肌の上を何かがすべる感触がし、シークは我に返った。  
 うとうとしてしまったらしい。眠る気はなかったのだが……どれくらい時間が経ったのか。  
 ベッドに横たわったまま、首だけを動かして窓を見る。カーテンのすき間から差しこむ光の  
白さは、もう夜が明けきっていることを示している。が、明るさの具合から、なお日は高くなって  
いないと察せられた。  
 シークは小さく安堵の息をついた。  
 眠っていたのは二時間足らずといったところか。それすら惜しくはあるが、まだ間はある。  
損失とは考えまい。必要な休息だったと思っておこう。  
 おのれを我に返らせた感触の送り主に、シークは目をやった。  
 一糸まとわぬ姿のアンジュが、汗ばんだ素肌を蠢かせている。そのなまめかしい動きを、同じく  
裸の皮膚にもっと感じ取りたいという衝動が湧き、シークはアンジュを包む腕に力をこめた。  
 昨晩、勝手口で抱き合ったあと、そのままベッドに倒れこんだ。僕のいつにない熱狂が、初めは  
意外そうだったアンジュも、すぐ同じ熱狂に身を投じてきた。それから飲み食いもせず明け方まで、  
思いつく限りの格好で絡み合い、ひたすら互いを貪った。アンジュの膣で、口で、肛門で、何度  
果てたか覚えてもいないが、アンジュが果てた回数は、僕の何倍にも及ぶだろう。果てても  
果てても果て足りない、そんな際限のない情欲が、二人を煽り、突き動かし、燃え上がらせたのだ。  
 そして、その情欲は、いまも──  
「起きる?」  
 腕の中のアンジュがささやいた。  
 そこはかとなく不安げな表情。  
 何を考えている? 淫逸な一夜に幕を引き、日々の生活に戻ろうとして、僕の同意が得られるか  
どうかと案じているのか? それとも……  
 シークは思考を止めた。アンジュの真意を読みきる気になれなかった。真意などどうでもいい、  
とさえ思った。  
 唇に唇を押しつける。胸へ手をやり、柔らかいふくらみを揉みしだく。口に舌を挿し入れ、  
一帯を舐めずってやると、迎える舌も胎動を開始した。手が下に伸び、股間を探ってくる。  
すでに高ぶりを取り戻していた陰茎は、アンジュの掌中でずきずきと脈打った。  
 ひとしきりの口接ののち、大きく息を吐いたアンジュは、  
「よかった」  
 嫣然と微笑み、  
「わたしも、こうしていたかったの……ずっと」  
 巧みに硬直を弄びながら、首筋に口づけてきた。  
 望みどおりのはずの行動に、シークは応えられなかった。アンジュの最後の言葉がシークを  
凝結させた。  
 ずっと──とは……  
 アンジュにとって、それはいかほどの期間を意味する? 昼までか? 夜までか? あるいは……  
 
 再び思考を抑えつけ、シークはやにわに身を動かした。アンジュの両肩をつかむ。仰向けにして  
のしかかる。両脚の間に割って入る。いきり立った武器を中心部に触れさせる。突然の活動再開に  
戸惑いの色を浮かべるアンジュの顔は、しかし一瞬後には笑みを取り戻していた。怒張を握って  
いた手が離れ、もう一方の手とともに、背中へとまわってくる。いまにも貫かんとする肉柱を、  
逆に呑みこもうとして腰が突き出される。捉えられた亀頭の粘膜が、どろりとした熱感を神経に  
送り、それが矢も盾もたまらぬ激情となって、シークを驀進させた。  
「うあぁッ!……あッ!……お……ああぁ……」  
 叫喚と、続く快楽の呻吟が、さらに激情をそそのかす。膣壁が陰茎を、四肢が全身を、それぞれ  
がっちりと固めてくるが、そんな拘束をものともせず、初手から全力を解放し、シークは滾った  
杭を打ちこみまくった。  
 考えるな。いつまでなどと考えるな。いずれ終わりは来る。どんなに考えようと来るものは  
来るのだ。だからともにいられる間は何もかも忘れて、僕は僕のすべてをつぎこむんだ。  
アンジュにつぎこむんだ。僕のすべてをアンジュにすべてアンジュと僕はすべてを僕がアンジュを  
すべて僕のアンジュに!  
 意識が飛散し、思考が意味をなさなくなり、けれどもかまわないと開き直り、やがては  
かまわないという思いまでもが消え飛んでしまい、シークはただただ無心で腰を乱舞させ続けた。  
 そうした状態でも、目の前にある口から噴き出す絶叫だけは、おのれの行動の所産として確然と  
耳に届き、アンジュが立て続けに達していると実感された。ところが自分の方は、激しい摩擦が  
とめどない快感を脳に伝えているのに、すでに経た幾多の極点が肉体に耐性を帯びさせている  
ためか、容易には遂情を得られそうにない。  
 とうとう全身が疲労にまみれ、シークは体動を止めた。アンジュの体内に埋めこんだ部分は、  
なお勃起を保っているものの、身体の他の部位を動かせるだけの力を取り戻すには、しばしの  
間隔をおかねばならなかった。  
 ぜいぜいと喉を鳴らすシークの下で、アンジュもまた、ベッドに釘づけとなったかのように  
身動きをしなかった。怒濤のようなシークの攻めを、当初は劣らぬ腰の躍動で迎え撃って  
いたのだが、いつしかその抗力も限界を超え、ついには肢体を開ききり、絶頂に次ぐ絶頂を  
感受するだけとなっていたのだった。  
 アンジュはすすり泣いていた。閉じられた両の目の外端から、一筋ずつの涙が耳の方へと  
伝い落ちていた。それは決して悲しみゆえではなく、無量の感動がもたらしたもの──とシークは  
理解した。が、直後、その感動が追ってアンジュに及ぼした驚くべき影響を、シークは目の当たりに  
しなければならなくなった。  
 
「……シーク……」  
 目を閉じたまま、アンジュが声を震わせる。  
「……シークにとって……わたしは……なに……?」  
 愕然となる。  
「……シークは……わたしのこと……どう思ってるの……?」  
 世間の男女によくある問いかけ。しかしアンジュはこれまでこんな問いを僕にしかけたことはない。  
割り切った関係と互いに納得していた。納得していたはずなのだ。  
「……わたしは……ずっと年上だし……こんな商売だから……」  
 またも愕然。  
 アンジュの商売。もちろん僕は知っている。僕が知っているとアンジュもわかっている。互いに  
承知しながら、けれどもこの話題が二人の間で出ることはなかった。触れてはならないという  
暗黙の了解があった。なのにアンジュは──  
「……ほんとは……わたしの方から……訊いたりしちゃいけないんだけど……」  
 どうしていまになって、どうしていまこの時になって、アンジュはこんなことを言い出すんだ?  
「……どうなの……?」  
 答えなければならないのか? 答えるとしても、どう答えればいい?  
『君は……』  
 脳裏によみがえるリンクの言葉。  
『アンジュを……愛しているんだね』  
 否定しない。もう僕は否定しない。だがそれをアンジュに言うかどうかは別問題だ。言えるのか?  
僕はアンジュにそう言えるのか? 言えるわけがない! なぜなら──  
「……やっぱり……だんまりなのね……」  
 アンジュが目を開く。口元に浮かぶ寂しげな微笑み。僕の反応を──いや、反応のなさを──  
予測していたかのような、僕の答など期待していないかのような、それは……諦めとしか  
呼びようのない……  
 そうじゃない、アンジュ、そうじゃない、僕は……僕は──!  
「……わたしは……こうやって……シークに抱かれて……」  
 話の方向が変わる。口を切れなくなってしまう。  
「……その時その時で……安らぎを得られたら……それでいいと思ってたわ……」  
 そうだろう。そのはずだ。僕もそうだった。だがいまは? 僕の方はそうではなくなって  
しまった。アンジュは? そう「思ってた」アンジュは、いまはどう「思ってる」?  
 
「でもいまは違う」  
 不意に言葉が強められる。ああ、アンジュが自分を語っている。アンジュが初めて僕に心の  
内面を吐露している。何なんだ? 何がいまのアンジュの中にある?  
「リンクに会って、わかったの」  
 リンク?  
「リンクがどうしてわたしのところへ来たのか、わたしにはわかったの」  
 そうだ、やはりアンジュはわかってくれていた。リンクがもたらした「ありがとう」という伝言。  
僕とアンジュの心が通じ合った証拠。ではそれがアンジュに何を引き起こしたと? まさか……  
「それでシークが……シークこそが……わたしを……」  
 アンジュの顔がゆがむ。再び言葉がきれぎれとなる。目がいっそうの潤みを満たし始める。  
 まさか……まさかアンジュ──  
「……ほんとうに……わたしのことを……理解してくれてるんだって……だから……」  
 そうなのか? そうなのかアンジュ? アンジュもまた僕を……けれどそれをいま──  
「……だから……わたしは……」  
 いま僕に言うのか? いまこの時になって? 何ということ! それは──  
「……わたしは……シーク……わたしは……」  
 それはいまの僕がアンジュの口からいちばん聞きたいことで、また──  
「……わたしは……あなたを──」  
 いちばん聞きたくないことなんだ!  
 
