インパに賢者としての覚醒をもたらすべく、闇の神殿を目指して墓地へと向かうリンクを 
見送ったのち、シークは再び井戸に注意を集中させた。 
 魔物の気配は感じられない。 
 しばらく待っても状態は変わらなかった。 
 当面はよし──と判断し、手近な火災現場に走る。火は勢いを弱めてはいなかったが、 
その頃には村人たちの消火活動も軌道に乗っており、自分が手を出さなくとも対応は可能と 
思われた。 
 シークは現場のすぐ近くにあるアンジュの家へ赴いた。夫と二人で暮らしている新居の方である。 
 誰もいなかった。 
 延焼を警戒して避難したのだろう。とりあえずは安心……だが…… 
 出産を控えたアンジュの身が気にかかる。 
 避難するとすれば、炎から離れている実家──大工の親方の家か。 
 シークは急いだ。 
 家のそばまで行って、足は止まった。灯火は見えなかった。 
 考えてみれば当然だ。親方も、妻である薬屋の婆さんも、カカリコ村きっての世話好き。 
真っ先に火災現場へ駆けつけ、消火なり、人々の救助なりに尽力しているだろう。そんな無人の 
家にアンジュだけが残っているはずもない。夫とともに、その実家へでも行ったに違いない。 
 そう、アンジュには夫がいる。僕が走りまわる必要など、ありはしないのだ。 
 力の抜けた身体を引きずるようにして、裏手の庭へと歩み入る。 
 これは単にアンジュの身を案じた上での行為に過ぎないのだ──と自分に言い聞かせる。しかし 
それでは治まらない感情の存在を、シークは自覚せざるを得なかった。 
 くすぶる想いを抱いて、勝手口の前に立つ。 
 改変前の世界で、僕は村を訪れるたびここに身を置き、胸を高鳴らせて戸を叩いたものだ。 
ちょうどこのように── 
 続けて二回。間をあけて一回。そして再び間をあけて二回。僕だとわかる、二人だけの合図。 
「ちょっと待ってて、シーク! すぐ行くから!」 
 家の中で声がした。 
 ここにいたのか──と驚く一方で、必然的に疑問が湧く。その疑問を詳しく吟味する暇もなく、 
戸は開かれた。 
 暗い室内を背にし、燭台を持って立つアンジュの姿。 
「ちょうどよかったわ、手伝って──」 
「どうしてわかった?」 
 早口で言いかけるアンジュを阻む。自分でもびっくりするくらいの荒い声で。 
「え?」 
「戸を叩いたのが僕だと、どうしてわかったんだ?」 
 虚を突かれたような表情となるアンジュ。 
「……さあ……そう思ったのよ、何となく」 
 ほんとうに認識できていない様子だった。 
 次の言葉を思いつけずにいるうち、アンジュが切迫した態度に戻り、声を投げつけてきた。 
「そんなことはいいから手伝ってちょうだい。焼け出された人たちに食べるものや着るものを 
持っていってあげなくちゃ」 
 アンジュは返事も待たず、よたよたと台所の奥に進んでゆく。あとに従いながら、 
「無理しちゃだめだ」 
 強く言っても、 
「大丈夫よ。それにわたしができることといったら、これくらいしかないんだもの」 
 聞く耳を持たない。 
「でもいまは身体のことを一番に考えて──」 
「いま一番に考えなくちゃならないのは火事のことよ。さあ──」 
 ふり返ったアンジュが、 
「これ持ってて」 
 燭台を押しつけてきた。しかたなく受け取る。 
 アンジュは台所の隅にしゃがみこみ、置いてあったパンや野菜を籠に放りこみ始めた。部屋の 
灯りくらいつければよさそうなものだが、そうする暇さえ惜しいのだろう──と考えながら、 
燭台の灯で照らしてやる。 
「うッ……」 
 突然、アンジュが動きを止め、呻きを漏らした。 
 あわてて燭台を近づける。床が濡れていた。アンジュの股間から液体が流れ出しているのだ。 
『破水!』 
 抱きかかえる。元のアンジュの部屋へと運び、ベッドに寝かせる。 
「人を呼んでくる!」 
 叫ぶが早いか部屋を飛び出す。勝手口から戸外へと走り出る。 
