エポナがブルッと鼻を鳴らした。
リンクは現実に戻った。馬上で考えごとにふけっていて気がつかなかったが、エポナはちょうど
道が二手に分かれる所で立ち止まっていた。鼻を鳴らしたのは、どちらへ行くのか、リンクの
指示を促すつもりだったのだろう。
右の道は、ゾーラ川がハイラル平原に流れ出る地点へと向かっている。左の道を行けば
カカリコ村だ。少し考えたのち、リンクは右に道をとった。目的地はカカリコ村だから、回り道に
なる。にもかかわらずそうしたのは、一度ゾーラの里を見ておきたいと思ったからだった。
エポナのおかげで旅がはかどるようになり、日程に余裕が生まれていた。その余裕を利用しようと
いう算段だった。
それに、乗馬というものにも、もっと慣れておきたかった。
旅がはかどるといっても、移動時間はそれほど短くはなっていない。なにしろ初めての
乗馬体験なのだ。初めからすっ飛ばせるはずもなく、リンクが操るエポナの歩調は、慎重なものに
ならざるを得なかった。確かに自分の足で歩くのに比べると、疲労の度合いは雲泥の差で、体力を
温存できることにより、相当に楽な旅となってはいる。だが、だからといって、いつまでも
のんびりとはしていられない。
「もう少し急いでみようか」
リンクはエポナに語りかけた。マロンの教授を思い起こし、足と腰を使って指示を出す。
ながら不器用な動きだ、と思う。しかしエポナは自然に常足から速足へと移った。体勢を保つのに
精いっぱいのリンクだったが、エポナは平然とした調子で足を運ばせてゆく。
馬に乗るなんて簡単よ、とマロンは言ったが……なるほど、ことは順調──と、リンクは
嬉しくなった。が、慢心はしなかった。
自分に乗馬の才能があるわけではない。むしろエポナが優れているのだ。信頼する相手であれば、
乗り手が下手でも力を発揮する。逆に乗り手を教育してくれているようでもある。さっき分かれ道で
こちらに指示を促したように。
『エポナにふさわしい乗り手にならないとな』
気を引き締めて手綱を握り直し、リンクは先へとエポナを進ませていった。
速足の動きに慣れ、馬の操り方もさまになってきたと思えたので、リンクは再びエポナを並足に
戻した。背の上でゆっくりと身を揺らしているうちに、リンクの頭はまたも一つの対象に占められて
いった。分かれ道に至るまでにも考えていたことだった。
マロン。
そのままにしてきたことが気がかりではあるが、また訪れる機会はあるだろう。結局言い出せ
なかったタロンのこともある。みずうみ博士は、あせらんでもよいと言ってくれたが、いずれは
伝えなければならない。それに、これほど助けになるエポナを譲ってくれたお礼もしなければ……
そして、思いは必然的にそこへと向かう。
マロンとの体験。
抑えようもなく記憶に立ちのぼる、マロンの裸体。
手の、唇の、肌の、胸の、そしてあの秘められた場所の、絶妙な感触。
それらがリンクを高ぶらせる。
しかし困惑はない。前には自分の中で燃え狂っていた欲望の嵐に手もつけられなかったが、
いまは高ぶりながらも不思議に落ち着いた気分なのだ。ひとたび男と女の行為を経験し、
それまでは知るよしもなかった欲望の行き場を、明確に知ることができたせいだろうか。
その経験は、女性の見方にも変化を及ぼしたようだ。それまでは、個々の女性の特定の要素
ばかりが集中的に思い浮かんだ。それは、サリアの唇であったり、アンジュの乳房であったり、
ルトの裸身であったりした。マロンの場合はキスの懇願と「もっといいこと」への空想だったのだが、
実際にマロンと身体を合わせてみると──突出した特定要素だけではなく──マロンという一人の
人間がそこにあったのだ、と理解できる。そうした変化も、自分を落ち着かせている理由かもしれない。
未解決のことがまだ多く残ってはいるが、それでも自分が人生の段階を一つ進むことができたのだと
実感し、リンクは大きく満足の息をついた。が……
突然、ゼルダの顔が脳裏に浮かび、リンクはどきりとした。
動揺する。
この動揺は何なのか。
痛みとも苦みともつかぬ感情に惑いつつも、リンクは自らを追求した。
複数の女性に欲望を抱くのは悪いことではない、とシークは言った。その言葉で、自分が
異常なのではないとわかり、ぼくは安心したものだ。なのに、いまのぼくは、なぜこうも動揺して
いるのか。なぜかというと……そう……
二人を繋ぐ、あの「何か」に象徴されるように、ぼくにとってゼルダは、他の女性とは違う
特別の存在だ。だからあの行為も──この上なく密な女性との接触である、あの行為も──
本来ならゼルダとなすべきことだった、と、ぼくは心の底では考えている。それが動揺の理由なのだ。
けれども、マロンとの体験が間違いだったとは思わない。自分にとって大きなできごとで
あったと同時に、あれはマロンにも何かをもたらしたはずだ。それは確かだ。
リンクはおのれに言い聞かせた。心にかすかなしこりが残っているのを自覚してはいたが、
それ以上の追求は、敢えて避けた。
ロンロン牧場を出発してから二日後、リンクはハイラル平原の東端に行き着いた。
目の前の山並みに刻まれた深い渓谷。しかしそこを流れ下る水はなく、ただそこかしこの窪みに
小さな水たまりが散見されるのみ。豊富な水が激しくしぶきをあげていた七年前が嘘のような、