 唇をぶつけて唇を塞ぐ。息をもできないほどに強く。  
 腕をまわしてかき抱く。息をもできないほどに固く。  
 どうか言わないでくれ。それを聞いてどうなるというのか。  
 僕だって言えはしない。それを言ってどうなるというのか。  
 僕たち二人の関係が大きく変わろうとしているこの時に、僕たち二人の関係がいまにも跡形なく  
崩れ去ろうかというこの時に、どうしてその言葉を交わすことができるだろう!  
 時が過ぎてゆく。時が過ぎてゆく。声と息とを封じたまま、淡々と時が過ぎ去るその果てに──  
「んおッ!」  
 急所を絞られる感覚が喉に呻きを突き上げさせ僕は唇を離してしまう。アンジュの口は  
絶たれていた空気を求めてひたすら呼吸を繰り返し、のみならず、下の方の口はぎりぎりと、  
やわやわと、そこだけ別の生き物であるかのごとく中にいる僕を蹂躙し、愛撫し、そう、これは  
アンジュの特技、これまで何度となく賞味してきたアンジュの本領、それが頑固な僕の耐性を  
溶かして剥がして崩して奪って、いこうとしてもいけなかった僕を叱咤し懐柔し誘導し督励し、  
応じて僕は刺突を再開させ、初めは緩徐に、のちには激烈にこすり合わされる二人の部分が、  
無比の快感を生んで二人を狂わせ、そしてとうとう最後の地点へと僕たちは、僕たち二人は、  
一緒に、ああ、一緒に、この時ばかりは手を携えて、想いを口に出せない出してはならない  
僕たちがそこだけは何の逡巡もなく共々に没入できる場所なのだと知る逸楽の頂点へ、僕は、  
アンジュは、僕とアンジュは、一緒に、一緒に、登り詰めるんだ!  
 
 爆発的な歓喜が続き、やがて消褪すると、全身を瓦解させるかのような脱力感が、反動となって  
シークを襲った。動けなかった。ぐったりと重く弛緩する身体を、しかしアンジュは優しく静かに  
受け止めてくれた。  
 力が戻らないうちに、生命活動を維持するための根源的な欲求が湧き起こってきた。飢えと  
渇きである。飢えは我慢できた。けれども渇きの方は限界を超えていた。  
「水を……」  
 喉のひりつきに耐え、シークはかろうじて声を絞り出した。  
「……飲んでくる」  
 背にまわされていたアンジュの腕が緩んだ。シークは身体を起こし、ベッドに腰かける姿勢と  
なった。すぐには立てなかった。  
「アンジュは?」  
 意思をうかがう。アンジュも上半身を起こし、頷いた。が、それ以上の動きをアンジュは  
示そうとしなかった。  
「先に行って」  
 かすれもない、落ち着いた声に促され、シークは腰を上げた。ふらつく脚を懸命に操り、寝室の  
戸をあけ、台所に出る。内井戸の前まできて、起立状態を続けられなくなった。床に膝をつけ、  
手だけを差し出し、やっとのことで水を汲む。やみくもに喉へと流しこむ。  
 ようやく人心地がついた時、背後に音を聞いた。ふり向くと、自分と同じく全裸のアンジュが、  
台所に現れたところだった。かすかに笑みを浮かべながら、悠然と近寄ってきたアンジュは、桶に  
残っていた水を両手ですくい、口に移した。一口だけだった。  
「お茶を入れるわ」  
 アンジュは安定した歩みで戸棚の前に移動し、茶器を取り出した。シークは震える脚で身を  
立たせ、よろめきながらテーブルにたどり着いた。椅子にどっかりと尻を落とし、背もたれに  
体重をかけ、できるだけ安楽な体勢をとった。  
 仕度するアンジュを目で追う。  
 僕がこれほど疲れきっているというのに、アンジュの方は実に泰然としている。どういうわけ  
だろう。アンジュとて交わっている間は、身も世もない狂乱ぶりを呈していたのに。確かに男と  
女では運動量が違う。が、それだけでは説明しきれない。女はセックスによって男の精気を  
我がものとする、とかいう俗説を聞いたことがあるが、まさにそうとしか思えない。  
 注ぎ口から湯気を立ちのぼらせるポットと、二人分のティーカップが、テーブルに置かれた。  
向かいにすわったアンジュは、二つのティーカップにポットからお茶を注ぎ、片方をシークの前に  
押しやった。  
 渇きはとりあえず井戸水で解消されていたものの、それにはないお茶の温かさと風味が、清新な  
癒しとなってシークを解きほぐした。ただ、場の雰囲気は、シークに別種の懸念をももたらした。  
 二人の間に会話は生じなかった。何か話題を出すべきか、と気遣われたが、アンジュが言葉を  
求めているふうには見えなかった。シークとここにあるだけで満足している、とでも言いたげな  
風情が感じられた。ほっとしながらも、シークはそんなアンジュの態度を奇異に思い、かつ、  
残り少ない時間がさらに着々と減り続けている状態に焦りを覚えた。  
 
 ほどなくポットは空となり、アンジュは立って片づけを始めた。日常の営みに帰ったかのような  
アンジュの作業ぶりが、シークの焦りを増幅させた。のみならず、その日常的な動作が全裸で  
行われているという不釣り合いさが、否応なく欲情をかきたてた。  
 シークは立ち上がり、流しでポットを洗うアンジュに歩み寄った。ふり返る暇も与えず、  
背後から荒々しく抱きしめ、両の乳房を鷲づかみにする。  
「あ!」  
 短く声をあげたアンジュは、しかし反射的とも思える従順さで、尻を後ろに突き出してきた。  
すでに立ち直っていたペニスを脚の間に突き入れる。いまだ充分にとろみを保つそこは、強引に  
割りこむ硬直をやすやすと受容した。  
 立ったままでの激しい交接が開始された。流しに上半身を伏せたアンジュは、もうポットなど  
うち捨ててしまい、喜悦の悲鳴をほとばしらせながら、猛烈に腰を前後させた。一片の慎みすら  
ないそのさまによって、シークも猛り立ち、可能な限りの勢いで突撃を繰り返した。なおかつ  
台所で交わっているという新鮮な状況が、ますますシークの情感を刺激した。特に避けていた  
わけではないのだが、ベッド以外の場所での性交体験を、これまでたまたまシークは持たなかった  
のである。  
 欲望と勃起は治まる気配もなかった。とはいえ疲労はなくなっておらず、むしろ蓄積する  
一方だった。これ以上は脚が身体を支えられないという時になって、アンジュが絶頂に達した。  
動きが止まった機会を逃さず、少しでも楽な体位を、と、シークは挿入を保ったままアンジュを  
床に這わせ、自らも膝をついて、後方からの攻めを再開した。  
 後背位での肉交は延々と続いた。何度も行き着くアンジュに対し、シークは一向に到達点を  
見いだせなかった。例の耐性が身を支配していたのである。快感だけが朽ちもせず継続するのは、  
セックスとして理想的である反面、生殺しのような辛酸でもあった。  
 シークは変化を求めた。陰茎を膣から引き抜き、間もおかず、もう一つの入口へと挑みかかった。  
夜のうち、すでに侵入を果たしていた肛門は、何らの抵抗もなく新たな攻撃を受け止め、次の  
瞬間には、膣以上の圧力でシークを押し包んだ。その圧力に抗し、シークは憚る気もなく自らを  
激動させた。直腸を抉り苛む快美感が、ひときわ音量を増すアンジュの叫びとも相まって、  
ようやく目標への道を切り開いた。いっそうの勢いをもって尻に股間を打ちつけ、アンジュを  
上まわる喚きを喉より噴出させながら、ついにシークは望む地へとおのれをまろび入らせた。  
 
