闇。  
 ひと筋の光すら差さない、漆黒の闇。  
 叫んでも、その声すら吸い込まれていきそうな無限の闇。  
 ──どこ……  
 視界がわずかにぼやけ、赤黒い濁りが広がってゆく。  
 濁りは次第に明るみを増し、揺らめく炎となって周囲を取り巻く。  
 ──ここは、どこ……  
 遠くに聞こえる叫喚。火のはぜる音。地を踏み荒らす不気味な響き。  
 いつしか深紅に染まった背景の前に立つ、ひとつの影。  
 ──だれ……  
 影が近づいてくる。少しずつ……少しずつ……それは目の前で大きくなり、ついには視野を  
埋め尽くす巨大な姿となり、隠されていたその顔が……表情が……ぼんやりと……そして徐々に  
明らに見て取れるようになり……  
 男。  
 黒褐色の皮膚。歪んだ口元。邪悪な笑い。  
 ──やめて……  
 男の腕が伸び……信じられないくらいの長さに伸び……ゆっくりと……  
 ──やめて……やめて……!  
 頭の上から……手を広げて……ぼくを捕まえようと……  
 ──来るな! こっちへ来るな!  
 ぼくは……動けない……その男の手を……ぼくを鷲掴みにしようと迫る手を……  
 ──来るな! 来るな! 来るな! 来るな! 来るな!  
 ただ怯え、竦んで見ていることしかできないぼくは……どうしてぼくは……  
 ──来るなーーーーーッ!!  
 
 目が覚めた。  
 自分が、いま、どこにいるのかを確かめるのに、少し時間がかかった。  
『……また……か……』  
 身体は汗にまみれている。  
 夢。最近、毎日のように見る、この夢。  
 何だろう? 何か意味があるのだろうか? あの男……ぼくを捕まえようと迫り来るあの男……  
あれはいったい……  
 不安感が……得体の知れない不安感が……胸に渦巻いて……  
「リンク!」  
 家の外で声がした。サリアの声だ。  
 脳裏から悪夢の残滓を追い払うように首を振り、リンクはバルコニーに出た。見下ろすと、  
梯子の下にサリアが立ち、こちらに向かって手を振っていた。  
「何度も呼んだのよ、リンク。寝てたの? もう、お寝坊さんね」  
 明るい声と笑顔が、胸を暖かく満たす。リンクは、ほっと息をつき、梯子を降りた。  
「おはよう、サリア」  
「おはよう、ですって? もう日は高いわよ。もっと早く起きなくちゃ、だめじゃないの」  
 軽くにらむような、しかし親しみのこもった目。聞き分けのない子供を相手にするような、  
保護者めいた言葉。いつものサリアだ。  
 リンクが悪夢に悩まされるようになったのとは逆に、それと同じ頃から、サリアはかつての  
快活さを取り戻したようだった。一時、妙に寂しげで、仲間との接触も避けるような素振りを  
見せていたのだが……いまはそんな様子はない。  
 リンクは草の上にすわり、懐からパンを取り出して、遅い朝食をとった。  
「お行儀悪いわね、リンク。こんなところでお食事だなんて」  
 ほら、これだ。サリアのお小言。  
 だがそれは、リンクの耳には快かった。いつも自分のそばにいて、見守ってくれる。いちばんの  
友達。そう、以前と全く変わらない……いや……  
 
「そばにすわってもいい?」  
 サリアの声のトーンが、少し落ちた。パンを頬ばって声を出せないリンクは、手で場所を  
すすめた。サリアがリンクの横に腰を下ろす。それは予想した場所よりも近く、互いの腕が  
触れ合わんばかりの距離だった。リンクの胸が、わけもなく動悸を打つ。  
 サリアはリンクを見るでもなく、黙ったまますわっていた。パンを飲み込んだリンクが、  
どうしたのかと声をかけようとした時、サリアが口を開いた。  
「あの……リンクがよかったら、なんだけど……」  
 さっきまでの明るさが影をひそめ、ためらいの色が感じられた。  
「今度……うちへ来ない?」  
「サリアのうち? いいよ。これから行こうか」  
「あ! あの……」  
 あわてたようにサリアがさえぎる。  
「……別に……いますぐっていうわけじゃなくて……今度……」  
 なんでこんなにおずおずとしているんだろう、サリアの家へはこれまでにもたびたび行った  
ことがあるのに、と、リンクは不思議に思った。だが最近のサリアは……明るい調子に戻った  
ように見えるサリアは……時々こんなふうに……やっぱりどこか、前とは違うような……  
「いつでもいいけれど……何かあるの?」  
 リンクの問いに、サリアは視線をそらしたまま、またしばらく黙っていたが、やがて小さな声で  
言った。  
「見せたいものがあるの……リンクに……」  
「ぼくに? 何を?」  
 心なしか、サリアの頬に赤みが差している。  
「……それは……」  
 消え入りそうな声。続きを聞き逃すまいと、リンクが顔を近づけようとした時、サリアが急に  
こちらを向いた。その潤んだ目……  
 どうしたんだ? サリアは何を……  
「リンク……」  
 自分を呼ぶ、その声。そこに何かが……自分の知らない何かが込められているようで……  
リンクは思わず、サリアに手を差し伸べようと……  
 その時。  
 森を激しい風が吹き抜けた。  
 リンクはぎょっとして立ち上がり、空を見た。日が陰り、厚い雲が急速に空を埋めようと  
している。風は一瞬で弱まったものの、なおも異様な冷たさを孕んで、木々の枝を揺らしていた。  
サリアの表情も不安に翳った。  
「どうしたのかしら。こんな風、いままで吹いたことないわ……」  
 何かが起ころうとしている。これまで経験したことのない何か……何か……悪いことが。  
 どうすべきかもわからず、リンクとサリアは立ちすくんでいた。そこへ、遠くから呼びかける  
声が聞こえた。  
「おーい!」  
 木立を抜けてミドが駆けてくる。二人の前まで来て、ミドは息を切らしながら立ち止まり、  
何か言いたげにリンクとサリアを見比べていたが、それを押さえるように唾を呑みこむと、  
切迫した口調で言った。  
「デクの樹サマが変なんだ」  
 リンクとサリアは顔を見合わせた。コキリの森の守り神、デクの樹サマに何が?  
 不吉な予感に苛まれながら、サリアとミドとともに、リンクは森のはずれの広場へと走った。  
 
