしったら、何を考えているの』  
 大きく歳の離れた少年に対して──と、自らを戒める。  
 が、印象はあまりにも強烈だった。大人の男からは決して得られない印象だった。これまで  
自分が知らなかった、独特の魅力。  
 いや……  
 初めてではない。似たような感覚を、どこかで経験したことがある。  
 何だったかしら……あれは……確か……  
「ありがとう」  
 アンジュは我に返った。シークが毛布を身にまとって立っていた。  
 その言葉で追憶は心の隅に押しやられ、再びシークに注意がいった。アンジュは暖炉の近くの  
椅子を勧め、シークはそれに腰を下ろした。  
 濡れたシークの服を暖炉のそばに干しながら、アンジュの胸は、まだ波立っていた。シークに  
どう話しかけたらいいかと、頭が乱れた。  
 横目で見る。シークの視線は他へ向いていた。視線を追うと、棚の竪琴がシークの関心を惹いて  
いるのだと知れた。  
「ああ、それ……」  
 話をするきっかけに飛びついてしまった。  
「変わったものがあるでしょう。一晩の払いもできない客が、その代わりにって──」  
 アンジュはあわてて言葉を切った。  
 
 シークは気づかないふりをした。  
 うすうす察していたことだった。  
 アンジュの父親は大工、母親は薬屋だった。しかしアンジュ本人は、特に職業を持っては  
いなかった。いまもこの家で、商売の対象になるような何らかの物品を、アンジュが扱っている  
様子はない。  
 手に職もない若い女が、たった一人で生きていくために、何をしなければならなかったか。  
 アンジュの何に対して、客は金を払っているのか。  
 シークにはそれがわかった。  
 アンジュがやつれて見える理由、暮らしがすさんでいる理由、寝室だけが妙に華やいでいる  
理由が、それだった。  
 
 アンジュは自分の失言を後悔した。  
 知られてしまっただろうか。何も気づいていないような素振りだが、賢い子だから、悟られた  
かもしれない。  
 思い出す。  
 カカリコ村がゲルド族との戦争に破れた時、アンジュは家族すべてと婚約者を殺され、ガノンドロフの  
慰み者となった。いっさいの望みを絶たれ、ただ犯されるだけの日々だった。ガノンドロフが村を  
去る時、アンジュは放っておかれた。命が助かっただけよかった、ともいえよう。だがその後の  
生活が、それよりましだったといえるかどうか。  
 村人たちの目に、アンジュはどう映ったか。  
 密告で村の指導者を売った裏切り者の妹。  
 敵の首領に身を任せた女。  
 それらは決してアンジュの罪悪ではなかったし、むしろ同情されてしかるべきことであったのだが、  
村人たちにとっては触れたくない、アンジュにとっては触れられたくない、しかし両者ともに  
忘れることのできない、負の記憶でもあった。  
 アンジュは孤立した。  
 過去のしがらみを捨て、どこか他の土地で新たな生活ができるものなら、アンジュはそうして  
いただろう。が、生まれてからずっとカカリコ村で暮らしてきたアンジュは、ここ以外の土地で  
生きてゆくすべを持たなかった。簡単に旅ができる状況でもなかった。何よりも、アンジュに  
そのような気力がなかった。  
 その頃、村には、ゲルド族との通商を生業とする怪しげな商人たちが出入りし始めていた。  
自分が儲けられるなら誰がハイラルの支配者であろうと問題ないと考える、禿鷹のような連中  
だった。それに伴って、たちのよくない人間が増えてゆき、以前にはなかった酒場や賭博場が村に  
できた。  
 女は少なく、だが需要はあった。生きる目的もなく、しかし命を絶つほどの意志もなかった  
アンジュは、生活の困窮に耐えられず、捨て鉢な気持ちで、その需要に応じたのだった。  
 初めて客を取った時の屈辱と悲哀は、いまも忘れていない。結婚の約束をしていた、けれども  
死んでしまった彼との、ほんとうの別れを感じたのも、その時だ。  
 長い間、苦しみは続いた。  
 でも、もう慣れた。心の通じ合わない相手に抱かれることが、それほど苦にはならなくなった。  
所詮、他人の心などわからないのだ。他人に自分の心をわかってもらおうとも思わない。そう  
割り切らなければ生きていけなかった。  
 戦争で生き残った古くからの住人も、多くは村を去り、アンジュの過去を知らない人間が増えた。  
そのこともアンジュを気楽にした。  
 いまではこうして、つらい過去を振り返ることもできる。  
 だが……  
 シークに会ったことで、アンジュの心は動いた。  
 自分の境遇を知られても別にかまわない、と開き直る一方で、シークには知られたくない、  
という思いが湧くのを禁じ得ない。  
 シークは稀有な存在だ。堕ちる前のわたしだけを知っている。以前のわたしを思い出させて  
くれる。お茶を入れたのも、かつて村での戦闘訓練後に二人がもった、ティータイムの再現の  
つもりだった。そうすることで、あの頃のわたしに戻れるような気がして……  
 今晩、客は来ていない。その偶然を、アンジュはありがたいと思った。  
 
