ゲルドの砦は二方向に出入り口を持っていた。一方はゲルドの谷を経てハイラル平原へと続く  
東側の出入り口、もう一方は『幻影の砂漠』に向かう西側の出入り口で、それぞれの場所には門が  
構えられ、傍らには見張り台が建てられていた。  
 砦がゲルド族の本拠地であった時代、東側の見張り台には、昼夜を分かたず人員が配置されていた。  
敵対していたハイラル王国を警戒し、その動向を探るためである。それに反し、西側の見張り台の  
需要は格段に低かった。『幻影の砂漠』以西には、敵にせよ味方にせよ、人が全く住んでおらず、  
警戒の要がなかったからだ。せいぜい、時に荒れ狂う砂嵐の観測に使用されるくらいだった。  
 ハイラル王国の滅亡後、ゲルド族がハイラル平原に移住し、さらに残留していたナボールの  
一党が解散してからは、無人となった砦自体とともに、見張り台も──西側のものだけでなく  
東側のものも──過去の遺物と化していた。『副官』らの復帰によって、砦は再び生活の場と  
しての役割を取り戻したが、見張り台は無用の長物のままだった。  
 その見張り台が、巨大邪神像を目指してリンクが砦を出立した直後から、にわかに人の占める  
ところとなった。  
 ハイラル平原への出口にある町を強行突破してきたリンクが、お尋ね者となっているのは  
確実だった。そのため東側の見張り台には、かつてと同じく、常時、人が立つことになった。  
のみならず今回は、西側の見張り台までもが重要視された。砂漠へ向かったリンクの安否を  
気遣ってのことだった。  
 
 リンクの出発から二週間あまりが過ぎた、ある日の昼下がり。  
 高所から砂漠に目を凝らしていた見張り役の女は、吹きすさんでいた砂嵐がぱったりとやんだ  
あと、遠方に一条の煙が立ちのぼるのを見た。緊急連絡用の発煙筒から生じた煙であること、  
発煙筒を使用したのがリンクであることは、ともに明らかだった。場所は砦から一日ないし  
二日ほどかかるあたりと推定された。直ちに捜索が決定され、『副官』に率いられた四人の  
救助隊が、あわただしく砂漠に踏みこんでいった。  
 砂嵐に遭遇する危険も顧みず、一行は昼夜兼行で砂上を急ぎ、翌日の夕刻、砂漠に倒れていた  
リンクを発見した。身体がほとんど砂に埋まり、窒息寸前となっていたが、まだ息はあった。  
とはいえ、重篤な状態であることには違いなく、ひどい脱水症状を呈しており、心神は喪失していた。  
口につけられた水を飲みこむだけの力はかろうじて残していたものの、意識が戻る気配はなかった。  
救助隊は慎重に、かつ、できる限りの速さで、リンクを砦へと搬送した。  
 
 
 ベッドに寝かされたリンクは眠り続け、ようやく目をあけたのは、砦に帰還してから二日後の  
ことだった。当初は身を動かすこともできなかったが、女たちの熱心な看護により、体調は  
日増しに好転していった。  
 ただし精神面は別問題だった。リンクの態度には、話しかけることすら躊躇されるような、  
隔絶的な雰囲気があった。口から言葉が出ることはほとんどなく、表情は空虚だった。リンクに  
無用の刺激を与えないよう、女たちは注意深く行動した。身体の交わりなど論外だった。  
 ある時、『副官』は意を決し、ナボールの消息をリンクに訊ねた。リンクは黙って首を横に  
振るだけだった。暗い顔には、しかし激しい感情が秘められているようにも見え、単に消息が  
得られなかったのではなく、何らかの事件があったのではないか、と案じられたが、リンクが何も  
語ろうとしないため、それ以上の情報は得られなかった。  
 