それがいまのゾーラ川の姿だった。
皮肉なことに、水がない分、川を遡ってゆくのは容易そうだった。だが傾斜は急であり、馬で
進むのはとうてい無理だった。リンクは、平原から少し奥に入った所にある空き地に、エポナを
残してゆくことにした。繋置はしなかった。口に入れる草や水を求めての移動を妨げてしまうし、
エポナが自分を置いて去ることはないと確信していたからでもあった。
急流に足を取られる心配はないとはいえ、斜面には沢や淵を形づくっていた複雑な段差があり、
登ってゆくのは思ったほど楽ではなく、リンクは全身に汗をかいた。上流から漂い下りてくる
冷気がそれを和らげてくれたが、冷気の正体を思うと、とてもありがたいとは思えなかった。
登るにしたがって気温は下がり、リンクの身体は、汗をかくどころか、寒さで震えるように
なっていった。
最上流では雪すらちらついていた。滝は完全に凍結しており、ゾーラの里への入口である滝の
裏の洞穴は、目にすることもできなかった。すでにシークから聞いていたことでもあり、さほどの
衝撃はなかったものの、変わり果てた風景に、リンクの心は重く沈んだ。風景の変貌は他の
地域でも経験してきたことだが、ここではゾーラ族の悲惨な最期の状況が、否応なく想像されて
しまうのだった。リンクはマスターソードの柄で氷を崩そうと試みたが、すぐにそれを断念した。
凍りついた巨大な滝を人力で崩すなど、一生かけても無理なことだった。やむなくリンクは
帰途についた。
背後の冷気が遠のいてゆくのに影響されてか、下るにつれて、リンクの気分も元に返っていった。
諦めるな、まだ先がある、という思いを、リンクは胸の奥でかき立てた。
傾斜の下端に近づくと、エポナが空き地に佇んでいるのが見えた。最上流への往復に半日以上
かかったが、エポナはずっとそこで待っていたのだ。予想はしていた。それでも頬に笑みが
浮かぶのを抑えられなかった。
赤みがかった褐色の毛並みをもつ、得がたい旅の道連れ。いや、もう親友と言ってもいい。
リンクを認めたエポナも嬉しそうに嘶く。
「よしよし、待たせてごめんよ。また一緒に行こうな」
歩み寄りながら声をかけるリンクの中で、エポナへの信頼は、より堅固なものとなっていた。
カカリコ村へ向けて北上する間、速足、さらには駆足までも試してみたが、エポナは指示に
対して的確に反応し、実に俊敏でスムーズな動きを示した。エポナ自身の能力とはいえ、自分の
乗馬の腕も上がったように感じられて、リンクの心は浮き立った。
シークと再会の約束をした場所に着くまで、一日しか要さなかった。そこはゾーラ川をはさんで
東の山地に近接する平原の高台だった。カカリコ村に程近い所だが、人通りはなく、二人きりで
会うには適切と言えた。
まだ日没には少し間があったが、居場所を知らせるつもりもあったのだろう、シークはいつもの
ように火を焚いて待っていた。リンクを見たシークは開口一番、
「その馬はどうしたんだ?」
と訊いてきた。問われることが予期されたので、リンクは返事を準備していた。ロンロン牧場に
寄った時に譲り受けたのだ、と、最小限の事実だけを話した。マロンとの体験のことは、すぐには
言い出しかねた。自分に向けられるシークの視線が、なおも説明を要求しているように思えたが、
シークは質問を続けようとはしなかった。リンクは安堵した。
早めの夕食をしたためつつ、二人は水の神殿の件を話題とした。神殿に入ることはできたが、
それ以上の収穫はなかった、と、リンクは残念な報告をせざるを得なかった。ある程度の予想は
していたのか、シークは、
「そうか」
と短く言ったきりだった。が、表情に浮かぶ失望の色が、リンクには見てとれた。
その失望を振り払うかのように、シークは話題を変えた。
次の目標。二つの神殿。デスマウンテンと、カカリコ村の墓地。今回は神殿の詳細な場所が
わかっていないし、関係するメロディも得ていない。特にデスマウンテンは近づくことすら困難だ。
だが墓地については──
シークは地下通路と石碑のことを語り、最後をこう締めくくった。
「カカリコ村へは時にゲルド族がやって来るが、いまは来ていないから安全だ。ゆっくり探索
できるだろう。四日後の夜、またここで会おう」
「安全だというのなら、君も一緒に行った方がいいんじゃないか? カカリコ村は君にとっても
馴染み深い場所なんだし……」
リンクの勧めに対し、シークは首を横に振った。
「いや、僕は西方の状況を調べる。次の目的地は『幻影の砂漠』だからな」
たった四日では遠くの状況はわからないだろうに──とリンクは思ったが、口には出さなかった。
シークのことだ。何か考えがあるのだろう。
やや間をおいて、シークが再び口を開いた。
「神殿や賢者とは関係のないことなんだが……」
ためらうような雰囲気があり、リンクはいぶかしく感じたが、続くシークの声は一転して明確な
ものとなった。
「アンジュに会いたまえ」
「アンジュに? どうして?」
問い返すリンクに、シークは声をたたみかけた。
「女を教えてもらうんだ」
リンクは記憶を掘り起こした。
シークは南の荒野でも似たようなことを言った。「君は女性を知るべきだな」と。
「……どういう意味?」
