頭の中で何かが動きまわっている。何なのかはわからない。わかっていたはずなのに、 
いつの間にか、あらゆるものが意味を失い、かき消えようとしている。 
 ああ、ぼくは夢を見ていたんだ、その夢が醒めようとしているんだ、もうほとんど醒めて 
しまっているんだ…… 
 ──と認識しつつ、リンクは目をあけた。 
 腕の中にゼルダがいた。 
 気配でこちらの目覚めを感じ取ったのだろう、ゼルダは顔を上げ、頬にかすかな笑みを浮かべた。 
表情におぼろげなところはなく、しばらく前から起きていたのだと知れた。 
 室内の暗みは薄くなっている。窓の外はさらに明るい。 
 朝となっているのだった。 
 笑みを返し、じっと肌を合わせているうち、眠りの残り香が去ってゆく。それを測っていた 
ように、ゼルダが身を動かした。上体を起こして軽く息を吐いたのち、すっくと立ち上がった。 
続けてリンクも腰を上げた。 
 二人で広場の井戸へ行く。喉を潤し、顔と身体を簡単に洗う。 
 空は快晴で、暗雲の断片すらとどめていない。 
 休暇の終わりが実感された。 
 ゼルダの挙措も、その実感を補強する。 
 淡々とした起床。屋外で裸体をさらすことへのためらいのなさ。 
 それらはきのうも示されていたが、今日のゼルダは、超然とした雰囲気をいっそう濃くしている。 
身体を洗っている途中で、まぐわいに移る余地が、まだ、きのうはあった。いまはそんな移行が 
起こるとはとても思えない。ついさっきまで抱き合っていて、なおも裸でいるというのに、 
ゼルダに手を触れることはもとより、戯れの言葉をかけることさえ、ぼくはできなくなっている。 
ゼルダがぼくにそういうことをしてくる可能性も皆無であると断定できる。 
 あくまで優雅なゼルダの物腰。だが、その中に、毅然とした意志が透見できる。 
 ただ…… 
 この休暇の間、君はいつもぼくより早く目を覚ましていた。今日も習いは変わらなかった。 
けれども、先に目覚めていながら、君は寝床を離れようとしなかった。ぼくが起きるのを 
待っていた。ぎりぎりまでぼくに抱かれていたかったんだ。 
 休暇の終わりにあたって、君はその想いを意志の陰に押し隠した。ハイラル王国再建を目指す 
からには、いつまでものほほんとしてはいられない。当然の心構えと言っていい。 
 しかし、ぼくと君との関係は、これからもずっと続いてゆく。 
 新しいものとなって。 
 ぼくは、それを、君に、告げよう。 
 近い将来、必ず。 
 何も気にせず、何にも邪魔されず、互いを腕の中に抱く日を、再びぼくたちが迎えられるように。 
 城壁の上に現れた太陽が、まろやかな光を地に届かせていた。気温は徐々に上がりつつあった。 
冷たい水を浴びても、寒いとは感じなかった。 
 身が引き締まる爽涼さだった。  
 
 屋内に戻ってからも、なお生まれたままの姿でいた二人だったが、それも朝食が終わるまでだった。 
ゼルダが食器を片づけている間、その依頼により、リンクは外に干してあった二人分の服を 
取りこんだ。仕事を終えたゼルダは、短く礼を口にしたのち、泰然とした素振りで衣装を身に 
着け始めた。肩当てと手袋はもちろんのこと、このたびは下着も粗略には扱われなかった。 
首から下の装いをすませると、次にゼルダは、長い髪を手で梳き、頭の後ろできっちりと結わえた。 
最後に、赤い宝石をあしらった金属製の飾りが、額に嵌められた。 
 王女の姿の完成である。 
 見かけばかりではなかった。合わせて着衣を終えたリンクに向け、ゼルダは端的な言葉を 
送ってきた。 
「時の神殿へ行きます」 
 願望でも慫慂でもなく、明確な意思の表明だった。丁寧な語調とともに、凛とした声が、 
王女としての威厳をくっきりと映し出していた。 
 リンクは動揺しなかった。想定していた変容である。が、ゼルダの発言には怪訝な感を抱かされた。 
 時の神殿に何の用があるのだろう。もう一度トライフォースを見ておこうとでも? 
 続くゼルダの台詞が、さらにリンクを戸惑わせた。持ち物をすべて携行するように、と 
言うのである。 
 剣や楯なら、言われなくても持ってゆく。もう敵を警戒する必要はないのだが、万一と 
いうことがある。何があってもぼくはゼルダを守らなければならない。これまでの外出でも 
そうしていた。もちろんゼルダも知っている。にもかかわらず、どうして今日に限って念を 
押すのか。このまま城下町を去るつもりなのか。食料その他の準備ができていないのに。 
王国再建の具体的計画を語ろうとしないのも不思議だ。 
 重なる疑問を、しかしリンクは胸に封じた。 
 ともかく神殿へ行ってみよう。行けばゼルダも胸の内を明かすだろう。出発の準備は、いったん 
ここに帰ってやればいい。 
 静かに戸外へと歩み出るゼルダに従い、出てからはその横に肩を並べ、リンクは黙して足を進めた。 
 ゼルダも無言を保っていた。  
 