 広場の空間が、無数の木の葉で満ちあふれていた。天まで届こうかというデクの樹の、あらゆる  
階層の高さから、空も見えないほどの密度で、次から次へと葉が舞い落ちていた。葉の色は鈍い  
褐色調で、縁がちりちりに縮こまっていた。  
 リンクは茫然とした。この暖かい季節に、デクの樹サマの葉が落ちるなんて。しかも常に新鮮な  
緑色に輝いているはずの葉が、こんなに枯れてしまって……  
 広場にはコキリ族全員が集まっていた。みながおののくように、離れたところからデクの樹を  
見ていた。誰も言葉を発しなかった。何を言ったらいいのかわからない、というふうに。  
『デクの樹サマに何があったんだ?』  
 リンクは目を凝らした。落ちてくる大量の木の葉で、デクの樹の表情はよくみえない。だが、  
いつも自分たちコキリ族を見守ってくれていた、その暖かい雰囲気が、いまは感じられなくなって  
いた。  
 たまらなくなって、リンクは数歩、デクの樹に向かって走り寄った。その瞬間、  
「気をつけろ、リンク!」  
 ミドの叫び声とともに、足もとから奇怪な「もの」が飛び上がった。リンクはとっさに後ろへ  
跳ね、その「もの」から逃げた。  
『これは?』  
 それは植物に似た背の高い「もの」で、細長い茎の上に青黒い花のような頭が居座っていた。  
頭には目も鼻もなく、ただ鋭い棘が並んだ口だけが大きく開いていた。  
 こんな怪物は見たことがない。  
 見渡すと、デクの樹のまわりには同じ姿の怪物が何本か生えており、頭を不気味に震わせていた。  
「こいつらのせいでデクの樹サマの近くに行けないんだ」  
 ミドが早口で言った。  
「この化け物はいったい……」  
 リンクがミドに問いかけようとした時、いきなり怪物の頭がリンクに向かって突進してきた。  
気配を感じたリンクは地面に身を投げ出し、危うく攻撃から逃れた。  
『どうする?』  
 このままでは近寄れない。だがデクの樹サマを放っておくわけには……  
 リンクの目が、近くの地面の上に転がっているものを捕らえた。木の枝。少し曲がっているが、  
振るにはちょうどよい長さ。握るにはちょうどよい太さ。  
 素早くそれを手に取り、怪物に向けて構える。怪物はなおも頭を震わせ、こちらの様子を  
うかがっているようだ。目もないのに、こちらの位置がわかるんだろうか……  
『落ち着け』  
 リンクは自分に言い聞かせる。ずっと稽古してきたじゃないか。いつものとおりにやるんだ。  
やつは地面から生えている。そこから動くことはできないはずだ。  
 リンクはわずかに一歩踏み出した。怪物は動かない。なおも一歩……さらに一歩……  
 唸りとともに怪物が頭を突き出してきた。リンクは横っ飛びでそれを避け、間髪を入れず  
側方から木の枝を振り下ろした。枝は頭を直撃し、怪物は短く痙攣したあと、地面に倒れ、  
動かなくなった。見守るコキリ族たちは、いっせいに低くどよめいた。  
 気がつくと、怪物の頭は消滅し、それがあったはずのところに、茶色の木の実が転がっていた。  
リンクはそれを拾い上げた。  
『デクの実……?』  
 どうしてデクの実が怪物に? やはり……何か……悪いことが?  
「リンク!」  
 呼びかけるサリアの声にも答えず、リンクはデクの樹の方を注視した。いまの怪物を倒した  
ことで道は開けたようだ。他の仲間をそこに置いたまま、リンクはデクの樹のもとへと走った。  
「デクの樹サマ!」  
 大声で呼ぶ。返事はない。しゃがんで太い幹に手をかけたリンクは、樹皮の異様な冷たさに  
驚いた。いつも命の鼓動に満ちていたデクの樹。それがいまはまるで……まるで……  
 
「リンクか……」  
 デクの樹の声。リンクは、ほっとする。だがその声は、別人のように衰え、しわがれていた。  
「わしは……呪われた……」  
 呪われた? どうして? 誰に?  
「わしの中に……魔物が……巣くっておる……わしを……中から……食い尽くそうと……」  
「デクの樹サマ! どうしたら……どうしたらいい?」  
「リンクよ……これは……おまえの……試練じゃ……」  
「試練?」  
「そう……おまえの……勇気を……試させてくれ……わしの……呪いを……解いてくれ……」  
「呪いを解くって? どうやって?」  
 デクの樹は黙っている。リンクが不安にかられ、さらに呼びかけようとした時、頭上から音も  
なく、ゆっくりと降りてくるものがあった。  
 一振りの剣。一帖の盾。  
「リンクよ……」  
 デクの樹が再び話し始める。  
「おまえは……剣を……欲しがっていたな……いまこそ……おまえに……授けよう……コキリの  
剣を……」  
「コキリの剣!」  
「そして……デクの盾……それらをもって……わしの呪いを……解くのじゃ……」  
 剣と盾。リンクはその二つを手に取った。不思議に馴染むような、その感触。  
 本物の剣を、いま、ぼくは持っている。その重みを、ぼくの腕は感じている。その力を、どう  
振るうべきなのか、ぼくは……知っている……  
「わかったよ、デクの樹サマ」  
 低く、しかし確かな意志をこめて、リンクは言った。  
「ぼくは、やるよ」  
「よくぞ言った……リンクよ……」  
 苦しげだったデクの樹の声が、穏やかな色を帯びる。  
「わしの……背後に……洞(うろ)がある……そこから……中へ……入れ……」  
「わかった。待ってて。必ず呪いは解いてみせるから」  
 心を静かに奮わせながら、リンクは立ち上がった。その心を映すかのように、左手に握られた  
剣が白く煌めいた。  
 