 夜道を駆けながら、シークはこの事態が持つさまざまな意味を噛みしめた。とともに頭の中では、 
アンジュに発した問いへの答が徐々に形をなし始めていた。  
 
 王家の墓から地上に戻ったリンクを待っていたのは、抜けるような青空と、まぶしい日の光だった。 
ダルニアがデスマウンテンの大噴火を防いでくれたおかげで、改変前の世界のような鬱陶しい 
火山灰の飛来を、すでにカカリコ村は免れていた。加えてインパの覚醒が、よりいっそうの明るみを、 
いま、村にもたらしたのである。その順調な状況変化を、リンクは喜ばしく思った。 
 墓地を出かかったところで、村の方から歩いてくるシークに行き会った。シークはリンクを 
認めると、軽い笑みを浮かべながら近づいて来、ちらりと視線を上に向け、静かな声で言った。 
「この空の様子で、そろそろ君が戻る頃だと思っていた」 
 淡々とした口調でありながら、その裏には深いねぎらいの意が感じられ、リンクの心は安らぎを 
得た。 
 火事のことが気になっていたが、シークの話では、明け方までにすべての火が消し止められた、 
とのことだった。住居を失った人は二十数人に及んだものの、死者はなく、被害は最小限に 
抑えられたといってよい状況だった。リンクは胸をなでおろした。 
 シークは食料を持参していた。カンテラと縄梯子をダンペイの小屋に戻すついでに、そこで 
食事を摂ることとした。小屋の内装は粗末だったが、二人がすわって休むくらいは充分に可能だった。 
 食べる間、リンクは闇の神殿攻略の経緯を語った。インパとの強い縁を持つシークにとっては 
感慨深い内容のはずだったが、シークは時に頷きを入れるだけで、ずっと聞き手に徹していた。 
 その口が開かれたのは、リンクの話に区切りがつき、二人の間に、ふと沈黙が落ちた時の 
ことである。 
「君に知らせておこう」 
 重大発表とでも言いたげなシークの態度に、リンクは少しく緊張した。 
「何だい?」 
「ゆうべ、アンジュに子供が生まれた」 
 言葉が出なかった。予想外の知らせだった。 
「火事騒ぎで心身に変調が生じたんだろう、急に陣痛が始まったんだ。それでも出産は無事に 
すんだ。やや早産ではあるが、母子ともに健康だよ」 
「そうか……」 
 出産なる行為がいかにしてなされるものなのかは見当もつかなかったが、一つの命がこの世に 
生み出されたという事実、そしてそれが他ならぬアンジュによってなされたという事実は、 
リンクに多大な感銘を与えた。 
 ただ、続くシークの言葉は、感銘を感銘のままにとどめてはおかなかった。 
「アンジュに会ってやりたまえ」 
 奇異に思った。 
 似たようなことを、かつてシークに言われたことがある。だがその時のシークは、「会うか?」 
と疑問形で訊いてきた。暗にぼくが断るのを期待するかのごとく。なのに、いまは「会って 
やりたまえ」とぼくに勧めて……半ば命じるふうに…… 
「いま、アンジュは大変なんじゃ……?」 
 避けるようなことを言ってしまう。いや、アンジュに会いたくないわけじゃなく── 
「身体のことなら大丈夫だ。アンジュは元気だよ」 
 ──むしろこの世界で幸せになったアンジュに会ってみたいと、その幸せなさまを確かめて 
みたいとぼくは思うのだけれど── 
「……でも……ぼくは過去でアンジュと……ああいうことになっていて……」 
 ──ぼくがアンジュと会うことで、アンジュの幸せになにがしかの影響が及ぶとしたら── 
「過去は過去だ。アンジュもわかっているはずだ。君がいまのアンジュを心から祝福して 
やれるのなら、何も問題はない」 
 ──そうなのか。だとしたらぼくも納得できる。しかし気になるのはそこだけじゃなく── 
「……君は? ぼくがアンジュに会っても、君は──」 
「僕のことはいい」 
 シークがさえぎる。 
 ややあって、ぽつりと言葉が置かれた。 
「もう終わったんだ」  
 
