インパは探索に取りかかった。
和平の約定を結ぶとの触れこみでハイラル城に入った時のガノンドロフは、十人のゲルド女を
従えていた。ところがインパの観察によると、一行に割り当てられた宿舎を出入りする人数は、
明らかにそれを上まわっていた。もちろん王国側の誰も、使節団が増員されるという通知など
受けてはいない。少しずつこっそりと仲間を城内に引き入れているのである。そうと悟られぬよう
隠蔽工作が施されていたが、ゼルダの乳母となるまではシーカー族の本務である裏の仕事に
携わってきたインパとあって、その工作も容易に看破し得たのだった。
リンクがもたらしたゲルド族反乱の報は真実である──と確信したインパは、繋がりのある
王国の高官に状況を伝え、対応を要請した。王国はこれを承け、ガノンドロフと使節団への監視の
目を強める一方、ハイラル平原西方に駐留している軍団に対し、ゲルドの砦の現状を探るよう
指令を発した。反乱の確たる証拠をつかもうとしたのである。
ガノンドロフは敏感だった。王国側の態度の変化を察知して、国元に変事が出来したと理由を
つけ、急遽、ハイラル城を退去し、砦に帰還してしまった。
ゲルド族は軍備を増強しているようである──と軍団が報告してきたのは、ガノンドロフが
去ったのちのことである。その真意を質そうと、王国はゲルドの砦に使者を派遣したが、
ガノンドロフは巧みな言い訳を用意していた。
──軍備増強とみえたのは仲間の一部が自分に反旗を翻そうとしたためであって、国元に
出来した変事とは、まさにそれである。いまでは情勢も落ち着いたので、ハイラル王国には何の
迷惑もかからない──
見え透いた虚言ではあったが、さらなる追求は控えざるを得なかった。戦闘力に秀でた
ゲルド族を相手に全面対決を挑むだけの準備が、その時の王国にはなかったのである。
それはゲルド族の側も同様だった。不意打ちならともかく、まともに戦って王国に勝利できると
考えるほど愚かなガノンドロフではない。
両者の思惑は一致し、衝突は回避されることとなった。以後、ゲルド族は反抗の素振りを示さず、
恭順の姿勢を保った。王国もそれを受容した。表面的にはつつがなく、その関係は持続した。
しかし水面下には常に緊張があった。いったん流れた和平の約定の締結は、二度と再び、両者の
外交日程には上らなかったのである。
ゲルド族の反乱を未然に防いだことで、当初の目標を達成したリンクだったが、急いで
対処すべき問題は、まだ残っていた。『炎の精霊石』と『水の精霊石』の件である。それらを
狙ってガノンドロフがめぐらせた陰謀は、なおもゴロン族とゾーラ族を脅かし続けているはずだった。
『あの世界』と大同小異の経緯で、リンクはこの問題を解決した。デスマウンテンでは、
ドドンゴの洞窟にあってゴロン族の鉱山作業と食料調達を妨害していたキングドドンゴを、また
ゾーラの里では、ジャブジャブ様に寄生してその生命を風前の灯としていたバリネードを、
それぞれみごとに退治した。結果──やはり『あの世界』と同じく──リンクは両部族にとっての
恩人となった。とりわけ指導者であるダルニアとキングゾーラ──そしてルト──の信任は厚く、
二つの精霊石は感謝をもってリンクに引き渡された。
ただ、『水の精霊石』を受け取る際、リンクはかなりの苦労を強いられた。それが婚約を
意味するものではないということを、ルトに納得してもらわなければならなかったからである。
三つの精霊石を携えてハイラル城へと戻ったリンクを、ゼルダは欣喜して迎え、直ちに
トライフォースを入手してガノンドロフに対抗しよう、と主張した。
リンクは同意を与えなかった。
ガノンドロフはゲルドの砦に逼塞し、当面、トライフォースが奪われる心配はない。それに……
「トライフォースを手にする資格が、いまの君やぼくにあると思うかい?」
さすがに賢明なゼルダである。しばし黙考したのち、自らの主張を撤回した。
とはいえ、無為には過ごせない。ガノンドロフが野望を完全に捨て去ってしまったとは
思えなかった。
リンクが三つの精霊石を、ゼルダが『時のオカリナ』を分け持ち、今後もトライフォースを
守ってゆく──との結論で、二人の意見は一致をみた。
かくして世界には──一応の、という限定つきではあったが──平和が訪れた。
反乱の危険性を最初に指摘したリンクは、ハイラル城内において、自然、注目の的となった。
ゴロン族とゾーラ族から寄せられた、「王家の使者」の活躍に対する賞賛と深謝の辞も、注目度を
高めた要因だった。
リンクの身元が調べられた。名前と誕生日がわかっており、かつ、王国の騎士であった父親が、
九年前、妻子を連れてコキリの森近くの村に赴任していた時、ゲルド族との戦いで命を落とした、
という手がかりがあったので、調査に困難は生じなかった。
明らかとなった事実はリンクを驚かせた。王家の傍流に端を発する、ハイラルでも名門の家系に、
リンクは属していたのだった。
ゼルダとインパの口添えもあって、リンクはハイラル王に拝謁する機会を得たが、そこには
さらなる驚きが待っていた。一連の功績を褒賞したのち、国王はいかにも嬉しそうに、リンクの
顔を見るのはこれが初めてではない、と言ったのである。
我が子ゼルダの誕生と相前後して、麾下の騎士の家に子供が生まれた、と聞いたハイラル王は、
一家を宴席に招き、幸福の連鎖を喜び合った。母の胸に抱かれた赤子のリンクも、国王から寿ぎを
賜っていたのだった。一つのゆりかごにゼルダと並んで寝かされる場面もあったのだという。
自分とゼルダは生まれた時から不思議な縁で結ばれていたのだ、と、リンクは感慨深く思わずには
いられなかった。
日ならずして騎士の一家は任地へと旅立ち、再びハイラル城に戻ることはなかった。哀悼の意を
こめ、以後も国王は折に触れて一家の思い出を語った。時が経つにつれ言及の頻度は減じて
いったが、その話は物心つく前のゼルダに、なにがしかの印象を残したに違いなかった。ゼルダが
自分の名に懐かしさを感じた理由はそれであろう、とリンクは得心し、二人の縁をいっそう強く
認識したのだった。
ハイラル王は一つの提案をした。父の死によって断絶していた家をリンクに継がせ、いずれは
父と同じく騎士に任じよう、というのである。名誉な話ではあったものの、リンクは返答に
窮してしまった。それまでとはかけ離れた境遇となることに当惑を感じたのだった。
困り果てた様子を見かねてか、同席していたゼルダが発言した。まだリンクは若年であるから、
家督の件は、将来、時機を得てからにしては──との取りなしに、国王も理解を示した。結局
