「送ってくれてありがとう。もうここでいいわ」  
 エントランスまでやってきて、振り向きざまに告げた途端、視界が塞がった。  
 今日のデートの相手の唇が触れているのだと気付くのに、多少時間がかかってしまった。軽いキスはすぐに終わり、  
「お、おやすみっ!」  
彼は背を向けて走り去る。夜目にも真っ赤で、唇からは彼の緊張と天まで舞い上がりそうなほどの喜びが勝手に伝わってきた。読むまでもない。  
 今のが、彼のファーストキスだ。  
「ひゅーひゅー、熱いね―」  
「ひっ!?」  
 思わず胸を押さえた。ちょっと浸っていたいときくらい、私にもあるのだ。  
「よっ、紫穂ちゃん」  
 賢木修二センセイは、年を追うにつれ、ますます派手に、かつますますオヤジくさく、かつますます黒くなってきた。  
 皮膚癌に気をつけた方がいいと思う。医者の不養生って言葉もあることだし。  
 だいたいいい年して少年ぶって、気持ちの悪い。意図しなくても白い目になろうというものだ。  
「センセイ、何しに来たの?」  
「皆本の携帯に繋がらないからさ。渡したいもんがあるんで」  
 そうか。皆本さんは携帯の電源を切っているのか。  
「なんでそんな死にそうな顔してんだ?」  
 勝手に先に立って歩き始める、余計な情報を与えてくれた彼を、私は激しく憎んだ。  
 皆本さんの自称親友実際親友とも長い付き合いになる。  
 初めて会ったときは、わたしよりも先に皆本さんに接触していたサイコメトラーに、敵意と反感を抱いたものだけれど、  
そのうち相手を読むことにも、連携を取るのにも抵抗はなくなった。  
 ただし、私のどんな可愛げのない態度も平気な、わざとなのか天然なのかわからない無神経だけは今でもむかっとくる。  
 郵便受けを覗き、あえて距離を開けたのに、センセイはエレベーターで開閉ボタンを押して待っていた。  
 いらない気遣いだ。  
「おい。ほんとに顔色悪いぞ。子供ちゅーがそんな衝撃だったかあ?」  
 つくづく私の気持ちを逆撫でするのがうまい人だ。  
「バカにしないでよ。キスくらい」  
 初めてじゃない。  
 今日の相手は告白してきた少年だ。実は名前もろくに思い出せない。  
 今日という日を埋めるには渡りに船のお誘いで、それに彼の初々しさが少しばかり、懐かしかった。  
 薫ちゃんみたいだった。  
 私にだって、あんな頃があったのに。  
「どうして年が変わらないのに、私は初恋をもう帰って来ない昔みたいに思っているんだろう……ははーん、そういうことか。思春期め」  
「勝手に読まないでよっ」  
 肘のあたりをいつのまにか捕らえていたセンセイは、にやりと笑う。  
「子供の世界を卒業しただけだって。大人の世界はまだまだだ。楽しいこともたくさんあるぞ」  
 そうかしら。こんな気分、容易く覆るなんて思わない。  
<ほんとだって>  
 センセイの思念が伝わる。  
 眼前に、センセイの顔があった。  
 
 さっきのキスは、余る勢いをどこにぶつけていいかわかってなかった。  
 センセイのキスは、何をどうすればいいか多分全部知ってる。  
「何、す……」  
 顎を上げると、追ってきた唇が歯に当たり、そこから唇の内側を舐めてくる。  
 少し引いて油断した途端に、深くなる。  
 それ以上は、嫌。初めてだもの。  
<へー、いいこと聞いた>  
 考えるんじゃなかった。押し付ける唇の強さが変わる。  
 首の後ろがくすぐったくて思わず背伸びするようになった姿勢のまま、壁に押しつけられた。  
 全身が密着して、私は思わず、身に危険が及んだときの反射的な行動をとった。  
 つまり、能力を使った。  
 センセイも能力を使っていることの意味に気付いたときには遅かった。  
 自我の境が崩壊する。  
 融解して、混ざり合う。  
 くらりときて、私は目を閉じた。  
 