 そう、終わったのだ──と、シークは自らの言を心の中で繰り返した。 
 アンジュの出産。 
 いずれ起こることとわかってはいたものの、実際にそれが起こることで──アンジュと夫が 
培ってきた幸福の結晶を目の当たりにすることで──僕の想いは決着した。強制の結果ではなく、 
自然に達した結論だ。リンクにアンジュと会うよう勧めたのは、以前、二人の再会を妨げて 
しまったことの埋め合わせでもあるが、二人が互いの現在を知り、認め合うならば、僕自身にも 
アンジュとの関係の決着を重ねて徹底させられると思ったからだ。 
 ただ、徹底させるには、僕の心の決着だけではすまないかもしれない。それはアンジュが── 
「君がそう言うなら──」 
 リンクの声が意識を引き戻した。 
「──会ってみるよ」 
 黙って頷く。 
 続けてリンクが訊いてきた。 
「気になっていたんだけれど、君の、その竪琴……改変前の世界では、アンジュから貰ったと 
言っていたね。この世界でもそうなのかい?」 
「いや……」 
 傍らに置いた竪琴に目をやりながら、説明する。 
 三年間の修行を終えてカカリコ村に帰ったシークは、城下町から脱出してきた商人が開いた 
「なンでもや」という雑貨屋で、その竪琴と巡り会った。元はゲルド族が反乱の際にハイラル城の 
宝物庫から持ち出したものである、という店の主人の触れこみを、シークは全く信じなかったが、 
かなりの額をふっかけられたにもかかわらずそれを購ったのは、改変前の世界でアンジュの家に 
あった竪琴を見た時と同じ、「自分にとって重要なものだという不思議な感覚」が湧いたため 
だった。実際、持ってみるとそれはなぜか身体にしっくりと馴染むし、神殿の扉を開くメロディを 
得る時に不可欠な品ともなった。 
「経路こそ違え、同じ竪琴を入手する結果となったのは、これと僕との間に何らかの縁があるから 
──ということなんだろう」 
 そう締めくくりながら、シークの胸中には、別の感慨も漂っていた。 
 僕とアンジュの、いわば絆であった竪琴を、この改変後の世界で、僕はアンジュを介さず 
手に入れた。それはすなわち二人の絆の断絶を象徴している、と言わねばならない……  
 
 アンジュの急変を、シークはその母親である薬屋の婆さんに知らせた。婆さんは家に飛んで帰り、 
他の女手も加わって、分娩の準備があわただしく調えられた。 
 夜半を過ぎて間もなく、新しい命が誕生した。 
 消火活動から手を離せなかった男たちの中で、周囲の強い勧めにより一足早く駆けつけた 
アンジュの夫だけは、出産の場に立ち合うことができた。責任感の強い親方は現場を離れず、 
完全な鎮火を待った上で、やっと明け方に帰宅し、初孫を抱いて相好を崩したのだった。 
 その頃には、アンジュの夫の身内も含め、たくさんの人々が祝いを述べにやって来ていた。 
分娩中、事あらばと待機していたシークは、そうした来客への対応を引き受け、朝のうち忙しく 
立ち働いた。日が高くなってからようやく暇を見つけ、リンクを迎えに墓地へと赴いたのである。 
 親方の家に着いた時には、多かった客もすでにみな引き取っており、あたりは落ち着いた 
雰囲気に戻っていた。シークはリンクの先に立って庭に入り、 
「様子を見てくる」 
 と告げて、勝手口に向かった。 
 あけようとした戸は、目の前で先に開かれた。開いたのは赤ん坊を抱いたアンジュである。 
「起きていいのかい?」 
 思わず問うと、 
「子供を産んだあとでもちょっとは動いた方がいいって、お母さんが言うのよ。寝てばかりだと 
かえってよくないんですって。それに……」 
 アンジュは穏やかな調子で答え、目を上に向けた。 
「久しぶりに……ほんとうに久しぶりに空が晴れたんだもの。外に出てみたくなるのは当然でしょ」 
 目が抱いている赤ん坊に移る。 
「この子にもお日様の光を知って欲しいし……」 
 ほのぼのと胸が温まる。そんな自分に満足しながら、シークは横に身を寄せた。 