リンクは、従来の自由な立場を保ったまま、ゼルダの客分として、ハイラル城への出入りを
許されるようになった。リンクはそれで満足だった。騎士なる身分に縛られたくはない、
というのが本音だった。
しかし、その騎士であった父親を軽んじるつもりは毛頭なかった。
リンクは戦没者のための墓地を訪れ、父の名を刻んだ墓標の前で、長い間、思いにふけった。
慕わしい気持ちでいっぱいだった。デクの樹からコキリの剣とデクの楯を授けられた時、それらが
手に馴染むような感じがしたのも、そして『あの世界』で自分が本懐を遂げられたのも、
武人である父の血を引いていたからだ、と確信できたのである。
コキリの森で亡くなった母は、墓地に死後の居場所を与えられていなかった。
『あの世界』でデクの樹のこどもから聞いたところでは、母に関するすべてのものはデクの樹に
よって土に返され、遺骨も遺品も残ってはいない。が……
せめてその土の一握りだけでも、父の眠る地に加えてやろう──と、リンクは心に決めたのだった。
旅の日々が始まった。コキリの森の土を持ち帰るにとどまらず、各地をめぐって見聞を広めたい
という望みがリンクにはあった。荒廃した『あの世界』で経験していた漂泊も、平和な
『この世界』では、また違った経験となった。
自然は美しく、時には厳しかった。とはいえ、いくら厳しくともそれは、暗雲の支配下にあった
『あの世界』のような、ねじ曲げられた奇態ではなく、あくまで自然本来の姿であり、リンクを
力づけこそすれ、決して陰鬱な気分には陥らせなかった。
その厳しさの一つともいえることだったが、ハイラルの辺境には野生の魔物が幅を利かせている
地域があった。人の寄りつかぬそうした場所も、リンクは恐れず旅の範囲とした。魔物との戦いは
腕を磨くよい機会だったからである。
また、旅は多くの人々との出会いを生んだ。未知の人との出会いがあり、『あの世界』で知った
人との新たな出会いがあり、既知の人との再会があった。それらは時に意義深い結果を導いた。
たとえば、マロンからは『あの世界』よりもずっと早い時点でエポナを譲られることになったし、
サリアとの交流は、やはり『あの世界』よりも早く、デクの樹のこどもを誕生させ、
『この世界』で唯一「根本的な過去改変」の枠外となっていたデクの樹の死を補ったのだった。
いずれにしても、人々のさまざまな暮らしぶりを知り、その幸せなさまを目の当たりにするのは、
リンクにとって実に喜ばしいことであり、自分が生きてゆく上での糧ともなった。
リンクの旅は西へも及んだ。
ハイラル王国とゲルド族の関係は、表向きは平穏であり、両者の間では使者のやりとりや通商が
一定の頻度で行われていた。その往来に乗じ──もちろん充分に警戒を払った上で──リンクは
ゲルド族内にいる「ガノンドロフ嫌い」の集団に接触しようと試みた。話のできる相手を敵中に
確保しておくのは今後のためにも有用、と考えたのである。
ただし、リーダー格のナボールと会うわけにはいかなかった。
リンクと出会った賢者はオーラを発するようになる。ゲルドの砦にいるナボールがそうなれば、
たちまちツインローバの目にとまり、抹殺されてしまうのは明らかだったからである。
それでも接触は成功した。集団の構成員は『あの世界』のゲルドの砦で懇意になった者が主で、
当然、『副官』も──『この世界』ではその渾名はつけられておらず、本名で呼ばれていたのだったが
──含まれており、気心の通じる間柄となるまでに、さして時間はかからなかった。各人の気質を
把握していたためである。
ナボールをはじめ、みなを助けるという意味でも、できればこの集団を離反させて──と
リンクは目論んでいたのだったが、下手をするとハイラル王国とゲルド族の関係を乱してしまう
おそれがあるため、拙速な行動は控えることとし、ひそかな接触を継続させるにとどめた。
リンクの生活は旅のみではなかった。折を見てはハイラル城に逗留し、ゼルダとの逢瀬を楽しんだ。
二人が愛を育むについて、インパはさまざまな助言──あるいは苦言──を呈したが、概して
その態度は寛大だった。ただ、リンクに対しては教育熱心なインパでもあった。剣術の訓練を
日課とし、あまつさえ、リンクの将来のためと称して、勉学を押しつけてきたりもした。リンクは
大いに閉口した。けれども中には旅に役立つ実用的な知識を得られる課目があり、その種の
内容にだけは興味が持てた。結果としてリンクの学問はずいぶん偏ったものとなったが、
リンク自身は平気だった。インパの方もしまいには、リンクを秀才にするのは無理である、
と諦めの境地に達したようだった。
時は穏やかに過ぎていった。
人々は平和に慣れ、リンクですら、事態はこのまま自然に落着するのではないか、と思うように
なっていた頃、突如、世界は激動に見舞われた。
ゲルド軍がハイラル平原西端の町を急襲したのである。ガノンドロフがゲルドの砦に
逼塞してから七年後のことであった。
町の守備隊はあっけなく蹴散らされ、余勢を駆ったゲルド軍は平原西方を席巻した。
駐留していた王国軍も、長年の鬱憤を晴らさんと意気揚がるゲルド軍を押しとどめることはできず、
平原中央部までの退却を余儀なくされた。
王国側に油断があったのは確かである。しかし対応は迅速だった。武技にも統率力にも
定評のあったカカリコ村の守備隊長を総大将に抜擢し、大打撃を受けた軍団を再編成させる一方、
国を挙げての戦時体制を敷いた。
王国軍は反攻し、戦線をハイラル平原西方まで押し戻した、攻防は一進一退となり、激しい
戦闘が果てしなく続いた。早期の決着は望めない情勢だった。
王国軍の善戦に寄与した最大の要件は、言うまでもなく各将兵の奮闘である。が、無視できない
重要な点が他にもあった。
一つはゲルド族の側に分裂が起こったことである。開戦を目の前にして、ガノンドロフは
味方の内の不満分子──すなわちナボール一派──を粛清しにかかった。危険を察した
ナボールらはいち早く砦を脱出し、王国軍の陣営に難を逃れた。もともとガノンドロフに反感を
持っており、近年では、対立よりも友好を、と説くリンクの言に耳を傾けつつあった彼女らが、
亡命という手段を選んだのは必然ともいえた。
ガノンドロフに叛意あり──とナボールらは急告したが、直後、ゲルド軍の総攻撃が
始まったため、その急告も功を奏さず、王国軍は退却を余儀なくされることになった。
とはいいながら、一派がもたらしたゲルド軍に関する種々の情報は、以後の戦闘において王国軍を
大いに助けたのだった。