 アンジュの「商売」がわかっても、シークに格別の感慨はなかった。そうでもしなければ  
生きられなかったのだろう、と、冷静に思うだけだった。  
 言葉を切ったあと、アンジュは気まずそうに黙っていたが、やがて、何ごともなかったかの  
ように笑顔を作り、別の椅子に腰かけてシークと向かい合った。  
 二人は静かにお茶を味わった。  
「前にもこうしてお茶を飲んだわね」  
 アンジュが懐かしそうに言う。  
「そうだね」  
 ぽつりと答える。  
 沈黙がわだかまる。  
 シークはアンジュの顔を見た。  
 何か言いたげだ。目が何かを訴えている。しかし……  
 アンジュがどう思っているか知らないが、僕はアンジュに会いにきたわけじゃない。偶然の  
出会いだ。会うまでアンジュのことは忘れていた。  
 みずうみ博士は薬屋の婆さんを話題にしていた。アンジュの母親だ。それを聞いていながら、  
僕はアンジュのことを思い浮かべもしなかった。カカリコ村に着いて、アンジュの家の前まで  
来ても、そこがアンジュの家だと思い出せなかったくらいなのだ。  
 なぜ僕はアンジュを、ここまで徹底的に意識から追い出していたのか。  
 かつてのカカリコ村で、アンジュは僕に好意を示してくれる、数少ない人のうちの一人だった。  
アンジュとのティータイムは、僕にとって日々の安らぎだった。  
 そのティータイムの再現ともいえるひとときなのに、いまの僕の、この冷静さは、いったい  
どうしたことだろう。  
 冷静?  
 むしろ冷淡なのだろうか、僕は。アンジュに対して。  
 
 シークが寡黙であること自体を、アンジュは不思議とは思わなかった。前からそうだった。だが、  
いまのシークからは、それにとどまらないシークの感情が──いや、感情のなさが、というべきか  
──うかがわれるように思われた。  
「いままで、どうしていたの?」  
 会話を欲して、アンジュは問いかけた。問いかけてから、簡単に答えられるような問いでは  
なかった、と思いついた。  
 開戦前にカカリコ村を去ったシーク。理由は知らない。インパは何も説明しなかった。よほどの  
事情があったのだろうと推測するだけだ。そのよほどの事情を、シークが語ろうとするだろうか。  
 案の定、シークは黙ったままだった。  
 いたたまれない気持ちになった時、シークが口を開いた。  
「インパの……母さんのことを、アンジュは何か知っている?」  
 こちらの問いへの答ではなかった。それでも初めてシークから会話を求めてきたのだ。ほっとした。  
が、今度はこちらの方が、簡単には答えられない問いを受けてしまった。  
「……戦争で亡くなったわ」  
 それだけ答えた。  
 インパが、ガノンドロフにどんな陵辱を受けたか。どんな最期を迎えたか。その場にいたわたしは  
知っている。でも、そこまでシークに話すことは、到底できない。自分自身、思い出したくもない  
ことなのだ。夢に見て飛び起きた経験も、一度や二度ではない。  
 シークがため息をつく。けれども驚いてはいない。インパの死を予想していたのだろうか。  
だとしても、どうしてここまで落ち着いていられるのだろう。  
 ややあって、シークは別のことを訊いてきた。  
「デスマウンテンに、神殿があるかな」  
 話題の転換にとまどったが、アンジュは素直に返事をした。  
「さあ……知らないわ。ゴロン族なら知っていたでしょうけど、噴火で滅びてしまったし……」  
「デスマウンテンに登れるだろうか」  
「とても無理よ。噴火が続いていて、近づけないわ」  
 シークは沈黙に戻った。  
 会話の途切れが残念だった。が……  
「……神殿……」  
 以前にその言葉を聞いたような気がする。いつ? どこで?  
「何か?」  
 シークがいぶかしげに眉を寄せる。答えたい。答えてあげたい。なのに……なのに……思い  
出せない……  
「いいえ……別に……」  
 そう言うしかない。だけど、もっと会話を続けたい。  
「シークはどうして神殿のことを?」  
 間を置いて、シークは答える。  
「事情があって、各地の神殿を訪ねているんだ」  
 続きを待つ。待つ。  
 続かない。その事情を、シークは語ろうとはしない。  
「そう……」  
 再び会話が途切れる。  
 やっぱりだんまりなのね。  
 シークは礼儀正しかった。でも、心は開かない。それはいまも同じ。何を考えているのか  
わからない。シークの心がわからない。神殿に関心はあっても、わたしのことには何の関心も  
ないかのように。それが哀しい。わたしが触れ合いを求めているのに。  
 アンジュは自分自身に驚いた。  
 他人の心などわからない。他人に自分の心をわかってもらおうとも思わない。  
 そのはずではなかったか。  
 