前にはできなかった質問をしてみる。が、シークの答は答になっていなかった。
「そうアンジュに言いさえすればいい」
それだけではあまりにも素っ気ないと思ったのか、シークは言葉をつけ加えた。
「君のためになることだから」
何なのだろう。
マロンとの体験が頭に浮かぶ。けれど、それに関係したことなのかどうか……
「……わかった」
ほんとうは何もわかってはいないのだが、とりあえずそう返事をした。アンジュに会えば
わかるのだろう、と思って。
「ただ──」
シークが熱心な調子で言い始める。
「僕が君に、アンジュに会えと言ったことは、アンジュには伏せておいて欲しい。あくまでも
君が自分の意思でアンジュを訪ねた、ということにしてくれ」
意図が理解できなかった。
シークとアンジュが知り合いだということは、すでにシークから聞いている。カカリコ村が
戦争に負けたと知って、アンジュがどうなったのか心配だったが、シークの話で無事だとわかり、
胸をなで下ろしたものだ。だが……この二人の間柄は、どういったものなのだろう。シークは
詳しいことを話さなかったが……
訊いてみようか、と思いかけたが、シークの顔は仮面のように感情を欠いており、問いただす
気は殺がれてしまった。
「ああ……いいよ」
曖昧な気持ちのまま、リンクは頷いた。会話はそれで終わった。
あまり遅くならないうちに着けるだろうから──と言い、日が没していたにもかかわらず、
リンクはカカリコ村へと出発した。エポナに揺られて遠ざかってゆくリンクを、シークは高台に
立って見送った。その姿が見えなくなってから、シークは焚き火のそばに戻り、腰を下ろした。
思いを探る。
僕の知る範囲では、リンクの最初の相手としては、アンジュが最も適当だ。二人は以前からの
知り合いだし、アンジュならリンクをうまく導いてくれるに違いない。が……
そのことへの引っかかりが、僕の中には残っている。
リンクが他の女性とセックスすることへの引っかかり。
南の荒野でも、僕は自分を納得させた。リンクには必要なことなのだから、と。しかしそれだけでは、
この引っかかりは消えない。
なぜ引っかかるのか。
「他の」女性。誰以外の女性だというのか。
ゼルダだ。
リンクはゼルダに特別な感情を抱いている。そして僕自身も、リンクの感情を支持している。
リンクとゼルダの結びつきを願っている。それが引っかかりの理由なのだ。
だが……ゼルダという存在がリンクにとって不動のものである以上、他者との関係によって
それが揺らぐことはない。そう考えれば、この引っかかりは呑みこめる。
そこで、ふと思い当たった。
『僕はやけにゼルダを贔屓しているな』
他意はない。リンクの友人として、彼の幸せを念じているだけのこと。
それだけのこと……なのに……違和感がある。何だろう。
ゼルダと僕。リンクを介さない何らかの繋がりが、そこにはあって……
そして、他にも違和感が……
この引っかかりは、アンジュやルトやサリアと、リンクがいかなる関係にあったのか、という
疑惑に際して、僕がかつて感じた胸の痛み──他愛もないと片づけたものだが──それと軌を一に
している。けれども、僕がその痛みを感じたのは、ゼルダへのリンクの想いを知る以前のことで……
『待て』
心が警戒を発する。
この件は置いておけ。それよりも、もっと重要なことがある。
シークは思考を旋回させた。
もう一つの引っかかり。アンジュが他の男性とセックスすることへの引っかかり。リンクには
必要なことなのだから、というだけでは、やはり消せない引っかかり。
アンジュは娼婦だ。男と交わるのは日常茶飯事だ。いままでそれが僕を惑わせたことなど
なかったのに、なぜ、いまはこうも引っかかるのか。
これまでアンジュとは何度か身体を重ねている。確かにそれは僕にとって大きな安らぎだ。
とはいえ、アンジュを愛しているわけではない。時に会って、抱き合って、安らぎが得られれば
いい、というだけの、割り切った関係だ。アンジュも同じ認識に違いない。だからアンジュが
僕以外の誰とセックスしようと、一向にかまわない。
かまわないはずなのに……どうしてリンクの場合は引っかかる?
僕がリンクに先立ってカカリコ村へ来たのは、リンクに女を教えてやってくれと、直接
アンジュに頼むつもりだったからだ。でも、僕はそうしなかった。会おうと思えばアンジュには
会えたのに、僕は会わなかった。会えなかった。なぜ?
一緒にカカリコ村へ行った方がいいのでは、というリンクの誘いを、下手な言い訳までして僕は
断った。リンクと二人でアンジュに会いたくはなかった。なぜ?
アンジュを薦めたことをアンジュ本人には言うなと、僕はリンクに口止めした。僕が薦めたのだと
アンジュには知られたくなかった。なぜ?
『気遣いだ』
自分に言う。
他の男に抱かれろと僕の口から聞かされたら、あるいは僕がそう言ったと間接的にでも知ったら、
アンジュは何と思うだろう。僕はそう気遣ったのだ。
『……いや……』
痛みに耐えて、おのれの心をえぐり出す。
『違う』
自分を飾るな。ほんとうはこうだ。
他の男に抱かれろと僕の口から聞かされて、あるいは僕がそう言ったと間接的に知って、その上で、
もしアンジュが喜んでそれを受け入れたら、と……
僕はそれが恐いのか?