知らせを聞いたリンクは戦場に駆けつけ、一同の無事を喜んだ。『この世界』では初対面となる
ナボールは、『副官』たちから話を聞いていたせいであろう、初対面とは思えぬ打ち解け方をみせ、
リンクへの信頼を率直に吐露した。
王国軍は亡命者をハイラル城に移送すると決め、その仕事はリンクに任された。リンクには
心を許している彼女らを見ての判断である。リンクはこれを実行し、みなの安全を確保した。
リンクの仕事は、しかしそれで終わりとはならなかった。
王国軍の善戦を理由づける重要な点の二つ目は──これはリンクしか知らない点だったが──
『この世界』のガノンドロフが魔王ではなかったことである。多少の魔力を有してはいても、
戦局を決定づけるほどではない。魔力を振るうとすればツインローバだが、戦場にその姿は
見えなかった。人間相手の戦争である、とリンクは認識していた。
大きな間違いだった。
ハイラル各地に魔物が徘徊し始めたのである。ツインローバが持てる魔力を振り絞って
後方攪乱の手に出たものと考えられた。
ところが、次々に寄せられる情報を総合してみると、魔物が集中的に出現している地域が
あるのだった。デスマウンテン、ゾーラの里、そしてハイリア湖である。後方攪乱にとどまらず、
賢者を狙った攻撃であることは明白だった。辺境にあるコキリの森の状況は不明であったものの、
やはり同様であろうと推測された。
ただ、賢者の正体は知られていないと思われた。ゾーラの里とハイリア湖がともに標的となって
いるからである。『水の賢者』を狙うにしては、狙いが絞れていない。賢者に関係した場所を、
委細かまわずやみくもに攻撃している節があった。
ツインローバが賢者の情報に通じていないことを示す証拠は他にもあった。インパのいる
ハイラル城も、そしてカカリコ村も、集中攻撃は免れていた。ツインローバは『闇の賢者』の
正体を知らず、闇の神殿がどこにあるかも知ってはいないのである。『あの世界』で闇の神殿の
ありかを知っていたのは墓守のダンペイだけだったが、『この世界』でもそうであるに違いなかった。
とはいえ、カカリコ村とて安泰ではないのだった。近場のデスマウンテンやゾーラの里に
加えられる攻撃の余波を受けていたのである。また他にも、賢者と直接の関係がないにも
かかわらず被害が生じている地域はあった。
看過できない危局である。至急の対応が必要だった。が、王国軍には期待できなかった。
王国の軍事力はゲルド軍との戦闘に根こそぎ投入されていたし、そうでなくとも、魔物相手の
戦いは、普通の人間には至難であっただろう。
困惑の極にある王国の指導者たちに向かい、リンクは出陣を志願した。『この世界』でも、
そしてそれ以上に『あの世界』でも、数々の魔物と戦ってきたリンクである。自分しかいないと
決意していた。賢者が狙われているとあってはなおさらである。
指導者たちの中にはリンクの年若さを危惧する向きもあったが、他に打つ手があるわけでもない。
すべてはリンクに託された。
出陣の日は、ちょうどリンク十六歳の誕生日にあたっていた。『あの世界』で七年間の封印から
目覚め、ガノンドロフとの戦いに乗り出した時を彷彿とさせる状況だった。
出で立ちも然りである。
リンクが子供の時に着ていた服は、成長に伴い、当然ながら身体に合わなくなった。ゼルダは
手ずから新しい服を縫ってくれ、その意匠は図らずも、『あの世界』で大人のリンクが着ていた
ものと同じになった。戦いの場であろうといつもの格好を変える気はないリンクだったので、
旅立ちにあたっての服装までが『あの世界』とそっくりになったのだった。
ただし、装備は異なっていた。
コキリの剣とデクの楯は、やはり成長に伴って、リンクにとっては物足りない武器となった。
リンクはゼルダから新たな剣と楯を与えられ──マスターソードやハイリアの盾ほどの尤物では
なかったが──以後はそれらを愛用していた。しかし出陣の時のリンクが帯びていたのは、
それらとは別のものだった。
ダイゴロン刀である。
マスターソードに劣らぬ優れた剣を打ち上げてやる──との約束を、『この世界』のダルニアは、
ついに果たしてくれたのだった。
マスターソードよりも長大なその剣は、両手でなければ扱うことができず、従って、盾は
使えなかった。が、ダルニアの言葉どおり、威力はマスターソードに匹敵し、リンクが振るうに
ふさわしい武器といえた。
国王やゼルダをはじめとする王国の重鎮らに見送られ、リンクは愛馬エポナに跨って──それも
『あの世界』での旅立ちとは異なる点だったが──ハイラル城を出発した。
リンクと同じく、ゼルダもまた成長していた。国王をよく補佐し、未曾有の国難に立ち向かって
いた。見送りの際にも、ゼルダは王女の立場でリンクに激励の言葉を贈り、毅然とした態度を
崩さなかった。
その場では、である。
前夜、リンクの部屋に忍んできた時のゼルダは、王女としての自分をかなぐり捨て、愛する男を
戦いにやらねばならない女の情を、美しい肢体に激しく語らせていたのだった。
リンクは各地を転戦し、着実に魔物を掃討していった。
ツインローバといえども、『あの世界』のガノンドロフほどの魔力はないようで、個々の魔物は
さして強力ではなかった。せいぜい──といっても甘くは見られない相手だったが──
スタルフォス程度の水準である。『あの世界』で神殿の親玉となっていたほどの強敵には
出会わなかった。集中攻撃を受けていた地域では、さすがに魔物の数も多く、困難な仕儀とは
なったものの、結局は危険を排除でき、賢者には害を及ぼさずにすんだ。
とはいえハイラルは広大である。戦いは長丁場となった。
しかも敵は執拗だった。いったん魔物を駆逐した地域へも、あとから反復して攻撃を加えてきた。
リンクは何度も同じ場所を経めぐらなければならなかった。
きりがない、とリンクは悟った。敵の本体を倒さない限り、局面は打開できないのである。
リンクは目標を西へと変えた。
人々にゲルド戦役と呼ばれたこの戦いは、ハイラル王国にとっても、ゲルド族にとっても、
かつて経験したことのない試練となった。
もともとゲルド軍は──『あの世界』のゲルド族がそうしたように──北方の山脈を迂回して
ハイラル城に奇襲をかける計画を持っていた。ところがその道筋は──『あの世界』を知る
リンクが注意を促しておいたため──王国軍の警戒対象となっており、計画は放棄せざるを
得なかった。長期間の雌伏を強いられ、忍耐の限界にきていたガノンドロフは、不利を承知で
正面からのぶつかり合いを選択したのである。無論、それなりの覚悟はあった。全面戦争に
