月は、まだ東に寄っていた。常には頼りないその光も、満月である今夜は、厚い雲を通しても
なお、おぼろな明るみとなって地上に到達している。南から西にかけては、珍しく雲が切れており、
一つの星が、陰からの月光に耐え、小さな銀色の輝点として、存在を主張していた。
あの満月が雲の切れ目に達し、南中する時。それが真夜中。日が変わり、わたしは十六歳となる。
空を見ながら、ゼルダは思った。
ハイラルの東の果て。鬱蒼とした木々に囲まれ、外界から隔絶されたように、ひっそりとある、
泉のほとりに、ゼルダはひとり、すわっていた。
リンクの誕生日は、わたしのそれよりも、少しだけ遅い。リンクが十六歳になり、封印が解け、
この世界に帰ってくる日まで、もう、あと、わずかだ。
待ちに待った時であるはずだった。が……
ゼルダは疲れ果てていた。身体のあらゆる部分に疲労がこびりつき、指一本、動かす気に
なれなかった。腰を下ろしている地面に、ずぶすぶと身が沈んでいくような錯覚さえ感じる
ほどだった。
下腹部にしこる鈍い痛み。そのせいだ、と、わかってはいるが……
身体ばかりではなく、心も、限りなく重い。
いまや絶望だけが支配する地となったハイラル。
その原因は、わたしにある。
ガノンドロフに対抗し、自らがトライフォースを得て、聖地を制御しようなどという、愚かで、
浅はかで、思い上がった考えを持っていたわたしに。
結局、トライフォースはガノンドロフに奪われ、彼は魔王となり、ハイラルは魔界と化して
しまった。
わたしは責任を取らねばならなかった。
世界に平和をもたらす使命を帯びたリンクの帰還を待ち、わたしもまた、自らに使命を課した。
リンクが帰ってくるまでに、賢者の居所を探し出すと。
しかし……
わたしはその使命を、全く果たせなかった。賢者を見つけるどころか、それが不可能だという
ことを確かめただけだ。
さらに。
この暗黒の七年の間、多くの人々が、命を失い、幸せを失っていった。
それも、すべて、わたしの過ちゆえ。わたしの無力さゆえ。
世界には、わたしを信じて待ってくれている人もいる。なのに、救いであるはずの、そのこと
すら、いまのわたしには、苦痛に感じられる。
これ以上、わたしに、何ができるというのか。
いや、まだ望みはある──
身を押しつぶしそうな重圧に耐え、ゼルダは思いを馳せる。
リンク。
世界に残された最後の希望。勇気のトライフォースを持つ、時の勇者。
リンクはまもなく帰ってくる。リンクなら……リンクなら……手の打ちようもなく荒廃しきった
この世界を、どうにかして救ってくれるはず……
私の使命は、まだ終わってはいない。
リンクとともに戦う。その使命を、これからわたしは、果たさなければならない。
ああ、でも……
わたしがリンクに対して、犯してしまった罪。
リンクに初めて会った日の夕刻、ハイラル城の一室で、わたしが得た、あの予知。あれは絶対に
必要なことだったと、いまでも確信はしているけれど……
リンクの人格をも無視して貫きとおした、その行為が、結果、リンクに何をもたらしてしまったか。
リンクを戦いに巻きこんでしまった。リンクを聖地に封印することになってしまった。もうすぐ
リンクは戻ってはくるが、それまでの七年という時間を、わたしがリンクから奪ったという事実は、
動かしようがない。
そして、わたしはなおもリンクを欺くことになる。リンクが帰ってきても、『わたし』は
リンクに会うことはできないのだ。
ハイラルの運命を背負う王女としての、それが自分の定めなのだと、理解はしていても……
そうしなければならないのだと、わかってはいても……
うち沈んでゆく心は、どうすることもできない……
月は雲のすき間に姿を現し、中天にさしかかりつつあった。鏡のように静止した泉の水面に、