僕がアンジュに特別な感情を抱いているというのか? それが引っかかりの理由だと?
そんなことはない。愛なんかじゃない。が……
愛……ではないが……この「情」は……自分でも説明できない、この想いは……
これが『副官』なら、僕はここまで引っかかりを感じないだろう。では、なぜアンジュには
感じてしまうのか。二人の違いは何なのか。それは……
境遇。
不本意な立場ではあっても、『副官』は戦士としての誇りを保っている。自分の道を自分で
決められるだけの自由を持っている。
アンジュはどうか。
娼婦。女の誇りを捨て去らなければ生きてゆけない苦しみ。
僕たち二人の逢瀬が、アンジュにとっても安らぎであることは確かだ。しかしそれはあくまで
一時のもので、僕はアンジュを、その苦しみから救い出してやることができない。いや、
そこまでとは言わずとも……抱き合って安らぎを得てもなおアンジュの表情にひそむ、あの
寂しさの影を、僕は拭い去ってやることができない。
哀しい。
情があるから哀しいのか。哀しいから情が湧くのか。
心の底を凝視する。すべての感情を洗い直す。
葛藤の末、シークは結論に達した。
僕にはできないことを、もし他の男ができるのだとしたら……
『それでいい』
たとえ自身の所産でなくとも、他者の力によるものであっても、アンジュの幸せを願うなら、
僕は喜んでそれを認めるべきなのだ。
『リンクなら……』
ケポラ・ゲボラの言葉を思い出す。リンクは陽、僕は陰。戦い方だけではなく、それは僕たちの
性格の対比でもある。
リンクなら、僕にはもたらせない何ごとかを、アンジュにもたらすことができるかもしれない。
そう……アンジュをリンクの相手に、と考えた時、僕の意識の下には、その思いがすでにあったのだ。
最後まで残っていた引っかかり。それをいま、シークは静かに呑みこんだ。
二時間経った。あらかじめ決めておいた刻限だ。もう帰ってもらわないと。
隣の男に目をやる。目を閉じて、じっと横たわったままだ。眠っているのだろうか。
動きが男に伝わるように身を起こす。布団をめくる。全裸のままベッドに腰かけ、ふり返る。
男が目をあけていた。気持ちが表に出ないように、声を作って話しかける。
「ねえ、そろそろ──」
いきなり腕をつかまれ、引き戻される。ベッドに背中を押しつけられる。上にのしかかられる。
「ちょっと……もう時間が……」
聞く耳も持たず、男が股間をぶつけてくる。かちかちになった肉棒が、すでに潤いの引いていた
谷間に突き立てられる。
「あぅッ!」
摩擦の痛みで漏れる声を、快感の喘ぎとでも思ったのか、男はにやりと笑い、ぐいぐいと腰を
前後させ始めた。
『しかたないわね……』
男の背に腕をまわす。
肉体労働者なのだろう。裸体の表面で筋肉が逞しく緊満している。四十歳以上に見えるが、
それにしては優れた体力。すでに二回、達しているのに、少し休んだだけで三回目だ。顔も
悪くない。苦み走った、と表現できるような、渋い整いがある。
でも、魅力は感じない。自分の欲望を発散させることしか考えない独善が、その冷たい表情に
反映されている。見ていたくもない。
目をつぶる。やはり気持ちを隠して、荒げた息を吐いてやる。
それにそそられてか、男の動きが速まる。やっと濡れ始めた膣の中で、男の物はもう最後に
さしかかり、待つほどもなく、一方的な射精を開始する。
「ああッ! いいわッ! いくッ!」
いくわけがない。
装いの声を虚しく放り出し、アンジュは全身の力を抜いた。心は乾ききっていた。
「いくらだった?」
身支度を調えた男が、ぶっきらぼうに言った。こちらも事務的に答える。
「八十ルピー」
「高いな」
男の声が不機嫌な色を帯びる。
アンジュは黙っていた。
初めに取り決めていた額だ。決して高すぎることはない。三回もやっておいて、三十分の延長まで
しておいて、いまさら何を言うのか。それに、ここで値切りに応じたら、これからの自分の相場が
下がってしまう。この手の噂は広まるものだ。
あからさまに舌打ちをし、根負けしたように財布を取り出すと、男は言われた額のルピーを
枕元のテーブルの上に放り投げた。
「どうも──」
ありがとう、と言いかけるアンジュを、相変わらず不機嫌そうな男の声がさえぎった。
「最近、この村にも若い女が来たそうじゃないか。あんた、自分の相場を考え直した方がいいぜ」
捨て台詞──とわかってはいたが、胸はずきりと痛んだ。
男はさっさと玄関へ向かう。アンジュはあとについていった。ふだんなら、「また来てちょうだいね」
などと愛想の一つくらいは言うのだが、今日は言葉が出なかった。
無言でドアをあけ、男は夜の戸外へと出ていった。ふり返りもしなかった。
玄関に取り残されたアンジュは、そのまま立ちつくしていた。男の言葉が脳裏を去らなかった。
村に新顔の娼婦が来たのは知っている。美しいとはいえない容貌。まだわたしの方が上だ。
けれど、あの娘は男に媚びるのがうまい。わたしにはできないような露骨な態度で男を誘う。
男というものはそんな女の方が嬉しいのだろう。それに何より……あの娘は若い……