打って出た以上、決着がつくまで断じて退かない、と腹を括っていた。
王国軍とて譲ることはできない。ハイラルを統一に導いたという自負と、その統一を
保たなければならないという使命感が、将兵たちの士気を支えていた。
当初、戦闘は苛烈を極め、両軍はともに少なからぬ被害を出した。戦いが長引くにつれ、補給の
維持も難しくなった。
双方は疲弊し、戦闘の回数は減っていった。開戦から半年が過ぎる頃には、旺盛だった両者の
戦意にも翳りが生じ、互いが睨み合いを続ける状態となっていた。
戦場に到着したリンクを待っていたのは、そんな膠着した戦況だった。
リンクには悔いがあった。みなが幸せに生きることができる平和な世界を──と『あの世界』の
ゼルダから言われていたにもかかわらず、多くの死者を出すはめになってしまったからである。
『あの世界』を覆った悲劇ほどの規模ではなく、ガノンドロフの野望も食い止めてはいるのだったが、
そう考えてみても慰めにはほど遠い。せめてこれ以上の死者は出したくない、と痛切に願った。
王国軍の首脳に対し、リンクはガノンドロフとの一騎打ちを申し出た。首脳陣はこれを承認した。
膠着を打破するに妥当な方法と認め、かつ、リンクにとっては両親の仇を討つ機会でもあることを
考慮したのだった。
ガノンドロフもこれに応じた。ゲルド族の首領としては、挑まれて逃げるわけにはいかなかった
のである。
両軍が固唾を呑んで見守る中、二人は激闘を繰り広げ、ついにはリンクの剣がガノンドロフの
胸を貫き、その巨体を地に倒れ伏させた。
結末を見たツインローバは絶望の叫びをあげ、即座に服毒して果てた。ゲルド軍は全員が武器を
捨てて投降した。絶対的な領袖を失ったとあっては、戦意の保ちようもなかったのである。
ゲルド戦役は終結した。
雲ひとつない青空に数発の号砲が轟いた。それを合図として、ハイラル平原に整列していた
王国軍は、眼前にある城下町の内へと向け、堂々たる行進を開始した。
ゲルド戦役の勝利を祝う凱旋式の開幕である。
リンクはエポナに跨った身を列のしんがりに置いていた。正規の軍人ではないため、制度上、
他の将兵に混じって行進することはできないのである。最大の功があったリンクには不適切な処遇
──と、首脳陣は特例を考慮してくれたが、リンクはそれを辞退していた。行列の順序など、
どうでもよかった。
実際、正門をくぐった凱旋軍は、その最後尾においても、先頭や中央となんら分け隔てなく、
歓呼の声で迎えられた。
沿道は大群衆で埋めつくされ、城下の全人口はおろか、ハイラルに住む人々が残らず集まって
きたかと思われるほどである。通りの両側に建つ家屋の窓にも人は鈴なりで、上から無数の
紙吹雪を舞い散らせてくる。
そうした熱狂の中にあって、リンクの心は穏やかだった。
嬉しくないはずはない。久しぶりに見る城下町。しかも人々は喜びの頂点にある。その喜びを
もたらしたぼくなのだ、と誇りにも思う。
それでも有頂天にはなれない。
さりとて、戦乱を防げなかったという悔いを引きずっているのでもない。
『あの世界』に続いて『この世界』でも──七年という長い時間を経なければならかったものの
──なすべきことをなしたのだ、との静かな感慨が、他の感情を凌駕しているのだった。
道にひしめく人垣の中には、時おり、見知った姿があった。
いつも人目を憚らず町中で抱き合っていた──ぼくが初めてこの町に来た時からそうだった──
あの若い男女が、今日ばかりは関心を互いからはずし、盛んに歓声を送ってくる。
マロンがいる。咲きほこる花のような笑みを顔にあふれさせ、ぴょんぴょんと身体を
飛び跳ねさせ、ちぎれんばかりに手を振って、その手でキスを投げてくる。歴史が変わっても
不変のままの、そんな君の明るさを、ぼくは眩しく受け止める。記憶の上の「初めて」も、
『あの世界』の最終決戦でぼくを助けてくれた祈りの声も、忘れられない思い出だ。
横ではタロンとインゴーが肩を組んで呵々大笑している。勝利の美酒に酔いしれているのか、
足元がふらふらと覚束ない。無邪気とも見える仲のよさが、『あの世界』の二人の波乱に富んだ
関係と対比され、ほのぼのと胸は温まる。
カカリコ村の人たちも見える。優しい夫に付き添われ、赤ん坊を腕に抱いた、幸せいっぱいの
アンジュ。『この世界』ではただの知り合いに過ぎないぼくたちだけれど、性について愛について
教えてくれた『あの世界』のアンジュに、ぼくは心から「ありがとう」と言おう。
歳をも顧みず、はるばる足を運んでくれたみずうみ博士は、今日も飄々とした笑みを絶やして
いない。かつて交わした会話が思い出される。博士の含蓄ある言葉の数々は、励ましとして、
諭しとして、ぼくの脳裏に残っている。
禿げ頭を丸出しにして帽子を振っているのは釣り堀の親父さんだ。商売を放り出してきたらしい。
それを言ったら、どうせ客なんかおらんのやさかい──と、あの訛りで開き直ったようにぼやく
だろう……
みなの『この世界』でのありように、『あの世界』の追憶が重なって、しみじみと感慨を
深めてゆく。
その深まりを彩るのが、軍楽隊の奏する行進曲だった。
勇ましく華やかな曲節は、『ゼルダの子守歌』と『時の歌』を主題の一部にしていた。両方とも
ハイラル王家にゆかりのある曲であるから、使用されるに不思議はない。ところが気をつけて
聴いてゆくと、他にも既知の旋律が巧みに織り交ぜられているのだった。それは『サリアの歌』で
あったり、『エポナの歌』であったり、『嵐の歌』であったり、『太陽の歌』であったり、あるいは
各神殿に関わる六種のメロディであったりして、リンクを意外な感へと誘った。
一般には知られていない曲ばかりだ。特に神殿がらみのメロディなど、知っているのは
ぼくだけのはず……
いや、そうでもない──と思い直す。
ゼルダは知っている。以前、音楽のことが話題になった際、戯れに──曲の持つ意味は伏せた
上で──教えてやったのだ。ゼルダは全部覚えていて、今回、王室付きの作曲家、シャープと
フラットが行進曲を作るにあたり、題材に、と提供したのだろう。つまりこの曲には、ぼく個人に
対するゼルダの想いがこめられているのだ……
隊列の後尾が町の中心の広場に入った時、それを待っていたかのようにファンファーレが
鳴り響き、行進曲は短調に転じた。勇壮さの中にも孤高さを感じさせるその旋律は、リンクが
初めて耳にするものだったが、これまで自分が経てきた冒険の真髄を凝縮的に表現するふうでもあり、
鮮やかな印象を心に残した。
ハイラル城の城門では、王国の主立った人々が凱旋軍を待っていた。ゼルダの姿もそこにあり、