 そうまでして達した頂点に、しかしシークは、まだ満足しなかった。そそくさと最低限の用を  
足したのち、再び戻ったベッドの上で、シークはなおもアンジュを求めた。すでに真昼も遠からぬ  
時刻となっており、終末はいつ来るとも知れなかった。その切迫感がシークを無性に駆り立てた  
のである。が、身体の疲れは局部にも及び、そこは復活の気配を示さなかった。なおさら気が逸り、  
シークは必死になって、アンジュの体表に萎えた部分をこすりつけた。  
 そうしたシークの興奮ぶりを、アンジュは全く不思議に思っていないようだった。シークの  
欲求がいつまでも──永遠に──続くのを望んでいるようでもあった。勃起も挿入もままならず、  
やきもきするシークを、アンジュは優しく制し、抱擁だけを要求してきた。シークも敢えて自我を  
貫かず、アンジュの言葉に従った。  
 主導権がアンジュに移った。手と、口と、乳房とを駆使し、穏和に、時には熱情的に、  
アンジュはシークを慈しんだ。長い時間がかかったが、甲斐あって、シークの男の部分は、  
とうとう力を取り戻した。その力を奮おうとして身を起こすシークを、またもアンジュは制した。  
いったん得た主導権を手放す気はない、とでもいうふうに、アンジュは仰向けとなったシークの  
上に跨り、自らの手で硬化した陰茎を膣内に導いた。  
 挿入後も、アンジュはペースを守った。たまに激しい上下動をはさみながらも、あくまで基本は  
穏健だった。腰はしなやかにくねり、上体は優美な舞いを舞った。典雅ともいえるアンジュの  
動きに魅了され、いつしかシークの心も安らかとなった。男根は激越な刺激をこそ感じなかったが、  
あの絶妙な蠕動が、絶妙のタイミングで到来するため、勃起が消褪することはなかった。  
 いつ果てることもない──と思われた騎乗位での交合も、そのうち終局にさしかかった。  
アンジュの腰は活動を速め、膣の収縮はいよいよ玄妙さを増した。シークは完全に受け身となって、  
アンジュの攻めを堪能した。初めての交わり以来、常に攻め手であり、アンジュを支配してきた  
シークが、いまは初めてアンジュに支配されているのだった。そうする他はない状態だったし、  
それでも全然かまわなかった。そうあることが感激的ですらあった。  
 ほどなくシークは絶頂した。  
 
 真昼が過ぎても世界は変わらなかった。シークの安らいだ心は、もはや時の進行を気にしなく  
なっていた。いつ終わりが来てもいい──とシークは思い、ついには時間への意識そのものが  
頭から消え去った。  
 二人は抱き合い、依然、ベッドに身を横たえていた。  
 起きる気は毛頭なかった。そしてアンジュも同様であることに、シークは疑問を持たなかった。  
 縮こまった陰茎は、硬直状態に復帰する余力を全く失っていたが、シークの心の安らぎは  
妨げられなかった。アンジュと肌を合わせているだけでよかった。また、思いついたように互いを  
愛撫し、互いに口づけ、それをさまざまな体位で行うことにより、性感は充分に満たされた。  
 静穏な触れ合いが、次第に脳を鈍化させ、やがてシークはまどろみに落ちた。  
 
 アンジュが動く気配で目が覚めた。シークは窓に目をやり、日がほとんど暮れていると知った。  
ベッドから降りたアンジュは、衣服を身に着けたのち、優しげな、しかし明瞭な意志をこめた声で、  
シークに言った。  
「今晩の客を断ってくるわ」  
 横になったまま、シークは無言の頷きでアンジュを見送った。  
 行き先はわかっている。客を斡旋している酒場の女主人のもとへ、話をつけに行ったのだ。僕が  
ここに泊まる時、アンジュはいつもそうしていた。ただ、その旨を僕に告げることは、これまで  
決してなかったのだが。  
 今朝もそうだった。自分が娼婦であるという事実を、アンジュは躊躇なく語るようになった。  
それは二人の間に澱のごとくわだかまっていた点である。その事実が解消されたわけではない  
とはいえ、あからさまにすることで、澱はずいぶん薄まったようだ。  
 この変化は何に由来するのか。  
 アンジュが僕に抱いている感情? その感情の告白を、僕は中断させたではないか。  
 とはいいながら、完結させられなかったという失望を、いまのアンジュが抱いているとは  
思えない。アンジュは告白の続きを述べようとはしなかった。むしろ、あれで完結したのだと  
満足しているように見える。  
 なぜだろう。  
 中断させるための、僕の接吻を、僕の抱擁を、受け入れの証と認識したのだろうか。  
 だとしたら、誤解だ。僕は決してそんなつもりでは……  
『いや』  
 胸は温まる。  
 誤解だったとしても、いいじゃないか。アンジュの気持ちは僕に伝わり、僕の気持ちは──  
結果的には正確に──アンジュに伝わったのだから。それを口に出さなくとも、二人の想いは  
変わらない。  
 ただし──と、思いは現実にぶつかる。  
 いずれ終わりは来てしまうのだ。  
 だが──と、思いは旋回を始める。  
 いつ来るのだろう。リンクがこの世界に帰ってくるのは、早ければ今日の昼と思っていた。  
ところがいまだに終わりは来ない。過去への出発が遅れたのだろうか。あるいは過去の世界で  
何かあったのか。  
 気になる。気になるが……  
 それゆえに終末が遅延することを、期待している僕がいる。  
 いつその時が来てもいい、と思っていたはずなのに。  
 せめて……せめてもう一夜だけ、機会を持てないだろうか。今夜も二人きりでいたい──と、  
さっきアンジュも言外に意志を明示したのだ……  
 
 勝手口が開く音がした。続けてすぐに寝室の戸があけられ、アンジュが姿を見せた。  
「晩御飯にするわ」  
 いかにも唐突な台詞に思え、シークは返答できなかった。それを共臥せりの中断への不満と  
受け取ったのか、アンジュは微笑みつつ、言い聞かせるような口調で、あとを続けた。  
「食べなきゃだめよ。まる一日、食事抜きだったんだから」  
 言われてみて、シークも空腹を意識した。苦しい旅を続けてきた身としては、耐えられない  
ほどの飢えではない。しかし、僕はよくても、アンジュを飢えさせるわけにはいかない。それに、  
胃の腑を満たす、よい頃合いではあるのは確かだ。  
 シークは了解の返事をした。ベッドを離れることに関しては、特段、抵抗は感じなかった。  
アンジュが台所で調理に取りかかる物音を聞きながら、シークはベッドから降り立ち、着衣した。  
そうする積極的な動機があったわけではない。アンジュに合わせようと思ったまでのことである。  
 寝室を出ると、竈の前に立ったアンジュが、いやな咳をしていた。こちらに気づいたアンジュは、  
苦しげな声で、言い訳めいた台詞を述べた。  
「ちょっと……煙にむせちゃって……」  
 そうではない──とシークには知れた。  
 少し前から、アンジュは咳きこむようになった。火山灰の多い地で暮らしているせいかも  
しれない。それとも悪い病気に罹っているのか。顔色がよくないのは以前からだと思っていたが、  
ひょっとしたら……  
 至福であったはずの交わりが、実は荒淫の強制であったように思われ、シークは胸に痛みを  
感じた。アンジュに訊ねたとしても絶対にそうと肯定はしないだろう、とわかってはいたが。  
 アンジュが言った。  
「薪が足りないの。取ってきてくれる?」  
 シークは従った。  
 勝手口から外に出る。前に薪置き場がある。残り少ない中から、薪の束を一つ拾おうとして、  
ふと上を見る。  
 空はすっかり暗くなっていた。  
 まだリンクは帰ってこないのか。まだ世界は改変されないのか。  
 アンジュとの逢瀬を失いたくはない。だが……アンジュの幸せを考えたら……とりわけ  
アンジュの健康を考えたら……  
 突然、その時まで浮かばなかった発想が、シークを打った。  
 リンクはすでに帰ってきているのではないか。世界は──アンジュだけをそのままにして──  
すでに改変されているのではないか。アンジュといるのに夢中だった僕が気づかなかっただけで。  
 思考が急激に動き始める。  
 だとしたら、いまの僕たちの関係は、今後も続くことになる。僕たちはともにいられることになる。  
ずっと。そう、ずっとだ!  
 もちろん僕には使命があって、それは絶対おろそかにはできない。けれど……けれど使命が  
果たされたなら……果たされた、そのあとなら……  
 アンジュのために、僕はすべてを投げ打とう。哀しい商売をやめさせて、腕のいい医者に  
診てもらって、いやそれより何より僕たちは、言えなかった聞けなかったあの言葉を、今度こそ  
心ゆくまで交わし合って、そうして僕たちは、僕たち二人は、一緒に、ずっと一緒に──!  
 