 一週間が経過し、かなりの程度まで体力が回復すると、リンクは、ハイラル平原に戻る、と  
言い出した。  
 一同は引き止めた。体力はともかく、リンクが精神的に立ち直っているとは思えなかったのだ。  
再び町を突破しなければならないこと、その町の者に追われる身であること、さらに、橋が  
架け直されておらず、ゲルドの谷を渡るのは困難であることが、説得の材料に使われた。  
 リンクの言は変わらなかった。  
「また来てくれるかい?」  
 反ガノンドロフ行動について煮詰める必要もあるから──と、出発間際のリンクに『副官』は  
問いかけた。  
「ああ」  
 短く答えるリンクの顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。が、それは真の感情の現れという  
よりは、顔の筋肉が勝手に収縮しているだけ、というふうに、『副官』には見えた。  
 リンクはエポナに跨り、東へ向けて去っていった。  
 あれほど力強かったリンクに、いったい何があったのか。  
 悄然とした後ろ姿を見送りながら、『副官』は大きくため息をついた。  
 
 
 ぼくは何をしようとしているのか。どこへ行こうとしているのか。  
 エポナの背でおのれの身がふらふらと揺れているのをぼんやりと感じながら、リンクは同じ  
疑問を心の中で繰り返していた。  
 答は出なかった。  
 すべての希望は失われた。どこへ行こうが、何をしようが、世界を救うという使命を果たす  
ことはできないのだ。そのはずなのに……  
 ぼくではない何かが、ぼくを前に進ませている──としか思えない。  
 何かとは何なのか。  
 砂漠で倒れ、死を受け入れようとしていた時……ぼくは発煙筒を持っていることを思い出し……  
思い出しはしたが、そのまま意識を失ってしまい……けれどもおそらくは、その後の無意識の  
身体の動きで、発煙筒を取り出し、煙を発する操作を行い……そして、九死に一生を得ることが  
できた。  
 あの時、ぼくに発煙筒のことを思い出させたのは、何だったのか。何かの力が、ぼくの記憶を  
掘り起こしたのだ。意識を失いかけていた時のことであり、いまとなっては、その力の正体を、  
ぼくはどうしても探り当てることができないのだが、ここでぼくを前に進ませている何かとは、  
その力と同じものなのだ──と、思えてならない。  
 ぼくを生かさせ、ぼくを進ませる、その力。  
 だが問題なのは、その力が何なのか、ではなく、その力がぼくをどこへ導いているのか、なのだ。  
それが知れない限りは、いかなる力であろうと、何の意味もありはしない。  
 目を閉じ、頭を振る。  
 当てのないことばかり考えていても、しかたがない──と、無理やり思いを閉じる。そうしなければ、  
やり場のない激情が噴き出し、収拾がつかなくなってしまいそうだった。  
 眼前の課題に目を向ける。  
 とりあえず、ゲルド族の支配領域から脱出しなければならない。そのためには、まず……  
 リンクは我に返った。エポナの足が止まっていた。  
 風景を見渡す。  
 ゲルドの谷が、底なしの裂け目を見せて横たわっていた。  
 
 砦の女たちに聞いたとおり、橋は再建されていなかった。来た時と同じく、エポナの跳躍に  
すべてを任せるしかなかった。幸い、対岸に追っ手の姿は見えず、行動を妨げられることは  
なさそうだった。  
 重く沈む心を励まし、慎重に場所と距離とを確かめてから、エポナを走り出させる。  
 エポナはみごとに谷を跳び越えた。リンクの方は、エポナにしがみついているのが精いっぱいだった。  
着地の際には、その体勢すら保てず、エポナの脚から伝わる衝撃で安定を失い、無様にも地面に  
転げ落ちてしまった。  
 痛みに耐え、のろのろと身を起こす。  
 その時、  
「リンク!」  
 小さく鋭い声が聞こえた。驚いて周囲を見まわす。  
「ここだ!」  
 崖際の広場。その隅にある岩の陰から、一人の人物が立て膝をつき、半身を覗かせていた。  
「シーク……」  
 緊張が解けるとともに、身体から力が抜けていった。  
 