 ようやくゼルダの口が開かれたのは、時の神殿に到着し、吹き抜けの部屋を過ぎて、剣の間に 
入ってからのことである。聖地への螺旋階段を下るのかと思いきや、マスターソードの台座が 
据えられた壇の手前でゼルダは足を止め、顔のみならぬ全身の正面をリンクに向けた。 
 さやかに声が発せられる。 
「リンク」 
 美しい面差しは、ほんのわずかな乱れもまじえていない。先日、ここで狂乱に至ったのが、 
信じられないほどの自若ぶりである。 
「あなたの力で、ガノンドロフは、完全なる滅びに至りました。彼の邪悪さの象徴であった暗雲も、 
ついに消えてなくなりました。これで、この世界も、再び平和な時を刻み始めるでしょう」 
 改まった物言いが奇妙に感じられた。わけもなく胸騒ぎがした。 
 ゼルダが目を落とす。 
「あなたにもすでに話したとおり、この世界を襲った悲劇は、すべてわたしの過ちゆえのもの。 
おのれの未熟さを顧みず、愚かにも聖地を制御しようとした報いです。いまこそわたしは、 
その過ちを正さねばなりません。マスターソードを眠りに就かせ、『時の扉』を閉ざすのです」 
 顔が少しく曇りを帯びる。 
「けれど……そうすることによって、時を旅する道も、閉ざされてしまいます……」 
 言語は明瞭だった。が、意味を追うのに難渋した。 
 懸命に頭を働かせる。 
 ガノンドロフを倒したことで、ぼくとゼルダの使命は果たされた。しかし、なおもゼルダは、 
厳しく自分を責めている。 
 気持ちはわかる。ガノンドロフにトライフォースを奪われたのは、ぼくがマスターソードを 
台座から抜いて聖地への道を開いてしまったせいだ、と、ぼく自身、かねがね心苦しく思って 
いたし、それをぼくに示唆したゼルダが自責の念を持ったとしても──ぼくに言わせればゼルダが 
そこまで悩む必要はないのだが──おかしくはない。過ちを正そうと努めるのも、ゼルダらしい 
謹直なあり方と納得できる。 
 その正し方とは、トライフォースを誰の手にも触れさせない状態にすることであるらしい。 
『時の扉』を閉ざすとの言でわかる。前に試した時は不可能と結論づけざるを得なかったが、 
あのあとゼルダは閉ざす方法を知ったのだろう。マスターソードが関係しているようだ。 
時を旅する道も閉ざされるというが、この世界で暮らしてゆくぼくは、それでも一向にかまわないし── 
「閉ざされる前に……」 
 ゼルダが顔を上げた。目がまっすぐにこちらを見た。 
「あなたは過去へ戻ってください」 
 困惑する。 
 過去へ戻って、いったいどうなるというのか。第一、時を旅する道が閉ざされたら、ぼくは 
二度とこの未来の世界に帰って来られなくなる。二度とゼルダに会えなくなる。まさかそんな 
ことを── 
 ゼルダは言った。 
「ハイラルに平和が戻る時。それがわたしたちの別れの時なのです」  
 