 両脚がぐらりと揺らぎ、同時に、きりっと頭痛がした。  
 
 その意味が脳に染みとおるのに、しばらくの時間を要した。そこにしゃがみこんだまま、  
仮借なく押し寄せる概念を、シークは、じっと、甘受した。  
 リンクはやはり帰ってきてはいなかった。世界はやはり改変されてはいなかった。  
 それはいま起こったのだ!  
 改変前の世界の記憶、第一の改変を経た世界の記憶、そして──現在のシークが、本来、  
有している──第二の改変を経た世界の記憶が、三つ巴の状態で頭の中を駆けめぐり、やがて、  
三つに分かれ、ゆっくりと沈澱していった。  
 それが来た時は、こうなるはずだったのだ。そのことを忘れていたとは、僕は何と愚かだったの  
だろう。あるいは、思い出したくないという無意識の精神作用だったのか。  
 記憶の安着に合わせ、感情にも鎮静を強いる。  
 シークは立った。山積みになった薪の束の、その一つをつかみ、勝手口に戻った。  
 心の安定を確認し、戸を開く。  
 鍋をかきまわしていたアンジュが、こちらを向いた。  
「ありがとう」  
 血色のよい顔が、明るい笑みを湛える。  
「どうかしたの? 手間取ってたみたいだけど」  
「いや……」  
 咄嗟に言い繕う。  
「薪が崩れたんで、積み直していたんだ」  
「そう」  
 疑問も持たない様子で、アンジュは再び鍋と格闘し始めた。  
「久方ぶりに訪ねてくれたお客さんに手伝わせるなんて、ほんとに気がきかないよ、この子は」  
 薬屋の婆さん──アンジュの母親──が、あきれたように言いつつ、近づいてきた。  
「すまないねえ」  
「いいえ」  
 小さく首を振り、婆さんに薪の束を手渡す。  
「そんなに畏まるこたあないって」  
 くだけた声を出したのは、椅子にすわっていた大工の親方──アンジュの父親──である。  
「いくら村を救ってくれたインパ様のご子息といってもだな、うちにとっちゃ、シークは家族も  
同然なんだ。気遣いなんか要るもんかい」  
「そうよ」  
 援軍を得たアンジュが、よたよたと向きを変え、嵩に懸かって主張する。  
「シークはわたしの弟みたいなものよ。いまさらお客さん扱いする方が変だわ。ね、シーク」  
 快活に笑いかけてくるアンジュへ、  
「そうだね」  
 と微笑みを返し、先刻まで身を置いていた椅子に、シークは再び腰を下ろした。  
 ため息をついた婆さんは、しかし実は不同意でもない、といった感じで肩をすくめ、アンジュの  
横に移動した。竈に薪を足しながら、婆さんが今度は心配そうに言い出す。  
「アンジュ、身体の方はいいのかい? 料理ならあたしがやるよ」  
「ほっとけ」  
 親方が割って入った。  
「こいつは昔っから丈夫なだけが取り柄なんだ。風邪ひとつひいたためしがないんだからな。  
ゲホゲホ咳きこんでるざまなんか、想像もつかないくらいだぜ」  
 揶揄にはかまわず、アンジュが母親に答える。  
「いいのよ。せっかくシークが来てくれたんだもの。わたしがご馳走してあげたいの」  
「下手くそな料理を食わされるこっちの身にもなってみろい」  
 重ねてのからかいを無視しきれなくなったアンジュが、さっきまで援軍だった父親へ攻撃を  
開始した。  
「何年もやってれば、料理の腕くらい上がるわよ。あの人だって、いつも褒めてくれるわ」  
「あいつならお前が馬糞を食わせたって褒めるだろうよ。だが自分の家をほっぽり出して実家に  
舞い戻ったりしてちゃあ、あいつの熱も少しは冷めるってもんだな」  
「シークが泊まるのはここなんだから、しかたないじゃないの。それにご心配なく。あの人なら  
もうじき──あ、あなた!」  
 
 勝手口が開き、三十歳くらいの壮健な男が入ってきた。いまだ顔には青年に近いまぶしさを  
残している。  
「今晩は」  
 場の全員に向けて、男は一礼した。  
「夕食を一緒に、とアンジュが言うんで、お邪魔しました」  
「よく来たな。遠慮せずたらふく食ってけ。といっても作るのはアンジュだ。代わり映えはしない  
だろうが」  
 揶揄する言葉を続けながら、そしていましがたの冷やかしにもかかわらず、親方は心から男を  
歓迎しているようだった。  
 男は再度、親方に頭を下げると、アンジュの前に寄り、心配りを口にした。  
「具合はどう?」  
「大丈夫」  
 アンジュが、張り出した自分の腹に、そっと手を当てた。男の手も、そこに触れる。微笑み合う  
二人が、軽く唇を合わせる。  
「いちゃついてないで、早く飯にしろ。旦那の方はこっちへ来い。もうすぐ父親になろうってんだ  
から、その心得を叩きこんでおかなきゃならん」  
「お手柔らかに」  
 口調は乱暴でも、親方の態度には、娘婿に対する親愛の情があふれていた。男の方も、その情を  
理解していて、親方の台詞に軽口を返せるほど、胸襟を開いているのだった。  
 男がシークに顔を向けた。  
「久しぶりだね、シーク」  
「ほんとうに」  
 シークは椅子から立ち上がり、歩み寄ってきた男と握手を交わした。これまで何の抵抗もなく  
アンジュの夫と認識し続けてきた男を、シークは新たな思いで見つめた。思いが自らの表面に  
出ていない点には自信があった。果たして男は、シークの思いなど察する気配も示さず、親方の  
勧める席に腰かけた。  
 夕食が始まった。シークは旅の土産話を披露し、他の面々は、シーク不在の間に村で生じた  
諸々のできごとを述べた。とはいえ村には大した事件もなかった。相変わらず不穏な世界の中で、  
カカリコ村は平和を維持する数少ない場所の一つだったのである。  
 近況報告が終わったあと、話題はアンジュの件に集中した。妊娠中も健康を保ち、将来に全く  
不安を感じない、といったふうのアンジュに対し、その夫の方は、出産を前にして心痛が絶えない  
様子だった。  
「気におしでないよ」  
 婆さんが男に慰め声をかけた。  
「あたしゃ二人の子供を産んだけど、どうってことはなかったんだから」  
「上の方は生まれてからが大変だったぜ」  
 親方が苦々しげに吐き捨てた。  
 しばし会話が滞る。  
「兄さん、どうしてるのかしら……」  
 沈黙を押し分けるように、アンジュが言った。  
「村がゲルド族に襲われた時に、どこかへ行ってしまって……あれから四年も経つんだわ」  
「そのことなんだがね」  
 深刻げな、けれども奥に喜びを秘めたような素振りで、婆さんが話し始めた。  
「ここからあまり離れていない村で、あの子を見たっていう人がいるんだよ。なんでも、どこかの  
農家の手伝いをしてるらしい」  
 へえ──と、意外そうな声が、一同の口から漏れた。  
「あの子も長いこと、よそで苦労して、性根を入れ替えたんじゃないかねえ」  
「だといいんだがな」  
 親方は相変わらず顔をしかめていたが、内心は満更でもない、というふうに見えた。  
「きっとそのうち帰ってくるわよ」  
 アンジュが誰をともなく力づける。それを機に、場の空気は、再び暖かな色合いを取り戻して  
いった。  
 その色合いに、ひとり染まりきれないおのれを自覚しながら、目の前にある、知りつくしていた  
はずの現実を、シークは改めて胸に刻みつけるのだった。  
 
 闇が消え、剣の間の内景が目に映った瞬間、ぐらりと足元が揺らいだ。予想していたので転びは  
しない。またも世界は統合されたのだ──と実感し、興奮し、大人の我が身をちらりと確認した  
だけで、逸る気を抑えもせず、リンクは時の神殿の出口まで駆けた。  
 過去へ向けて出発したのは夕刻だったが、例の時間差により、時はすでに夜となっていた。  
 ただ一つの灯火もない城下町の荒廃ぶり、そして天空を覆いつくす禍々しい暗雲は、何らの  
変化も呈していない。しかしゲルド族の反乱を防げなかった以上、当然の帰結である。  
 それには動じないリンクだったが、デスマウンテンの頂上で踊り狂う輪状の猛炎を見て、大きな  
失望と憂慮を感じずにはいられなかった。  
 デスマウンテンは大噴火を起こしてしまったのか。ダルニアはいったいどうなったのだろう。  
 沈みかかる心を励ましつつ、足を忍ばせ、王家の別荘跡の馬小屋へと向かう。  
 エポナはそこにいた。  
 してみると、以前に改変されたマロンの運命は、いまも改変されたままなのだ。今回の過去への  
旅ではマロンに会わなかった。だからマロンに新たな変化は生じていないのだろう。その点は  
安心できる。  
 再会の喜びもそこそこに、リンクはエポナを駆り、夜のハイラル平原を東へと急いだ。  
 一刻も早くシークに会って、世界の現状を確かめなければならない。  
 夜が明け始め、平原の風景が目に入ってくる。草は一面、枯れ果てている。行けども行けども  
暗雲は尽きない。  
 改変された結果がこれなのか。ぼくの力は、まだまだ足りないのか。  
 いや、これからだ。ほんとうの戦いは、これからだ。  
 焦燥と勇躍が身を沸きたたせ、エポナを促す声も頻繁となる。  
 陰鬱ながらも大気が明るみに満たされる頃、平原が東に果てる地を、リンクはその目に捉えていた。  
 