 リンクと別れたのち、シークは町の近辺にひそみ、つぶさに情報を収集した。漏れ聞いた  
女兵士たちの話から、リンクが町を突破し、ゲルドの谷をも越えて、『幻影の砂漠』の方へと  
向かったことがわかった。シークはあとを追った。リンクの強行突破の影響で警備が強化され、  
町を通り抜けるのは相当の難作業となったが、細心の注意を払い、以前の滞在で得た土地勘をも  
駆使した隠密行動の末、ついにシークはゲルドの谷まで到達することができた。しかし橋がない  
状態では、追跡は続けられなかった。町の連中は橋を架け直してまでリンクを追いかける気はない  
ようだったので、シークはそこに腰を据え、リンクを待つことにした。  
 リンクは戻らなかった。  
 別れてから一ヶ月が過ぎる頃になると、シークも焦りを覚え始めた。  
 危険を冒して谷底に下り、対岸で上りの道を探すか。あるいは、いったんハイラル平原へ戻り、  
かつてゲルド族がハイラル城襲撃の際に通ったという、北方の迂回路をたどってみるか。  
 ──などと、覚束ない方法にまで、心を動かしかけていた時。  
 とうとうリンクが姿を見せたのだった。  
 
 ゆっくりと歩み寄ってくるリンクの顔を見て、シークは大きな驚きに打たれた。頬はこけ、  
顔色は泥のように濁り、目は暗く澱んでいた。何よりも、常にリンクが持っていた、前向きの  
活力というものが失われていた。コキリの森の壊滅を知った時の意気消沈ぶりすら及ばない、  
失意の極致とも呼べるような、暗澹とした雰囲気だった。  
 シークの前まで来て、リンクは地面に腰を下ろした。いや、崩れ落ちた、と言った方が正確かも  
しれない。立て膝をついた姿勢のまま、シークはリンクを見守った。うつむいた顔は動く気配もない。  
ものを言う力さえないようだ。  
「魂の神殿に行ったのか?」  
 シークは敢えて端的に訊ねた。リンクはかすかに頷いたが、やはり口は閉じられたままだった。  
「ナボールには会えたのか?」  
 続けて問いかける。しばし沈黙が続き、ようやくリンクは言葉を発した。  
「……ナボールは……死んだよ……」  
 胸にずきりと痛みを感じながらも、リンクの言が「死んでいた」ではなかった点を、シークは  
いぶかしんだ。  
「会ったのか?」  
 重ねて問う。再びリンクが頷く。その肩が小刻みに震え始める。  
「……ナボールは……ツインローバに焼き殺されたんだ。ぼくの目の前で」  
 声が上ずってゆく。  
「ぼくはそれを見ていながら、何もできなかった。ナボールが焼け死んでいくのを、ただ見ている  
だけだったんだ。どうしようもなく無能だよ、ぼくは!」  
 血を吐くような自虐がリンクの口から放たれた。シークは慰めも言えなかった。リンクが語った  
事実が、頭の中で反響し続けていた。  
 ──ナボールが死んだ……  
 可能性を考えていないわけではなかった。それでも期待をかけずにはいられなかった。が……  
その期待もかなわなかった、と……  
 奈落の底に落ちかかる心を、かろうじて引きとどめる。  
 死んだと判明したのは、インパとナボールの二人だけだ。残りの賢者は、まだ……  
「それだけじゃない」  
 こちらの思いを見透かしたようなリンクの言葉。シークはぎくりとした。  
「賢者はみんな死んだんだ。もう一人も生き残っちゃいない」  
 ──何だって?  
「なぜ君にそれがわかる?」  
 激しく波立つ胸を抑えつけ、シークは問いつめた。  
 リンクは動揺している。理由のない疑惑なら払拭してやらなくては。そう、理由のないことで  
あるならば……  
「幻影を見たんだ」  
「幻影?」  
「賢者が死んでいくさまを、ぼくは全部、見せられた。みんなガノンドロフに追いつめられて……  
そればかりか……ガノンドロフとツインローバに……犯されて……」  
「いったい何を言っているんだ?」  
「ツインローバがぼくに見せたんだ。ダルニアはデスマウンテンで熔岩の中に突き落とされた。  
インパは……君は知っていたか? インパは戦死したんじゃない。自分で自分の首を斬り落としたんだぞ!  
ガノンドロフに犯されたあとで!」  
「リンク!」  
 堰を切ったように能弁となったリンクを、シークは一喝した。  
「君が何を見たとしても、それは幻影なんだろう。事実じゃない。君はツインローバに惑わされて  
いるんだ!」  
 