「その光を取り戻してくれた人を連れてきたよ」 
 初めてアンジュがそちらを見た。ぎこちない笑みを浮かべて立つその人物を、不思議そうに 
眺めるうち、 
「……リンク……?」 
 表情が驚きに染められてゆく。 
「リンクね? まあ、こんなに……大きくなって……」 
 懐かしさをこめた喜びが、驚きを凌駕して顔に満ちる。と、そこに疑念の色がかぶさり、 
「光を取り戻したのがリンクって……」 
 視線の先が、シークに、リンクに、空にと忙しく移動した末、再び驚きと── 
「そういう……ことだったの……」 
 ──そして喜びを、アンジュの顔はあらわにする。 
「おめでとう」 
 歩を寄せるリンクが、笑みを保って口を開く。 
「子供が生まれたって聞いて、お祝いを言いに来たんだ」 
「ありがとう……」 
 応じるアンジュの声と素振りに、 
「ありがとう、リンク」 
 言葉のままの純粋な思いを感じ取り、シークは胸を安んじさせた。  
 
「お茶を入れるわ」 
 台所に戻りかけるアンジュを、 
「僕がやるよ」 
 と押しとどめ、赤ん坊ごと庭のベンチにすわらせたシークは、リンクに目配せしたのち、 
勝手口をくぐって家の中に消えた。リンクはその意を悟り、アンジュの隣にすわった。 
 すぐアンジュが話しかけてきた。 
「神殿に行ってたのね」 
「うん……」 
「これで村も暮らしやすくなるわ。リンクには何度お礼を言っても言い足りないくらい」 
「いや、実は……空が晴れたのは、ぼくの力じゃないんだよ」 
「知ってるわ、インパ様でしょ。でもインパ様がその力を持てたのだって、リンクがいたから 
こそじゃない」 
「それはそうなんだけれど、他にも……シークがいなかったら、ぼくは何もできなかった 
だろうし……」 
「そう……シークは自分のことをあまり話してくれないのよ。だからわたしは詳しい事情を 
知らないの」 
 と言いながら、神殿や賢者に関する知識を、アンジュはあらかた有しているようだった。 
 別に意外なことでもない。 
 王家の墓の件は口外しないように──と、以前、リンクはアンジュに頼んだのだったが、のちに 
インパとともにそこを訪れ、闇の神殿を発見するに至って、口止めの意味はなくなっていた。 
その後、王家の墓や闇の神殿の存在は、村人全員の共有知識となった。神殿に入ったインパが 
『闇の賢者』として村を守護する存在となったことも、また同様である。村人たちが知らないのは、 
賢者を覚醒させる役割を持つのがリンクであるという点だったが、アンジュだけはそれを 
知っていた。七年前、リンク自身がアンジュに語っていたからだ。 
 その会話のあとに何が起こったかが鮮明に思い出され、リンクはあわてて話題を変えた。 
「赤ちゃん……男の子なの? 女の子なの?」 
「あら、見てわからない?」 
 いかにもおかしそうな表情となって、アンジュが抱いていた赤ん坊の顔をこちらに近づけてきた。 
 正直、わからない。言っては悪いから言わないが、性別がわからないどころか、人とは別の 
生き物のようにさえ見えてしまう。赤ん坊の顔とはこうしたものなんだろうか。 
「男の子よ。あの人に──父親に似てるってみんな言うけど、わたしもそう思うわ」 
 アンジュが赤ん坊に微笑みかける。 
 紛れもない幸福の色が、そこにはありありと見てとれた。 
 赤ん坊の方は勝手なもので、アンジュの意も酌み取らず、ぐずぐずとむずかり始めた。が、 
アンジュは動じるふうもなく、 
「よしよし、おなかがすいたのね」 
 胸をはだけ、片側の乳房を露出させた。赤ん坊は乳首に吸いつき、一心に口を動かし出す。 
 不思議に色情は誘われなかった。かつての自分の行為を想起させる光景であるにもかかわらず、 
である。授乳期にあるアンジュの乳房は、前よりもはるかに大きく張っていたが、それも新鮮な 
印象でこそあれ、欲望の対象とはならなかった。 