 過去の状態とは、若干、様相を異にしていたものの、カカリコ村の前面には、堅牢な防御陣地が  
築かれていた。過去へ旅立つ前には存在しなかったものである。これこそ改変の明らかな証拠──  
とリンクは胸に期待を抱いた。が、同時に、奇異な印象をも、リンクは受けていた。  
 陣地に人の気配がない。見張りの一人もいないようだ。これでは陣地としての意味がないのでは  
ないか。  
 不思議に思いながら、陣地を抜ける。カカリコ村に続く石段が見え、直後、そこに坐す一人の  
人物が目に入った。  
「シーク!」  
 エポナを駆け寄らせる。馬上から最小限の言葉で問いかける。  
「どうだ?」  
 腰を石段につけたまま、シークは頬を緩め、穏やかな声で言った。  
「今度はかなり変わったぞ」  
 心からのねぎらいの意を感じ取り、リンクは大きく息をついた。  
 
 ここは人通りがあるから──とシークは指摘し、リンクとエポナを防御陣地の隅まで誘導した。  
無人の一角に至ってリンクは下馬し、シークと向かい合って地面に腰を下ろした。  
 朝食を摂りながらの会話が開始された。会話は活発となり、しばしば食事は忘れられた。  
シークは自身の経験を語り、リンクは過去の世界での成果を──一部は故意に省略したが──  
シークに告げた。かくて、第二の改変を経た世界の歴史が、二人の間で組み上げられていった……  
 
 ──ハイラル平原西方の王国軍は健闘を続けたものの、劣勢はいかんともしがたく、その勢力は  
徐々に弱まった。が、戦いの遷延は、結果的にゲルド族の主力を引きつけるという役割を果たす  
ことになり、カカリコ村を含む他地域は、当面、侵略を免れた。  
 しかしガノンドロフは状況を黙視しなかった。改変前の世界と同じく、反乱勃発後、約半年を  
経て──ただしこの世界では軍勢を投入せず単独で──ガノンドロフはゴロン族に襲いかかった。  
魔力により邪竜ヴァルバジアを復活させることで、デスマウンテンの大噴火を目論んだのである。  
もちろん『炎の賢者』であるダルニア抹殺も、目的に含まれていたはずだった。  
 目論見は失敗に終わった。噴火の兆候を感じ取ったダルニアは、すぐさま炎の神殿に身を投じた。  
その効果であろう、噴火は起こったものの、日頃の小噴火とあまり違いがない程度で、ゴロンシティは  
安泰だった。ダルニアが結界を張ったため、デスマウンテン一帯は、その後もガノンドロフの  
襲撃を受けず、いまに至るまで、ゴロン族は生存を続けている──  
 
「ちょっと待ってくれ」  
 ダルニアが期待に応えてくれたことを嬉しく思いながらも、リンクは疑問を投げかけずには  
いられなかった。  
「デスマウンテン頂上の炎は、どういうわけなんだ? 改変前と全然変わっていないみたいだ」  
「見かけは派手だけれども、大した実害はないんだ。ゴロン族が生活するのにほとんど影響は  
ないし、火山弾や火山灰がカカリコ村に降ってくることもない。炎が消えないのはヴァルバジアが  
活動しているからだが、ダルニアの力がそれを抑えているのさ。ただ、その力も……」  
 リンクの疑問に明解な答を返していたシークが、そこで顔を曇らせ、言いよどんだ。  
「……いや、細かい点はあとにしよう。とりあえずは歴史のまとめだ」  
 懸念ありげな様子が気にかかったが、リンクは敢えて妨げず、シークが続ける話に耳を傾けた……  
 
 ──賢者に下手な手出しをすると、かえって取り逃がすことになる、と、ダルニアの一件で  
悟ったらしく、以後のガノンドロフは、性急な賢者抹殺を控えるようになった。  
 ただ一度、軍事力を必要としないコキリの森への侵入を──これも改変前、および第一の  
改変後と同じく──反乱の一年ほどあとに、ガノンドロフは試みたのだが、第一の改変で生じた  
結果は、第二の改変でも踏襲された。すなわちサリアはいち早く森の神殿に身を隠し、ガノンドロフの  
魔の手から自らを守るとともに、コキリの森の焼亡を防いだのである──  
 
「もっとも、この顛末は、後年になって僕が森を訪れた時、コキリ族の話を盗み聞きして  
知ったんだがね。第一の改変後の世界と同様に」  
「ということは──」  
 リンクは思わず口をはさんだ。  
「この世界でもサリアは無事なんだね」  
「もちろん」  
 シークの顔に笑みが満ちた。  
「大人の君がサリアに賢者としての完全な覚醒をもたらした、という結果だって、変わっちゃいない。  
コキリの森の上空は、いまもきれいに晴れ渡っているよ」  
 リンクは安堵し、シークの次の言葉を待った……  
 
 ──これでますます慎重となったか、その後のガノンドロフの行動は、賢者を視野に入れない  
ものへと変化した。西に集中したのである。抵抗を続けていた王国軍は、コキリの森の一件ののち、  
日ならずして滅ぼされた。次いで平原西方へのゲルド族の移住が始まり、同地は、以後、改変前の  
世界と変わらぬ苛政に苦しんでいる。  
 対して平原東方は、緊張しつつも平和を維持した。ガノンドロフが西方の経営に専念していた  
ためであろうし、王国軍との戦いで軍事力が疲弊し、新たな侵略行動を起こせない、という事情も  
あったのだろう。あるいは失踪したゼルダの捜索に注力していたのかもしれない。とはいえ、  
この世界においても、ゼルダ発見の報が喧伝されたことはなく、その生存は確実と考えてよい──  
 
『当然!』  
 とリンクは心の中で叫んだ。懐に手をやり、ゼルダの耳飾りを握りしめる。  
 これがある限り、ゼルダの生存は動かせない決定事項だ。この耳飾りをゼルダの手に返す日を、  
ぼくは必ず迎えてやる!  
 胸を奮わせるリンクをよそに、シークの話はなおも続いた……  
 
 ──カカリコ村もまた、平和を享受していた。ことあらば、と心を決めていたインパも、そんな  
状況では闇の神殿に赴くまでもないとて、村での生活を続けていた。  
 反乱より三年後、変事が出来した。じっと牙を研いでいたガノンドロフは、軍を率いてひそかに  
カカリコ村へと迫り、いきなり奇襲をしかけてきたのである。  
 村は大混乱に陥った。長い平和が楽観を生み、警戒がおろそかになっていたのだ。守備隊や  
義勇兵は敢闘したが、衆寡敵せず、隊長以下、多くの兵が戦死した。  
 非戦闘員に関しては、万一の時のために、避難の方法がいくつか決められていた。  
 第一は結界で守られたデスマウンテンへの脱出であり、その際も、まず試みられたのは  
この方法だった。が、ガノンドロフはこれを読み、平原から登山道へと部隊の一部を迂回させ、  
退路を断った。登山道へ向かった人々は、一人残らず虐殺された。  
 第二の方法は、切り開かれた山道を通ってゾーラの里へ向かう、というものだった。ところが  
運の悪いことに、たまたま起こっていた崖崩れのため、山道は通行できなくなっており、ゾーラの  
里への脱出は不可能だった。  
 実現したのは第三の方法である。戦闘終了までに生き残った百数十人の村人が、王家の墓へと  
避難した。墓地の地下には他にも納骨堂や通路があったが、窮屈ではあっても多人数が身を  
隠せる点、飲用可能な温泉がある点で、王家の墓が最適とされたのだ。ただし露見したら全滅は  
避けられない。その点は覚悟しなければならなかった。  
 露見を防ぐには、少なくとも、石像を動かして入口を閉じる必要があった。その作業は地上で  
行わねばならず、従って従事者は王家の墓には入れないわけだった。決死の要員に名乗りを  
上げたのはダンペイである。墓守として当然の仕事と言い切ったダンペイは、全員が王家の墓に  
入ったあと、ひとり地上に残って穴を塞ぎ、突入してきたゲルド族に挑みかかって、壮絶な死を  
遂げたのだった。  
 ダンペイの死は報われた。無人となった村を、ゲルド族は奇妙に思ったに違いなく、家々は  
徹底的に荒らされた。しかし王家の墓は探索を免れた。一週間後、少数の駐留部隊のみを残して、  
益のないまま、ガノンドロフとゲルド族はカカリコ村を去った。  
 この間、インパは村にいなかった。親善の目的でゴロンシティを訪れていたのである。インパが  
指揮を執っておれば、村がこれほど容易に破れることはなかっただろう。その点は不幸と言えた。  
が、賢者としてのインパの身に危険が及ばなかったのは幸いだった。耐えて機を待っていた  
インパは、ゲルド族の主力が去ったあと、駐留部隊の目をかいくぐって王家の墓へと至り、  
村人たちに事後の策と方針を言い置いて、闇の神殿に姿を消した。  
 残された人々は、インパの指示に従って、駐留部隊に不意打ちをかけた。個々の戦闘力では  
劣っても、人数の点では圧倒的に優っていたので、部隊を打ちのめし、村から追い出すのは  
困難ではなかった。いったん村を出てしまえば、インパによる結界を通過できなくなるゲルド族である。  
その後の攻撃も無意味と知ったガノンドロフは、二度と軍勢を派遣しなかった。村は平和を  
取り戻し、それから四年が過ぎている──  
 