後ろにインパを従えて、門を過ぎる将兵の一人一人にねぎらいの言葉をかけていた。
最後にリンクの順番となった。
エポナから降ろした身を跪かせ、差し出された右手の甲に接吻する。気取ったわけではない。
みながしているのを真似しただけである。
ゼルダは何も言わなかった。微笑んだだけだった。
リンクも微笑みだけを返した。
言葉は要らない二人だった。
ろくに休む間もなく式典が始まった。一同は城内の大広間に参集し、ハイラル王が述べる祝いの
言葉を聞いた。続けて大臣やら他の高官やらが、次から次へと演説を連ねてゆく。お堅いのが
苦手のリンクにとっては、戦場よりも居心地悪い場ではあった。
そんなリンクも、稀には話に注意を惹かれた。式典に参加できない人々からの祝辞が披露された
時である。
ゴロン族の族長がよこしたのは、勝利を祝すという意味の、いかにもダルニアらしい、
ぶっきらぼうな短文だった。が、文面には表れていないダルニアの真情を、リンクはしっかりと
感じ取ることができた。
一方、ゾーラ族からは、修辞を凝らした長々しい美文が届けられていた。キングゾーラの名代で
ルトが書いたものだった。あまりの長さにリンクはうんざりしたものの、反面、微笑ましい
気持ちにもなった。ルトは自分がゾーラの姫君であることを過剰に意識しているのである。
今度会ったら文句を言ってやろう、とリンクは決めた。
ゲルド族のまとめ役に推されて砦に帰ったナボールは、いまでは文字どおりのそれとなった
『副官』との連名で、簡潔な挨拶を送ってきていた。厳粛な式典には似合わない、ざっくばらんな
文章で、読み上げる係官が目を白黒させていたが、それも彼女らの流儀、とリンクには理解できた。
コキリ族からの言づてはなかった。外界との交渉を欠く、子供ばかりの集団ゆえ、当たり前の
ことである。
『でも……』
そっと懐に手を入れる。サリアのオカリナに触れてみる。
最初の旅立ちの時から、ずっとこれはぼくとともにあった。サリアとぼくとでは住む世界が
違うけれど、このオカリナがある限り、サリアとの絆はなくならない。
そして初めてのキスの相手がサリアであるという点は、『この世界』でも変わることのない、
リンクにとっての確かな現実なのだった。
式典のあとは祝宴である。雰囲気は和やかとなり、国王までもが威厳を捨てて、下級の兵士と
親しく語り合った。
リンクも捕まった。
「立派な手柄を立てたことでもあるし、そろそろ家を継いではどうかな?」
上機嫌で語りかけてくる国王に、へどもどしながら返答する。
「ああ……ぼくは……その……まだそんな柄ではありませんので……」
「お父さま」
横にいたゼルダがなだめるように口を挟んだ。
「リンクにあまり無理強いなさらないで。お祝いの席でもあることですし」
娘の要望とあっては、国王といえども聞き入れざるを得なかったのだろう、ゼルダがリンクの
手を引いてその場から助け出そうとするのを、たしなめもせず容認した。リンクはほっとして、
ゼルダの誘導に従った。
並んで歩み去る二人を眺めていたハイラル王に、
「陛下」
一人の高官が話しかけた。
「あのリンクなる者、こたびの戦役で勲功ありとはいえ、礼儀にいささか問題がありますまいか」
「そう言うな。娘のお気に入りなんじゃ」
と受け流したのち、国王はため息混じりに続けた。
「リンクがその気になって、相応の立場に落ち着いてくれれば、わしも安心できるんじゃが……」
「安心とは、いかなる面で?」
「いや、まあ……いろいろとな……」
言葉を濁しつつも国王は、若い二人の後ろ姿に、改めて温かい目を向けるのだった。
夜半を過ぎても祝宴は終わる気配を見せなかった。それほど諸人の喜びは大きかったのである。
その功績ゆえ、リンクはあちこちで引っ張りだことなり、ふだんあまり接点のない、偉い人たちとの
つき合いに忙殺されたが、ゼルダが横にいてくれたおかげで、ややこしい会話の多くをやり過ごす
ことができた。くだけた雰囲気となっていたせいで、気分も多少は楽だった。とはいうものの、
中には酔ってくだを巻く者もいる。酒を飲めないリンクにしてみれば、好んで居続けたい場所では
なかった。
いっときゼルダが場をはずしたので、リンクは大広間の隅に退き、壁に身をもたせかけて、
ひそかに思いをめぐらした。
この調子だと祝宴は朝まで続くだろう。いつまでもこうしてはいられない。なすべきことが
一つだけ残っている。
ゼルダが戻ってきた。リンクが言おうとするより早く、ゼルダの口が耳元に近づき、意味ありげな
ささやきを吐き出した。
「外の空気を吸いに行かない?」
向かった先は中庭である。二人は奥まで足を進め、壇へと続く短い階段に腰を下ろした。
宴席の喧噪が嘘のような静けさと、灯火を不要とするほどに冴え返る月が、そこに幻想的な趣を
醸し出していた。
その趣に気を引かれていたリンクだったが、じきに注意は左隣のゼルダへと向いた。
七年前と同じ場所、同じ位置。いや、二人が大人であることを考えるならば、『あの世界』で
廃墟の城を訪れた時の状態に近いといえる。
期せずしてゼルダの服装もあの時と同じだ。濃淡のある紅色の衣装、トライフォースと
ハイラル王家の紋章が描かれた前垂れ、赤い宝石をあしらった額の飾り、純金製の肩当て、
二の腕まで届く長い手袋。そしてもちろん──
右の耳朶にあるトライフォースの耳飾り。二人の運命を決定づけた、その小さな輝きに顔を
寄せるやいなやゼルダはふり向く。二つの唇がぶつかり合う。二つの舌が絡み合う。互いが互いを
抱きしめ合う。
ガノンドロフを倒してからも、戦いの後始末があって、すぐには城へ帰れなかった。前に
二人きりの時間を過ごしてから、七ヶ月以上が経っている。祝宴を抜け出して、しかも屋外で
こうして抱き合うのはいかにもあわただしいとわかってはいるのだけれど、とても我慢はして
いられない。ゼルダも我慢できないからこそ、ぼくをここに誘ったんだ。
その君が、
「どうにかして」
と切ない声を漏らす。『あの世界』の君もこの状況でそう言ったものだが、意図するところは
それと同じなのか。違うのか。違っていようがかまわない。一方の手で服越しに胸を揉みしだき
ながら、もう一方の手をぼくは君の足元にやる。裾の下に侵入させる。靴下に包まれた脚を
撫で上げる。君は全く抵抗しない。やっぱりこうして欲しいと思っていたんだ。だったらもう
やめられない。腿の途中で靴下は途切れる。熱い素肌が手に触れる。もっと熱いはずの場所を
訪れてやろうと伸ばした手が、まさにその場所へと到達し、ぼくは唖然としてしまう。
下着を穿いていない!