 実に自然な、母と子のありようだった。 
 これなのか──とリンクは思う。 
 性的な存在としての女性を、ぼくに初めて意識させたのは、子供の時に見たゼルダの夢だが、 
現実的な体験は、アンジュが裸の胸を見せてくれた時のものが最初だった。ぼくが女性の胸に 
惹かれるのは、きっかけがそんな具合だったから、と言えなくもない。 
 けれど、いま、子供に乳をやるアンジュを見ていると…… 
 ぼくは無意識に母というものを追い求めていたのではないか──と思われてくる。 
 母の記憶を持たないぼく。しかし生まれてすぐの頃は、ぼくも母の胸に口をつけて乳を吸った 
はずなのだ。心の奥に隠し残されていた母との触れ合いの記憶を、ぼくは女性と接する際、 
知らず知らずのうちになぞっていたのではないだろうか。インパの胸を特に意識したのも、 
彼女がちょうどぼくの母親くらいの年齢にあたっていたせいかもしれない。 
 思いを浮遊させるリンクの前で、アンジュは授乳を続けていた。リンクが眺めているのを 
気にもかけていない様子だった。それでも全く無頓着でいたのではないことを、やがてリンクは 
知ることとなった。満腹となった赤ん坊を胸から離し、服を整えてリンクに向き直ったアンジュは、 
こう言ったのである。 
「また、見せちゃったわね」  
 
 アンジュは気づいていた。リンクが自分の胸をずっと注視していることに。 
 こちらに邪念はなかった。我が子に乳をやるという、母親としてごく普通の行動をとった 
だけである。ところがリンクの視線を覚ってしまうと、それまで意識していなかった過去の 
思い出が、ざわざわと胸を波立たせたのだった。 
 七年前、王家の墓で、リンクと過ごした、あの一夜。 
 一生忘れられない、甘美な記憶。 
 のみならず、それはいまのわたしが享受する幸せの礎ともなったのだ。 
 ゲルド族襲撃の際、王家の墓に避難して、彼や両親とともに命を永らえることができたのは、 
あの夜があったからこそだ。 
 また、あの夜に覚えた肛門でのセックスは、のちに彼を感動させ熱狂させ、それまでにも増して 
二人を強く結びつけてくれた。 
 誰にも──もちろん彼にも──話せないリンクとの体験を、ゆえにわたしは、いまも後悔して 
いない。 
 が…… 
 あれは一夜限りの夢だった──という思いもまた、わたしの中では変わっていない。 
 リンクを疎んじているわけではない。それどころか、こうして再びリンクに会えて、わたしは 
ほんとうに嬉しいと思う。けれども、わたしとリンクがあの夜の二人に戻ることは、決してありは 
しないのだ。 
 ただ、リンクの方はどうなのだろう。もしもリンクがわたしとの関係に── 
「また、見せちゃったわね」 
 ──囚われているのなら…… 
「でも、リンク──」 
「わかってる」 
 リンクはみなまで言わせなかった。 
「いまのアンジュに会えただけで──幸せなアンジュを見られただけで──ぼくは……いいんだよ」 
 リンクは理解している。思い出を思い出として認識している。 
 アンジュは懸念を溶け去らせ、ただ頷きだけをリンクに返した。  
 
 勝手口が開き、 
「お待たせ」 
 シークが庭に出てきた。手伝おうとしたアンジュをシークは制し、ティーポットと人数分の 
ティーカップをベンチの前のテーブルに並べ、それぞれのカップに湯気のたつお茶を注いだのち、 
向かいに置かれた一人がけの椅子に腰を下ろした。 
 会話をリードしたのもシークである。出産の経験、赤ん坊の生態、親としての心構え、等々の 
話題を、次々にアンジュへと振ってきた。 
 促されるままに語るうち、アンジュの胸は再びさざ波を立て始めた。 
 ふだん寡黙なシークがやけに能弁であることへの違和感──というだけでなく、それは 
リンクとの過去を意識した時の感覚に類似していた。 
 奇妙な感じがした。 
 リンクとの関係とは違って、わたしとシークの間に男と女のしがらみはない。前から弟のような 