「事実だ!」  
 初めてリンクは顔を上げ、シーク以上の大声で叫んだ。目が異様な光を湛えていた。  
「ぼくにはわかるんだ! ルトが……ハイリア湖に沈められて……この前、ぼくは……その骨を  
見て……ルトはずっと一人であそこにいて、なのにぼくは気づいてやれなくて……すまない……  
ルト……」  
 シークは言葉を継げられなかった。  
 言っていることがよく理解できない。  
「それにサリア……ぼくに助けを求めていたのに、やっぱりぼくは助けられないんだ! サリアが  
いくらひどい目に遭っても、ガノンドロフに斬り殺されても、ぼくは何もできなかった! ぼくが  
サリアのためにしてやれることは、もう何もないんだ!」  
「落ち着け! リンク!」  
 こんなリンクは見たことがない。完全に錯乱している。何とか気を静めてやらなければ。  
 だが……  
 錯乱による妄言──と決めつけにかかりながらも、シークは、賢者の全滅という大破局を、  
否応なく容認しそうになっている自分に気づいた。  
 常に心の底にあった、しかし意識にはのぼらせたくなかった危惧。  
 ──いや!  
「たとえそれが事実であろうともだ。まだ賢者は残っている。ラウルが──」  
「ラウルも死んだ!」  
 シークの最後の拠り所を、リンクは一言で打ち砕いた。  
「ケポラ・ゲボラが姿を現さないのは当然さ。だって、もうガノンドロフに殺されていたんだから!」  
「馬鹿な!」  
 叫びが口から飛び出す。  
「そんなはずはない!」  
「なぜそう言えるんだ? 君はラウルのことになると、どうしてそう楽観的なんだ? あの予感と  
いうやつか? 何の根拠もないだろう! 夢のお告げとはわけが違うんだ! 君はゼルダじゃ  
ないからな!」  
 
 シークは絶句した。  
 確かに、ラウルの生存を信じる自分の思いには、何の根拠もない。そうあって欲しいという  
だけの、はかない望みに過ぎない……のか……  
 さらに異なる衝動が、シークの胸をざわめかせる。  
 いまのリンクの発言……その最後で挙げられた名前……  
「もう……だめだ……」  
 一転して、リンクの声が小さくなった。  
「すべてが終わったんだ……絶望だよ……」  
 絶望! そんな言葉をリンクの口から聞かされるとは!  
 シークは愕然となった。あらゆるものが音をたてて暗黒の底へ崩れ去ってゆくような気がした。  
その心の中で、残っていた胸のざわめきが、まばゆい煌めきを誘発し、シークを揺さぶった。  
 君は世界に残された最後の希望。その君自身が絶望を口にしてはいけない!  
 助けなければ! 僕がリンクを助けなければ!  
 肩に両手をかける。ぐっと顔を近づけ、目を覗きこむ。  
 ──リンク!  
「リンク!」  
 ──しっかりして!  
「しっかりするんだ!」  
 ──あなたは時の勇者!  
「君は時の勇者!」  
 ──あなたの勇気を!  
「君の勇気を!」  
 ──わたしは信じています!  
「僕は信じている!」  
 見る。リンクの目を見る。弱々しく、涙さえこぼれ落ちそうになった二つの目には、しかし、  
わずかに、新たな光が胎動していた。  
 その光をなくさないで!  
 次の瞬間、シークはおのれの唇を、目の前にある唇に、固く重ね合わせていた。  
 
