三國茜と結婚した。
風太郎にとって、全ては三國造船丸ごとを乗っ取る為の、ただの手段の筈だった。
屋敷の茜の部屋がそのまま夫婦の寝室となり、大きなベッドが運び込まれた。
豪華な部屋に豪華な家具。その全てが自分には不釣り合いで、思わず苦笑めいたものをもらしてしまう。
これからは全てが自分のものだ。
遠くない未来、屋敷も会社も全て。
そして、先ほどからどことなく緊張した面もちでこちらを見つめる、茜自身も。
少し明かりを落とした、二人だけの寝室。
「今日からいっしょの部屋だね」
何がそんなに嬉しいのか、笑顔で茜は言う。
「本当に茜と結婚できるなんてね。夢みたいだよ」
心にもない言葉を紡ぐ。本心をけして悟らせないように。
「おいで」
ベッドの上に腰掛けて手を差し伸べた。つとめて優しい声を出す。
おずおずと隣に座る茜の腕をとって、未だうすく傷跡の残る手首に口づけた。
痛ましい表情を作り、辛そうな声色を意識して。
「ごめん。こんなことをさせてしまうなんて」
風太郎が欲しい、と願った茜。
それが叶わないと知ったとき、自らつけた傷。
それは彼女の命を奪うには至らなかったが、父親や姉にとっては衝撃だったに違いない。
「茜には風太郎君が必要なの」
そう言われたときのことを今でも覚えている。
風太郎自身にとっても、茜がそんな手段をとったことは予想外だった。
茜の夫として三國家に潜り込むまでは、死なれるわけにはいかないのだから。
「心配かけて、ごめんなさい」
「それは緑さんや……お義父さんにもだろ?」
「うん……」
「もうこんなこと、させないから」
「大丈夫、」
これからは風太郎さんがいてくれるから、と再び茜は微笑んだ。
そんな風に幸せそうな笑顔にも、心を動かされるわけにはいかなかったのだけれど。
風太郎を愛しているという茜。
だからといって、風太郎が茜を愛せるはずもない。
そんな資格は、どこにも。
いまさら誰かを愛して、幸せを手に入れるなど。絵空事にもならなかった。
今の風太郎にできるのは、「優しい夫」の仮面を被ること。
遠くない未来、その仮面を外すことになろうとも、今だけは茜を騙し通さねばならないのだ。
そっと茜の右頬に触れる。そこにある青い痣。茜のコンプレックス。
そっと撫でると、それだけでとろけそうな表情を見せる。
髪で顔を隠し、ひたすら無表情を貫いていた茜は、今では驚くほどに表情豊かだ。
そっと抱き寄せると、びくりと身体がふるえた。顔を見ればほんの少し不安そうで。これから何をされるのか、本当にわかっているのだろうか。
薄く笑みを浮かべて、ベッドに組み敷いた。触れた肩から伝わるのは、かすかな体温だ。
「風太郎さん……?」
その声を無視して、髪に顔を埋める。
「大丈夫」
そう呟いて、行為に及ぼうとした瞬間。
風太郎を見つめる茜の表情が、初めて口づけたあのときと同じことに気がついた。
何も知らなかった茜。口唇はしっかりと閉じたまま、口づけに応えることもできなかった。そっと顔を離せば、あまりの驚きに目を見開いていた。
そのときの経験から、ほんの少し予感はしていた。でもまさか。
今自分の身に起こっていることが理解しがたいのだろう。頬を染めてただ固まっている。その姿が、ひどく可笑しかった。
元々度を超えた箱入りだとは思っていたが、まさかこれほどとは。
きっと何も知らないまま、綺麗なままで育てられたのだろう。あの父親にあの姉だ。その上、外に友人を作ることもなかったであろう茜は、まさに純粋培養だった。
「どうしたの……?」
風太郎が黙り込んでしまったので不安になったのか、おずおずと話しかけてくる。
「いや……」
茜はまだ何も知らないんだね、とくすくす笑いながら告げれば、きょとんとした顔で見上げてくる。
「わ、私、何か変だった?」
自分に不手際でもあったのかと、不安げな顔を見せる。安心させるように頭を撫でてやれば、たったそれだけでほんのりと顔が赤らむのが見てとれた。
「違うよ。可愛いなって」
「え?」
「だって、知らないんだろう?」
普通の男女が何をするか。先ほどの風太郎の行動の意味も。赤ん坊はコウノトリが運んでくると信じている子供のようで、それはひどく滑稽だった。
「さっき俺がしようとしたのはね、」
***
「……ほんとう?」
風太郎がほんの少し説明しただけで、茜の許容量はいっぱいになってしまったらしい。
先程ほんの少し触れたときとは比べものにならないほど、茜の顔は真っ赤だった。
ベッドにちょこんと座って、もじもじと落ち着かない様子で、寝着の裾を弄っている。
「こんなことで嘘なんてつかないよ」
「みんな……?」
「俺もよくは知らないけど、恋人とか、夫婦とかね」
「は、恥ずかしい……かも」
「恥ずかしいから、好きな人としかしないんじゃないのかな」
その言葉で、茜は納得したようだった。
「じゃあ、これから……」
先程の続きをするのかと茜は言うが、正直それは無理だと思っていた。
せめてもう少し性知識があるならともかく、今現在の茜を抱こうにもうまくいく筈がない。
今だって、表情には怯えが混ざっているというのに。
風太郎に心酔しきっていて、操るのもたやすいと思っていた相手だったが、思わぬところで手間がかかりそうだ。
別にこのまま抱かずに清い関係でも構いはしないだろうが、万が一他に知れるようなことがあれば面倒なことになる。
不自然さを感じ取らせるわけにはいかないのだ。
「いいよ、まだ。だって茜、怖がってる」
「嫌いに、ならない?」
不安なのか、いつもそう聞く茜に「ならないよ」と優しく告げて。
「印をあげるよ」
茜が俺のものだっていう、印をあげる。
そう言って、茜の首筋に吸いついた。
歯は立てず、少し痛みがはしるくらいに口唇だけできつく吸う。
「ん……っ」
茜が声をあげるのと同時に解放すれば、その場所には赤い痕が散っていた。
風太郎が満足気にぺろりと口唇を舐めて茜を見やれば、茜は上気した肌に潤んだ瞳でこちらを見つめていた。
その瞳には微かな情欲を含んでいて、この調子ならばそう遠くない未来に茜をこの手に抱くことになるだろうと風太郎は確信する。
「その痕が消えるまでに、茜を俺のものにするよ」
心と身体、どちらも風太郎に溺れさせてしまえばいい。
その存在すべてを、風太郎のものにしてしまえばいい。
風太郎は、その自分の思考をただの金への執着の為だと思っている。
たどり着くべき場所へと至る為の、ただの手段にすぎないと。
今は、まだ。