 アンジュの問いには答えられない。アンジュの思いには応えられない。  
 僕は自分を表に出さない性格だ。特にいまは、使命のことを思うと、なおさら自分を抑えなければ、  
と思う。  
 しかしそれだけでは説明できない。僕のアンジュへの、この抑制されすぎた感情。  
 理由は?  
 胸をちくりと刺す痛み。みずうみ博士からルト姫のことを聞いた時と同じ痛みを、いま僕は  
感じている。  
 その時、記憶が立ちのぼった。  
 リンクとアンジュの間に何があったのか。  
 それだ。  
 以前、村にいた時、アンジュが僕にリンクの話をしていて、追憶にふけりながら、自分の胸を  
触ったこと。それだけのことが、あの時の僕には大きな問題だった。  
『リンクはアンジュに何をした? リンクはアンジュのことをどう思っていた?』  
 いまは、かつてのように混乱することはない。自分を抑えることができる。が、その……  
心配……疑惑……そこに火種が残っていることを否定できない。  
 僕は男なのだから、アンジュを妬んでいるわけではない。ないはずなのに……  
 
 自嘲をこめて省みる。  
 わたしはシークに何を期待しているのだろう。  
 わからなくてもいい。わかってもらえなくてもいい。ただわたしが、シークを通じて、あの頃の  
わたしを取り戻せるのなら。たとえそれが一時のことに過ぎないとしても。  
 さっき目にした、シークの裸身。  
 身体の奥に、妖しい衝動が湧き起こる。  
 触れ合おう。触れ合おう。この美しい少年と。あの美しかった日々を思って。いまのわたしを  
忘れて。汚れた経験ばかりを重ねてきたわたしを忘れて。  
 
 いや、やはりないはずだ。あってはならないことなのだ。  
 僕は男なのだ。アンジュへのこだわりを乗り越えるためには、インパと交わった時のように、  
アンジュに対して男になって……  
 
「もう遅いわ」  
 アンジュは言い、立ち上がる。  
 ベッドの枕元にある小さなテーブル。そこに置かれた蝋燭に、アンジュは火を灯す。  
「泊まっていくでしょ?」  
 部屋の灯りを、アンジュは消す。暖炉と蝋燭の光だけが、二人をほのかに照らし出す。  
 雨の音が強くなる。  
 
 アンジュはベッドの脇に立ち、暖炉に背を向ける。唾をごくりと呑みこんで、服の前ボタンを  
はずしていく。はずし終わって、袖から腕を抜き、脱いだ服をベッドの端にかける。  
 スカートに手をつけようとして、気が変わり、先に肩から下着の紐を落とす。上半身が裸になる。  
 両手で胸を覆い、首を後ろに向ける。暖炉の横で、椅子にすわったシークが、こちらを見つめて  
いる。ふり返り、身体の正面をシークに向ける。  
 ゆっくりと、両手を下ろす。  
 この感じ。胸だけをあらわにして、男に見せる、この感じ。  
 これまでも、時にはしてきたこと。でも、いまの感じは、ちょっと違う。  
 シークには……男の子には……こうする方が、いいような気がして。  
 なぜ?  
 初めてではない。再びその思いが……心の底に沈んでいた、その記憶が……  
 シークが立ち上がる。その行動で、アンジュの意識はシークに向く。続けてシークが、身体に  
巻いていた毛布を床に落とす。  
 全裸のシークがそこにあった。  
 暖炉の炎を受け、白い肌の上に影が揺らめく。たとえようもなく清らかで、そして、艶やかで。  
中性的な全身の中で、ただ股間の屹立が、はっきりと男を主張している。  
 ──なんて……きれいなの……  
 アンジュの身体はぞくりと震える。心の底の記憶のことは、もうどうでもいい。  
 スカートに手をかける。床へと落とす。下着を脱ぐ。一連の動作が性急になっている。  
 少しの距離を隔てて、全裸の二人が向かい合う。  
 アンジュはシークのすべてを見る。シークはアンジュのすべてを見る。  
 シークが歩み寄る。目の前に立つ。頭の先が、こちらの鼻の位置くらい。まだ低い。まだ小さい。  
 両手をシークの肩に置く。なめらかな肌触り。大人の男にはあり得ない、その感触を深く味わう  
前に、シークの両手が脇に触れる。ぴくっと身体が揺れてしまう。ちょっと冷たくて。だけど  
それが快くて。  
 シークが顔を寄せてくる。アンジュは顔を横に向ける。不自然にならないよう、そのまま身体を  
離し、ベッドに向かう。  
 ──キスは、だめ。  
 生きるために抱かれた男たちにも、キスだけはさせなかった。あれを口に含んでも、唇と唇を  
合わせることだけはしなかった。わたしの唇を知っている唇は、かつての彼の唇だけ。操を立てる  
というほど大げさなものじゃない。けれどそれが、あの日々への、わたしの思いの象徴なの。  
 ──その代わり、他のことを教えてあげる。  
 アンジュはベッドに入る。布団を持ち上げ、シークを誘う。シークがそこにすべりこむやいなや、  
その身体をすっぽりと腕で包む。  
 撫でる。撫でまわす。背を。腰を。尻を。  
 すべすべとした、柔らかい、その肌。ほんとうに、ほんとうに、心地よい。  
 シークがまた、顔を寄せてくる。  
 ──だめよ。  
 頭を押さえて、胸に埋める。と……  
 シークの唇が乳房に触れる。それが生き物のように蠢いて、徐々に先端へと移動してゆく。  
「あ……」  
 吸われる。乳首を。唇だけではなく、舌と、歯をも駆使して。  
 ──どうして……  
 反対の胸に手がかかる。手のひらが、指が、乳房の上を泳ぐ。  
「……は……あ……」  
 口と手が交代する。両の乳房をなぶられる。なぶられる。静かに。しなやかに。巧みに。そう、  
巧みに!  
 ──この子……まさか……  
 乳房に口と片手を残したまま、残った手が下へと降りてゆく。胸骨の上。鳩尾。臍。  
 手が恥丘にかかる。指が恥毛を梳る。さらに手は少しずつ……下へと……下へと……  
 