 洞の中は暗かった。しかし目が慣れてくると、ぼんやりとだが周囲の様子をうかがうことが  
できた。外の光がどこからか漏れ入っているのか、それとも樹そのものがわずかに光を発して  
いるのか。  
 奥へ向かうにつれて、洞は狭くなっていった。身をかがめ、ひねり、ねじり、足もとの複雑な  
凹凸を乗り越え、リンクは先へ進むのに苦心した。この調子だと、いまに隙間につかえて動けなく  
なる。こんなところにいったい何がいるというのだろう……  
 そんな疑問を感じ始めた時、唐突に目の前が開けた。ぽっかりと穴があいたような空間だった。  
デクの樹サマの中が、こんな中空になっているなんて、と、リンクは新たな疑問を感じながら  
まわりを見回した。相変わらず、暗い中にもかすかな光がある。しかしいままでとは違って、  
光は何となく黄色みを帯びていた。  
 リンクは慎重に数歩進んだ。その時、頭上から何かが落ちてきた。  
 素早く右手で盾を構える。リンクの腰くらいの高さの奇妙な生き物が立っていた。細い二本の  
脚の上に、それだけは大きい一つの目がついた頭。虫のようにも見える。  
 リンクが攻撃する体勢に移る暇もなく、その虫は飛びかかってきた。あわてて盾の陰に身を  
縮める。虫は盾に衝突し、そのまま後ろへ跳ね返って着地した。大きな目が瞬きもせず、こちらを  
凝視している。  
 いきなり再度の突進。盾で防ぐ。衝突。着地。  
 単純な動きだ。体当たりの衝撃もさほどではない。  
 リンクは虫の次の行動を待った。即座に虫は突進してきた。外の怪物を倒した時と同じ要領で、  
リンクは横に飛び、剣を振り下ろした。剣は正確に虫を両断した。  
 これがデクの樹サマに巣くっているという魔物?  
 初めて剣を使った興奮に震えながらも、リンクはどこかあっけなさを感じていた。  
 改めてまわりを見る。気配はない。  
 敵の攻撃は? いまので終わりか? もう他に敵はいないのか? こいつは上から落ちてきた。  
上には……  
 
 見上げたリンクの目に、丸く黄色い光が見えた。  
 ここの光が黄色っぽかったのはこのせいか。だがこれは……  
 その時、光がぐるっと回転し、まっすぐリンクの方を向いた。その大きさが倍になった。  
 嵐のような音響が巻き起こり、光が頭上を移動し始めた。リンクの真上まで来ると、光は  
落下してきた。  
 足を揺るがすほどの振動。  
 かなり重い物……と考えかけたリンクの前に、想像を絶する生き物が立っていた。  
 黄色い光は……目だった。頭の大部分を占めるぎょろついた一つ目。そこから下に太く曲がった  
二本の脚が。上と横には大きな爪を持つ四本の腕が。さっきの虫に似たところがあるが、背丈は  
リンクの身長の倍はある。  
 この巨大な虫が魔物の正体だ、とリンクは直感した。こいつがデクの樹サマを食い荒らして、  
この空間を作ったのだ。天井に張りついてこちらを見張っていたのだ。さっきの小さい虫は  
こいつの幼生に過ぎない。  
 魔物の頭上から唸りをあげて太い腕が振り下ろされ、とっさに構えた盾にぶつかった。幼生の  
突進とは比べものにならない衝撃が、リンクの右腕を痺れさせた。  
 硬い!  
 反対側からも腕が飛んできた。盾で受ける。再び激しい衝撃。このままでは保たない。  
 こっちも攻撃を……剣を……剣で……どこを狙う? 頭には届かない。脚か?  
 近寄ろうとしたリンクに、またも腕が急降下してくる。今度は危うく身を逸らせる。轟音を  
たてて鋭い爪が地にめり込む。  
 近づけない。どうする? どうする?  
 後ずさりするリンクに、魔物がずいと近づく。背中に樹の壁が触れる。こんなに狭かったのか、  
ここは。眼前にそそり立つ巨大な虫。狂的に見開かれた黄色い目。あとがない。逃げられない。  
 旋風とともに腕が殺到する。盾。激痛。  
 立て続けに腕が襲ってくる。こっちの右腕は動かない。左手。剣で受けられるか。しかし  
とうてい及ばない。  
 リンクはふっ飛ばされ、壁に激突する。  
 痛い……左手から剣が離れて魔物の脚もとに……拾わなきゃ……拾わなきゃ……あれが……  
あれがないと……  
 朦朧とする意識を叱咤し、リンクは手を伸ばす。だが早くも魔物は向きを変えてリンクに迫る。  
 高々と振り上げられた魔物の腕が、  
 剣に……届くか……だめだ……間に合わない……  
 いまにもリンクの頭を叩きつぶそうと、  
 あれが……来る……何か……何か他の……  
 振り下ろされようとしたその時。  
 小さな丸い物体が、リンクの手から、魔物の脚もとに放たれた。それは地に触れたかと思うと、  
目もくらむ閃光を発し、一瞬あたりを真昼のように照らし出した。  
 デクの実。外の怪物を倒した時に手に入れたデクの実。閃光を発する不思議な実。  
 魔物は佇立している。目を回したように。  
 やった。効果があった。いまのうちに……  
 身をすべらせて剣を拾う。魔物はまだ目を回したままだ。  
 脚を狙うか? 待てよ。目を回している? 目? 目か? だが位置が高い。剣は届かない。  
そうだ。あれだ。  
 リンクは素早く懐からパチンコを取り出し、魔物の目を狙ってデクの種を飛ばした。狙いは  
過たず、デクの種は魔物の目に見事に命中した。  
 甲高い声をあげてのけぞり、魔物はその場に倒れた。  
 やったか? いや、まだ動いている。だが頭が地についている。いまだ。いまがチャンスだ。  
 リンクは改めて剣を構え、魔物の目を突き刺した。  
 もの凄い悲鳴があがり、魔物はのたうち回った。その無軌道な動きをリンクはバック転で  
やり過ごし、少し離れたところで防御の構えをとった。しかし魔物はもはやリンクに注目する  
ことなく、あちこちの壁に身体をぶつけて自らを傷つけていた。最後に棒立ちになると、数秒の  
硬直ののち、魔物は崩れ落ちた。  
 燃えるような赤い光が立ちのぼり、あとには真っ黒な残骸だけが残った。  
 