存在と見なしてきた。なのに、どうして、いま、わたしは…… 
 いや、いまだけではない。ここ半月ほどだろうか、わたしに対するシークの態度が、前とは 
微妙に変わったような気がする。どこがどう変わったのか、はっきりと指摘はできないのだけれど…… 
 話題は村の現況へと移っていった。のどかな小村だったカカリコ村が、いまはどのように 
発展しているのか──と、リンクが興味を示したからである。商店の増加や産業の振興といった 
具体的変化が語られ、最後にシークがまとめを述べた。 
「インパの結界のおかげで、この村は平和を保っている。それに惹かれて、近辺から移住してくる 
人が増え続けているわけだ」 
 続けてアンジュも言葉を添える。 
「人が増えて、賑やかになって、村に活気があるのはいいことだわ。でも……移ってくる人たちの 
中には、ちょっと……」 
 言いよどんだ折りも折り、けたたましい笑い声が響き、三人の目はそちらに引っぱられた。 
 庭の横の道を一組の男女が歩いていた。声を発したのは女の方である。まだ若く、露出の多い 
派手な服装をしている。ずっと年上に見える男の腕に人目も憚らず抱きつき、腰をくねらせながら、 
広場の方へと去ってゆく。 
「あの人は……?」 
 リンクの問いに、アンジュは答をためらった。同じく黙っていたシークが、やがて短く言った。 
「娼婦だ」  
 
 リンクが、はっとしたような顔になり、こちらを見、すぐに目をそらせた。 
 その態度に不審を覚えながら、アンジュは話題の収拾を試みた。 
「ああいう人が村に入ってきて、前とは雰囲気も変わったわ。ただ、一概に悪いとも言えないと 
思うのよ。あんな商売をしなくちゃならない、それなりの理由があるんでしょうし……わたしには、 
よくわからないけど──」 
「アンジュはそんなこと、わからなくていいんだよ」 
 シークが声をかぶせてきた。妙に強い調子だった。 
 意図がつかめなかった。 
 リンクはというと、はらはらした面持ちで、シークとこちらを交互に見ている。だがシークの 
発言をいぶかしんでいるようでもない。 
 リンクにはシークの考えていることがわかるのだろうか。 
 奇妙な感じが胸に広がってゆく。 
 何なのだろう。まるでわたしとシークの間に、わたしの知らない何かがひそんでいるような…… 
 泣き声が起こった。また赤ん坊がぐずり出したのである。 
「さっきお乳をあげたから、今度は眠くなったんだわ」 
 誰にともなく言い、ゆるゆるとあやしにかかる。赤ん坊は泣きやまない。子供を抱くのに 
慣れていないせいか、それとも場の奇妙な空気をこの子も感じ取ったのだろうか──などと 
惑っているうち…… 
 シークが竪琴を奏し始めた。 
 優美で、ゆったりとした、三拍子のメロディ。どこか懐かしさを感じさせる、高雅な旋律。 
「きれいな曲ね」 
 アンジュは呟く。 
「何ていう曲?」 
 シークが答える。 
「子守歌」 
「そう……」 
 シークの手が紡ぎ出すその調べは、実にすんなりと耳に染み入り、アンジュの惑いを消し去って 
いった。 
「……聴いていると……心が……安らぐわ……」 
 のみならず、赤ん坊もまた、いつしか泣くのをやめ、静かな寝息をたてている。 
 題名が示すとおりの効き目に驚きながら、アンジュは意外な感をも抱いた。 
 常に竪琴を身から離さないシークを長年見ていながら、実際の演奏を聴いたのはこれが初めてだ。 
シークにこんな一面があったとは…… 
『初めて?』 
 そうだろうか。ほんとうに初めてなのだろうか。 
 またもや胸が波立ち始める。 
 わたしはシークが竪琴を演奏するのを前にも聴いたことがあったのでは? 
 それだけでなく── 
「シーク……」 
 ──わたしは── 
「その曲……」 
 ──そう、まさにその曲を── 
「前に……」 
 ──聴いたのではなかったか? 