目の前のドアにノックの音がし、アンジュは我に返った。
次の客だろうか。
客が来るのは自分の魅力のため、ともとれる。が、いまは……そんな魅力が自分にあるとは
思えない。いまは……男の前に立つ気になれない……
再びノックの音。思わずきつい声が出てしまう。
「いま一人終わったばかりなのよ。もうちょっとあとにしてちょうだい」
しばらく様子をうかがったが、それきりノックはされなかった。
ほっとして、しかし苦い気分は晴れないまま、アンジュは台所へ戻り、椅子に身を落とした。
さっきの客が言ったことを、ただの捨て台詞と一笑に付すことはできない。もうすぐわたしも
三十歳。若くはない。そればかりか、荒んだ暮らしのせいで、実際の年齢よりも上に見えるはずだ。
容色の衰えは隠しようがない。鏡を見なくてもわかる。
のみならず……
喉をついて苦しい咳が飛び出す。肺の異常感と息苦しさを、何とか吹き払おうとする肉体の
反応が、ひとしきり続く。
近頃、こうして咳きこむことが増えた。
ずっと火山灰の多い所に住んでいるせいかしら……悪い病気に罹ったのでなければいいけど……
カカリコ村に続く石段の下まで来て、リンクはエポナから降りた。少し迷ったが、人家に近い
場所に馬を放置しておくのは、さすがに不用心だと思い、そのままエポナを牽いて石段を登った。
村の入口の門が見えてくる。七年前は見張りの兵士がいた。いまは誰も立っていない。
門をくぐる。立ち止まり、あたりを見まわす。
雲を通して薄い月明かりが差しているだけの暗い夜で、風景を詳細に観察することはできない。
それでも雰囲気は感じ取れた。
さほど遅い時刻でもないのに、人通りは全くない。一部が破壊され、修理もされずに放置された
建物がある。まともに立ち残った家も、外観はすっかり古びている。灯火が見えるのは半分ほどで、
あとは住む人もいないようだ。
奥に立つ風車。羽根は折れ、村の平和を象徴していた、あの緩やかな回転も、いまは止まって
しまっている。
北に聳え立つデスマウンテンの頂上では、今夜も猛炎が跳梁していた。近場のここからだと、
その邪悪な毒々しさがいっそう強調されて見える。腹の底を揺さぶる不気味な鳴動が、時々
かすかにそこから伝わってき、あたりの静まりかえった空気を震わせる。荒廃した村をさらに
威嚇するかのように。
炎の色が妙にくすんでいる、と感じたリンクは、折から吹き起こった冷たい風を顔に受け、
咳きこんだ。皮膚がざらつく。火山灰だ。それが空をさえぎり、炎の色を微妙に変えているのだ。
ここもまた、変わり果ててしまった──
重苦しい気持ちを抱いて、リンクは再び歩き始めた。どこへ向かうともなく進むうち、思い出を
誘う一角にさしかかった。
隅に木のベンチが置かれた庭。その隣に立つ家。
アンジュの家だ。
『女を教えてもらうんだ』
シークの言葉を思い出す。いまだに意味はわからない。まず、それをはっきりさせておこうか……
玄関のドアが開き、見知らぬ中年の男が出てきた。馬を連れて少し離れた所に立っていた
リンクを、男はうさんくさそうに見やり、しかし何も言わずに立ち去っていった。
誰なのかと気になったが、考えてもしかたがない。リンクはドアに歩み寄り、ノックした。
返事はなかった。
もう一度ノックする。中からいらいらしたような声が返ってくる。
「いま一人終わったばかりなのよ。もうちょっとあとにしてちょうだい」
覚えのある女の声。アンジュだ。だが……すぐに会えそうな雰囲気ではない。何が「終わった
ばかり」なのか見当もつかないが、事情があるのだろう。
重ねてノックする気になれず、リンクは家の前から離れ、エポナを牽いて村の広場へ赴いた。
がらんとした広場では、風だけが勝手な方向に行き来し、火山灰を拡散させていた。
ここにも人影はなかったが、広場に面する家の一つから人の声が聞こえていた。その家の扉が
開き、太った中年女が姿を現した。扉の横に積み上がった木箱から何かを取り出し、家の中に
戻ろうとして、動きが止まった。こちらに気づいたのだ。
「あんた、旅の人? よかったらうちに泊まらないかい?」
女が声をかけてきた。リンクは反射的に答えていた。
「いや……」
この家は宿屋らしい。女は主人か。ベッドで楽に寝られるのは魅力だが、金を払ってまで
そうする気にはなれない。手持ちのルピーには、まだ余裕がある。けれども倹約するに越した
ことはない。
「村に用があるなら、その間、馬を預かってやってもいいよ。もちろんお代はいただくけどね」
がめつい女だ、とは思ったが、その誘いには応じることにした。あちこち探索する間、ずっと
エポナを連れ歩くわけにもいかない。
女に案内され、リンクは裏手の馬小屋へエポナを牽き入れた。慣れない窮屈な場所にリンクと
離れていなければならないことへの抵抗か、エポナは息を荒げて地団駄を踏んだが、リンクが
安心させるように声をかけてやると、それきりおとなしくなった。女が金額を提示した。高すぎる
ように思えたが、餌と水の分が含まれていると言うので、敢えて文句はつけなかった。女はさらに
前払いを要求し、リンクは従った。