 あらゆる思考が吹き飛んだ。身動きひとつできなかった。思いもよらないシークの行為を、  
リンクはただ、なすすべもなく受け止めるだけだった。  
 あまりにも唐突。あまりにも異常。  
 なのに、拒めない。いや、拒むどころか、これこそがあるべきことだったのだ、というわけの  
わからない確信が心の隅に生まれ、それもやがて、風に吹き払われる塵のように、いずこへともなく  
消え去ってゆき……  
 この上もなく温かな触れ合いが、どのくらいの間、続いただろう。  
 シークが、そっと唇を離した。肩から腕をはずし、後ろへ身を引いた。さっきまで激しい情熱に  
満ちていたシークの目は、すでにいつもの冷静さを取り戻しており、同じく冷静な短い言葉が、  
ぽつりと口から外に出された。  
「落ち着いたか?」  
 茫然とシークの顔に目をやったまま、リンクは頷いた。  
 不思議に──実に不思議なことに──自分のすべてが澄み渡ったような感覚だった。  
 
 なぜこんなことをしてしまったのか。  
 冷静な態度を示そうと努めながら、いまだ強く動悸を打つ胸の中で、シークは自問した。  
 どう考えても異常な行為だ。自分で自分が信じられない。なのに、僕の心には一片の悔いもない。  
悔いるどころか、これこそがあるべきことだったのだ、というわけのわからない確信がある。結果、  
リンクを鎮静に導くことはできた。だが、なぜ僕は……?  
 あたかも、自分の中にある自分ではない何者かが、僕を突き動かしたかのような……  
 その衝動を生んだのは……リンクが漏らした、あの名前……  
 ──そうだ!  
 にわかに思考が旋回する。  
 リンクが見たという幻影は真実なのかもしれない。賢者はすべて死に絶えてしまったのかも  
しれない。けれども、たとえそうだとしても、なお、ただ一人、残った者がいるではないか!  
 それは……  
 
「ゼルダだ」  
 シークの声に、身体がぴくりと反応する。  
「……ゼルダ?」  
 反射的に問い返す。シークが声をかぶせてくる。  
「君が見た幻影に、ゼルダは出てきたか?」  
「いや……」  
 思い出すまでもない。  
「ならば、ゼルダは生きているということだ。もしゼルダが殺されたのなら、ツインローバが  
その光景を君に見せないはずはないからな」  
 シークの声が強くなる。  
「ゼルダは生きている! それを忘れるな!」  
 ……そうだ。ゼルダは生きている。あの泉で、トライフォースの耳飾りを見つけて、ぼくは  
それを確かめたじゃないか。  
 そう! ゼルダ!  
 これまでどうしてそのことが思い浮かばなかったのか。さっきゼルダの名をシークに言いさえ  
したというのに、どうしてぼくはその重要さに思い及ばなかったのか。それほど動転していた  
ぼくを我に返らせたのは、シークとの行為であり……いや、その直前にも……ぼくを呼び覚まそうと  
したものが……  
 シークがぼくに送ってきた言葉。「しっかりするんだ」という真摯な呼びかけ。  
 何かに重なる。何かを思い出させる。あれは……あれは……  
(しっかりして!)  
 砂漠でぼくが聞いた声!  
 あれはゼルダの声だった! ぼくを生かさせ、ぼくを前に進ませてきたのは、他ならない、  
ゼルダの声だったんだ!  
 この世界のどこかで生きているゼルダの思いが、ぼくに届いたというのだろうか。  
 そうなのかもしれない。  
 でも、それだけじゃない。ゼルダならぼくにそう言うだろう、と、ぼく自身が心の底で思って  
いたんだ。打ちひしがれながらも、自分の力を忘れるな、と、ぼくはぼく自身を励ましていたんだ。  
 絶望してはいけない!  
 