 いつ聴いたのか。どこで聴いたのか。 
 わからない。思い出せない。でもわたしは確かに──  
 
 唐突に竪琴の音が止まった。 
「行こう」 
 シークが立ち上がり、リンクに呼びかけた。リンクは何か言いたそうな様子だったが、しかし 
沈黙を保ったまま、ベンチから腰を上げた。 
「アンジュ」 
 シークがこちらに向き直る。 
「村には平和が戻ったけれども、僕たちには、まだ行かなければならない所があり、しなければ 
ならないことがある。これで失礼するよ」 
 平穏な口調でありながら、その言には断固とした意志がこめられていた。引き止めることは 
できなかった。 
 リンクとも短く別れを交わしたのち、庭を出てゆく二人に、アンジュは心遣いの言葉を贈った。 
「身体に気をつけてね」 
 にっこりと笑い、軽く片手を上げるリンク。 
 対してシークは、表情を動かさず、ひと言だけを返してきた。 
「さようなら」 
 つられるように、 
「さようなら……」 
 応じたのを機として、二人は背を向け、歩み去っていった。 
 見送りながら、自分の中のわだかまりを洗い出す。 
 シークの竪琴であの曲を聴いたことがある──との確信が、いまは揺らいでしまっている。 
記憶を追求すればするほど、自信がなくなってゆく。 
 やはり思い違いなのだろう。あるいは、前に夢でも見たのかもしれない。 
 シークはおのれを語らない。シークの内面を読み取れない。そこにもどかしさを感じるあまり、 
わたしはシークとの結びつきを過剰に意識してしまったのだ。 
 シークには──そしてリンクには──使命がある。わたしはそれを知っているし、できる限り 
応援したくもあるけれど、二人の考えること、なすべきことを、完全に理解しているわけではない。 
 彼らには彼らの人生がある。わたしにはわたしの人生がある。 
 それらは時に交わりこそすれ、決して重なることはない。 
 あまりにも生きる道が異なっているわたしたちだから。 
 ふと気になった。 
 シークの最後のひと言。 
(さようなら) 
 あれには何か深い意味があったのだろうか。もしかしてシークは── 
「アンジュ!」 
 急に別の方から声をかけられた。誰かと意識するまでもなく、口は反応する。 
「あなた!」 
 せっかちな歩調で庭に入ってくる相手に、アンジュも歩みを寄せた。 
「火事の片づけは終わったの?」 
「いや、まだだけど……どうしても我慢できなくてさ」 
「何が?」 
「何がって……自分の子供が生まれた日くらい、その顔を見ていたいものじゃないか」 
「子供だけ?」 
「言わせるなよ、奥さん」 
 交わす接吻が、快い。 
 結婚して五年経つのに、婚約時代、新婚時代と変わらない──いや、その時以上の情熱を、 
この人はいまも、わたしに注いでくれる。 
 この人の妻になることができたわたし。この人の子を産むことができたわたし。 
 世界中どこを探しても、わたしほど幸せな女を見つけることは難しいに違いない。 
 この幸せを、これからもわたしは守ってゆこう。 
 シークとリンクがもたらしてくれた、青い空のもとで。どこまでも続く、澄みきった空のもとで。 
 二人の働きに報いるとしたら、それが唯一、わたしにできることなのだから。 
 道の先に目を戻す。 
 ちょうどその時、すでに小さくなっていた二人の姿が、角を曲がって視界から消えた。  
 
 歩く間、シークは沈黙を守った。リンクも無言だった。『ゼルダの子守歌』をめぐるアンジュとの 
やりとりなど、リンクには全く理解できなかったはずである。が、リンクは何も訊ねてはこなかった。 
その配慮に、シークは感謝した。 
 広場に近づき、人通りが多くなってくると、沈黙したままではいられなくなった。顔見知りの 
村人たちが、口々に挨拶してくる。人々の顔は一様に明るく、七年ぶりの晴天を満喫している 
様子が明らかだった。シークは丁寧に挨拶を返した。煩わしいとは思わなかった。 
 このように──とシークは思う。 
 僕は村の人たちに温かく受け入れられている。常に人目を避けて行動しなければならなかった 
歴史改変前とは大違いだ。ただそれは、僕が変化したからではない。カカリコ村と、そこに住む 
人々が、劇的に変化し、幸福となったからこそなのだ。 
 その幸福なカカリコ村に、僕は、この先、戻ることはないだろう。 
 アンジュ。 
 幸福なカカリコ村の中でも、とりわけ大きな幸福を得たアンジュ。 
 なぜアンジュは戸を叩いたのが僕だとわかったのか。 
 なぜアンジュは僕が奏でる『ゼルダの子守歌』に反応したのか。 