「一杯やってかないかい? それくらいはサービスしてあげるよ」
思わぬ収入に気をよくしたのか、女は笑顔になって柔らかい声を送ってきた。サービスの内容が
わからないまま、リンクはその誘いにも頷いた。
家の中に入ると、そこにいた男たちの視線が、一斉にリンクに突き刺さった。
「誰でえ、見慣れねえ奴だな」
無遠慮な声がした。
「旅の剣士さんさ。これでも大切なお客なんだから、ちょっかい出すんじゃないよ」
リンクの後ろから家に入ってきた女が言った。リンクを庇う言葉ではあったが、どこか揶揄する
ような調子でもあった。その発言もあってか、男たちのリンクへの興味は薄れたようで、突っこみは
続かなかった。
家の中を見まわす。宿屋のはずだが、ベッドはない。板敷きの広間にテーブルと椅子がいくつか。
一方の端には細長い台で区切られた領域があり、いま女がその中に入ったところだ。背後の棚には
瓶やグラスが並んでいる。男たちの数は六人。四人は椅子にすわり、二人は細長い台に面して
立っている。年格好はさまざまだが、みな自分よりは年上だ。思い思いの格好でだべり合うか、
あるいは黙って何かを飲んでいる。ここは飲み物を供する店になっているらしい。そういえば、
女は「一杯やってかないかい?」と言っていた……
「何を飲む?」
台の向こうの女に訊かれた。近寄って台に手をかけ、リンクは答えた。
「ミルクを」
隣に立っていた男が口から飲み物を吹き出し、リンクをまじまじと見た。
「ミルクって……ガキじゃあるめえし」
「ミルクは置いてないね。ここは酒場なんだよ」
親切そうに女は言ったが、目には嗤いが浮かんでいた。
「サカバ?」
「そう、客に出す飲み物は酒だけさ」
酒──というと、子供の時、ゼルダと席をともにしたハイラル城での晩餐で、終わり際に飲んで
酔いつぶれてしまった、あの飲み物か。あんなものは口にできない。
「じゃあ……いい」
台から離れようとした時、背後で声がした。
「お前、さっきアンジュの家の前にいたな」
ふり返ると、部屋の隅の椅子に腰かけた中年男が、鋭い目でこちらを見ていた。アンジュの
家から出てきた男だ、と、やっと気がついた。
「へえ、あんた、アンジュに用があったのかい?」
女が興味深そうに訊いてくる。黙っているリンクに、男が続けて言葉を投げた。
「若いのに娼婦通いとは、見上げた心がけだな、剣士さんよ」
嘲られている。どうして? アンジュに会うのが問題なのか? それに、いまこの男は何と……
「さっきまでアンジュの所にいたあんたが、そう言うの?」
「それもそうだな」
女のからかいが男に飛び、応じる男も顔を崩す。笑い合う二人のどちらへともなく、リンクは
疑問を口にした。
「ショウフ……って?」
女が答えた。
「アンジュのことさ」
「いや、だから……ショウフって、どういう意味?」
一瞬、室内が静まりかえり、次いで全員が爆笑した。
その言葉を知らないのが、そんなにおかしなことなのだろうか。
気恥ずかしさを覚えるリンクの肩を、隣の男がぽんと叩いた。
「悪いこたあ言わねえ、さっさと村を出て行きな。おめえみたいな世間知らずがうろちょろする
ような場所じゃあねえぞ」
嘲笑を背にして酒場を出たリンクは、村の奥にある墓地へと向かった。馬鹿にされたのは
悔しいが、知らないものは知らないのだからしようがない、と開き直り、村を訪れた本来の目的に
取りかかったのだ。
夜も更け、ちょうどいい頃合いだ。墓穴をあばくことになるから墓地の探索は夜にすべきだ、
とシークにも言われている。
ただどうしても灯りが必要になるので、酒場を出る時、女からカンテラを借りた。例によって
料金を請求されたが、リンクは値切りもせずに支払った。カンテラが要る理由は話さなかった。
女の態度は、金さえ払ってもらえばどうでもいい、といったふうだった。
墓地に入るのは初めてだった。怖れはしなかったが、夜の墓地という不気味な雰囲気は
消しようがなく、リンクの背筋には冷たいものが走った。だがそれも、シークに場所を聞いていた
インパの墓の前に立つと、もう感じなくなった。インパの思い出が、リンクの胸を大きく
満たしていた。
王党軍を率いてゲルド族と戦ったというインパ。女だてらに──などとは思わない。インパなら
立派に、勇敢に戦ったことだろう。ぼくとの立ち合いで圧倒的な力量の差を見せつけながら、
一方では巧妙に剣術の指南をしてくれていた、あのインパなら。
ぶっきらぼうで、愛想なしで、歯に衣を着せず、それでも実は暖かい心根を持った、深みのある
大人の女性だった。
ハイラル城の塔上で風景を見渡しながら、インパはぼくに言った。
『我々は、この美しいハイラルを守らねばならない』
ぼくは何と答えたか。
『失望はさせません。あなたにも、ゼルダにも』
いま思えば、たいそうな見得を切ったものだ。身の程知らずと言ってもいいだろう。しかし
インパは、ぼくを嗤いもせず、こう言ったのだ。
『頼んだぞ』
美しいハイラルは、もう過去のものだ。ぼくはそれを守れなかった。だけど、インパ……
あなたの頼みを忘れてはいない。まだ失望はしないでくれ。ぼくは必ず、美しいハイラルを