「あッ!」  
 ──来た!  
 服を脱ぐ時には、もう濡れていた。いまはもう、あふれかえっている。自分でもわかる。そこを、  
その場所を、シークの指がさまよう。いいえ、そうじゃない。目的を持って動いている。的確に。  
確実に。シークは知っている。どこがどうなっているのか、どこをどうすればいいのか、シークは  
知っている!  
「……あ!……う!……あぁ!……」  
 ──教えるつもりでいたのに。  
 日常の男たちは、こんな悠長なことはしない。あわただしく自分の欲求を満たすだけ。こんなに  
優しく触れられるのは、彼との営み以来、なかったこと。いま、シークは、彼のように……いいえ、  
彼よりも、もっと、上手かも……  
 ──このままだと……このままだと……  
 身を離す。乱暴ともいえる動きで、シークを仰向けにする。身体を下にずらし、シークの  
下半身に顔を近づける。  
 ぴんと立ち上がったシークの分身。握ると、手に隠れてしまいそうになる。まだ小さい。まだ  
熟さない。でも、それは、硬く、硬く、男を言い立てている。根元には、わずかな短い毛の群生。  
 握った手を上下させる。優しく。ゆっくりと。先端が見える。濡れている。小さな口から、  
透明な粘液が、こんこんと湧き出している。  
 それをそっと舌で掬うと、  
「うッ……」  
 シークが呻く。さらに唇をつけると、  
「あ……あ……」  
 シークが喘ぐ。すっぽりと口に含むと、  
「お! ああッ!」  
 シークが叫ぶ。  
 ──まだこれは知らなかったのね。  
 アンジュは技巧を尽くしてシークを攻めた。一気に達しないよう加減しながら、シークを弄んだ。  
シークは身体を硬くして、アンジュの攻めに耐えていた。もう少しというところで、アンジュは  
口を離し、顔を上げた。  
 ──もう、いいわ。  
 身体を上へとずらし、シークと向き合う──つもりだった。ところが今度はシークの方が下へと  
移動し、アンジュを仰向けにすると、いきなり股間に顔を押しつけてきた。  
「きゃあッ!!」  
 ほとばしる叫び。  
 シークの唇が、舌が、鼻が、顎が、動く。動く。動く。荒々しく。と思うと、忍びやかに。  
 ──すごい! すごい! どうして、こんなに……  
 そうだ。いまさっき、わたしがシークにやったこと。それをシークは覚えて、理解して、私に  
返してくれている!  
 これは、彼にされてから、一度もされていない。拒んだわけじゃない。汚れた女の汚れた場所に  
口づけようとする、物好きな男がいなかっただけ。  
 この姿。女の部分に男の口を迎えるこの姿。これこそが、これこそが、あの頃のわたしの姿なの!  
「ああぁぁん!……そうよ!……わたし……」  
 腰が揺れ、震え、ざわめき、踊り、  
「はぁッ!……そうなのぉぉ……あぁあ……もっと……」  
 シーツの上で、のたうちまわる。  
「もっとぉ……あぁん!……わたしを……はああぁぁぁッ!」  
 両脚を頭に巻きつけ、  
「わたしに……うあぁッ!……して……して!……してぇッ!!」  
 ぐいぐいと顔に押しつける。  
 ──いく! もうだめ! いきそう! いくわ!  
 