 だが──と、心は暗転しかかる。  
 すべての賢者が死んでしまったいま、いったいどうやって世界を救えばいいのか。頼みと  
なるのはゼルダだけなのか。  
「なら……ゼルダはどうして姿を現さないんだ? もうこうなったら、ゼルダに会わないことには、  
どうにもならないというのに……」  
 淡々とした声でシークが答える。  
「ガノンドロフもそれを待っているだろうな」  
「あ──」  
 そうだった。ガノンドロフはぼくとゼルダが出会う時を狙っている。ぼくたちのトライフォースを  
奪おうとして。  
 ツインローバの言葉を思い出す。  
『お前には、まだ役に立ってもらわなきゃならない』  
『せっかくだから、もっと美味しくなる場面を待つことにしようか』  
 あれはゼルダのことだったんだ。ツインローバが期待していたのは、ゼルダがぼくの前に現れる  
ことだったんだ。  
 奴らの思惑にはまるわけにはいかない。ゼルダを待っているだけではいけない。  
 けれど……  
「じゃあ……どうすればいい?」  
 すがるがごとく、シークに問う。常に冷静で、用意周到なシークなら、何かいい考えを持って  
いるのでは……  
 シークの顔は、しかし重苦しくうち沈んでいた。  
 
 リンクは惑いから抜け出した。七年間の眠りから覚めた時と同じく、ゼルダの名がリンクを  
鼓舞し、よみがえらせたのだ。  
 シークは深く安堵した。  
 とはいえ……  
「じゃあ……どうすればいい?」  
 リンクの問いに、僕は答えるすべを持たない。賢者の覚醒が望めなくなってしまった現状を、  
いかに打開すればいいのか。せっかくリンクが立ち直ってくれたというのに、その力をどこに  
向けてやればいいのか。僕には全くわからない。このままでは、再び絶望の淵に落ちるしか道は  
なくなってしまう。  
 何か打つ手はないか。何か方法はないか。  
 じりじりと脳が灼けてゆく。思考は一向にまとまらない。  
『いっそ時を戻して、何もかもやり直すことができたら!』  
 破れかぶれの妄想までが浮かんでくる。が……  
『時を戻す?』  
 自分で思ったことが、なぜか心に引っかかる。いったん治まった胸のざわめきが、再びじわじわと  
湧き上がってくる。とともに、何かが僕の中で警鐘を鳴らす。何に対して? 僕は何を気にかけている?  
 時。  
 極限までに短い、その言葉。  
「時の……勇者……」  
 呟きが口から漏れる。  
「え?」  
 いぶかしげなリンクの顔。  
 その時、新たな概念が雷のようにシークの脳髄を打った。  
 荒唐無稽──と省みるいとまもなく、その概念に至る論理を、思わずシークは口にしていた。  
「リンク、君は……なぜ、時の勇者なんだ?」  
 
 リンクはあきれた思いでシークの顔を見つめた。  
 いきなり何を言い出すのか。  
「ぼくがマスターソードに選ばれたからだろう。君自身、そう言っていたじゃないか」  
 シークの態度は変わらなかった。  
「ただの勇者なら、それでもわかる。だが、なぜ『時の』勇者なんだ? 『時』という言葉に、  
どういう意味がある?」  
 面食らいながらも、思いつくままに答える。  
「それは……マスターソードが……時の神殿にあったからで──」  
「ではなぜ、あの神殿は、時の神殿と呼ばれているんだ? 他の何の神殿でもなく、『時の』  
神殿と呼ばれる、その理由は、いったい何なんだ?」  
 詰まってしまう。わからない。  
「君には……何か考えがあるのか?」  
 逆に訊いてみる。シークの言い方に、話を誘導するような流れが感じられた。  
「根拠がない──と言われれば、それまでだが……」  
 と前置きし、シークは噛んで含めるような口調で話し始めた。  
「君は時の神殿でマスターソードを台座から抜き、光の神殿に封印された。その後、封印が解ける  
までに七年が経過したわけだが、目覚めた時、マスターソードを抜いたのは、ほんのついさっきの  
ような気がする──と君は言っていた。そうだな?」  
「ああ」  
 シークの言いたいことがわからず、リンクは、ただ短く返答した。  
「つまり君の感覚では、マスターソードを台座から抜くことによって、君は一瞬のうちに、  
七年後の未来の状態へと変化したことになる。ならば、だ」  
 いったん言葉を切り、シークはぐいと目を近づけてきた。  
「マスターソードを台座に戻せば、君は七年前の過去の状態に戻れるんじゃないだろうか」  
 口がきけなかった。  
 何という──  
「突拍子もないことを──と思うかもしれない。だが、そうとでも考えないことには、『時』と  
いう言葉の意味が理解できないんだ」  
 言われてみれば……これまで時の勇者という名を背負い、マスターソードを持って旅をして  
きたが、『時』という言葉に関係したできごとには、遭った経験がない。これまでとは全く違った  
行動をとらない限り、そんな経験は得られないだろう。そして、その行動というのは、シークが  
言う以外のこととは思えない。そう、確かに!  
「この考えが正しいのかどうか、僕にはわからないが、やってみる価値はあると思う」  
「うん……でも、過去に戻れたとして、ぼくに何ができる?」  
「わからないか? 七年前だ。君が封印された時点の世界だ。その時点では、まだガノンドロフは  
暴威を振るうには至っていない」  
「すると……賢者は──」  
「賢者は生きている! 君は生きている賢者に会えるんだ!」  
 生きている賢者!  
「賢者が誰なのかは、もうわかっている。会うのにそれほど苦労はないはずだ」  
 そうだ。ツインローバの幻影が、図らずも賢者の正体を裏づけてくれた。  
 