 カカリコ村をめぐるシークの話は、リンクに種々の感慨をもたらした。  
 ゲルド族襲撃の場にインパがおらず、村が蹂躙されてしまったのは、実に不運と言うほかない。  
だが、その後のインパの献身で、村の平和が保たれていることを、いまは喜ぶべきだろう。  
 防御陣地に人がいないのは、陣地に代わり、インパの結界が村を守護しているからだったのだ。  
 そして村人たちの命が救われたのは、ぼくとアンジュが過去の世界で、王家の墓に入る道を  
開いたからだ。  
 そのアンジュはどうなったのだろう。  
 疑問に駆られて口を開きかけたリンクだったが、それより早く、シークが話に新たな展開を  
加えた。  
「修行を終えた僕がカカリコ村に戻ったのは、駐留部隊を追い出して村が平和になった直後の頃だ。  
これまでの話は、村人や、よその地域の人々の話を聞いて、僕がまとめ上げたものさ」  
「そういえば……」  
 思い出した点をシークに訊ねる。  
「君はインパから、何か伝言を受け取ったかい? ぼくが過去で伝えた賢者の情報を、君に  
どうにかして知らせたい──と、インパは言っていたけれど……」  
「いや」  
 シークが首を横に振った。  
「インパは賢者の件を誰にも話していなかったし、書き残したものもなかった。秘密が漏れるのを  
防ぐためだろう。神殿に入る直前ともなれば、何らかの手段を講じるつもりだったのかもしれないが、  
いま言ったような状況では、それも無理だったのだと思う。とはいえ──」  
 そこでシークは身を乗り出し、にやりと笑った。  
「この世界の僕は、ずいぶん楽をさせてもらったよ」  
 すぐには意味がわからず、リンクは不審をもってシークを見返した。  
「僕がカカリコ村に着いた時点で、すでに三人の賢者が神殿に入っていたわけだ。改変前に  
比べたら段違いの進展ぶりさ。もちろん探索の旅は続けたが、かなり恵まれた状況だった、と、  
改変前の世界の記憶を得たいまでは実感できるね」  
「ああ、そうか……」  
 納得しつつも、口で言うほど楽なものではなかっただろうに──と思いやる。  
 何しろシークは、この七年間の記憶を三とおりも持っているのだ。合わせて二十一年分。重なる  
部分も多くはあるが、それにしても、何と高密度の人生であることか。  
「それにカカリコ村での僕は──これは君も覚えておいてくれたまえ──インパの息子という  
ことになっているから、扱いは悪くない。旅の合間に平和な村へと戻っては、じっくりと心身を  
休めさせてもらったものさ」  
 シークとカカリコ村の繋がりを考えたリンクは、再びアンジュのことを意識した。が、またもや  
シークは、リンクの機先を制し、話題を次に移した。  
「その後、僕が直面したのは、ルト姫の問題だった」  
 はっとする。  
 そうだ、ルトはどうなったのだろう。あの悲惨な運命を、ルトは回避できただろうか。  
 疑問への答となるシークの話に、リンクは、じっと聞き入った……  
 
 ──カカリコ村征服に失敗したガノンドロフの矛先は、次いでゾーラの里に向けられた。  
ゲルド軍が動いたと知ったカカリコ村は、しかしゾーラ族に軍事的援助を提供できなかった。  
先の戦闘で兵力をほとんど失っていたためである。ゴロン族は部隊を派遣してきたが、側面からの  
牽制以上の効果は望めなかった。ゾーラ族は果敢な抵抗を示したものの、長期的な見通しは暗いと  
言わざるを得なかった。  
 カカリコ村に戻ったばかりのシークは、インパの名代という立場で、復旧していた山道を通り、  
ゾーラの里を訪れた。そこでシークは、キングゾーラから意外な依頼を受けた。『水の賢者』で  
あるルトを、ハイリア湖にある水の神殿まで送り届けて欲しい──というのである。  
 ルトが賢者であると、シークはその時初めて知ったのだが、自分の使命に合致する依頼を断る  
いわれもなく、即時の出発を主張した。初め、ルトは拒絶した。すでに賢者の件を何度も  
キングゾーラに言い含められていながら、完全には覚悟ができていなかったのである。シークは  
真摯な説得を続け、ようやくルトを翻意させた。二人は『金のうろこ』を使い、地下水道を通って  
ハイリア湖に至った。そして最終的に、シークはルトが水の神殿に入るのを見届けた──  
 
「このあたりには複雑ないきさつがあって、いますべてを話している余裕はないが、ルト姫を  
説得するのは大変だったよ。自分だけが逃げるわけにはいかない、一族と運命をともにする──と  
頑固に主張してね。あまりに聞き分けがないものだから、僕もかっとなって、激しい口論を  
やらかしてしまった」  
 あのルトなら、さもあろう──と、リンクは微笑ましい気持ちになった。  
「けれども、さすがに王女だ。賢者としてあればこそ一族を救うことができる──と最後には  
得心して、従容と運命に身をゆだねたよ」  
 厳粛な面持ちで言葉を切ったシークは、次いで眉根を寄せ、低い声であとを続けた。  
「ただ、ゾーラ族は無事ではすまなかった」  
「何があったんだ?」  
 急きこんで訊ねるリンクに向け、シークは続けて説明を始めた……  
 
 ──ルトから譲り受けた『金のうろこ』を用い、ゾーラの里へ向けて地下水道を泳ぎ進んだ  
シークだったが、水温と水流速度の低下に気づき、危険を感じてハイリア湖へ引き返した。徒歩で  
ハイラル平原を横切り、ゾーラの里を再訪したシークは、愕然となった。里は完全に氷結していた  
のである。改変前の世界と全く変わらない、それは悲劇的な結末だった。  
 経緯はこうであろう。ルトとシークが里を脱出した直後、里はガノンドロフに襲撃された。  
ルトが水の神殿に入ることにより、ハイリア湖とゾーラの里の周囲には結界が張られたはずだが  
──事実、それ以降、ハイリア湖はゲルド族の侵入を許していない──ゾーラの里の方は、結界が  
張られる寸前に攻撃を受けてしまったのだ。  
 実にきわどいところで、ルトの身は助かった。しかしゾーラ族を救うには、紙一重の差で時間が  
足らなかった──  
 
「だが希望がなくなったわけじゃない」  
 心を沈ませるリンクに、シークの声がかぶさった。力強い声だった。  
「ルト姫が賢者として完全に覚醒すれば、ゾーラの里にも変化が起こるだろう。空の暗雲を払う  
ほどの力が、賢者にはあるのだから」  
 そのためにはぼくが──と励みを感じ、  
「うん」  
 リンクは決意を胸に燃やした。  
 
「──こうして、六人の賢者のうち四人までが、首尾よく各々の神殿に身を収める結果となった  
わけだが……」  
 シークの声が深刻な色を帯びた。  
「問題は、残る二人の賢者だ」  
 それはリンクも大いに気になる点だった。  
 巨大邪神像から逃走したケポラ・ゲボラとナボール。彼らはいったいどうなったのか。  
ツインローバの追跡を振り切ることができたのか。  
「君は何か情報を持っていないのかい?」  
 リンクの問いに、シークは厳しい表情で首を横に振った。  
「ナボールについては、何もない」  
 