 リンクは剣を握ったまま、肩で大きく息をしながら、その場に立ちつくしていた。自分の行動が  
信じられない思いだった。  
 ぼくは……ぼくは……勝ったのか? こいつを倒したのか? これで……よかったのか?  
「リンクよ……よくやった……」  
 デクの樹サマの声。優しい声。ぼくは……ぼくは、やったんだ!  
「おまえの勇気……確かに……見せてもらった……おまえはやはり……わしの願いを託すに……  
ふさわしい……少年であった……」  
「デクの樹サマ! 呪いは……呪いは解けたんだね?」  
 リンクは声のする頭上に向けて言った。  
「うむ……」  
 デクの樹はそこで黙った。その間をぬって、リンクはそれまで抱いていた疑問をぶつけた。  
「誰がデクの樹サマに呪いをかけたの? なぜ?」  
「リンクよ……心して……聞いてくれ……」  
 デクの樹の口調が深刻なものに変わった。思わずリンクの背筋に震えが走った。  
「わしに……呪いをかけた者は……『黒き砂漠の民』じゃ……」  
「黒き……砂漠の民……?」  
 何だろう。禍々しい響き。どこかで自分の記憶と結びつきそうな、その響き。  
「おまえは……三人の女神の伝説を……覚えておるな……」  
「三人の女神? いつもデクの樹サマが話してくれた、あれ?」  
「そうじゃ……」  
 
 世に理なく 命未だ形なさず  
 混沌の地ハイラルに 黄金の三大神降臨す  
 すなわち 力の女神 ディン  
 知恵の女神 ネール  
 勇気の女神 フロルなり  
 ディン そのたくましき炎の腕をもって 地を耕し 赤き大地を創る  
 ネール その叡知を大地に注ぎて 世界に法を与える  
 フロル その豊かなる心により 法を守りし全ての命創造せり  
 三大神 その使命を終え 彼の国へ去り行きたもう  
 神々の去りし地に 黄金の聖三角残し置く  
 この後 その聖三角を 世の理の礎とするものなり  
 また この地を聖地とするものなり  
   
「この邪悪な……『黒き砂漠の民』は……ハイラルの……どこかにあるという……聖地を……  
探し求めておった……なぜなら……聖地には……神の力を秘めた……伝説の聖三角……トライ  
フォースが……あるからじゃ……」  
 ここでデクの樹の言葉が熱を帯びた。  
「あの『黒き砂漠の民』を、トライフォースに触れさせてはならぬ! 悪しき心を持つあの者を、  
聖地へ行かせてはならぬ!」  
 デクの樹がこんな厳しい声で話すのを、リンクは聞いたことがなかった。それはリンクに、  
いま起こりつつある事態の深刻さを思い知らせた。  
 デクの樹の声が、再び低くなる。  
「あの者は……近ごろ……その野望を……表に現し始めた……トライフォースへの……道を知る……  
わしの力を奪い……死の呪いをかけた……その呪いは……わしの命を……むしばんでいった……」  
 何だって?  
「おまえは……見事に……呪いを解いてくれたが……わしの命までは……もとには……戻らぬ  
ようじゃ………」  
「デクの樹サマ!」  
「わしは……間もなく……死を……迎えるじゃろう……」  
「デクの樹サマ! 死んじゃいやだ!」  
 リンクは叫んだ。だがそれに続くデクの樹の声は、あくまで優しさに満ちていた。  
「リンクよ……悲しむことはない……なぜなら……いまこうして……おまえに……このことを……  
伝えられた……それが……世界に残された……最後の希望だからじゃ……」  
 