さっき場をはずした時に脱いだのか。こうして欲しいと思うあまり。
驚きが欲情に転化する。蜜液にあふれた部分をこねくりまわしてやる。君は悩ましく喘ぎ始め、
けれどもそれにとどまらず、ぼくの股間に手を這わせるや、中身を取り出して激しくしごき始める。
そう、君は七年でここまでになった。
真っ平らだった胸は豊かにふくらみ、すべすべだった股間は草むらに覆われ、大人の女性としての
姿が完成された。見かけだけじゃない。七年前はベッドの上でどうしたらいいかもわからず
ひたすら身を硬くしていた君が、いまでは自ら下着を脱いでぼくを誘うようになった。ためらいも
なく男の肉棒を手にするようになった。そんな淫らな女になったんだ、君は!
それはぼくがそうなってもらいたいと願ったからでもあって、この七年間、ぼくが徐々に
成長してゆく君と無数の交わりを重ねてきたのは、その願いを実現するためでもあったわけで、
事実、いまの君は心も身体も『あの世界』の君とそっくりといえるくらいになっていて、しかし
『あの世界』の君と完全に同じでもないのであって、そうした乖離を今夜のうちにもぼくは
解決しなければならないのだけれど、こんなふうに欲望を煽られてしまったら、とうていすぐには
ここを去れない。君の淫らさをもっと確かめずにはいられない。どうやって確かめよう。たとえば、
ぼくがペニスをしゃぶれと言ったら君はいそいそと従うだろうし、この場で着ているものを
全部脱げと言ったら、君はちょっと困った顔をして、それでも言うとおりにするだろう。
ほんとうに言ってやろうか。言ってやろう。言ってやる──
「姫様!」
二人は瞬時に身体を離した。
女だ。ゼルダの侍女か。声は近くない。中庭の外だ。見られてはいないはず。だが、いまここに
来られたら、何をしていたのかと怪しまれてしまう。隠れた方がいいだろうか。それとも──
迷っているうち、中庭の入口あたりから会話が聞こえてきた。
「どうした?」
「あ、インパ様。姫様がどこにいらっしゃるか、ご存じありませんか?」
「何かあったのか?」
「陛下がお呼びになっておられます」
「このあたりではお見かけしなかったな。別の所を捜してみなさい」
「わかりました」
会話は途絶えた。
リンクは苦笑した。ゼルダを見ると、やはり照れ臭そうに微笑している。
誰にも知られずここへ来たつもりだったが、インパは気づいていて、見張りをしてくれて
いたのだ。危ないところを救われた。ただ、あとでインパにはさんざん叱られるだろう……
ごほん!──と、中庭の入口から咳払いの音。聞こえよがしである。
「行かないとだめみたいね」
ゼルダが小声で言った。同意せざるを得ない。
戦場ではずっと耐えてきたのだ。もう少しくらい耐えてやろう。
二人は身なりを整え──ゼルダは下着も身に着けて──中庭を出た。インパの姿はなかった。
気まずい思いをしないようにと配慮してくれたようである。それはよかったが、もたもたして
いると、別の誰かに出くわさないとも限らない。二人はそそくさと大広間に戻った。
国王がゼルダを呼んだのは、竪琴の演奏を披露させるためだった。ゼルダは用意された竪琴で、
『ゼルダの子守歌』を美しく奏で、みなの拍手喝采を受けた。
ゼルダが竪琴をよくすることをリンクは知っており、シークが竪琴を弾けたのもそれゆえと
理解していた。のみならず、シークの持っていた竪琴は、いまゼルダが奏でた竪琴と同一のもので
あることも承知していた。
おそらく『あの世界』では、ハイラル城を襲ったゲルド族によって、多くの品が略奪され、
世界に散っていったのだ。竪琴も然りで、いかなる経路かは不明だが、結局はカカリコ村に
流れ着き、改変前の世界ではアンジュを経て、改変後の世界では「なンでもや」という雑貨屋を
経て、シークの手に渡った。その竪琴についてシークは、「自分にとって重要なものだという
不思議な感覚」が湧いたと言い、なぜか身体にしっくりと馴染むと言っていたが、それは
当然すぎるほど当然なのだ。
シークは、いわば自分自身の竪琴を奏でていたのだから。
この経緯を、いまのゼルダは知らない。
けれども、もうじき、知ることになる。
演奏を終えて歩み寄ってきたゼルダに、リンクは告げた。
「時の神殿へ行こう」
王女の深夜外出は、周囲の混乱を招いたものの、きわめて重要なことであるから、という
リンクの強い主張で、実行に移された。ゼルダも不審に思う様子だったが、リンクの主張に異議は
唱えず、『時のオカリナ』を持っていくように、との指示にも素直に従った。
護衛の兵士とインパを連れ、二人は時の神殿に赴いた。時刻は夜明けに近い頃となっており、
城内と同じく勝利の喜びに浸っていたであろう城下町も、すでにひっそりと静まりかえっていた。
神殿の入口の両側には、祝宴に加われなかったかわいそうな見張りの兵士が、一人ずつ、
所在なげに立っていた。ゼルダにいたわりの言葉をかけられて感激する二人は、もちろん、
リンクが七年前に──『あの世界』での経験も含めれば──何度となく会った、あの二人ではない。
七年経てば彼らとて位も上がり、先の戦役では、それぞれ部下を率いる分隊長として、なかなかの
戦功を立てたのである。
連れは入口に残しておき、二人は二人きりで神殿に入った。
吹き抜けの部屋には暗みが満ちていた。が、天窓から差しこむ月の光で、おぼろげながら内観は
見てとれる。加えてリンクの持つカンテラの光が、足元を充分に確かとしていた。
奥に至り、リンクは懐から三つの精霊石を取り出して、石板の所定位置に填めこんだ。次いで
ゼルダを促し、『時のオカリナ』で『時の歌』を奏でさせる。
重厚な音とともに『時の扉』が開く。
剣の間へと足を踏み入れる。天窓よりの月光、カンテラの光、そして周囲の壁が発する微光に
よって、ここでも内部は視認できる。あるべきものが目に入る。
マスターソード。
『この世界』では初めて見るそれが、深閑とした部屋の中央で、ぽつねんと台座に位置を占めていた。
「リンク、いったい……」
耐えかねたようにゼルダが声を発した。
ゼルダにすれば、何もかもわからないことだらけだろう。けれども説明している余裕はない。
それに間もなく説明の必要もなくなるのだ。
手の動作だけでゼルダを制しておき、台座のもとへと歩を進める。カンテラを床に置き、
マスターソードの前に立つ。両手で柄を握りしめる。
抜き放つ!