取り戻してみせるから。
二度とは目覚めぬ人に向け、リンクは改めて心に誓った。
墓地の最奥部にある石碑──正確にはその残骸──の前に、リンクは立った。崩れが激しいため、
元の大きさや形状はうかがい知れないが、土台の面積は広く、かなり大きなものだったのだろうと
推測された。他の墓石と比べると、明らかに異質な建造物だった。
表面の文字はリンクにもさっぱり意味不明だった。古代のものであり、おそらく現在それを
読める人はいないだろう、とシークが言っていた文字だ。
そのシークは──と、リンクは思う。
この石碑のことがいたく気になるようだ。神殿との関連があるという根拠もないのに。
だが、それを否定する根拠もない。あのメロディのように、まだ関連性がわからないだけ
なのかもしれない。
とりあえず解決を先送りにし、リンクは墓穴の探索に移った。動かせる墓石の場所は、
シークから聞いて知っていた。行き止まりの墓穴には早々に見切りをつけ、長く延びている迷路の
ような通路に、リンクは注意を集中させた。
通路は意外に広く、背を伸ばして歩くことができたのはよかったが、分かれ道や高い段差の
多さはリンクを疲れさせた。内部の空気はじめじめと澱み、かび臭さとは違った異様な匂いが、
どこからともなく漂っていた。カンテラに照らされる上下左右の内壁には、苔がびっしりと
生えていた。床の苔は時にぼっこりと剥げ、リンクの足を滑らせた。
三箇所に扉があった。どんなに力をこめても、扉はびくともしなかった。それもシークに
聞いていたことだったが、リンクは失望せざるを得なかった。
諦めて立ち去ろうとし、ふと足元を見て、床に水が溜まっているのに気づいた。水の範囲を目で
追うと、それは扉の下から少しずつ漏れているのだった。
何だろう。シークは水漏れのことは話さなかったが……この通路の空気といい、苔の生え具合と
いい、湿度が高いのは明白だ。大量の水が存在する証拠だ。
扉に耳を当ててみる。が、水の流れるような音は聞こえない。
肩を落とし、通路の先を目指す。
行き着いた先は、広く吹き抜けとなった円形の室内だった。シークによれば、風車小屋の中だ。
長い間、無人なのだろう、室内には生活の形跡が皆無で、ただ風車を支える複雑な木組みが、高い
空間に張りめぐらされているだけだった。
リンクは室内の片隅に腰を下ろした。夜明けまでには、まだかなり間があったので、ここで
一眠りするつもりだった。火山灰が飛び交う戸外で眠る気にはなれなかった。
気づいた時には、もう朝だった。高い所にある小さな窓から、薄ぼんやりとした光が
差しこんでいた。通路には戻らず、別の場所にある扉をあけると、開けた風景がリンクの目を射た。
カカリコ村は、大地がハイラル平原に向かって緩やかに下る斜面に位置し、風車のある高台からは、
村のほぼ全域が見てとれるのだった。しかし朝の明るみの中では、村の荒れた様子が夜以上に
あらわとなっており、感動は得られなかった。火山灰による空気の濁りも目立ち、曇天による
陰鬱さをさらに強めていた。
風車の前の階段を下りた所に井戸があった。リンクは足を止めた。
井戸。水。深い所に続く水。あの通路と関係があるのだろうか。それに風車……
何か繋がりがあるような気がする。頭に焦燥が渦を巻く。けれど……わからない……わからない……
首を振る。
焦ってもしかたがない。まだ得ていない手がかりがあるのだ。わかってみれば、こんなこと
だったのかと拍子抜けするような手がかりが……きっと……
リンクは村の道をたどり、宿屋に寄って、店を掃除していた女主人にカンテラを返した。
もう一日、エポナの世話をしてくれるよう頼み、その場をあとにした。
広場を横切って、アンジュの家に向かう。男が二人、傍らの路上で立ち話をしていた。片方は
ゆうべ酒場で隣にいた男だ。こちらに気づいて何か言っている。リンクはそれを無視し、ドアを
ノックした。
やはり返事はない。まだ眠っているのだろうか。
再度のノックにも反応はなく、リンクはため息をついた。
あとまわしだ。今日はデスマウンテンへ行ってみよう。
身をひるがえし、リンクは登山道に向けて駆け出した。
アンジュは一人で朝を迎えた。
起きて着替えをしたが、しなければならないことがあるわけでもない。ベッドに腰かけたまま、
アンジュは思いにふけった。
昨夜のノックのあと、訪れる者はなかった。客を相手にする気分ではなかったとはいえ、
来ないとなると不安になる。あの時、ノックに応えていればよかっただろうか。
『こんな時、シークがいてくれたら……』
シークはめったにカカリコ村へは来ない。しかし来れば必ず訪ねてくれる。わたしは嬉々として
身体を開き、いつもシークの技巧に圧倒される。抱かれたのは、まだ四回きりだが、そんなに
少なかったかと驚くくらいの充実感がある。
愛しているわけではない。情事と割り切った関係。それでもわたしは夢中になれる。安らげる。
それはシークも同じはず。
『けれど……』
心が揺れる。
互いに安らぐことはできても、なお消えないものが、二人の間にはある。