「最後の……希望……?」  
「あの『黒き砂漠の民』は……強大じゃ……世界は……その悪しき力に……飲み込まれようと  
しておる……いまのわしは……全くの無力……リンクよ……おまえが……立たねばならぬ時が……  
来たのじゃ……おまえこそ……この世界を……善き方向へ……導く者……」  
 リンクは茫然としていた。ぼくが……この世界を善き方向へ導く? このぼくが? どうして?  
「リンクよ……」  
 デクの樹の声にいたわりの色が混じった。  
「おまえはいつも……自分が……他の者と……違っていると……感じておったな……その理由を……  
教えよう……」  
 その理由!  
 リンクは驚いた。  
 ぼくが他の仲間と違っている理由。ぼくに妖精がいない理由。これまで訊ねても、「いずれ  
わかる」としか言ってくれなかったデクの樹サマが、いまここでその理由を教えてくれる?   
それはデクの樹サマの言う世界の危機に関係していると?  
「リンクよ……おまえは……コキリ族ではない……おまえは……ハイリア人なのじゃ……」  
 ガン、と頭を殴られたような衝撃。ぼくが……ハイリア人……『外の世界』の人間だって?  
 頭を駆けめぐる無数の疑問。だがそれは言葉にはならなかった。  
「おまえは……いつか……この森から出て行く……運命だったのじゃ……おまえは成長し……  
もといた『外の世界』に……戻る時が……いま……来たのじゃ……」  
「外の……世界……」  
 その言葉は、リンクの心を揺らした。  
「リンクよ……ハイラルの城に……行くがよい……その城には……神に選ばれし姫君が……  
おいでになる……その姫君に……会うのじゃ……それが……おまえの運命を……決める……」  
 少し間をおき、デクの樹は続けた。  
「これを……持ってゆけ……」  
 それは頭上からゆっくりと降下し、リンクの手に収まった。深みのある緑光を発する、美しい石。  
「あの『黒き砂漠の民』が……わしに……呪いをかけてまで欲した……この精霊石……トライ  
フォースへの道標……『コキリのヒスイ』を……」  
 その石を握りしめ、リンクは立ちつくしていた。急転する運命。世界を脅かす邪悪な力。そして  
『外の世界』……  
「デクの樹サマ」  
 リンクはやっと一つの疑問を口にのぼらせた。  
「ぼくが……コキリ族じゃないぼくが……どうしていままでこの森にいたの?」  
「それには……」  
 デクの樹の声が苦しげに掠れた。  
「深い理由がある……だがもう……時間がない……おまえは……」  
「デクの樹サマ!」  
「いつか……知るじゃろう……それもまた……これから……」  
「デクの樹サマ! しっかりして!」  
「おまえの……なすべきこと……」  
 声が小さくなってゆく。  
「頼むぞ……リンク……おまえの……勇気を……信じておる……世界を……救え……よいな……」  
 リンクはもう、言葉が出なかった。  
「さらば……じゃ……」  
 消え入るような声を最後に、リンクを取り巻く空気が止まった。その場に凝固する暗い沈黙。  
 一つの偉大な命が、いま、失われたのだ。  
 リンクの目から、止めどなく涙が流れ落ちた。  
 
 洞を出ると、異様な光景が広がっていた。枯れ葉が地面の上に厚く敷きつめられていた。  
空間にはもう一枚の葉も舞ってはおらず、見上げると……デクの樹は完全に裸になっていた。  
葉がすべて散ってしまったのだ。その太い幹も、無数の枝も、凍りついたように固く動かなかった。  
ただ冷たい風が、地面の葉を吹き散らしているばかりだった。  
 命の鼓動を感じさせる気配は、全くなかった。  
 リンクはうつむき、いまも離れた所に集まっている仲間たちのところへ、重い足取りで歩いて  
いった。その前で立ち止まったリンクに、ミドが言った。  
「デクの樹サマ、死んじゃったぞ。おまえ、デクの樹サマの中で、何をやったんだ?」  
 難詰するような口調だった。  
「リンクのせいじゃないわ! リンクが中に入る前から、デクの樹サマ、様子が変だった  
じゃない!」  
 サリアが叫んだ。だがそれに答える者はいなかった。ミドも、他の仲間たちも、黙ってリンクを  
見つめていた。  
 すべてを説明しようと思いかけたが、場の空気がリンクを躊躇させた。それに……ミドは涙を  
流していた。表情に敵意はなかった。そこにはただ大きな悲しみだけが感じられた。  
 リンクは仲間たちから視線をそらせ、無言のままそこを離れた。何も言う気になれなかった。  
 
 リンクはまんじりともせず、自室のベッドにすわっていた。悲しみと、憤りと、寂しさとで、  
思考はしばしば途切れ、先に飛び、あるいは後戻りし、リンクの脳裏を吹き荒れた。長い時間、  
リンクは苦しんだ。しかし逃げることはできなかった。逃げる気もなかった。繰り返し、繰り返し、  
何度も、何度も、リンクは自らに問い、そして、一つの結論に達したのだった。  
『ぼくはこの森を出て行くべきなんだ』  
 ミドは……これまで喧嘩ばかりしてきたが、ミドは本当は悪いやつじゃない。あの時……  
デクの樹サマの前で、地面から怪物が飛び出してきた時、ミドはぼくに言った。「気をつけろ」と。  
ふだんミドがぼくに意地悪をするのは、ぼくとサリアの仲がいいからだ。それが気に入らない  
だけなんだ。ミドがさっきぼくを責めるようなことを言ったのは、本気でぼくがデクの樹サマに  
何かしたと思っていたからじゃない。デクの樹サマが死んだのが信じられなくて……その事実に  
耐えきれなくて……やり場のない感情をぼくにぶつけただけなんだ。それだけのことなんだ。  
でも……  
 本気ではないとしても、ミドがぼくにそんな言葉を投げつけたのは、そして他の仲間たちが  
それに無言の同意を与えていたのは、やっぱりぼくがみんなと「違っている」からだ。  
 ぼくとみんなの間の溝。これまでもずっと感じていた溝。さっき、ぼくにはわかった。その溝は  
永遠に埋められないんだと。きっといつかは妖精が来ると、きっとみんなと一緒にわだかまりなく  
暮らせるようになると、ぼくは信じていた。信じようとしていた。でも……そんな日は、  
来るはずはなかったんだ。  
 ぼくはハイリア人だから。『外の世界』の人間だから。  
 デクの樹サマは言った。ぼくはいつかこの森から出て行く運命だったと。もといた世界に戻る  
時が来たのだと。  
 いいだろう。ぼくはそれを受け入れよう。  
 いつもそのことを考えていた。いつかは行こうと考えていた。その道が、いま、目の前に  
開けたんだ。  
 ぼくはどうしてここにいたのか。ぼくはどこからここへ来たのか。ぼくはいったい何者なのか。  
それを知るために、ぼくは『外の世界』へと旅立とう。  
 