 それは最初は、穏やかに始まった。  
 私の怯えがセンセイに宥められ、センセイの内側で増殖する欲望が私の背中を震わせる。  
 私の感じていることは全部センセイに伝わって、センセイの考えてることが加わってまた帰ってくる。  
 止めようがない。止めたら、私が筒抜けになるだけと思うと、とてもその気にならない。  
 往復が止まらないで無限に増幅を繰り返す。  
 容量超えそう。  
 センセイもここまでとは思っていなかったのだろう。戸惑いとそれから素直な喜びが堰を切り、私を押し流す。  
 センセイの自制が途切れたのがわかって、私はぞっとした。  
 お互いリミッターも解除していないのに、サイコメトラー同士で力を使い合うとこうなるのか。  
 早く上に着かないだろうか。  
 センセイの頭越しにうっすらと目を開けて、私は気付いてしまった。  
 行き先ボタンが押されていない。  
<あーそういえば押してねえかも……>  
 呑気な思念の割に、また激しくなる。むさぼられる。  
 私の膝はがくがくしてきた。やばい。  
「だ……」  
 僅かな息継ぎの間に、  
「生体コントロール、使ってる?」  
あえて口に出して聞いたのは、使われてると思いたかったからだ。  
「んなもん、使ってるわきゃ、ねーだろ……」  
 わかってるくせにセンセイはわざわざ否定した。  
 そういうところが嫌い。  
 
 そう言う前にまた、口を塞がれたので、心で反論する。  
 この色黒色魔変態ホモナンパ男、ヤブ医者、若造り。ゲームで私に勝ったことないくせに。  
 汗臭いのよ。髪切りなさいよ。  
 リミッターのセンス悪すぎるし、最近額が広いし、夜ご飯は肉料理だし。ガムくらい噛まないの? 加齢臭? ヒゲ痛い!  
<途中でえーとえーと、とか微妙なのもまるわかりだぞ?>  
 …………大っ嫌いっ!  
<おーおー、言ってることと感じてることと違うなあ>  
 すけべおやじ! 変なモノ当てないでよ!  
<さすがに激しく傷つくぞ!>  
 自業自得でしょ。  
 返事の代わりにまた一段と濃厚になる。  
 こうして思念で喧嘩をしていても、センセイの方が遥かに余裕だ。  
 それは仕方ない。私の方が経験不足なんだもの。  
 経験豊富なセンセイが、喜んでるのがわかるのは、いいのか悪いのか。  
 もう私は身体がどこにあるかもわからない感じなのに、どこか冷静に次どうするかを考えてるセンセイの思考によって、  
 私が今何をどうされてるか逐一わかってしまって、そうなるまいと思えば思うほどに私の身体は言うことをきかない。  
<俺の思考、言語化してみ?>  
 セクハラです!  
<育ったよなあ。特に>  
 やめてったら!  
<痛いぞおい>  
 血の味と痛みが伝わる。舌先を噛んでしまったらしい。  
 私の意志か、センセイの願望か、と考えて、どちらでもなくエレベーターが動き出したためだと気付く。  
 動き出したということは誰かが呼んだということで、当然どこかで止まるということで。  
<もうすぐドアが開いちゃう。ほんとにもうやめて>  
<やだよーん>  
 センセイの返事はにべもない。こんな状況では言い逃れもできない。  
 何かなかったっけ。使えるもの。  
<三宮紫穂、解禁!>  
 セクハラ思念に必死で抵抗すると、ようやく身体の実在感が戻ってきた。  
 指先が痺れる。それはセンセイに抱きすくめられているせいだけでもなくて。  
 汗ばんだ手が腰に回っていて。そこから、唇から、私の中心から、身体はじっとりと熱を持って次を求めてる。  
 身体の反応は残酷だ。  
 さっきの可愛いキスなんか、もうどこにも残っていない。  
 もうハンドバッグも取り落としてしまって、残っているのは手の中の……  
 それが何か思い出す前に、私はそれを彼の指の間に滑り込ませた。  
「んあ、局長が!」  
 センセイがびくりと私から手を離す。  
 持っていたことすら忘れていたそれは今日の夕刊だったらしい。  
 センセイが私を読まなくなったので、循環していた感情と思考と感覚と記憶と、その他いろいろが去っていく。  
 ただ一人では立ってられない私は、センセイにつかまっているしかなかった。  
 その一瞬。  
 私が身を引くと同時に扉が開いた。  
 