それは白く美しい正円の姿を映し落としていた。
ゼルダは大きく息をついた。
この苦しみを、わずかでも減らすことができるのなら……
重みに抗して、身を立たせる。
着衣を解く。
冷ややかな空気に、ぞくりと身体が震える。
常に暗雲が空を占拠するハイラル。気温は年ごとに、わずかずつ、しかし確実に、低下しつつ
ある。それでも今夜は、風がなく、過ごしやすい方だ。
素肌に月光を浴びながら、ゼルダは泉の中へと足を踏み入れた。底の土は軟らかく、足を
取られるような異物はない。
ゆっくりと歩を進め、泉の中ほどに立つ。浅い。水に浸かっているのは、膝の上くらいまで。
水底に腰を下ろす。ちょうど肩から上が、水面にのぞく。
手で水をすくって、肩にかける。
心地よい。水の中の方が、暖かく感じられるほど。
こびりついた疲労を落とそうと、身体の表のすみずみまで、手を這わせる。
その手が、胸に触れる。手が止まる。
わたしの胸。わたしの乳房。
七年前とは大きく変わり、それはもう、手で完全には包みこめないくらいの、豊かな丸みを
持っている。小さな隆起を、頂点にもって。
変わったのは、そこだけではない。
胸に片手を残したまま、もう片方の手が、下半身へと伸びる。
おなかの下。両脚が交わる、少し上。
ほのかに盛り上がる、その部分は、すでに一面、叢々と……
若く、花開いた、女のしるし。
そう、わたしは女なのだ。すべての衣装を脱ぎ去り、おのれの身体のみとなり、ただの一人の
女として、わたしはいま、ここにいる。
それがこの先も許されることなら……リンクの前で、そうあることができるのなら……
いや、それは許されないことなのだ。
わたしは王女であらねばならない。わたしは使命を果たさねばならない。わたしは『わたし』
ならざる者として、リンクの前にあらねばならない。
ねばならない。
何という、苛酷な言葉!
その重み。その厳しさ。わたしは、それに、耐えて「ゆかねばならない」……
視界の隅を、光が横切った。
月光とは異なる色合いをもったそれを不審に思い、ゼルダの目は、あたりをさまよった。
桃色の小さな光点が一つ、ゆるやかにたわんだ軌跡を描いて、水面を漂っていた。
──あれは……?
と思う間もなく、同様の光点が、一つ、二つ、三つ……と水面に現れ、みるみるうちに、
泉は、数え切れないほどの光点で埋めつくされた。
思わず、ゼルダは立ち上がった。泉の中央にいるゼルダは、その光点の群れに、全周を
取り囲まれる形となっていた。
──何なのだろう。
驚き立ちすくむゼルダのまわりで、桃色の光点は、なおも流れるような舞いを続ける。不思議に
恐怖感はない。いや、それどころか……
目の前を、光点が通り過ぎる。その光の中に、ゼルダは見た。
かそけく羽ばたく、二対の羽根。
──妖精!
はっと、空を見上げる。満月が、いま、まさに、真南の空にかかっている。
思い出した。
満月の真夜中に妖精が現れる泉が、ハイラルのどこかにあるという伝説を。
妖精の泉。
ここが、それだったのだ。
無数の妖精たちが、身体に触れんばかりとなって──いや、もうすでに、極上の布で撫でられる
ような、えもいわれぬ感覚をもたらしながら──ゼルダを押し包んでいた。
──ああ……
目を閉じ、首をのけぞらせ、腕を広げ、ゼルダはおのれを開放した。妖精の乱舞に、すべてを
任せた。
癒される。癒される。
水浴では落ちきらなかった疲労の滓が、嘘のように溶け去ってゆく。
重く沈んだ心の澱が、霧の晴れるように消え去ってゆく。
鍵がはずれる。枷が落ちる。
「どうあらねばならないか」──ではなく、「どうありたいか」
わたしはリンクと、どうありたいか。
自分に問う。考えるまでもなく、答はそこにある。
『会いたい!』
リンクに会いたい!
リンクに会いたい!
リンクに会いたい!