 仕度に時間はかからなかった。剣と盾、パチンコ、当座の食料、最低限の身の回りの品、そして  
『コキリのヒスイ』。それで終わりだった。  
 そっと家を出ると、もうあたりはすっかり暗くなっていた。闇に沈んだ森を見て、リンクは  
むしろほっとした。仲間には会いたくなかった。  
 リンクは森のはずれの広場に向かった。相変わらず冷たい風が、地面の上で枯れ葉をかき混ぜて  
いた。その上には白く枯れ果てた巨樹が、夜の虚ろな暗黒を背景として、墓標のように立っていた。  
 これから行く道の先でぼくを待つ者。デクの樹サマを死に追いやった者。世界を飲みこもうと  
する悪しき力。『黒き砂漠の民』という名の強大な悪。  
 その名は、夢に出てきた、あの男に重なる。この上もなく邪悪な空気をまとった、あの男に。  
なぜ見も知らぬはずの人物が夢に出てくるのかはわからないが……それはぼくとあの男の  
避けられない対決を暗示しているのだろうか。  
 ぼくはデクの樹サマを救うことはできなかった。それがぼくの限界だった。その程度の小さな  
存在に過ぎないぼくが、世界を脅かすほどの巨悪に立ち向かわねばならない。そんな大それた  
ことが、はたしてぼくにできるだろうか。  
 夢の中で、ぼくはあの男に怯え、恐怖していた。そしてそれはいまも……  
 いや。  
 夢の中のぼくは、確かに恐れていた。だが、いまのぼくは……不安はある。だが恐れてはいない。  
 勇気。  
 デクの樹サマの中で、確かめた勇気。  
 それを忘れるな。前を見ろ。なすべきことをなせ。  
 世界に残された最後の希望。この世界を善き方向へ導く者。それがぼくだと、デクの樹サマは  
言った。世界を救うという、限りなく重い使命。その重みは、いまのぼくの想像を絶している。  
 でも、ぼくはもう迷わない。  
 コキリの剣を手にした時、ぼくはすでに、その使命を負うことを決めていたんだ。  
 
 どれくらいの間、そこに佇んでいただろう。気がつくと、星は大きく天空をめぐり、夜はすでに  
深く更けていた。  
 リンクはデクの樹に背を向け、歩き始めた。できるだけ物音をたてないように気をつけた。  
誰の目にも触れずに森を出て行きたかった。  
 ただ一人、サリアを除いて。  
 リンクはサリアの家の前で立ち止まった。家は暗く、人の気配はなかった。どこに行って  
いるのかはわからなかった。リンクはしばらくそこにとどまっていた。心が残った。しかし……  
どうしようもなかった。  
 リンクは森の西端へと向かった。頭からはサリアのことが離れなかった。この森で本当に心を  
通わせることができたのは、サリアだけだった。サリアだけは、いつも自分の味方だった。  
サリアがいなければ、ここでの自分の生活は、どんなに空しいものになっていただろう。  
これまでにも増してサリアがかけがえのない存在に思え、それはともすればリンクの足取りを  
鈍らせそうになった。  
 森の西端は崖となっており、その一角からは、木が生い茂った一本道が先に伸びていた。  
それが森の出口へと向かう道だった。リンクは崖の手前で後ろをふり返った。夜に眠る深い森が  
静かに広がっていた。  
 九年間を過ごしたコキリの森。サリアのいるコキリの森。  
 リンクは向きを変え、先へと道を駆け出した。これ以上とどまっていると、固いはずの決意が  
揺らぎそうだった。誘惑を振り払うように、密集する木々でトンネルのようになった道を、  
リンクは一心に駆けた。駆けながら、リンクは繰り返し自分に言い聞かせた。  
 ぼくは行く。ぼくは行く。もう忘れよう。もう忘れよう。  
 やがて道は木々の間から抜け出し、谷川にぶつかった。谷川には吊り橋が架けられている。  
その吊り橋の手前まで来て、リンクは急に足を止めた。  
 橋の上に、サリアが立っていた。  
 
 デクの樹の前から立ち去るリンクを、サリアは黙って見送った。サリアですら声をかけるのを  
憚るほどの重苦しい感情が、リンクの背中からは滲み出ていたのだ。デクの樹の死への悲しみ。  
力及ばなかった自身への憤り。そして仲間に認められない寂しさ。リンクの気持ちが、サリアには  
よくわかった。そんな時に軽々しく声をかけることはできなかった。  
 サリアはそっとリンクの後を追った。リンクは自分の家に閉じこもり、ずっと出てこなかった。  
それでもサリアはリンクの家の下に立っていた。   
 リンクが出てくるまで待とう。いつまでも待とう。いまのあたしにできるのは、それだけ  
なんだわ……  
 サリアは待った。午後が過ぎ、日が暮れ、夜になっても、サリアは待ち続けた。そうしながら、  
しかしサリアはある予感を抱き始めていた。やっと家から出てきたリンクの、その旅装を見た時、  
サリアはその予感が当たっていたことを悟った。  
 リンクは森を去ろうとしている。  
 家に潜んでいる間に、リンクの感情は大きく変わったようだった。それがリンクの表情に  
表れていた。あまりにも厳しいその表情に、さっきとは異なった近寄りがたさを感じ、思わず  
サリアは木の陰に身を隠した。  
 前にも同じことがあった。リンクに自分の姿を見せるのか、見せないのか。あの時は結局  
決められなかった。でもいまは? これでいいの? このままでいいの?  
 サリアは焦燥に駆られながら自問した。しかしやはり身体は動かなかった。自らの優柔不断を  
呪いながら、サリアはただリンクの後ろ姿を見送るしかなかった。  
 だがリンクは森の出口へは向かわず、反対側にある広場へと歩いていった。デクの樹サマに  
別れを告げるつもりなのだろうか。  
 サリアは決意した。  
 リンクがたどるであろう道筋。そしてみんなには内緒でリンクと落ち合える場所。  
 森の出口に架かった釣り橋へとサリアは走り、そして、そこで待った。  
 リンクはここを去る。それはもう止めようがない。でも……リンクの、あの表情。去る前に、  
リンクはあたしに会いたいと思っているだろうか? あたしと話したいと思っているだろうか?   
あたしは……待っていてもいいのだろうか?  
 ともすれば湧き起こる危惧を、サリアは必死で押さえつけた。  
 これが最後の機会。この機会を逃したら、もう二度とリンクには会えない気がする。  
 サリアの耳に足音が聞こえた。  
 リンクが来る。リンクが来る。あたしは……あたしは……もう逃げない。  
 リンクが木立の間から駆けだしてきた。吊り橋を渡ろうとして、急に足を止めた。  
 サリアはまっすぐリンクの顔を見た。リンクの表情には、驚きと、そして──喜びの色が  
浮かんでいた。  
『待っていて、よかった……』  
 サリアの全身から、すっと緊張が引いていった。  
 