 シークの顔が離れた。  
 ──続けて!  
 と思う間もなく、シークがのしかかってきた。違うものがそこに触れた。押しつけられた。  
割りこんだ。入ってきた。  
「あッあッあああぁぁーーーぁぁッッ!!!」  
 ──いった! いったわ!  
 ──わたしに戻ったわたしがいったんだわ!  
 余韻は続かなかった。さらなる絶頂が、次から次へとアンジュを襲った。中に収まるものは  
さすがに小さめだったが、何の差し支えもなかった。  
 初めのうち、シークの動きは穏やかだった。それでもアンジュは叫びをあげて随喜した。動きが  
早くなるにつれて喜悦はますます高まり、アンジュは我を忘れて悶え狂った。  
 中心を絶え間なく突かれながら、両胸がまた、手と舌の愛撫を受けている。  
 のけぞり、頭を揺らし、なすすべもなく、アンジュは乱れる。  
 何度いったかわからない。  
 ぎゅっと閉じていた目を、かすかに開く。  
 わたしの上で、躍動する人影。  
 両腕でぐっと引き寄せる。  
 わたしの顔より下にある顔。きれいなシーク。美しいシーク。まだ小さいシーク。まだ大人に  
なっていないシーク。でも……でも……わたしを見る、その目は……  
 男の目。女を知っている男の目。  
「来てッ!」  
 腰を動かす。シークの攻めに合わせて。  
「あうぅッ!……突いてッ!……あぁんッ!……もっとッ!……」  
 ──何も気にせず、何も考えず、男に抱かれる幸せ。  
「はぁんッ!……いいッ!……とてもッ!……いいッ!……」  
 ──あの頃のように。彼に抱かれた、あの頃のように。  
「そうッ!……そうよッ!……ああッ!……すごいッ!……」  
 ──彼はいない。もういない。でも、いま、わたしの、わたしの上には……  
「シークッ!……来てぇッ!……もっとぉッ!……してぇッ!……」  
 ──そう、シーク! わたしを知っているシーク!  
「あぁんッ!……いいわッ!……シークッ!……シークぅッ!」  
 ──シークとなら! シークとなら! あの頃のわたしを知っているシークとなら!  
「キスしてッ!……シークぅッ!……キスしてえぇッッ!!」  
 
 シークの顔が迫る。待ちきれずアンジュは顔を上げる。ぶつかる唇と唇。歯と歯。舌と舌。  
 その瞬間。  
 至福の時が訪れた。アンジュに。  
 同時に。  
 男の部分が痙攣した。シークの。  
 強く、強く、抱き合う二人。  
 そこに、やがて、静謐の幕が下りた。  
   
 時が過ぎた。  
 二人はベッドに横たわっていた。  
 アンジュはシークの肩に腕を回し、シークの顔はアンジュの胸に触れていた。体毛の薄い、  
どこまでもなめらかな肌を味わいながら、アンジュはその肌の主のことを考えていた。  
 達しはしたが、射精はなかった。  
 やっぱりまだ子供なのか。恥毛が生えてくる歳なら、あってもおかしくはないのに。  
 でも、そんな子供に、わたしは熱狂してしまったのだ。シークに経験があるのは間違いないと  
しても、それよりずっと経験豊富なはずのわたしが。彼しか触れていなかった唇までも許して。  
 全身が火照った。しかしそれはなぜか、この上もなく快い火照りだった。  
 シークはどこで知ったのだろう。  
 記憶に残っていた。  
 兄が暴露した、インパとシークとの関係。あれが真実なのかどうか、わたしは疑っていたの  
だけど……  
「シーク……」  
 腕の中の少年に、そっと呼びかける。端正な顔が、こちらを向く。中が見えない、冷静な表情。  
 こんなことを訊いてはいけないとわかってはいたが、その冷静さを崩してやりたいという誘惑を、  
アンジュは抑えられなかった。自分を激しく乱れさせた年若い男への仕返しでもあった。  
「シークは、お母さんと寝たの?」  
 シークの目が見開かれた。  
 そこにあるのは……驚き? 動揺? それとも……  
 しばし無言を保ったあと、シークはアンジュに目を向けたまま、静かな声で言った。  
「僕は、やましいことは、何もしていないよ」  
 どういう意味だろう。  
 関係などなかったということか。それとも、ほんとうに母親と関係していて、開き直って  
いるのか。あるいは──さっきシークは母親のことを「インパ」と言いかけた──インパは実は、  
シークの母親ではなく……  
『どうだっていいわ』  
 暖かいものが胸を満たした。悪趣味な質問をしたことを悔いた。  
 シークはおのれを恥じてはいない。  
 見開かれたシークの目。そこに秘められた真摯な感情。それはあの頃と変わっていない。そう、  
シークは変わってはいない。  
 そんなシークを抱き、そんなシークに抱かれ、わたしは素直に自分をさらけ出すことができたのだ。  
 嬉しかった。  
 