七年間、ずっと、ずっと、思ってきた。わたしが『わたし』ではない間でも、それは変わらぬ
わたしの願いだった。
そう、あの時のように。
精霊石を求めてハイラル城から旅立ったリンクを待っていた時。城下の別荘を訪れ、夜、
入浴していたわたしは……
思った。リンクに会いたい、と。
……それだけ?
それだけではなかった。
脳裏に浮かぶ、リンクの顔。
衝動が、どっと押し寄せる。あの時と同じ衝動が。
指が、伸びる。繁る叢の、さらに下。
指が、触れる。秘密の場所。
その目的で触れるのは、まだ二度目。七年前の、あの時以来。
あの時は、時間がなかった。わずかに触れただけだった。
あれから、そこには触れていない。機会がなかった。機会があっても、使命のことを考えると、
その気にはなれなかった。してはならないと思ってきた。
でも……いまは……いまは……わたしを妨げるものは、何もない。
自分の中で蠢く何か。殻を破って外に出たいと悶える何か。
その正体を、すでに、わたしは、知っている。知識として。そして、経験として。
けれども、その経験は、『わたし』のものではない。
いまは、純粋に、『わたし』として……この衝動に──この激しい感情のうねりに──ただ、
ただ、身を投じよう。
潤い始めた谷の間に、下腹の皮膚からせり出す岬。その表面を、上から、下へ、そっとなぞる。
小さな芯が埋まっている。
ぴくり、と、身体が震える。
続けて、なぞる。繰り返し。繰り返し。ゆっくりと。ゆっくりと。
芯が、硬くなる。少しずつ、少しずつ、それは膨らみ、起きあがる。
「ぁ……」
感じる。感じる。そう、このまま……もっと……
指の動きが、早くなる。強くなる。もう、なぞるだけでは、治まらない。
押す。まわす。つまむ。はじく。
「……く……あぁ……」
声が、漏れる。抑えられない。抑えたくない。
気持ちがいい。気持ちがいい。
──これが……女の……快さなの……
人差し指を伸ばす。二つに開いた唇の狭間。
中から湧き出す液体に指を浸し、それまでとは逆に、下から上へと、こすり上げる。
「あッ!」
じん──としびれる感覚。直接、触ってしまった。
脚がよろける。
──ああ、わたしは立ったままだった。
自分の姿を想像する。
素裸で、自然の中に立ちつくして、両脚のつけ根に手を差し入れて、指を動かして、指を
濡らして、息をはずませて、無我夢中で、あられもなく、恥ずかしい声を漏らすなんて。
なんて、はしたない、わたし。
一国の王女である、わたしが、こんなことを……
『いいえ!』
いまのわたしは、王女じゃない。ただの女。一人の女。
どうありたいか。それだけを考えていればいい。
余した手を、乳房に這わせる。
生き生きと張りつめた、女の生に充ち満ちた、二つの膨らみ。
女。女。わたしは女。
ぎゅっ──と乳房を握りしめる。さっきまで小さかったはずの、先端の隆起が、突き出ている。
二つとも、硬く、突き出ている。
指ではさむ。ひねる。ころがす。
「あ!……う!……はぁッ!……」
噴き上がる快感。
舞い飛ぶ妖精たち。
揺れる。揺れる。身体が揺れる。
指が止まらない。声が止まらない。
もう、わたしは、止まらない。
股間の指を谷間に埋める。そのまま、進める。ゆっくりと。でも、まっすぐに。奥へと。奥へと。
あふれかえるしたたりにも助けられてか、さほどの抵抗もなく、かすかな痛みをものともせずに、
指が入ってゆく。わたしの中へ、入ってゆく。
身を固くして、それを感じる。
この充足感。
これが、女の、最高の快さ……
いや、違う!
まだ、そうじゃない!
わかっている。ひとりでは決して得られない。
どうありたいか。わたしはどうありたいか。わたしはリンクと、どうありたいか。
いいのだろうか。それを思って、いいのだろうか。
『かまわない!』
突き上げるような、衝動! 衝動! 衝動!
リンクに触れたい! リンクに触れられたい!
リンクに抱かれたい! リンクを抱きたい!