 頭の中が真空になった。 
 思考が稼働を再開するまでに、相当の時間を要した。 
「どうして……」 
 としか言葉が出てこない。 
 端然とした佇まいをいささかも崩さず、ゼルダが応じる。 
「わたしの罪の贖いです」 
 理解できない。 
「これもすでに話したとおりです。わたしはあなたの七年間を奪ってしまいました。その七年間を、 
わたしはあなたに返さなければなりません」 
「それは──」 
 食ってかかろうとするところを、 
「わかっています」 
 穏やかに遮られる。 
「苦しい経験をしたわたしに比べれば、封印の名のもとに眠っていた七年間など、何ほどでもない 
──と、あなたは言いました」 
「わかってるんなら──」 
「しかし」 
 再度の遮り。 
「あなたの意思による眠りではありませんでした。強制的な眠りでした。いかに苦しくあろうとも、 
人は自分で自分の生き方を決める権利があります。その権利を、あなたは行使できなかった。 
重大な損失です。見過ごしにはできません」 
「馬鹿馬鹿しい!」 
 怒鳴るがごとく言い募る。 
「自分の意思だろうが強制だろうが、そんなのはどうだっていい。ぼく自身がかまわないと 
言ってるんだ。七年間をやり直したいなんて気は、ぼくには全然ない。だいたい、ぼくがここまで 
戦ってきたのは君に会うためで、何もかも君のためにぼくは──」 
「それだけですか?」 
 わずかにほころぶゼルダの顔。 
「あなたが戦ってきたのは、わたしのためだけですか? 違うでしょう。あなたはこうも 
言いました。『世界のために』──と」 
 絶句する。 
 確かにぼくはそう言った。ゼルダと出会う前から、ぼくは戦いに身を投じてきた。世界を救うと 
心に決めて。  
 
 顔のほころびを繕い、ゼルダは続ける。 
「あなたが過去へ戻らなければならない理由は、そこにもあるのです」 
「……どういうこと?」 
「これまでのあなたの働きで、悲劇の一端は防がれました。マロンやアンジュが幸せになれたのは、 
過去改変の成果です。けれども、なおかつ救われなかった人々が──戦乱の中で命を落とし、また、 
生き長らえつつも幸福を失った人々が──無数にいます。極言すれば、ハイラルに生きるすべての 
人々です。わたしの過ちさえなければ、みなの不幸もあり得ませんでした」 
 そこまで…… 
「賢者も例外ではありません。過去の改変によって、賢者たちは悲惨な死を免れましたが、 
真の覚醒にあたって、現実の世界から切り離されるという代償を払わねばなりませんでした。 
本来なら一人の人間として人生を全うできるはずだった彼女らの、それは大きな不幸といえます。 
やはりわたしの過ちのせいです」 
 そこまでの責任を、ゼルダは負うというのか。 
 ガノンドロフの死体の傍らで、ゼルダが表出していた「哀しみ」のような感情は、その責任感 
ゆえのものだったのか。 
 戦いに勝利しても世界が荒廃したという事実は変わらない──と…… 
「これらの不幸が完全に解消されて初めて、わたしの過ちは正されます。実行できるのは 
あなただけです。どうか過去へ戻って、新たな世界を作り上げて下さい。みなが幸せに生きる 
ことができ、賢者が賢者として覚醒せずともすむ、真に平和な世界を」 
「だけど!」 
 必死の反駁。 
「過去へ戻っても、そこはガノンドロフがトライフォースを奪って反乱を起こしたあとの世界だ。 
もうたくさんの人が死んでいる。賢者だって覚醒しない限りは身を守れない。取り返しが 
つかないんだ。真に平和な世界を作り上げるなんて、できっこない!」 
「できます」 
 静穏な訂正。 
「いまのわたしなら、根本的な過去改変ができる時点に、あなたを帰してあげられます。 
そうすることが、『時の賢者』としての、わたしの最後の使命であり、そして帰ったのち、 
あるべき正しい歴史を世界に歩ませることが、時の勇者としての、あなたの最後の使命なのです」 
『使命!』 
 その語が胸を刺し貫く。 
 使命に思いを致す時、ぼくはどのように自分を律してきたか。 
「なすべきことをなせ」 
 ゼルダが言う。心の中を読み取ったかのごとく。 
「それが、あなたの、信念でしたね」  
 