これでいいはずだ。これでいいはずだ。これですべてが解決するはずだ!
ぼくには何も起こらない。起こるわけがない。時を越える旅は封じられているし、仮に
封じられていないとしても、旅の目的地が存在しない。『あの世界』では子供のぼくが七年前の
時点でマスターソードを抜いて七年後へと旅をしたのだが、いまは大人のぼくが七年後の時点で
マスターソードを抜いたのだから、どこへも旅などできないのだ。
何かが起こるのはぼくじゃない。
ゼルダは? ゼルダはどうなった?
茫然としている。ぼくの行動にあきれているふうにも見えるし、別の思いに囚われている
ふうにも見える。どうなんだ? どうなんだ? ゼルダにあれが起こったのか? それとも──
「君は……」
確かめようとしてそれしか言えない。これでいいはずだと自分に言い聞かせながらもほんとうに
これでよかったのかという不安がどうしても頭を去ってくれない。
ゼルダ、君は、いまの君は──
「わたしは……ゼルダ……」
機械仕掛けのような呟き。
「……あなたと、この七年を、ともに生き……そして……」
呟きが途切れる。茫然としていた君の顔が、初めはゆっくりと、次いで急速に感情を湛え──
「あなたとともに戦ったゼルダです!」
腕を広げて駆け寄る君。マスターソードを投げ捨てて駆け寄るぼく。
ぶつかる身体を互いに受け止め、固く、固く、固く抱き合う!
やっぱりこれでよかったんだ!
剣は戦と旅にのみ用いるものにあらず
ただその時を待ちて用いるべし
マスターソードの用途。
武器としての用途。時を旅するという用途。そしてもう一つの用途。
歴史統合作用。
過去の改変に伴って二つに分かれた世界は、マスターソードを台座から抜くことによって一つに
統合される。『あの世界』における改変前の世界と改変後の世界の統合は、時を越える旅に
付随して起こったのだが、必ずしもそうである必要はない。マスターソードを抜くという行為が
ありさえすればいいのだ。
いまのぼくの行動で『あの世界』は『この世界』に統合された。同時に人々の記憶も統合された。
普通の人だと『あの世界』の記憶は封じられて意識の上には浮かんでこない。しかし知恵の
トライフォースを宿す資格のあるゼルダは、両方の世界の記憶を認識することが可能だ。いまの
ゼルダはトライフォースを宿していないが、ゼルダ自身が言ったように、「トライフォースは、
ただの印」であって、「それが宿っていようといまいと、持ち主の本質は、変わらない」のだから、
ちゃんと『あの世界』の記憶を認識できる。
つまり『この世界』のゼルダと『あの世界』のゼルダは同一人物となったのだ。二人を区別する
意味も必要もなくなったのだ。
顧みれば、『あの世界』において、改変前の世界のシークと、改変後の世界のシークを、ぼくは
同一人物と見なしていた。そう見なしても全く問題はなかった。
そもそもぼく自身がそうなのだ。『あの世界』で過去と未来を往復したのは、ぼくの記憶であり
意識であって、肉体が時間を移動したわけではない。過去の肉体と未来の肉体は別個のものだった。
それでもぼくは自分を一人として認識している。
抱擁が緩む。笑みを浮かべてゼルダが言う。
「あなたなら気づいてくれると信じていたわ」
笑みをもって応える。
「君は時を旅する道を閉ざすとは言ったけれど、歴史の統合まで不可にするとは言わなかった
からね。ただ……」
笑みを引く。
問題は「その時」がいつになるかという点だった。
三つの精霊石と『時のオカリナ』があるのだから、マスターソードを抜こうと思えばいつでも
できた。が、そうするわけにはいかなかった。十六歳の誕生日を迎えるまでにマスターソードを
抜いたら、ぼくは光の神殿に封印され、聖地への入口が開放されてしまう。トライフォースが
無防備になってしまう。そんな事態にはできなかった。
それだけではない。ガノンドロフが『この世界』にあるうちは、マスターソードを抜くことは
できなかった。なぜなら、抜こうものなら、ゼルダと同じくトライフォースを宿し得る
ガノンドロフは、賢者の正体やら何やらを含めた『あの世界』の記憶を、すべて認識してしまう
からだ。
実際には、ちょうど七年が過ぎる頃、ゲルド戦役が始まった。出陣の時、ぼくは十六歳の
誕生日を迎えていたが、ガノンドロフが存在する以上、まだマスターソードには手を出せなかった。
のちにガノンドロフを倒すことはできたものの、戦いが長期にわたったせいで、必要以上の時間が
経過してしまった。
『あの世界』のぼくが、十六歳の誕生日以降、大人として活動した期間が──言い換えれば、
七年間の封印を終えてからゼルダと別れるまでの期間が──半年足らず。正確には百六十八日。
ところが『この世界』では、ぼくが十六歳の誕生日にハイラル城を出発してから今日までの
期間が七ヶ月以上。正確には二百二十三日だ。
「もっと早くこうすることができていたら……君をずいぶん待たせてしまって……」
ゼルダは笑みを引かなかった。
「待ったといってもふた月ほどよ。あなたは七年も待ったんですもの。それに比べたらわたしなんか……」
「『この世界』の君と一緒だったぼくの七年より、君のふた月の方がもっと大変だったはずだよ」
「でも、早すぎるよりはよかったと思うわ」
「え?」
意外な弁に戸惑ってしまう。ゼルダが笑みを大きくした。
「今回の場合、二つの世界が統合された時点で、それより先の『あの世界』はなくなって
しまうでしょう? 統合されるのが、あなたと二人で過ごした、あの一週間よりも前だったら、
わたしはあの一週間の記憶を全部失っていたわ。そんなことにならなくて、ほんとうによかった」
「そうか……そうだね」
再度の固い抱擁が、あとに続いた。
聖地への道が開いていた。カンテラの光を頼りに、二人は長い螺旋階段を下り、やがて終着点に
至った。
巨大な黄金の三角形が、静やかに、しかし圧倒的な存在感をも漂わせて、そこにあった。
しばしの沈黙を経て、ゼルダがささやいた。
「触れてみる?」
リンクはいぶかしく感じてゼルダの顔を見た。
トライフォースに触れる資格を持つ者などこの世に存在しない──と言ったゼルダなのに?
