リンクは人の渦の中に茫然と立ちつくしていた。  
 真昼のハイラルの城下町。  
 ここまでの旅で、少なからぬ数の人間を見てきたが、これほど大勢の人間がいる場所があるとは  
思いもよらなかった。あらゆる年齢の男女が、てんでばらばらな方向に歩き、あるいは走りながら、  
意味のわからない話をし、けたたましく笑い、大声で怒鳴り、商人が客を呼ぶ声、辻音楽師の  
奏でるにぎやかな音楽なども加わって、混乱のきわみを呈しつつも、全体としては奇妙に  
まとまった世界を形作っていた。初めてハイラル平原を見た時も驚いたが、この町もまた、  
コキリの森とは全く異なる驚異的な場所だった。  
 人の数の多さもさることながら、リンクは改めて一つの事実を認識しないではいられなかった。  
『やっぱり大人には、すごくたくさんの種類があるんだ』  
 リンクが『外の世界』で経験した驚きの中でも特に大きなものが、「大人」の存在だった。  
初めて大人を見た時、この異常に大きな人間は何なのだろうと、リンクは仰天したものだ。  
出会う人々を観察することによって、『外の世界』の人間の成長は、コキリ族のそれとはかなり  
違うのだとわかってきた。コキリ族は生まれてから数年経つと、もうそれ以上、外観は変わらない。  
ところが『外の世界』の人間は、その時期を過ぎてもどんどん大きくなるようなのだ。それに  
つれて髭だの皺だのが生じたり、逆に髪の毛が減ったり、最後にはむしろ背が縮んだり、腰が  
曲がったりもするらしい。この町には、そうしたあらゆる種類の大人がそろっているようだった。  
 行き交う人々に突き飛ばされそうになり、リンクはあわてて道の端に寄った。道の両側には  
多種多様な店がずらりと並んでいる。店先に並んだ品物からどういう店なのか想像がつくものも  
あったが、何を扱っているのかさっぱりわからない店もあった。  
 ボムチュウボウリング場って、いったい何をする所なんだ?  
 興味を惹く店はたくさんあったが、リンクは店の中に入ろうとは思わなかった。どうせこういう  
所に入ったら、ルピーが必要になるに決まっている。  
 人々がルピーとかお金とか呼んでいる、コキリの森には存在しなかった奇妙なもの。  
『外の世界』では、人々は生活に必要なものをルピーで「買う」。それを持っていないと、  
まともな生活ができないらしい。旅をするリンクにとって、家に置いたり身につけたりするものは  
どうでもよかったが、食料には困った。  
 出発時に持っていた食料はすぐになくなった。それでも平原を行く間、木の実を採ったり川の  
水を飲んだりできるうちはよかった。しかし人家が増え、城下町に近づくにつれて、そういう  
機会は減り、リンクは空腹に苦しんだ。そのへんの草を刈ってルピーが出てきたらいいのに、  
などと思ったこともある。だが幸い、リンクが出会った人々はみな親切だった。ちょっとした  
仕事の手伝いをすれば食事を振る舞ってくれたし、時には──野宿は苦にもならないリンク  
だったが──一夜の宿を提供してくれる家もあった。ただそれやこれやで時間を食い、リンクが  
城下町に着いた時には、コキリの森を出てから二週間が経過していた。  
 