 目的は果たした。  
 インパ以来の、まだ二度目の体験だったが、アンジュに対してしっかりと男になれた。そして、  
アンジュへのこだわりを乗り越えたと自覚できる。  
 だが……  
 乗り越えてみて、初めて見えてくるものがある。  
 アンジュはなぜ僕を求めてきたのか。何かを訴えていたアンジュの目。何を訴えていたのか。  
 いまはそれがわかるような気がする。  
 そんなアンジュに、僕はなんと独善的な行動を取ってしまったことか。  
 その時、  
「シーク……」  
 アンジュに呼びかけられ、インパとのことを訊かれた。  
「シークは、お母さんと寝たの?」  
 どうしてそのことを知っているのだろう、と、疑問に思ったが……  
 偽りのない返事をした。すべてを語るわけにはいかなかったが、アンジュは納得したようだった。  
 しばらくして、シークはアンジュに問いかけた。  
「母さんの墓はあるだろうか」  
「ええ」  
 夢見るような声で、アンジュは答えた。  
「村の墓地にあるわ」  
 ゲルド族はインパの遺体を放擲したが、ゲルド族の主力が去ったあと、残った駐留部隊の目を  
盗んで、心ある村人たちが、ひそかに遺体を墓地に埋葬したのだ、とアンジュは語った。  
「埋葬する作業がたいへんだったわ。ゲルド族に見つからないようにしなければならなかったし、  
ダンペイさんも戦争で死んでいたから」  
 シークはダンペイという墓守のことを覚えていた。村の墓地で戦闘訓練を受けていた時に、その  
姿を見たことがあった。  
「あの人とは、あまり話もしなかったけど、いつか……あ……」  
 アンジュの言葉が途切れた。目が空中に止まり、口が半開きになっていた。シークはいぶかしく  
思いながらも、言葉の続きを待った。  
「思い出したわ。神殿のこと」  
「神殿?」  
 驚いて問い返す。  
「ダンペイさんが言ってたのよ。カカリコ村に神殿があるって」  
「どこに?」  
「わからないわ。自分しか知らない所だって言ってた」  
 どこだろう。ダンペイしか知らない場所。墓地? 墓地なのか?  
 屍の館!  
「では、賢者は……」  
 思わず声に出してしまう。  
「賢者?」  
 アンジュの声。奇妙な響き。  
「そう、神殿には賢者が関わっていて……アンジュ?」  
 様子がおかしい。  
「賢者……賢者……『闇の賢者』?」  
「何だって? 賢者のことを知っているの?」  
「ええ……覚えがあるわ……確か……そう、ゲルド族の誰かが……インパ様のことを『闇の賢者』  
だって」  
 