 ただし、問題が一つある。ナボールと会った時にも直面した問題。  
「賢者に会って……何をすればいいんだろう。賢者を覚醒させる方法が、ぼくにはわからないんだ  
けれど……」  
「それは──」  
 シークの眉根が曇る。  
「大きな問題だが……その方法がわかったとしても、過去の君に賢者を覚醒させることはできない  
だろう」  
「どうして?」  
「過去に戻れば、君は子供だ。時の勇者としての力を、まだ発揮できない状態なんだ」  
「じゃあ、どうしたらいいんだ?」  
「何かできるはずだ。賢者にガノンドロフの脅威を知らせて、身を守るよう警告するとか」  
「そのあと……力を発揮できるようになるまで、七年間、ずっと待つのか?」  
「そうもいくまい。いずれガノンドロフは君の存在に気づく。子供の君では対抗できない」  
「では……」  
「君は七年後の──いまの、この世界に帰ってくる必要がある」  
「どうやって?」  
「過去に戻れるのなら、未来に帰るのは簡単だ。もう一度、マスターソードを台座から抜きさえ  
すればいい」  
「それから?」  
「君が過去でうまく行動して、賢者が身を守ることができたなら、七年後も賢者は生き続けている  
わけだ。いまの僕たちから見れば『生き返った』ことになる。その上で賢者を目覚めさせるんだ。  
覚醒の方法はそれまでに考えよう」  
 奇想天外にして起死回生の策!  
 茫然と、しかし心底からの賛嘆をこめて、リンクは言った。  
「君は……ほんとうに知恵がまわるんだな」  
 瞬間、シークの右手がぴくりと痙攣し、はっとその表情が動いたが、すぐにそれは元へと戻り、  
真剣な視線がリンクに据えられた。  
「やるか?」  
「やるとも!」  
 間髪を入れず答える。  
「それしか方法がないのなら、ぼくはやるよ」  
 力が湧く。血が滾る。勇気が胸をいっぱいにする。  
「なすべきことなせ──ぼくはずっと、自分にそう言ってきたから」  
 