 町の真ん中には広場があり、人の密度もやや低くなっていた。リンクは広場の中央にある噴水の  
縁にすわり、ようやく息をついた。落ち着いてから、改めてまわりを見回してみる。  
 少し離れた所に、一組の風変わりな若い男女が立っていた。忙しく行き来する人々の中で、その  
二人だけはずっと動かず、互いの腕を相手の胴にまわし、ときおりよくわからないことを言って  
いる。  
「あなたって……ハイラル王みたいに……ス・テ・キ……ウフ……」  
「君は……ゼルダ姫より……美しい……フッ……」  
 この女の人もそうだ、とリンクは思った。大人の女は両の胸がふくらんでいる。子供だと男も  
女も変わりがないのに。なぜだろう?  
 次の瞬間、リンクは驚愕した。二人が顔を寄せ、唇を触れ合わせたのだ。  
 これは……そう、あの時……サリアがぼくに……  
「キスに興味あるの?」  
 突然、横から声をかけられて、リンクは二度びっくりした。見ると一人の少女が、悪戯っぽい  
笑みを浮かべて立っていた。  
「あんまりじろじろ見ちゃ、失礼よ。こんな人混みの中でキスするあの人たちも、どうかと思う  
けど」  
 大人びた口調でそう言いながら、少女はリンクの横に腰を下ろした。リンクはどう答えたら  
いいかわからず、黙っていた。少女は興味津々といったふうにリンクを眺めていたが、すぐに  
明るい声で話し始めた。  
「あたし、マロン。牧場の子よ。今日はお父さんと一緒に来たの。お城へ牛乳の配達に行かなきゃ  
いけないのに、お父さんたらどこかで油を売ってるのよ。しょうがないから、あたしここで待って  
るんだけど」  
 マロンと名乗った少女は、リンクの顔をのぞきこんだ。  
「きみは?」  
「え?」  
「名前よ、名前。あたしが自己紹介したんだから、きみのことも教えてよ」  
「あ……ああ、ぼくは……リンク」  
「リンク? ふーん……きみ、変わった格好してるね。どこから来たの?」  
「コキリの森……だけど」  
「コキリの森? 聞いたことないわ。遠いの?」  
「ああ……ここに来るのに、二週間かかった」  
「一人で?」  
「うん」  
「へえ、小さいのに、すごいのねえ」  
 小さいと言われて、リンクは改めて目の前の少女を見直した。そう言うマロンこそ、自分よりも  
やや年下に見える。どうも、自分が知っている女の子──サリアなどとは、かなり違った性格の  
ようだ。開けっぴろげで、一方的に自分のペースで話している。だがリンクはマロンに好感を  
持った。知らない土地で戸惑っているいま、こういう女の子と話すのも気がまぎれるかもしれない。  
「ねえ、マロン」  
 リンクは呼びかけた。マロンは『なあに?』というふうに首をかしげる。  
「さっき……あの二人がしていたこと、何て言ったっけ?」  
「あの二人?」  
「ほら、あの男の人と女の人がさ……口を……一緒に……」  
「キスのこと?」  
「あれ、キスっていうのかい?」  
 マロンはまじまじとリンクを見つめた。  
「あきれた。キスも知らないの? それで珍しくてあんなにじろじろ見てたんだ」  
 そう言ってマロンは、はじけるように笑った。  
 