 ばっと身を起こした。興奮のために、そうせずにはいられなかった。それだけでは足らず、  
シークはベッドを出て、寝室の中をせかせかと歩き回った。  
 何という皮肉。賢者を捜せと言った、そのインパ本人が賢者だったと?  
「どうしたの?」  
 はっとして立ち止まる。アンジュが上半身を起こし、唖然とした顔をしている。  
「いや……」  
 場所の見当が全くつかなかった神殿──賢者の名からすると、闇の神殿というべきか──その  
場所がおおよそわかった。それはいい。しかし……  
 頭から血が引いてゆく。  
『水の賢者』については、まだかすかに望みがあった。ところが『闇の賢者』──インパの場合は  
……もう全く望みはない。  
 膝が崩れ落ちそうになり、シークはやっと踏みとどまった。  
 すべてが終わったわけではない。僕の使命がなくなってしまったわけではない。  
 シークは耐えた。目を閉じ、長い時間をかけて、激動する思いを抑えていった。  
 やがて心は静まった。が、それは果てしなく重い状態での静止だった。  
「大丈夫?」  
 またアンジュが言った。気遣わしげな声だった。  
「気にしないでくれ」  
 言った直後に、しまったと思った。いかにも邪険な台詞に聞こえただろう。  
 アンジュは僕を心配してくれている。それに、いかに悪い知らせとはいえ、アンジュのおかげで  
新しい情報が得られたのだ。  
 アンジュに感謝しなければ。  
 ふと、棚の上の竪琴が目に入った。それが気になった。自分にとって重要なものだという、  
不思議な感覚。  
 棚に歩み寄り、竪琴を手に取る。  
「弾けるの?」  
 アンジュが問う。  
 弾けるはずもない。だが……弾けないはずの僕の手が、竪琴を自然に構えている。僕の身体に  
しっくりと馴染んで。  
 しばらくシークは、そのままの体勢でいた。  
 そのうち、ひとりでに指が動き、あるメロディを奏で始める。  
 この曲は? 知らない。知らないはずなのに、なぜか懐かしいような……  
「きれいな曲ね」  
 アンジュが呟く。  
「何ていう曲?」  
 知らない、と、答えようとした口が、勝手な言葉を紡ぎ出す。  
「子守歌」  
 それだけじゃない。『誰か』の子守歌。  
 けれども、それ以上は、思い出せない……  
「そう……」  
 アンジュがまた、横になる。  
「……聴いていると……心が……安らぐわ……」  
 声が、小さくなる。  
 やがてアンジュが寝息をたて始めるのが聞こえ、シークは竪琴の弦を弾く指の動きを止めた。  
おのれの口元が緩み、自然に微笑みがこぼれるのを、シークは自覚した。  
 ほんとうに子守歌だ。  
 シークもまた、その曲に癒されていた。自分でも忘れていた自分自身を、思い出させてくれる  
ような気がした。すべてがあるべき所に収まっているという感覚は、しっかりと保たれたまま。  
 くじけまい。  
 リンク、君の勇気を僕に……  
 そしてアンジュ。  
 リンクとの関係を抜きにして、いまはアンジュをアンジュとして見ることができる。  
 竪琴を棚に戻し、シークはベッドに入った。眠るアンジュの傍らに身を横たえ、頬に接吻した。  
そして自分も眠りについた。  
 
 翌日には現実が待っていた。  
 シークはデスマウンテンへ向かうことにした。アンジュは危険だとは言ったものの、シークの  
意志が固いのを察してか、それ以上、強く引き止めようとはしなかった。村にいるゲルド族の  
動向が気になったが、日中でも戸外に彼女らの姿は見えなかった。最近は平穏で見回りもろくに  
していない、とアンジュは教えてくれた。シークは容易に登山道へ出ることができた。  
 雨は上がっていたが、そこからの行程は困難を極めた。道はないに等しく、たちこめる火山灰で  
視界はきかなかった。進むにつれ、不気味な炎の帯に取り巻かれた山頂から、次々に火山弾が  
飛来した。ついには熔岩の海に行く手を阻まれ、どうにもならなくなった。神殿など影も形も  
なかった。やむなくシークは山を下った。  
 カカリコ村へ戻ったのは、日が暮れる頃だった。勝手口からアンジュの家に入ると、台所にいた  
アンジュは、寝室の方をちらりと見ながら、言いにくそうに、二、三時間、はずしてくれないか、  
と頼んできた。シークは黙って頷き、再び外に出た。  
 曇った空はすでに暗く、あたりを舞う火山灰が、暗さをいっそう際だたせていた。生ぬるい風が、  
人影もない村の中を吹き過ぎていた。酒場とおぼしき一軒の家から、享楽的な馬鹿騒ぎの声が  
聞こえてきたが、それがかえって村の荒れた雰囲気を強調しているように思われた。  
 シークは墓地を訪れた。アンジュから聞いていた場所に足を向け、それほどの困難もなく、  
インパの墓を見つけた。墓標は小さく質素で、村を率いて戦った指導者の墓にしては、何とも  
寂しいものに感じられた。が、ゲルド族の目を避けるため、意識的にそう作られたのかもしれない、  
と思い直した。  
 シークはそこに立ちつくし、かつてのインパの姿を脳裏に浮かべていた。  
 南の荒野で僕を救ってくれたインパ。僕に使命を教えてくれたインパ。僕の前で女になり、僕を  
男として旅立たせてくれたインパ。  
『あなたが賢者だったとは……』  
 それがわかっていたら、どれほど使命の遂行は容易になっただろう。  
 だが、これも運命なのだ。  
『そういえば……』  
 墓地にあると思われる、闇の神殿。それはいったいどこに……  
 周囲を見回しかけたが、すぐに心は沈んだ。  
 もう遅い。『闇の賢者』は死んでしまったのだ。神殿を見つけられたとしても、もはや意味はない。  
 いや、それでも──と、シークは思う。  
 気がついていたことが一つある。  
『闇の賢者』はシーカー族のインパ。そして『水の賢者』はゾーラ族ではないかと思われる。  
その他は……  
 高き山。それがデスマウンテンなら、関係するのはゴロン族。  
 砂の女神。『幻影の砂漠』に関わるのは──敵ではあるが──ゲルド族。  
 ハイラルの外郭に住む各部族の中に、一人ずつ賢者がいる。  
 ということは、残る一つの神殿、深き森とは……  
 コキリの森。賢者はコキリ族。  
 インパはすでに亡い。ゾーラ族とゴロン族は滅びてしまった。ゲルド族との接触は困難だろう。  
 望みは乏しい。しかし、かすかにでも望みが残っているのなら、それに賭けるしかない。  
『コキリの森を訪ねてみよう』  
 シークは重い心を励ました。  
 