 
 日没後、夕食をすませるやいなや、リンクは出発の準備にかかった。一晩くらい休みをとったら、  
とシークは勧めたのだが、リンクは聞き入れようとはしなかった。  
「町を突破するなら、夜の方がやりやすいだろうからね」  
 姿を見せた時の憔悴が嘘のような勇み立ちぶりだった。エポナを駆って意気揚々と東へ向かう  
リンクを見送りながら、シークは微笑ましくも温かい思いを胸に抱いていた。  
 危険を考慮して、ここで別れることにしたが……あの調子なら、町を突破するのは困難では  
あるまい。  
 リンクが過去と未来を行き来できる、という考え。その考えが正しいのかどうかはわからない、  
とリンクには言ったが、正しいはずだ、との確信が、僕の中にはある。  
 過去での行動の成果を、未来に帰って確認する。リンクはそれを繰り返すことができる。だから、  
過去で賢者を救う目途が立ったら、賢者全員に会わないうちであっても、いったんこの世界に  
帰ってくるように。帰ってきたら、南の荒野の洞窟で会おう──と、二人は約束を交わしていた。  
 だが……  
 懸念が残っていた。  
 リンクがこの世界に帰ってくるのは、いつのことになるか。  
 そして……  
 過去の改変。それは、賢者の生存のみならず、他の何らかの影響を、この世界に及ぼすのでは  
ないだろうか。僕とリンクの関係は、その時、どうなっているだろう。  
 シークは自らに言い聞かせた。  
 どうなろうとも、やるしかない。これは、世界の運命が懸かった、最後の手段なのだから。  
 空を見上げる。  
 流星が一つ、煌びやかな光芒を放ちながら天空を横切り、暗雲の渦巻く東の空へと消えていった。  
 
 
 来た時を上まわる勢いで、リンクは町に突入した。思ったとおり、夜間とあって警戒する人数は  
少なく、町を通過するのに支障はなかった。数騎の女戦士に追われたが、さえぎるものもない  
広大なハイラル平原を、エポナは飛ぶ矢のごとく疾走し、追っ手を遠く引き離した。  
 続けて可能な限りエポナの速度を保ち、リンクは平原を横断した。ゲルド族の支配領域を脱して  
初めて本格的な休息を取ったが、その後も必要以上の時間は費やさず、一心に先を目指した。  
 城下町が見える地点に到達したのは、六日後の夕方だった。念のため、夜になるのを待ってから、  
ひそかに城壁へ接近し、西端の門をくぐって、王家の別荘の跡に侵入した。エポナは、門の近くに  
建つ、かつての馬小屋で待たせておくことにした。平原に出れば草や水は自力で摂れるし、万一  
危険があっても逃げられるだろうから、と考えてのことだった。  
 エポナとの別れを惜しみつつ、リンクは馬小屋をあとにした。城下のゲルド族の数は少ないと  
シークから聞いてはいたが、油断はならなかった。警戒の上にも警戒を重ねて町の通りを進み、  
ようやく時の神殿の前に行き着いた。  
 立ち去った時と同じく、時の神殿は、どっしりと荘厳な佇まいを見せて、そこに建っていた。  
が、その上空には、限りなく濃密な黒雲が、一帯を押しつぶすような禍々しさをもって充満しており、  
彼方のデスマウンテンのみが、深紅の猛炎を頂上で踊らせ、光の源となっていた。  
 リンクは思う。  
 この暗黒の世界を救えるのは、ぼくだけなんだ。  
 一度は捨てかけた意志。それを取り戻したいま、ぼくは、もう、惑わない。  
 神殿に足を踏み入れる。中は真っ暗で、何も見えない。シークから貰っていた蝋燭に火をつけ、  
足元を確かめながら、そろそろと奥に向かう。  
『時の扉』を抜けると、壁からの発光で、少しは周囲が見やすくなった。低い壇となった部屋の  
中央に歩み寄り、台座の前で立ち止まる。蝋燭を傍らの床に置く。  
 背負った鞘から、マスターソードを抜き放つ。柄を両手で持ち、剣先を下に向け、台座に触れさせる。  
 手が止まる。  
 
 過去への旅。そこに何が待っているのか。  
 わからない。  
 けれども、ぼくは行く。  
 この先に待つもの。それが何であろうとも、ぼくはまっすぐそこへ向かって行こう。  
 勇気をもって。  
 
 両手に満身の力をこめ、リンクはマスターソードを台座の底へと突き刺した。  
 直後、周囲の光景は揺らぎ、暗転し、すべてが闇の中へと呑みこまれ──  
 
 あとにはただ、八方からの微光と蝋燭のかぼそい炎とを受け、かそけくも凛冽たる煌めきを刃に  
宿すマスターソードが、孤高の姿を保って台座に立っているばかりだった。  
 
 
<第三部・了>  
 
 
To be continued.  
 
 

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