「紫穂!? ちょーどええとこやったな。今コンビニ行こうかと思っとってん」  
 そこに立っていたのは葵ちゃんだった。タイミングがいいのか悪いのかわからない。テレポートで山奥のコンビニにでも行けばいいんじゃなかろうか。  
「なんや、あんた顔赤いで? 息も乱れとるし服も……なんかあったん? ……あれ、賢木センセイ、いたん」  
 小憎らしいほど平常モードのセンセイが私にハンドバッグを渡してくれるついでに、私の心拍も抑えてくれる。すっと熱が引いた。  
「ああ。痴漢に追いかけられたとかで紫穂ちゃんが走っててさ、ちょうど通りかかったんで一緒に来たんだ」  
 都合のよすぎる言い訳だが、私は口裏を合わせるしかなかった。  
「何もしなくて付いてくるだけなのよ。三十路間近なのに相手のいない寂しいロリコンに、自分から近づくの、嫌だわ」  
「俺はまだ29だぞ!?」  
「あーら、センセイのことなんて言ってないわよ。ね、葵ちゃん?」  
 返事がない。いつもならば多少様子のおかしい私につっこむべき葵ちゃんは、明らかに元気がない。  
 原因に察しはついていたけど、聞かずにはいられない。  
「……どうだった?」  
 葵ちゃんはやれやれといった感じで肩をすくめた。  
「あかんわ。もうお邪魔虫いう感じで途中で帰ってきてしもた。うちもあんたに合流すればよかった」  
 だから言ったのだ。  
 薫ちゃんと皆本さんはもう、発火まで時間の問題という話で、プライベートでどこかに行ったりすれば、心の中で一線が越えられるのは確実だった。  
 私が皆本さんに触れているときにそれが起こりでもしたら、読んでしまったらと思うと、とても一緒になんて行けなかった。  
「そんなわけで紫穂、ぱーっとぱーちーしよ。何かいるもんある?」  
「皆本さんの秘蔵のいろいろ、隠してある場所、知ってるわよ」  
「おっしゃそれ!」  
 葵ちゃんは部屋に戻り、駆け込んでいく。  
 私は気の毒そうにしながらも止めはしないセンセイの上着をはだけて、内ポケットの記憶媒体を取り出した。さっき見えたのだ。  
「これで用は済んだでしょ」  
 私は可能な限りにこやかに笑って、彼の鼻先でドアを閉めた。  
 扉の向こうで何やら叫んでいるのを放って、私は扉に背を預ける。  
 葵ちゃんが既に家にいなければ、あるいはさっきの一瞬がなければ、センセイを勝手に入れて身体の欲望を解消してもよかった。そんな気分だった。  
 一人でか、それとも連れ立ってか、帰ってきた薫ちゃんと皆本さんがどんな顔をするだろうと思うと楽しくて。  
 でも、超度6と7の差だろうか。それとも、私の方が触れていた時間が長かったからか。最後の瞬間に、わかってしまったから、それはしない。  
 そういえば、わざわざ家に来るとは、何の用なのだろう。  
 好奇心を抑えきれずに、記憶媒体に手を触れると、いつ吹き込んだのか、センセイの思念が再生されて、私は媒体ごと外へ投げ捨てたくなり、  
窓を開けたところで思い留まった。  
 全部お見通しなのは本当に腹が立つが、たまに癒されなくもない。  
<純情な少年、からかってやるなよ。やけで遊ぶなら、俺にしとけ。  
 ちなみにこの中身は皆本にやる、と以前一方的に約束したAVなんで、処理は任せる>  
 波風立てるも、立てないも、私次第、と。  
 用があるなんて嘘、かな。思えば皆本さんはわかりやすくて、センセイにもわからないはずなかった。  
 さっきわかった。センセイは、自分で思っているよりもずっと、私のことが大事だ。  
 それがわかってしまったら、自暴自棄で抱いてもらうなんてできない。  
 ため息が出る。  
 今夜は眠れそうになかった。  
 いろんな意味で。  
 
 
 END  
 
 
 

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