 返す言葉がなくなった。 
 惑いが脳をかき乱す。 
 ハイラル王国再建に向けてゼルダとの関係をいかにするかという悩みなど、いま直面している 
事態に比べたら、砂粒ほどの重みすらない。 
 時の勇者としての最後の使命。 
 そうしなければならないのか? 
 ゼルダと永遠に会えなくなっても? 
 これほど酷な運命を、ぼくは甘受しなければならないのか? 
 ゼルダはどうなんだ? 
 あの超然とした雰囲気を保って、悟りすましたような口ぶりで、冷静に諭しを述べるゼルダ。 
なぜそんなに落ち着いていられる? ゼルダにとってこの事態は、当初から織り込みずみだったのか? 
 違う。 
 初めて気持ちを確かめ合い、初めて愛を交わし合った時のゼルダは、決して別れなど意識しては 
いなかった。その後の数日も、純粋にぼくとの生活を楽しんでいた。ゼルダの示していた態度から、 
絶対にそうと断言できる。 
 根拠は他にもある。ガノンドロフの死体を塵にした時、ゼルダはこう言った。 
(これで、ほんとうに、すべてが終わりました) 
 あの時のゼルダは、事態がいまのようになるとは考えていなかった。 
 では、いつ考えを変えたのか。 
 三日前だ。ここ、時の神殿に、大人のぼくと契った身を置くことで、ゼルダは賢者としての 
最終的な覚醒に至り、いまだ果たされていない使命の内容を知ったのだ。 
 ゼルダはどう反応したか。 
(いやッ!!) 
(そんなのいやよッ!!) 
(わたしを離さないで! ずっと一緒にいて!) 
 あれがゼルダの本心だった。別れを拒否する心からの叫び。 
 しかし拒否は撤回された。葛藤を狂乱と倒錯に転化させながら、結局、ゼルダは採るべき道を 
選択したのだ。 
 王女の責務。 
 すべての人々に幸せを。 
 愛をも超える崇高な使命。 
『いや……』 
 苦渋の末に、結論する。 
 愛を犠牲にするのではない。 
 ぼくがゼルダを愛したのは、ゼルダのそんな崇高なあり方ゆえではなかったか。 
 ならば、ゼルダの望みに応えることこそが、ぼくの愛の証となる。 
「わかった」 
 声を絞り出す。 
「なすべきことを、なすよ」  
 
 ゼルダが微笑んだ。 
 左手を差し出してきた。 
「『時のオカリナ』を、わたしに……」 
 黙って従う。右手に持ったオカリナを、出された左の手のひらに置く。 
 ゼルダの右手が重ねられる。 
 触れ合ったまま、動作は止まる。 
 こちらの顔からはずされた視線。目元と眉に宿る、ほのかな感情。 
 時間は整然と流れてゆき…… 
 発露されることなく感情は消え、重ねられた右手が離れ去る。リンクも強いて感情を抑え、 
右手をおのれの横に戻した。 
 ゼルダがオカリナを口に寄せる。馴染みの一節が奏でられる。 
『ゼルダの子守歌』の冒頭部分。 
 背中にかすかな熱を感じた。 
 首を後ろに向ける。何かが光っているようである。 
「マスターソードを」 
 促しに従い、背負った鞘から中身を引き抜く。鍔から先の刃が、全長にわたって、白い輝きを 
放っていた。 
「さあ」 
 再びゼルダが促した。片手で壇上の台座を指し示している。 
「帰りなさい、リンク。失われた時を取り戻すために。あなたがいるべき所へ、あなたが 
あるべき姿で」 
 声にも、表情にも、負の色調はなかった。あるのは不動の意志だけだった。 
 壇上に足を進ませる。台座を挟んでゼルダと向き合う。厳かに立つそのさまを目に焼きつける。 
 言葉は出せなかった。何かひと言でも口にしようものなら、想いのすべてを吐き出して 
しまいかねなかった。 
 そうあってはならないのだった。 
 胸の内に万感を秘め、マスターソードを台座に刺す。 
 闇には呑まれなかった。剣から発する光が一段と量を増し、台座の周囲を真っ白にした。 
リンクの全身も光に包まれた。 
 明輝にかすむゼルダの顔が、限りなく優美な笑みを湛える。 
「ありがとう、リンク」 
 身体が浮く。音もなく緩やかに上昇する。光が視覚を無にしてゆく。あらゆる感覚が摩耗する。 
 ──ゼルダ! 
 抑えきれずに発した叫びも、もはや声とはなり得ない。 
「さようなら……」 
 遠ざかる意識の末尾が捉えた、それが最後のささやきだった。  
 