 ──西方への挑戦のいきさつは、改変前の世界と同じである。ゲルド族の支配領域に潜入した  
シークは、平原西端の町でゲルド族に捕まり、『副官』の奴隷となった。のちに『副官』と  
意気投合し、『幻影の砂漠』を目指してひとり旅立ったが、ゲルドの谷でツインローバに妨害され、  
以後は潜入を果たせていない。『副官』の境遇やゲルド社会の状態も、改変前の世界と大同小異で  
ある──  
 
「じゃあケポラ・ゲボラについてはどうなんだ? 改変前の世界では、君はケポラ・ゲボラに  
会っていたね」  
「それも同様だ」  
 
 ──コキリの森を訪れた際、シークはケポラ・ゲボラに会っていた。改変前の世界との違いは、  
出会いの地である『森の聖域』が、火難を受けず森厳な美しさをとどめていた点のみであり、  
会話の内容はほとんど変わらなかった。ケポラ・ゲボラは、神殿の扉を開くメロディがゴシップ  
ストーンから得られることを示唆してくれたが、他には思わせぶりなことを言うだけで、具体的な  
指針は何も示してくれなかった──  
 
 ケポラ・ゲボラが無事であったという知らせは、ひとまずリンクを安堵させた。が、  
「変だな」  
 シークの話には納得のいかない点もあった  
「ケポラ・ゲボラはナボールのことを君に言わなかったのかい? いや、それだけじゃない。  
ぼくは過去の世界で、賢者のことも、使命のことも、ぼくが時を越えて旅していることも、  
一切合財ケポラ・ゲボラに話したんだ。君に何か教えてくれてもよさそうなものなのに……」  
「僕に余計な知識を与えまいとしたんだろう」  
「余計──だって?」  
 理解不能の内容は、シークの次のひと言で解明された。  
「ツインローバだ」  
「あ──」  
「もし種々の知識を持った僕が、ツインローバに心を読まれたら──実際、僕は一度ツインローバに  
会っているわけで──何もかもがばれてしまう。ケポラ・ゲボラには何か考えがある、と僕は  
前から思っていたが、なかなかどうして慎重だよ、彼は」  
 いまにしてリンクも思い当たった。  
 ケポラ・ゲボラがラウル覚醒についてぼくに何も教えなかったのは、そのためだったのか。  
ぼくがツインローバに心を読まれる事態を考慮して。  
 ケポラ・ゲボラばかりではない。インパもだ。  
 ツインローバが人の心を読むことを、ぼくはインパに話した。それゆえインパはゼルダの居所を  
ぼくに知らせなかったのだ。  
「おそらく──」  
 シークが言葉を続ける。  
「──ナボールはケポラ・ゲボラによって、どこかにかくまわれている。ケポラ・ゲボラも身を  
隠しているに違いない。彼らに会う機会は、この先、必ず来る。だから……」  
 ひたと視線を据えてくるシーク。赤い瞳に固い意志をみなぎらせて。  
「時を待とう」  
 負けじと視線に力をこめ、リンクは深く頷いた。  
 
「──で、今後の活動についてだが……」  
 話を進めようとするシークに、リンクは気ぜわしく提議した。  
「手近な所からいこう。闇の神殿なら目と鼻の先だ」  
「いや」  
 シークがさえぎった。  
「優先すべき場所が他にある」  
「どこ?」  
「炎の神殿だ」  
「理由は?」  
「かつてのコキリの森と同様のことが、いまのデスマウンテンにも起こっている」  
「というと?」  
「ガノンドロフは賢者抹殺を諦めてはいない。ダルニアの力がヴァルバジアを抑えている──と、  
さっきは言ったが、ガノンドロフの魔力の影響が、最近は強まっているようで、地震や噴火の  
規模が少しずつ大きくなってきている。ゴロンシティにも被害が出始めているんだ。登山道には  
魔物が出没しているし、神殿内にも送りこまれているとしたら、ダルニアが危い。幸い、いまの  
ところ、カカリコ村には問題はないから、闇の神殿は後まわしでいい」  
「わかった。じゃあデスマウンテンに行くよ」  
「そこで、このメロディだ」  
 シークは竪琴を構え、リンクが初めて聴く旋律を奏で始めた。ゆったりとした、しかし  
規則正しい堅固なリズムを感じさせるその曲を、シークは『炎のボレロ』と呼んだ。リンクは  
『時のオカリナ』でメロディを奏し、しっかりと頭に記憶させた。  
 どこでこのメロディを得たのか、と訊くと、案の定、デスマウンテン火口内の崖に立つゴシップ  
ストーンから、という答が返ってきた。  
「君もあそこへ行ったんだね。ものすごく暑かっただろう」  
 自らの経験を思い出し、リンクは苦笑しつつ言った。シークも苦笑で応じた。  
「筆舌に尽くしがたい暑さだった。ゴシップストーンが火口の入口近くにあって助かったよ。だが、  
これからあそこへ行く君の方が、もっと大変だぞ。神殿は火口のずっと奥にあるようだから」  
「それについては当てがあるんだ」  
 リンクは大妖精について説明した。シークはデスマウンテン頂上の泉を訪れてはいたが、  
『時のオカリナ』を持たないため、大妖精の存在を知らなかったのである。興味深そうに  
聞いていたシークは、話し終えたリンクの肩を叩き、  
「大妖精までが助けてくれるのなら、見通しは明るいな。頑張ってくれ」  
 と言って、腰を浮かせかけた。  
「ちょっと──」  
 会談は終了──と言わんばかりのシークの態度に衝動を呼び起こされ、覚えずリンクは声を  
出していた。  
「アンジュは?」  
 
 シークが凝固した。  
 浮かせかけた腰が止まった。目の動きが止まった。身体全体の動きが止まった。呼吸すら  
止まったように見え、周囲の空気までが固まったような気がした。  
 一瞬ののち、シークは再び地面に腰を下ろした。けれども、その一瞬が、リンクには、恐ろしい  
ほどの空白と感じられた。  
「アンジュは……」  
 呟くように、シークは言った。  
「幸せになったよ」  
 その顔に、感情は浮かんでいなかった。それがなおさら、異常に思えた。  
「ありがとう」  
 シークの言葉が、胸を刺す。  
 過去へ旅立つ前、シークはぼくに言った。  
『アンジュを幸せにしてやってくれ』  
 ぼくは過去の世界でアンジュと接触し、結果、シークの望みはかなえられた。そのことへの  
感謝を、いま、シークはぼくに述べたのだ。  
 実に自然な、淡々とした流れだ。  
 淡々としすぎている。  
 シークはぼくに対して含むところがある──とは、全く思わない。それは出発前の会話で  
わかっている。シークは純粋にアンジュの幸せを願っていた。その願いをぼくに託したのも  
シークの純粋な意図だった、と、ぼくは確信している。  
 ならば、シークの、この反応は──いや、反応のなさは──何によるのか。  
 さっきまでのシークとの会話で、アンジュが話題に出たのは、一回きりだ。過去での体験を  
語る中で、ぼくはアンジュに関して、なすべきことをなした、とだけ言い、シークは無言で頷いた。  
それだけだ。シークの方はアンジュの名を一度も出さなかった。当然、出していいはずの、  
カカリコ村の話をしている時ですら。  
 忘れていたとは思えない。そんなはずはない。シークは意図的に出さなかったのだ。  
 なぜ?  
 わかるような気がする。  
 アンジュがいかなる幸せを得たのか。それはシークにとって──  
「反乱勃発から二年後──」  
 唐突にシークがしゃべり始めた。ふだんと変わらない冷静な声だった。  
「──アンジュは結婚した」  
 結婚!  
 そういうことだったのか……  
「相手は村の青年だ。養鶏を営んでいて、裕福だし、人柄もいい。夫として、これ以上は望めない、  
と言ってもいいほどの人だと思う」  
 養鶏。七年前のアンジュはコッコを飼っていた。その縁でもあるだろうか。いずれにしても  
素晴らしい結婚相手。  
「カカリコ村がゲルド族に襲われた時、アンジュも王家の墓に避難した。夫や両親も一緒にだ。  
それで助かった」  
 つまり、アンジュの未来を変えたのは、やはりぼくとの交わりだったのだ。それによって  
王家の墓への道が開き、のちにそこへ避難して、敗戦に伴う悲劇を避けられたのだから。  
「その後、平和になった村で、アンジュは夫と仲睦まじく暮らしている。もうすぐ子供が  
生まれるよ」  
 子供! アンジュに!  
 改変前の世界では、娼婦として、ひとり、寂しく、哀しく、生きなければならなかったアンジュ。  
そのアンジュが、この世界では、きらきらと輝かんばかりの幸福な生活を……  
 よかった──と、心から思う。  
 が……その代わりに……シークとアンジュの関係は……  
 