わたしたち二人が触れ合って、わたしたち二人が抱き合って、そして、
二人のすべてを分かち合いたい!
胸をつかむ手が、右の耳に伸びる。トライフォースの耳飾り。
これがすべての始まりだった。
七年前、ハイラル城の中庭で、トライフォースの例を示すため、わたしは右の耳飾りをリンクに
見せた。
『どう? おわかりに……』
ふり向いた時、リンクの顔があった。わたしの前に。わたしのすぐ目の前に。
リンクの目。わたしの目。しっかりと結ばれた、二人の視線。
その時から、
「リンク……」
そう、その瞬間から、
「わたしは……」
かたときも、絶えることなく、
「あなたを……」
──だめ!
心の叫びとともに、挿した指がぐいと内壁をえぐる。
「ああッ!」
ずん!──と、はぜる、法悦の塊。
これ! これだわ!
わたしはリンクに「こうされたい」!
全身の細胞を揺すぶりあげるような、圧倒的な快美感が、ゼルダの体内を駆けめぐった。
硬直した肢体と、開ききった心で、ゼルダは生まれて初めて、女の到達点を迎えた。
感激が頂上を越え、退いてゆくとともに、筋肉の力も萎えていった。膝が折れ、ゼルダは
水の中に崩れ落ちた。
目を閉じ、肩まで水に浸かって、ゼルダは、じっと、動かなかった。
しばらくして目を開くと、あれほどたくさん飛んでいた妖精は、いつの間にか、みな消え失せて
おり、水面には、西に傾き始めた満月の光が映っているだけだった。
その時、気づいた。再びしこる下腹部の鈍痛。それに続く、流れるような感触。
『始まった……』
挿しこんだままの指を、そっと抜く。赤黒い血に染まっている。
脚の間から、水中に、黒っぽい濁りが滲み出している。
これゆえに、今夜、わたしは『わたし』でいられる。
月経。
七年の間にゼルダを訪なった、それはもう一つの女のしるしだった。
水の中から立ち上がり、脱衣した岸辺へと、ゼルダは歩み戻った。
岸に上がり、白い布で全身を拭く。股間の処置をし、着衣する。
草の褥に横たわる。
依然として下腹部は痛み、夜気は冷たく、ゼルダは身を折り曲げて、それらに耐えた。が、
凝り固まっていた疲労感は、身体からも、心からも、きれいに洗い流されていた。
回想する。
リンクと、どうありたいか。その想いを、全部、解放するつもりだったのに。
リンクに「こうされたい」──とうとう、そこまでも、思ってしまったわたしが……
絶頂する寸前に、口をついて出た言葉。
『わたしは……あなたを……』
その先は、言えなかった。まだ、言いたくなかった。
『わたし』がリンクに会える日は、いつか、必ず、来る。過ちを正し、罪を贖い、何のわだかまりも
なく、リンクの前に立てる日が。
西の空、満月の明るみに抗して、孤高の光を放つ、予兆の星。いま、それを見ているわたしには、
わかる。絶対の確信がある。
その日まで、最後の言葉は、封じておこう。
そして、その日を迎えるまでに……
『わたしは、わたしにできる限りのことをしよう』
淡々と、ゼルダは決意を胸に刻んだ。もう心が沈むことはなかった。
夜が明け、再び目覚めた時、わたしはすでに『わたし』ではない。この一夜の記憶をすべて
なくして、また、わたしは、立ち上がる。
この手でリンクを迎えるために。
ゼルダは目蓋を閉じ、意識を伏せた。深く安らかな眠りが、ゼルダを包みこんでいった。
ゼルダは気づいていなかった。
達する直前に握りしめた、右の耳飾りが、その後の熱狂のせいで、手から漏れ、泉の水面に
落ちたことに。
リンクとゼルダ。
運命に遠く隔てられた、しかし見えない糸でかろうじて結ばれた、若い二人。
その二人の繋がりの、最初の証人であった耳飾りは、いま、水底に沈み……やがて、新たな
証言を語ることになるのだった。
<第二部・了>
To be continued.