 心の奥に封じられているはずの、改変前の世界の記憶が、僕の存在によって励起されたからに 
他ならない。 
 リンクとの接触では、それが起こらなかった。アンジュはこの世界で過去にリンクと印象深い 
接触をしているから、いまリンクと顔を合わせて話をしても、改変前の記憶が励起されるには 
至らないのだろう。けれども僕とアンジュの間には、改変前の記憶を打ち消すほどの思い出が 
存在しない。加うるに、改変前の世界におけるアンジュの想いが──自分で言うのも面映ゆいが 
──あまりにも強かったせいで、いまでも折りあらば、封じられた記憶が顕在化しそうになるのだ。 
 あってはならないことだ。 
 アンジュの幸せを守るために、それはあってはならないことなのだ。 
 だから、僕は、もう二度と、アンジュの前には姿を現すまい。 
 その決断を、シークは冷静に下すことができた。すでに終わったと認識していたからでもある。 
が、それにも増して──  
 
「やあ、シーク!」 
 快活に呼びかけてくる男があった。 
 ゲルド族との戦いで生き残った、数少ない兵士のうちの一人である、その男は── 
「空が晴れ渡って、世の中、いい方にまわり始めたみたいじゃないか」 
 ──僕がインパに連れられて、初めてカカリコ村を訪れた時、村の石段の下で見張りをしていて、 
インパにゼルダの消息を確かめ、無事だと聞いて満面に喜色を浮かべていた、あの兵士であり── 
「この分ならゼルダ様のご帰還も、遠い日のことじゃないだろうぜ!」 
 ──改変前の世界では、『ゼルダ様は、生きておられる』と、村の酒場で僕を励ましてくれた、 
あの「元」兵士なのだ。 
 手を振りながら去ってゆく、彼の運命もまた、大きく変わった。インパの結界によって 
ゲルド族の脅威がなくなったにもかかわらず、なお村を守る責務を捨てようとしない、立派で 
頼りがいある存在として、いまの村に、彼はある。 
 そして、彼の言う、ゼルダの帰還。 
 それこそをいまの僕は考えるべきなのであって、事実、僕の心はそれに駆り立てられていて、 
それが着実に近づいているのを彼のみならず僕も確信していて、そのために僕は── 
「タロンおじさん!」 
 前を横切る太った髭面の中年男を、リンクが驚きの声で呼び止めた。 
 そう、タロン。改変前の世界と同じく、博打で身を持ち崩し、酒場の下男として落ちぶれた 
生活を送っていた男。カカリコ村が変貌したこの世界では、いま改めてリンクと七年ぶりの再会を 
果たし、懐かしげに会話しているわけだが、そのタロンは、どういうつもりか、旅支度だ。 
「天気がよくなって、何だか目が覚めたような気分になってなあ……牧場に帰って、もういっぺん 
頑張ってみようかって、思ったんだ」 
「それがいいよ、マロンもおじさんが帰るのを待ってるよ」 
 熱心に勧めるリンクに照れたような笑いを返し、タロンは村の出口へと向かっていった。 
 これも村にもたらされた幸福の波及といえるだろう。 
 アンジュの幸福。兵士の幸福。タロンの幸福。村人全員の幸福。それらはすべて──すでに 
取り戻された、マロンの、コキリ族の、ゴロン族の、ゾーラ族の幸福と併せ──リンクの活動の 
成果であり、その成果をさらに拡大すべくリンクはなおも進んでゆくのであり、進む先にある 
究極の目標は言うまでもなくゼルダの帰還とガノンドロフの打倒であり、そこを目指して僕は 
これからもリンクとともに── 
「どうしたんだい?」 
 こちらの熱心な視線を感じ取ったのだろう、リンクが怪訝そうに訊いてきた。 
「いや……」 
 口には出さず、心の中で思いを形にする。 
『アンジュがいなくとも、僕には君がいる』 
 おのれの発想に驚いた。 
 リンクに寄せる僕の感情が、アンジュに寄せる感情と同質であるはずはない。リンクは僕に 
とって、友人であり、同志であり……いや、そんな既存の単語では言いつくせない、僕たちの 
間でしか成り立たない関係が…… 
 それはどういう関係なのか──という自問に、シークは答を出せなかった。何があろうと 
動かしようのない、決して間違ってはいない関係と確信する一方で、リンクへの感情が自分の 
どこから生まれてくるのか、どう探ってみてもわからなかった。 
 焦燥にも似た不安定感を覚えながら、しかしシークは動揺を抑えきった。 
 いずれ解決の時は来る。失われた記憶の件と同じように。 
 そして…… 
 その時が、もう間近に迫っていることに、シークは疑いを抱かなかった。 
 
 
To be continued.  
 

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