 二人はしばらく黙ったまま見つめ合っていた。見交わす目と目が、互いの感情を正しく読み  
とっていた。  
 やがてサリアは言った。  
「行っちゃうのね……」  
 リンクは思いを反芻するかのように、少しの間うつむいていたが、再びサリアの顔に視線を  
戻すと、訥々と、だが確かな口調で話し始めた。  
「ぼくは……ぼくはいつも……他のみんなとは違っていると思ってた。そう思いたくはなかった  
けれど……それでも、ぼくはそうなんだ……」  
 そう……それはあたしにもわかっていた……  
「ぼくは……行かなきゃならない。『外の世界』へ……そこでぼくは……しなくちゃならない  
ことがある……」  
 リンクがこの森を出て行く。それはほんとに……ほんとに……悲しいことだけど……でも……  
「何か悪いことが起ころうとしている……デクの樹サマが死んだのも、そのせいなんだ。ぼくは  
それと……戦わなきゃならない」  
 遠い何かに向かうリンクの思い……あたしはそんなリンクを見ていたかった……だから  
リンクには、その思いを失って欲しくないの……  
「それがぼくの……使命なんだ」  
 使命!  
 デクの樹の言葉が脳裏に浮かぶ。  
『この世界に生きている、どんな生き物にも役割がある……』  
 リンクは行く。その使命を果たすために。その役割を果たすために。そしてあたしは……  
あたしは……  
「これ……持っていって」  
 サリアはポケットからオカリナを取り出す。  
「あたしがいつも吹いていた曲、覚えてるよね……」  
 リンクが無言で頷く。  
「……あの曲を吹いて……時々はあたしのこと、思い出して……」  
 あたしはここで、リンクを見送ることしかできない。でも……でも……どうにかしてリンクとの  
絆を保っていたい。なぜなら……  
 リンクがオカリナを受け取る。二人の手と手が触れる。サリアの腕に伝わる、さざ波のような  
感覚。  
 この感覚は……  
 リンクの目。いつも遠い何かを見つめていたリンクの目。いまはあたしを見つめている  
リンクの目。あたしはそれが好きだった。あたしはリンクが好きだった。好き……好き……好き!  
「ありがとう、大切にするよ」  
 リンクが答える。  
「サリアはぼくの……いちばんの友達だから」  
 そう、あたしはリンクに言った。リンクはサリアのいちばんの友達。そしてサリアはリンクの  
いちばんの友達。  
 それは確かだ。間違ってはいない。でも何か……何かが違う……  
 いまあたしの中にある、それとは別の、新しい感情。  
『あたしはリンクが好き』  
 さざ波のような腕の感覚が全身に広がってゆく。  
 サリアは思い出す。今朝、あたしはリンクのもとを訪れた。あの時、あたしは決めていた。  
以前、そう考えながら、果たせなかったこと。リンクに……あたしを……見てもらおうと。  
あたしはそうしたかった。それが正直なあたしの思いだった。ただ、なぜそうしたいのか、なぜ  
リンクにすべてをさらしたいと思ったのか、そのわけは、自分でもわかっていなかった。  
 でもいまは……いまはわかる……  
『あたしはリンクが好きだから』  
 一日の間に、物事はなんと大きく変わってしまったことだろう。凶兆を呼ぶ風。デクの樹の死。  
リンクの旅立ち。そして最後にわかった、自分の本当の感情。  
 全身の感覚が、あの時のように……森の聖域での、あの秘密の時のように……身体のあの部分に  
集中し始める。  
 
 そうしたい。そうしたい。でも、もう時間がない。リンクは行ってしまう。もう時間がない。  
 サリアの手が、リンクの手を握る。こうやって……リンクに触れて……でも、まだ足りない。  
どうすればいい? どうすればいい? もっと、もっとリンクに近づいて……  
 頬が熱い。胸が苦しい。そして……あの場所が……二つの胸の先と、両脚の間のあの窪みの奥が  
……痺れるように……灼かれるように……何かを欲しがって……  
 リンクの顔。リンクの目。それが視野いっぱいに広がって……リンクの目にはあたしの顔が  
映っていて……それが少しずつ大きくなって……もう焦点が合わないほど顔が近くに寄って……  
それでも……  
 それは身体の中でふくらんで……遠くから……徐々に……じわじわと……いや、いまでは急速に、  
どんどん、どんどん、身体の奥から……  
 それでもまだ、二人がつながることができるところがそこにあるから……目を閉じて……  
そのまま……もう少し……もう少し……  
 奥から噴き上がろうとする感覚を、その快い感覚を……  
 もう少しだけ近づこう、そうすれば……こんなふうに……  
 その快感をせきとめることは、もう……  
 こんなふうに……あたしはリンクとつながれる。  
 もう……できない。  
 