「リンクったら、ほんとに変な人ね。その格好もそうだけど。コキリの森って、ずいぶんおかしな  
所みたい」  
 自分が育った場所をそんなふうに言われて、リンクはさすがに憮然とした気持ちになった。  
しかし考えてみると、マロンがそういう感想を持つのも無理はない。  
 上下とも緑色、一色の服。コキリの森ではみんなそうだったし、何の疑問も持たなかったが、  
『外の世界』でそんな単調な服を着ている人はいない。色はもっと多彩で、さまざまな意匠が  
凝らされている。いま目の前にいるマロンの服も、白を基調としたあっさりとしたものだが、  
裾には複雑な模様が描かれている。それに、コキリの森を知らないのは、なにもマロンだけでは  
ない。これまでにリンクが出会った人たちの中にも、その名や場所を知っている人はいなかった。  
コキリの森は、このハイラルの世界では、ずいぶん辺鄙な所にあるらしい、と、リンクは納得  
せざるを得なかった。ただキスについては、年下の女の子に笑われて黙ってはいられなかった。  
「呼び方を知らなかっただけさ。ぼくだって……その……キスくらい……」  
「したことあるの?」  
 リンクの言葉を奪うように、マロンが早口でさえぎった。目を大きく見開き、心底驚いたような  
表情だ。  
「すごーい! ねえ、誰としたの?」  
 リンクはたじたじとなった。嘘をついているわけではないが、かといって、ここでサリアとの  
ことをぺらぺらしゃべるのは憚られる気がする。  
 マロンはリンクの返事を待たず、上目遣いにリンクの顔を見ながら、意味ありげな口調で続けた。  
「あたし、前から誰かとキスしてみたかったんだ。リンクなら……わりとハンサムだから……」  
「おーい、マロン!」  
 不意に呼びかける声に、マロンはふり返った。リンクがそちらを見ると、髪の毛が薄く髭を  
生やした、太った中年男が手招きをしていた。  
「お父さんだわ。あたし、行かなきゃ。残念だけど」  
 大して残念そうな顔もせずにマロンは立ち上がり、元と同じ明るい口調でリンクに言った。  
「リンクは一人旅なんでしょ? 暇があったら、あたしのうちに遊びに来てよ。ロンロン牧場って  
いうの。いつもは話し相手がいないから、退屈なんだ。じゃあね!」  
 リンクにものを言う暇も与えず、マロンは駆け去った。遊びに来いと言いながら、その場所を  
教えない。翻弄されたような気分で半ば唖然としつつも、リンクは同時に別のことを考えていた。  
『お父さん、か……』  
 これもコキリの森では縁のなかった言葉だ。旅の途中で初めて聞いた言葉の一つ。  
『外の世界』の人間が生まれてくるためには、両親、すなわち父親と母親と呼ばれる二人一組の  
大人が必要であり、実際に赤ん坊を生むのは母親の方らしい。いったいどうすればそんなことが  
できるのか、リンクには想像もつかなかった。  
 だがそれがどうであれ、ハイリア人である自分にも、父親と母親がいるはずだ、とリンクは  
考える。その二人はいまどこにいるのか、何をしているのか、という疑問は当然あるが、  
コキリ族として暮らしてきた自分には実感が持てない。しかし、楽しげに話しながら雑踏の中を  
去ってゆくマロンとその父親を見ていると、そうした暖かく密接な人間関係、「家族」という  
ものへの憧れを、リンクは感じずにはいられなかった。そしてそれはひるがえって、いまの  
リンクの孤独感をきわだたせるのだった。  
 孤独を感じる理由は他にもあった。デクの樹は、世界は『黒き砂漠の民』の悪しき力に  
飲み込まれようとしていると言った。今にもその危機が到来するというふうに。なのに、この町の  
能天気な平和ぶりはどうしたことだろう。ここに着くまでの旅で通った所も、いたってのどかな  
雰囲気だった。世界を救うという自分の使命を誰かに──たとえばさっきのマロンなどに──  
話したとしたら、一笑に付されそうな気がする。いや、デクの樹の言葉を疑う気は毛頭ない。  
だがそんなことを真剣に考えているのは、この大勢の人々の中で、自分一人きりなのではないか。  
 
 周囲の喧噪が煩わしくなり、リンクはその場を離れて、人通りの少ない町はずれの方へと足を  
向けた。何度か道を曲がって行くと、石造りの大きな建物の前に出た。『森の聖域』にある、  
廃墟となった神殿に似ているが、いま目の前にあるその建物は廃墟ではなく、ほんとうの神殿と  
呼ぶのにふさわしい、荘厳な雰囲気を漂わせていた。入口からやや離れた所で、二人の兵士が  
立ち話をしているが、他に人の姿はない。リンクは建物の中に入ってみた。  
 短い通路を過ぎると、吹き抜けとなった、広く薄暗い部屋に出た。突き当たりの短い階段を  
上った所には、複雑な模様が描かれた青黒い石の扉があり、その上の壁には金色の三角形の印が  
見える。手前には、横に長い石造りの机のようなものが置かれていた。上面には三つの窪みがあり、  
手前の側面には文字が刻まれていた。  
 