 リンクが光の中に消え、次いで光もが消散すると、広々とした空間は、荘重な静寂に満たされた。 
台座に刺されたマスターソードは、もはや微明の遺残すらなく、剣としての形状だけを呈示していた。 
 ゼルダは床に目をやった。聖地への道は塞がっていた。そこにあったはずと思って観察しても、 
どこが下り口なのか指摘できないほど、閉鎖は完全だった。 
 剣の間を出る。立ち止まり、後ろを向く。『時のオカリナ』で『時の歌』を奏する。 
 重々しい音響とともに、『時の扉』は閉じられた。 
 階段を下り、石板の前に立つ。填めこまれた三つの精霊石に手を触れる。それらは抵抗なく 
窪みを離れ、ゼルダの懐中に収まった。 
 神殿をあとにする。 
 天空の頂を目指す太陽が、眩しく、暖かく、荒廃した地を照らしていた。 
 時おり吹き過ぎる爽風が、髪を優しく撫で揺らす。遠くで鳥のさえずりが聞こえる。 
 喜ぶべき徴候と頭では認めながらも、足を止めようという気にはなれず、ゼルダは機械的に 
歩行を続けた。 
 宿所に着く。戸口に佇む。 
 陽光あふれる屋外に比し、中はひっそりと薄暗い。もともと、だだっ広く殺風景な部屋が、 
常にも増して空虚に感じられた。 
 室内に歩み入る。身体を椅子に沈ませる。 
 床には敷布が伸べられたままとなっている。そのうちの一枚が乱雑に丸められて足元にある。 
拾って膝の上に置く。端を広げて顔に当てる。 
 
 リンクの匂いがした。 
 
 にわかに両目が熱を持つ。押し殺してきた想いが膨れ上がる。 
 リンクは去った。二度とは会えない。 
 おのれに問う。 
 リンクのいない今後の人生。わたしはそれに耐えてゆけるだろうか。 
 答は明らかだった。 
 
 耐えられない! とても耐えられない! 
 
 目から涙があふれ出る。 
 他の賢者たちとは異なり、現実世界にとどまることのできる自分は恵まれている──と、 
わたしは思っていた。けれども、こんな結果になるのなら、現実世界から切り離される方が 
まだましだった。 
 リンクのいない世界で現実の生活を送るなど、拷問にも等しい人生ではないか! 
 思ってもしかたがないとわかっているのに、思わずにはいられない。 
 リンクと一緒に生きてゆけたら、どんなにか幸せなわたしだっただろうに! 
 嗚咽が喉を突き上げる。 
 しかしゼルダはその噴出を、からくも寸前で噛み殺した。 
 
 それでも、耐えてゆかねばならない。  
 
 わたしは、賢者として、王女として、あるべき新たな歴史を導くという使命を捨て去ることは 
できなかった。 
 リンクはどうか。 
 あるべき歴史なんかどうでもいい、このまま君と一緒に生きてゆく──と、あくまでリンクが 
言い張ったなら、わたしは拒めなかったかもしれない。 
 だが、リンクがそんなことを言うはずがないのだ。 
 そんなことを言うリンクであれば、わたしは初めから愛しはしなかった。 
 
 わたしたちのしたことは正しかった! 別れてこそ正しくあれたわたしたち二人! 
 