 サリアの唇が、リンクの唇に、そっと触れた。  
 それが何と呼ばれる行為なのか、サリアは知らなかった。人がそういう行為をするという  
知識すら、サリアにはなかった。しかし「好き」という感情を表すためには、その場ではそれが  
唯一の、そして最良の行為であると、サリアにはわかったのだ。  
 リンクの唇を深く感じる暇もなく、サリアの中であの感覚が無限に膨張し、爆発し、拡散した。  
それはサリアが生まれて初めて味わう歓喜の体験だった。  
『これなんだわ』  
 リンクと唇を合わせたまま、サリアは感動にうち震えていた。あたしの身体。ふくらみ始めた胸。  
萌えそめた叢。それらはこの時のための兆しだった。こうしてリンクと──自分の好きな人と  
触れ合う幸せ。その本当の幸せを、いま、あたしは知った……  
 余韻が引くにつれ、サリアの身体から力が抜けていった。唇が離れ、脚がよろけた。リンクは  
素早くサリアの身体を支えた。  
「サリア……」  
 リンクが呼びかける。戸惑いと……そして限りない親愛をこめて。  
「元気で……」  
 サリアは小声で答え、そっとリンクから身を離した。リンクは行ってしまう。でもこの幸せは、  
決して束の間のものではない。それはあたしが生きている限り、消えることはないだろう。  
でも……  
「また……会えるよね?」  
 最後の問い。これだけは聞いておきたい。たとえ未来が不確かなものに過ぎなくても、リンクの  
気持ちだけは知っておきたい。  
「帰ってくるよ」  
 リンクは短く、しかしはっきりと言った。  
 サリアは小さく頷いた。  
 二人はそのまま見つめ合っていた。  
 やがてリンクは数歩後ろへ下がり、身をひるがえすと、走って吊り橋を渡って行った。  
 その姿が見えなくなった時、サリアは耐えきれず、橋の上にすわりこんだ。  
 とうとう行ってしまった。でも……でも……  
『信じよう』  
 リンクはいつか帰ってくる。その時こそ、いまのあたしの幸せを、あたしたち二人の幸せにする  
ことができるだろう。  
 サリアは下半身の濡れた感触に気がついた。これまで経験したことのない異様な感触だった。  
しかしそれは不思議に満ち足りた感触でもあった。  
 
 吊り橋を渡ってしばらく行くと、道はぷっつりと途切れ、先には深い原生林が広がっていた。  
 ここまではリンクも来たことがあった。デクの樹は常々リンクたちに、そこから先へは決して  
踏み行ってはならないと言い聞かせており、事実そこには、デクの樹が見えない障壁を築いていた。  
破ろうとしても破ることのできないその障壁を、これまでにもリンクは、ここに来るたびに  
感じていた。  
 しかしいまは、その障壁が失われていた。デクの樹が死んでしまったからか、それともデクの樹が  
敢えてリンクのためにそこを開いたのか、それはリンクにもわからなかった。いずれにせよ、  
ここを先に進んで行かねばならなかった。  
 リンクは原生林に踏み込み、道なき道をたどって行った。夜の暗闇と密生する木々のために、  
その行程は困難を極めた。数時間の苦闘の末、リンクは前進を諦め、とある木の根元に腰を  
下ろした。夜が明けてまわりが見えるようになるまでは、どうしようもない。  
 リンクはじっとすわっていた。その脳裏に、さっきの体験がよみがえる。  
 あの体験。サリアと唇を合わせた、あの体験。それはリンクにとって衝撃であり、不可解な  
ものでもあった。それでもリンクは、それがあの場にふさわしい儀式だったと確信できた。  
サリアとの別れのために……そしてこの先の二人のために。  
 サリアに会えて、よかった。本当に。  
 初めての触れ合いの感触を思い出しながら、リンクは眠りに落ちた。  
 数時間のまどろみのあと、再び目を開いた時、あたりには薄い光が漂っていた。鬱蒼とした  
木々の葉に遮られ、日の光が直接そこへ差し込むことはなかったが、その光はすでに夜が明けて  
いることを示していた。  
 リンクは軽い朝食をすませると、再び立ち上がり、前進を開始した。足もとの悪さは相変わらず  
だったが、まわりが見渡せる分、進むのは困難ではなかった。  
 木々の密度は徐々に低くなっていった。森が尽きようとしているのだと、リンクにはわかった。  
いよいよ木がまばらになり、上空からの光が直接リンクの肌を照らし始めた時、リンクは前方に  
異様なものを見た。  
 森の端の右手に立つ木の枝に、巨大な梟がとまっていた。それは大きな目をまるまると見開き、  
瞬きもせずリンクを見据えていた。何ものをも見通すような、その目。リンクはそこに、  
なにがしかの気味悪さと、そして奇妙な安心感を覚えていた。  
 何だろう、この鳥は……  
 リンクと梟は、しばらく無言で向かい合っていた。  
 耐えきれずリンクが口を開こうとした時、梟が、さっと右の翼を開いた。翼の先は、森の端から  
その先へと、まっすぐに伸びていた。  
 ぼくに、行けと……?  
 リンクは梟に目をやったままゆっくりと歩を進め、その木の横を通り過ぎた。梟もまた  
移動するリンクから視線を離さず、しかし翼はしっかりと一方を指し続けていた。  
 訝しみつつも、リンクは前方へと目を移した。  
 そこには信じられない風景が広がっていた。  
 
 空気は透明に澄みわたっていた。頭上では直視できないほど眩い太陽が、あらゆる方向へと光を  
発散していた。その後ろでは、空の青と雲の白とが、たとえようもない鮮烈さで対照を示していた。  
何もかもがコキリの森とは異なっていた。  
 そして……何よりも驚くべきなのは大地の広がりだった。それは緩やかな起伏を持ちつつ、  
リンクの視界をはるかに超える規模で、空と合する一線まで、果てしない距離を内包していた。  
「これが……外の世界……」  
 リンクの呟きは、身体の震えにかき消された。それは恐れではなく、不安でもなく、直截な  
感動の震えだった。  
 背後で羽ばたく音がした。梟は一直線で上空に駆け上がると、抜けるような青空の中を、  
北へ向かって飛び去って行った。  
 それがぼくの進むべき道か。  
 リンクは足を踏み出した。  
 行こう。この広がりを越えて。行こう。この光の中を。  
 この先に待つもの。それが何であろうとも、ぼくはまっすぐそこへ向かって行こう。  
 勇気をもって。  
 
 
To be continued.  
 

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