「僕がカカリコ村に戻った時には──」  
 リンクの思いを酌み取るように、シークが言葉を継いだ。  
「──アンジュは、すでに結婚していて、新居に住んでいた。しかし以前からの知り合いという  
縁で、村を訪れる際、僕はいつも、アンジュの実家である大工の親方の家に泊めてもらっている。  
家族同然のつき合いというやつさ。アンジュは僕のことを、弟みたいなものだ、と、いつも  
言っているよ」  
 同じ表現を、改変前の世界のアンジュは、ぼくについても使っていた。アンジュの発想の  
傾向なのかもしれない。ただ、その意味するところは、微妙に──いや、かなりの程度に──  
異なっているのだけれど……  
「アンジュに会うか?」  
 シークが訊いてくる。過去へ旅立つ前、シークは同様の質問をぼくに放った。  
「いや、これからすぐ、デスマウンテンに登るよ」  
 ぼくも同様の答を返す。同様の慮りを胸にして。  
 シークは、つと身を立たせた。今度こそ話は終わり──という意思が感じられた。  
「僕は村で待っている。灼熱の火口へ一緒には行けないからな。その代わり、エポナのことは  
任せてくれ」  
「頼む」  
 立ち上がり、手綱を渡す。もうシークに馴れているエポナは、全く抵抗しなかった。  
 シークはエポナを牽き、リンクの先に立って、石段の下まで進んだ。そこで立ち止まった。  
「エポナは村に入れない方がいいな」  
「なぜ?」  
「うむ……いまの村は、けっこう賑やかでね。エポナが興奮するかもしれない」  
「君は?」  
「エポナと一緒にいる。だが、君を見送る間は、ここに置いておこう」  
 シークは傍らの木に手綱を繋ぎ、石段を登り始めた。エポナの背を軽く叩き、別れを告げて  
おいてから、リンクもシークのあとを追った。  
 
 村は確かに賑やかだった。以前に比べて人口は増えており、多くの人々が通りを行き交っていた。  
また通りに面して、前には存在しなかった、いくつもの商店が並んでいた。中には城下町で  
見たのと同じような店もあり、そこから脱出してきた人が開いたものと思われた。奥に建つ風車は  
緩やかな回転を繰り返し、それがどうにか以前のカカリコ村の印象をとどめているものの、  
かつての落ち着いた雰囲気はなくなってしまっていた。が、それは決して悲観を誘うものではなく、  
むしろ、いくら暗雲が空を支配しようとも前向きに生きようという人々の活気が反映された状態と  
感じられ、リンクを力づけるのだった。  
 しかしながら──とリンクは奇妙に思う。  
 賑やかではあるが、七年前の城下町に比べたら、おとなしいものだ。エポナが興奮するほどでも  
ないだろう。シークは神経質すぎるんじゃないか。  
 疑問を呈そうにも、すいすいと歩みを進めるシークを呼び止める機会がつかめない。  
 大したことでもない──と割り切って、シークの後ろについて行く。登山口に着く。シークは  
食料を渡してくれ、次いで、忠告を口にした。  
「さっきも言ったように、登山道には魔物が出る。赤テクタイトという、蜘蛛と蟹の中間のような  
節足動物だ。強力な敵ではないが、気をつけるんだ」  
 リンクは頷いた。  
 赤テクタイトは、みずうみ博士の図鑑で見た覚えがある。対応はできる。  
「では、吉報を待っている」  
「任せてくれ」  
 軽く片手を上げてシークの激励に応え、デスマウンテンをふり仰ぎ、リンクは登山道を進み始めた。  
 
 リンクの姿が視界から去ったのを機に、シークは登山口を離れた。通りに入り、人の間を縫って、  
村の出口を目指す。その途中、  
「シーク!」  
 後ろから声をかけられた。誰であるかは、見なくともわかった。  
 ふり返る。  
 突き出た腹を揺らしながら、アンジュがのしのしと近づいてくる。手に買い物籠をぶら下げて。  
「いいのかい? 出歩いたりして」  
 からかうように言ってやると、アンジュは眉を聳やかし、けれども口元には笑みをとどめ、  
意気軒昂な台詞を吐く。  
「これくらい何ともないわよ。生まれるのは、もうちょっと先なんだし」  
「強いね」  
「ええ、母は強くなくちゃ」  
 笑みが満面に広がる。朗らかな声が続けられる。  
「今晩もご馳走を作りに行ってあげるわ。期待しててね」  
「いや、今夜は親方の家には泊まらない」  
 笑みが消える。怪訝そうな表情。  
「どうして? まだ村にはしばらくいるんでしょう?」  
「ああ」  
 間を長引かせないよう、急いで言う。  
「知り合いに馬の世話を頼まれたんだ。平原で野営するよ」  
「そう……」  
 怪訝な表情は変わらない。村には馬を預かる施設がある。なぜそこを使わないのか──と  
不思議に思っているのだろう。  
 それも束の間。再び表情に笑みを戻し、  
「なら、また今度ね。家に泊まる時は、わたしに言うのよ」  
 優しく命じるアンジュ。あたかも『姉』のごとく。  
「うん、そうする」  
 従順に答える僕。あたかも『弟』のごとく。  
「じゃあね」  
 アンジュが片手を軽く振る。背を向ける。のしのし歩きで去ってゆく。  
 見やりつつ、おのれの心を洗い出す。  
 咄嗟のこととはいえ、なぜ「知り合い」などと言ってしまったのか。アンジュとリンクは  
旧知の仲だ。リンクの名前を出してもかまわないではないか。むしろ出すべきではないか。  
 その理由。  
 アンジュは僕との思い出を持っていない。だがリンクとの思い出は持っている。  
 その思い出をアンジュに想起させたくなかったと? 僕とアンジュが思い出を共有できない  
からといって?  
 自分から「アンジュに会うか?」とリンクに訊ねた僕が……  
 いや、あれは……あの時のように、リンクが断ることを期待した上での……  
 
『いまさら……』  
 抑えていたはずの想いが湧き上がる。  
 エポナのことも然りだ。なぜ僕はエポナを村の施設に預けないのか。なぜ平原で野営しようと  
しているのか。まるで親方の家を避けるかのように。  
 避ける?  
 まさにそのとおり!  
 結婚して親方の家を出る時、アンジュはベッドを残していった。僕が泊まる時は、いつも  
そのベッドを使わせてもらっていた。僕は何とも思わなかった。何の感想も持たなかった。  
 きのうまでは!  
 ゆうべ、僕はそのベッドに身を横たえて、しかし一睡もできなかった。ほんの数時間前まで、  
僕とアンジュがそこで何をしていたか。それを思うと、とても眠れたものではなかった。僕が  
そのベッドで寝ることは、二度と再びないだろう。そう、二度と!  
『いや!』  
 強烈な意志をもって、感情をねじ伏せる。  
 そうではない。僕があるべき姿は、そうではない。  
 いかなる動揺もなく、あのベッドで──ああ、せめて「いずれは」と断らせて欲しい──  
眠れるようになれ。  
 僕はそうあらねばならないのだ。  
 ねじ伏せられる感情が、最後の主張を申し立てる。  
 世界が統合される直前に、僕が抱いていた、あの想い。  
『アンジュのために、僕はすべてを投げ打とう』  
 あの限りなく真摯な想いは、くっきりと心に残っている。  
 が……  
 あれは所詮、一時の空想に過ぎなかった。はかない望みに過ぎなかった。  
 そう思わなければならない。  
 アンジュは幸せを得たのだから。境遇も、健康も、愛情も、何もかもが満たされた、この上ない  
幸せを得たのだから。  
 アンジュにとって、あるべき愛が美しく成就し、知らざる愛がひそかに消えた。  
 そういうことなのだ。  
 
 遠ざかるアンジュの後ろ姿が、人混みの中に消えていった。残像を追うがごとく、なおも  
しばらく立ちつくしたのち、シークは踵を返し、村の出口へと歩を運んだ。平原に続く石段を  
下りつつ、感情の埋み火を消し去らんとし、シークは胸の内で、意志の諭しを静かに繰り返していた。  
 
 ただそれだけのことなのだ──と。  
 
 
To be continued.  
 
 

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