 過去へ戻ったリンクは、過去の『わたし』と新たな出会いを果たし、新たな幸せを得るだろう。 
あるべき世界においての、それが二人のあるべき運命。 
 残されたわたしは…… 
 思い返すがいい。 
 すでにわたしは幸せだった。ほんの短い日々ではあっても、わたしはリンクと幸福を 
共有できたのだ。 
 その追憶を胸にしまって、わたしは、これから、生きてゆこう。 
 わたしがとどまるこの世界では、過去に生まれる新たな歴史とは別に、もう一つの歴史が 
続いてゆく。破壊の極みに陥ったここにも、やがてまた人が集い、王国の再建が始まるだろう。 
そしていつの日か、王国はかつての繁栄を取り戻すだろう。そうした歴史を導くことが、 
これからのわたしの使命なのだ。 
 強く自分に言い聞かせる。 
 が…… 
 王国の再建なる概念を、ゼルダは実感できなかった。 
 ハイラル王国を存続させるためには、わたしが子孫を残さねばならない。わたしが子供を 
産まねばならない。 
 リンク以外の男と交わり、その子を産む。 
 そんな自分など、想像もできない。 
 子をなすことについて思うなら…… 
 もし仮に、リンクと過ごした七日間が、たった一日でもいい、わたしの「危険な四日間」と 
重なっていたら──ああ、それを「危険」とは呼びたくない──わたしはリンクの子を身ごもる 
ことができていたかも…… 
『愚かしい』 
 いくら思ったところで、そうではなかったという事実は変わらない。 
 月経周期の狂いも期待外だ。ハイリア人であるわたしに、不測の妊娠は起こり得ない……  
 
 ゼルダが我に返った時、部屋は真っ暗となっていた。揺れ惑う思考に翻弄され、夜の訪れに 
気づきもしなかったのである。その日のうちではなく、翌日の夜、いや、何日もが経ったあとの 
夜なのかもしれない──と思われるほど、時間の感覚が失われていた。 
 窓から差しこむ月明かりを頼りに、半ば手探りでカンテラに火を入れ、とりあえず行動を 
可能としたものの、行動するだけの気力は湧かない。ゼルダは椅子に坐した姿勢を変えず、 
さらに時は過ぎていった。 
 やがて本能の要求が起こった。食欲は皆無だったが、喉が渇きを訴え始めた。ゼルダは 
重い腰を上げ、カンテラを持って家の外に出た。 
 喉の渇きは井戸水で癒された。が、心の渇きはなくならなかった。 
 冴え冴えとした月も、煌びやかな星々も、自分の行く道を照らしてはくれない。 
 虚ろな思いで見上げる目が、西の空にある一点の光輝を捉える。 
 予兆の星。 
 七年前、ハイラル城でリンクとの契りを予知して以来、いくつかの重要な託宣を、わたしは 
あの星から与えられた。それらはすべて実現し、世界はここに至っている。 
 これからもわたしはあの星から予知を得るだろうか。 
 未来のことなど知りたくもない、いまのわたしだけれど…… 
 捨て鉢になりかかる思いが、ふと、違和感を探り当てる。 
 わたしの予知は、ほんとうにすべてが実現したのか? 
 検討する。 
 違和感の正体を把握する。 
 
 ──『わたし』がリンクに会える日は、いつか、必ず、来る。過ちを正し、罪を贖い、 
何のわだかまりもなく、リンクの前に立てる日が── 
 
 この予知は……妖精の泉で得た、この予知は…… 
 リンクに罪を告白した時点で実現したのだと思っていたが…… 
 実現していない! 
 過去へ戻ったリンクが新しい歴史を作り上げない限り、わたしの過ちは正されない。わたしの 
罪は贖われない。わたしが何のわだかまりもなくリンクの前に立てる日は、まだ来ていないという 
ことになる。 
 わたしの予知は、はずれたことがない。 
 つまり、わたしは、リンクに…… 
『馬鹿な!』 
 会えるわけがない! マスターソードの能力は封じられ、時を越える旅は不可能となったのだ。 
リンクがこの世界を訪れる機会は絶対にない! 絶対に、絶対に、絶対に── 
 
「あ──!」 
 
 ゼルダは知った。 
 
 どうして忘れていたのだろう。 
 忘れていたという、それ自体、神の摂理というべきか。 
 あるいは、正しい道を選択したわたしへの、これは神の褒賞か。 
『ただ……』 
 懸念は残る。 
 リンクは気づくだろうか。 
 わからない。 
『でも……』 
 信じよう。 
 気づいてくれると信じよう。 
 信じるだけで、揺るぎなく、ずっと、わたしは、生きてゆける。 
 いや、そうするまでもなかろうか。 
 リンクが「その時」を迎えるのは、長い歳月を経たのちのこと。 
 しかし、わたしにとって、「その時」は…… 
 
 いま、この瞬間かもしれないのだから! 
 
 
To be continued.  
 

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