 三時間待ち、さらに一時間ほど待って、シークはアンジュの家に戻った。寝室の窓に寄り、  
人の気配がないのを確かめてから、庭にまわって勝手口をあけた。  
 椅子にすわり、テーブルに突っ伏していたアンジュが、顔を上げた。  
「……ごめんなさいね」  
 疲れた声だった。  
「晩ご飯は?」  
「すませた」  
 昨晩と同じ会話だな、とシークは思った。が、そこから先は同じではなかった。  
 アンジュが言った。  
「今夜も泊まる?」  
 控えめな言い方だった。昨晩に比べて、熱意が低いように思われた。  
 僕がここにいると、アンジュの「商売」の邪魔になる。いかに卑しい「商売」であっても、  
アンジュはそれで食べていかなければならないのだ。それをやめろ、とは、僕には言えない。  
言う資格がない。いまの僕では、アンジュを救うことはできない。  
 それに、僕には……使命がある……  
「いや……」  
 シークは言う。  
「もう行くよ」  
 アンジュは目を伏せる。間を置いて、ぽつりと言う。  
「そう……」  
 
 夕方、わたしが、はずしてくれ、と言った時、シークの顔に疑問の色はなかった。シークは  
悟っていたのだ。わたしがどうやって生計を立てているのかを。  
 不潔な女だと思われているだろう。  
 だから、いまも強くは誘えなかった。ましてや客に抱かれたすぐあとでは、断られてもしかたがない。  
 やっぱり、あの幸せは、一夜限りの夢だったんだわ……  
 いや、それでも──と、アンジュは思う。  
 シークは何も語らない。けれども、神殿をめぐる話から、察せられる。  
 シークには何かの使命がある。まるで大きな重荷を背負っているかのように、しかし目には  
未来を見つめる確かな意志をみなぎらせて。そう、それは三年前となんら変わることのない、  
シークの進むべき道なのだ。  
 何かできないだろうか、シークのために。  
「要るものはある? お金は? 食べ物は?」  
 急きこんで訊く。  
 シークは首を横に振る。  
 何もできないの?  
「よかったら……」  
 シークが言い出す。  
「あの竪琴を貰えるだろうか」  
 不思議に思ったが、  
「ええ、いいわ。わたしが持っていても、役には立たないから」  
 アンジュは寝室から竪琴を持ち出した。シークはそれを受け取り、簡潔に礼を言った。  
 沈黙が落ちる。  
 シークが何ごとか言いたそうに表情を動かした。が、その表情はすぐに元へと戻り、少しの間を  
はさんで、短い言葉が口から出た。  
「さようなら」  
 アンジュもまた、短く応じた。  
「さようなら」  
 シークは、なおもアンジュに目を向けていた。鋭いはずのその目に、優しく哀しい色がひそんで  
いるように思えた。だがそれは束の間のことで、シークはついと背を向けると、勝手口から外へ  
出ていった。  
 アンジュはひとり残された。  
 ゆっくりと椅子に身を沈め、この一日のことを考える。  
 わたしはシークを求めた。けれどシークを求めながら、わたしは実は、シークに投影された、  
過去の自分を求めていた。シークのために何かできないか、という願いも、変わらないシークを  
支えることで、昨夜に続いてもう一度、あの頃のわたしに戻れるのではないかと思ったから……  
 では、シークはわたしに何を求めていたのだろう。そもそも、何かを求めていたのだろうか。  
 アンジュは首を振る。  
 二人の思いは、ずっとすれ違っていたような気がする。  
 それもしかたがないだろう。あまりにも生きる道が異なっている二人だから。  
 でも……  
 竪琴。  
 あれがシークの役に立つのなら……あれが二人の絆といえるのなら……  
『また会うことも……あるかもしれない……』  
 涙がひと筋、アンジュの頬を伝って落ちた。  
 悲しいせいなのか、嬉しいせいなのか、それはアンジュ自身にもわからなかった。  
 
 
To be continued.  
 
 
 

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