 三つの精霊石を持つ者 ここに立ち 時のオカリナをもって 時の歌を 奏でよ  
 
 精霊石! デクの樹サマがぼくに託した石のことだろうか。  
 リンクは懐から『コキリのヒスイ』を取り出した。それは確かに、窪みのうちの一つと形が  
一致するように思われた。そっと窪みに置いてみる。やはりぴったりと合う。  
 デクの樹は言った。『黒き砂漠の民』は伝説のトライフォースを探していると。そして精霊石は  
その道標であると。  
 ──神々の去りし地に 黄金の聖三角残し置く  
 ここはその道標が置かれる場所?  
 ──あの『黒き砂漠の民』がわしに呪いをかけてまで欲したこの精霊石……  
 三つの精霊石。ここにその一つがある。では他の二つは……?  
 ──聖地には神の力を秘めた伝説の聖三角トライフォースが……  
 聖地。それはどこにあるのか。あの石の扉は……  
 時のオカリナとは? 時の歌とは? どういう意味があるのだろう。  
 高い天井からのしかかってくる空気の重さ。  
 物音一つしていなかった部屋に、どこからともなく、歌うような低い声が響いて……  
 リンクは目眩を感じ、思わず床に膝をついた。膝に感じた軽い衝撃が、リンクを現実に引き  
戻した。自分が持つ『コキリのヒスイ』が、きわめて重要なものであることを、リンクは改めて  
意識し、それを窪みから拾って懐に戻した。  
 自分がこの町に何をしに来たか。それを忘れちゃいけない。  
 
「おい、お前、いつの間に神殿に入った?」  
 建物から出て行こうとするリンクを、鋭く呼び止める者があった。さっき立ち話をしていた  
兵士のうちの一人だった。  
「え? ついさっき……」  
「ここには王家の許可がないと入れんのだ。勝手に入った者は罰せられるんだぞ」  
 兵士の声は厳しかった。リンクは気後れしたが、そのまま尻尾を巻く気はなかった。  
「ぼく、知らなかったんだ。誰にも止められなかったし」  
「む……」  
 兵士は言葉に詰まった。見張りという職務を怠っていたせいだと、自分でもわかってはいるの  
だろう。もう一人の兵士が、少し柔らかい声で口をはさんだ。  
「さっき俺たちがあっちで話している間に入ったんだろう。子供なんだから許してやれよ」  
「……まあいいだろう。何かに触ったりしなかっただろうな?」  
「いや……何もしなかったよ。ちょっと中を見ただけ」  
『コキリのヒスイ』のことは黙っていた方がいい。リンクにもその程度の知恵は回った。  
「よし、もう行け。二度と勝手に入るんじゃないぞ」  
 リンクは軽く頭を下げ、兵士たちに背を向けて、もと来た道を戻り始めた。背後から兵士の声が  
聞こえてくる。  
「まったく、こんな古びた神殿の見張りを、なんで朝から晩までやらなきゃならないのかね」  
 最初の兵士のぼやきに対して、二人目の兵士がなだめるように答えた。  
「言うな言うな、これも仕事だよ。王家にとっちゃ、しごく大切な場所らしいからな。なんでも  
ゼルダ様ご自身、見張りが必要とおっしゃったそうだ」  
「ほう、ゼルダ様がね。なら、しかたがない。仕事に励むとするか」  
「ゼルダ様のご命令なら、か?」  
「そうとも。あの姫様のおっしゃることなら、何はさておいても聞いて差し上げなくては」  
「調子のいいやつめ」  
 二人目の兵士は茶化すように言ったが、すぐに真面目な声で言葉を継いだ。  
「確かに、ゼルダ様のためなら何だってやるよ。俺でもな」  
「王国の民なら、みんなそうさ」  
 ハイラル王国の王女、ゼルダの名は、リンクも旅の途中でしばしば聞いた。ゼルダ姫は国民に  
たいそう慕われているようだ。いまの兵士たちの言葉も、それをはっきりと裏付けている。それに  
広場でいちゃついていた男が、相手の女の美しさを表現するのにゼルダ姫を引き合いに出していた  
のは、ゼルダ姫自身も美しい人だからだろう。  
 デクの樹がリンクに会えと言った『神に選ばれし姫君』、それがゼルダ姫のことであるのは  
間違いなかった。  
『その姫君に……会うのじゃ……それが……おまえの運命を……決める……』  
 ぼくの運命が、決まる。  
『どんな人なんだろう』  
 まだ見ぬ姫君の姿を思いながら、リンクは大きな転機が自分に訪れようとしていることを予感  
していた。  
 
 
To be continued.  
 
 

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