「いまのあなたなら、資格があるのではなくて?」
ゼルダはかすかに微笑んでいる。試していると察せられた。
考えながら、言葉を並べる。
「仮に資格があったとしても、これには触れちゃいけない……と思うんだ。心正しき者が
トライフォースを手にすれば、ハイラルは善き世界に変わる……というけれど、善き世界に
しようとするなら……神の力じゃなくて……ぼくたち自身が……そうすべきなんじゃないかと……」
並べる言葉がなくなってしまう。
「うまく言えないな」
「いいえ」
ゼルダが応じた。
「よくわかるわ」
満足の思いをうかがわせる、声と表情だった。
二人は剣の間へと戻り、事後処置を施した。
リンクはマスターソードを台座に返した。聖地への道が塞がれた。生じた変化はそれだけである。
無論、時間移動も起こることはなかった。
部屋を出たのち、ゼルダは『時のオカリナ』で『時の歌』を奏で、『時の扉』を閉じた。
リンクは石板から三つの精霊石を回収した。
すべてはあるべき状態となった。
ハイラル城に帰った二人は、ようやく終わりを迎えつつあった祝宴に顔を出したあと、城の
主塔に登り、その頂上に立った。
時、まさに夜明けである。
月は西方の山並みに落ちかかり、東の空では太陽が赤い輝きを現し始めていた。闇が光へと
移りゆく中で、淡い明るみに覆われた、肥沃なハイラルの大地が、二人の眼下に広がっていた。
「きれい……」
ほのぼのとしたゼルダの嘆息を、リンクは安らかな気持ちで受け止めた。
『この世界』のゼルダとしては見慣れていても、『あの世界』のゼルダとしては、感慨なくして
眺めることのできない風景だろう。
いまや一人となったゼルダではあるのだけれど。
二つの世界の統合により、悲劇的だった『あの世界』の歴史は、ようやく幕を閉じたのだ。
なすべきことを、ぼくは、なした。
が……
時の勇者としてのぼくの使命は、まだ終わってはいない。この美しいハイラルを、ぼくは
これからも守ってゆかなければならない。
その使命をともにするのは……
リンクは左手を横にやり、意志をこめてゼルダの右手を握った。少しく加えた力に対し、
ゼルダも力を返してきた。緊密に行われる意志の交換は、見合わせた顔の間でも、同じ緊密さで
行われ、二つの短い言葉となって、互いの了解を明らかにした。
「君と」
「あなたと」
温かくも高邁な交流の時間は、しばらくののち、不意に中断した。ゼルダがいかにもおかしそうに
表情を崩したのである。
「どうしたの?」
問うと、
「思い出したの」
とゼルダは答え、なおもくすくすと笑いを挟みながら、その笑いの理由を開示した。
「時の神殿でマスターソードを抜いた時、あなたはわたしを見て、ずいぶんうろたえた顔をして
いたわね」
「え? そんなに?」
「あからさまだったわ。『あの世界』のわたしが目の前にいると確信できていなかったんじゃない?」
詰まってしまう。
そのとおりなのだ。これでいいはずだと思いながらも、ぼくは不安を捨てきれなかった。
「やっぱりそうだったのね。『あの世界』であれだけ仲よく過ごしたのに、わかってくれなかった
なんて、ちょっとひどいんじゃないかしら」
待ってくれ。『あの世界』のゼルダの記憶が宿ったといっても、身体は『この世界』のゼルダの
ままなのだから、見極める方法などありはしない。あの時のゼルダは茫然としていて、表情から
内心を読み取ることもできなかった。わかれという方が無理だろう。
──と承知した上で、ゼルダはぼくをからかっている。「お姉さん」の感覚で。
思いつく。
「確かに間抜けだったよ。『あの世界』の君がそこにいるとわかる簡単な方法があったのに、
そこまで気がまわらなかった」
「方法って?」
首をかしげるゼルダ。
「『あの世界』の君しか知らないことを訊ねてみればよかったんだ。たとえば……」
耳に口を近づけ、小さな声で言ってやる。
「『あの世界』の君は、時の神殿の剣の間で、マスターソードの台座の前に這いつくばって、
何を叫んだか」
きょとんとしていた顔が、みるみるうちに真っ赤となり──
「もう!」
ぼくの胸へと押しつけられる。抱きとめておいて、今度はこちらがくすくすと笑う。
ほどなくゼルダは顔を上げ、赤みをそこに残したまま、軽い睨みを送ってきた。
「あなたったら、『この世界』で七年経っても、いけない人のままなのね」
「わからなかったのかい? 君は『この世界』の君でもあるんだから、この七年間のぼくが
どうだったか、よく知ってるはずじゃないか」
「ええ……そうね……」
声を消え入らせ、ゼルダは考えこむような顔つきになった。
頭の中をまとめているらしい。二種類の記憶が、まだうまく整理されていないのだろう。
リンクも思い出す。
この七年、ぼくとゼルダが何をしてきたか。ぼくがゼルダに何を教えてきたか。『あの世界』の
ゼルダとの交歓に優るとも劣らない、官能的な体験の数々。
再び睨まれる。
「やっぱりあなた、とてもいけない人だったわ」
いけないのはぼくだけじゃなかっただろう──とは言わずにおき、
「必要なことだったんだよ」
と開き直る。
「『この世界』の君が、『あの世界』の君と同じくらいになっていないと、記憶が統合された時、
困ると思ってね」
「まあ」
ゼルダの眉が吊り上がった。あきれたような、それでいてどことなく嬉しそうなその表情は、
次に一転しておすまし調となり、話題も唐突な変化をみせた。
「今日の予定はどうなっているの?」
身体を離して問いをよこすゼルダに、まごつきながらも返答する。
「まず大臣主催の朝食会があって、軍の首脳にも呼ばれていて、他にもいろいろあったな。
夕方までぎっしりさ。夜は夜でまた宴会だし」
「でもゆうべほど大がかりじゃないわ」
「うん、朝までってことはないと思うけれど」
「じゃあ……」
ゼルダが顔を寄せてくる。
「さっきのあなたの質問への答……」
悪戯っぽく笑む口が、そっと言葉をささやいた。
「今夜、ゆっくり、ベッドで聞かせてあげる」
リンクの全身を甘い震えが駆け抜けた。
THE END