表立って想いをあらわにできない遠慮。心から笑い合えないよそよそしさ。
わたし自身のせいだ。
一つ。わたしが娼婦だということ。それはわたしの真実だから、シークの前で引け目に
感じたりはしない。シークだって、それを理由にわたしを避けることはない。だからあからさまに
してしまってもよさそうなものなのに、逢瀬の間、わたしは決してその事実に触れないように
している。触れると何かが壊れてしまうような気がして。
二つ。シークを求めながら、シークからは得られないものを、さらにわたしは求めている。
それは「愛」……いや、そんな大げさなものではなくとも……わたしの殻を破ってくれる
ような力……ほんのちょっとしたものでもいい、そんな力を……
そして、シークの側にも障壁はある。
シークはいつも冷静だ。自分の中身を見せようとはしない。人を寄せつけない厳しさがある。
その厳しさが、シークの前に屈服する際の悦びの源なのだけど……シーク以外の男にはない素敵な
魅力なのだけど……そしてその陰にシークの秘められた情を感じもするのだけど……それが二人を
隔てる要素でもあることは否定できない。
屈服するといえば……
もともとわたしは男に屈服したがるたちではない。婚約していた彼に対して、わたしは常に
積極的だった。誰かれなしに媚びたりはしないが、心を許した彼には、実に奔放にセックスを
要求したものだ。結婚するまでは、とためらう彼に、強引ともいえる態度で迫って、処女を捧げた。
その後もそう。お互いに家族がいて、家は使いづらい。だから夜の墓地はよく利用させてもらった。
風車の裏手の草むらで、真っ昼間から素っ裸になって抱き合ったこともある。そのほとんどは、
わたしの方から誘ったのだ。
シークは例外だ。
……いや、そのシークも……
初めてシークと結ばれた四年前──案に相違して、わたしはシークに屈服することになったのだが
──出だしでは、わたしがシークに教えるつもりだった。
シークの裸身を見た時に感じた魅力。歳の離れた少年への欲望。私が初めて感じた欲望。
『……そう?』
……いいえ、そうじゃない。似たような感覚を、もっと前に経験したことがある。
それだけではない。初めてではないという感じを、そのあとにも持った。
シークの前で胸をはだけて見せて……男の子にはそうするのがいいような気がしたのだ。
なぜだったのだろう。あの時、わたしは何かを思い出しかけて……あれは……
シークとの関わりを、最初からたどってみる。
ゲルド族の反乱が起こったあと、インパに連れられて、シークはカカリコ村へやって来た。
戦闘訓練後に庭でシークとお茶を飲む習慣ができて……わたしはシークに興味を抱いて……
どうしてかというと、シークの目が……同じ年頃の誰かに似ていて……
窓の外から声がする。記憶をまさぐりながら、聞くともなしに、アンジュはその声を聞いていた。
「なんだい、あいつは。ちんけな緑の服なんか着やがってよ」
「ああ、ゆうべ酒場に来た奴だな。でけえナリして、娼婦が何かも知らねえんだぜ。無知にも
ほどがあらあ」
玄関にノックの音がし、アンジュの身体はびくりとした。
『シーク?』
一瞬、思ったが、すぐに違うとわかった。
シークはいつも勝手口から入ってくる。玄関のドアをノックしたりはしない。
誰だろう。こんな朝っぱらから客が来るわけはないし、他に訪れる人の心当たりもない。
再びノック。
出たくない。いまは誰にも会いたくない。このまま思いにふけっていたい。
それきり音は途絶えた。
安堵して、思いに戻る。
どこまで考えたかしら……そう、シークが誰かに似ていると……
『ちょっと待って!』
さっきの声。ちんけな緑の服? 無知にもほどがある?
よみがえる。記憶がよみがえる。
わたしがシークに言った言葉。
『シークを見ていると、リンクを思い出すわ』
リンク……?
リンク!
アンジュは玄関に走った。
いま思い出した。どうしていままで思い出さなかったのだろう。シークへの想いに隠されて
しまっていたのか。敗戦後の生活の激変のためか。
ドアを開け放つ。デスマウンテン登山口に向けて駆け去ってゆく後ろ姿。
ああ、七年前にも、わたしはここに立って、あの後ろ姿を見送った──
「リンク!」
後ろ姿が立ち止まる。ふり返る。その身なり。その表情。
近づいてくる。近づいてくる。わたしも足を踏み出して……一歩、二歩と、近寄って……
「……リンクね?」
目の前に立つ青年。わたしより上に顔がある。これが、あの……小さかった……
その顔が、微笑む。こくりと、頷く。
『もしわたしが大人になったリンクに会ったとしたら……』
七年前のわたしの空想。それが、いま……
「ゆうべも訪ねたんだけれど、忙しそうだったから」
大人の声。だけど、あくまでもまっすぐな明朗さを保って。
あのノックはリンクだったのね。出ていればよかった。でも……いま、こうして……
「会えて……嬉しいわ……」
リンクの手を握り、アンジュは万感の思いをこめてささやいた。その思いに溶けた複雑な要素を、
いまだ明確には意識しないまま。
To be continued.