たかし――
まといはね、あなたの事を考えると夜も眠れません。
あなたが最後に放った一言で、まといがどれだけ傷付いたかわからないでしょうね。
今度こそは――
今度こそはずっといっしょだよ――
そう信じたからあなたの求めに応じて身も心も捧げたのに、あんなに愛し合ったのに、
結局今までの恋人と同じような血も涙もない別れの言葉を突き付けたのね。
どうして?
たかしは一体まといの何が不満だったの?
一人暮らしのたかしのためを思ってご飯作りに泊り込んだり、たかしのためにごくせん
観るのを諦めたり、フェラチオが好きっていうから口で受け止めて飲んであげたのに、
お尻の穴が丸見えになるバックも許してあげたのに――
電話したりメール送ったりファックス流すのだって、たかしの事が心配だからやってるのよ。
それを何?迷惑?そんなヒドい言い方ってあるの?!
まさか――
まといの他に女が出来たとか言わないよね?冗談でしょ、相手は誰?
そう言えばたかし、世界ふしぎ発見が好きだったよね。
チリチリ?吉野紗香?まさか――黒柳さんじゃないでしょうね?!
夢見てるんじゃないわよ!テレビに出るような芸能人が、一般人のあなたの事なんか
相手にする訳がないでしょう!
――もういいわ。
たかしの本心がどうあれ、私がたかしの事を愛しているのには変わりないから。
あなたと逢えない今この時にも、まといの心はたかしで占められているんだから。
狂おしくて、自分がまるで生ける屍になったみたい。
だから今、会いにゆきます。
たかし――
たかしたかし――
たかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかし
たかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかし――
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「――それでケーサツのお世話に?」
職員室で同僚の甚六先生から事情を訊くと、今時珍しい袴姿の青年は腫れ物に触るような目付きで、
ソファに腰掛けたセーラー服の少女を見下ろした。
女生徒は青年の視線に気付き、おずおずと顔を上げた。彼女は震える声で袴の青年に呼びかけた。
「糸色先生――私、その」
女生徒は一瞬思案してから、すみません、と頭を下げた。ガラスのテーブルに向けて顔を伏せる。
袴の青年こと糸色望は、彼女の向かいに位置するソファに深く腰掛け、呆れ顔で少女に応じた。
「私に謝っても意味がありませんよ。ええと――」
女生徒の名を呼ぼうとして、糸色は口篭もった。彼女の名前が出て来なかったのだ。
常月ですよ常月まとい――背後から甚六先生が小声でフォローを入れた。そうそう、と糸色は頷く。
彼が受け持つクラスの生徒ではあるにも関わらず、名前が出て来ないのは糸色自身も奇妙に感じた。
「常月さん。ケーサツのご厄介になるなんて尋常じゃありません」
「――すみません」
彼女は啜り泣きを交えながら、単調な謝罪の言葉を何度も繰り返す。
泣きたいのは私の方だ――糸色は天井を仰ぎ右手で顔を覆った。
もし学生から逮捕者が出たとなれば、学校の評判は地に落ちるだろう。当然のその責任追求は厳しい
物になり、矛先は担任である糸色にも向けられる。免職でさえ充分考えられる事態だ。
さっきから泣いている常月まといは、果たしてそういう事態に想像が及んでいるのだろうか――
普段ならもっと些細な事で死にたくなるのに、今日ばかりは糸色も首を吊る気分にならなかった。
それが糸色望なりの、心の動揺だった。糸色は口調を和らげ、傍目の甚六先生には親身で熱心な
教師に映る――それ故に信頼を勝ち得る――鷹揚な態度で話し掛けた。
「一体どんな付きまとい方をしたんですか君は」
言い終わるや否や、常月まといは唐突に顔を上げる。その剣幕に糸色の表情が引き攣った。
頬には涙の跡が残り、しかし真っ赤に腫れた目を吊り上げたその顔はさながら鬼瓦のようである。
ばん、とガラスの卓を叩く音が職員室に響く。室内の耳目を集める中、常月まといが大声で叫んだ。
「私付きまとってなんかいません!」
気圧された糸色が思わず立ち上がり、まといはそのまま机に突っ伏して泣き喚いた。
常月まといはショートヘアの特徴的な可愛らしい娘だった。
芸能人に例えるなら、竹内結子に似ているかも知れない。世間的には充分美少女と呼べるだろう。
そんな彼女が受け持ちのクラスに居て、何故印象に残っていなかったのか。
じっくりとソファに腰を据え、ぬるい茶など啜りつつ辛抱強く相手をする事で彼の疑問は氷解した。
常月まといは授業中ずっと俯いて、交際相手にメールを打っていたのだそうだ。しかもまといは糸色の
授業のみならず、他の教科でも五分おきに長文を送信していたのだと言う。
その時点で生徒としては論外である。が、その程度ならば長時間職員室に引き止める必要はなかっただろう。
もっと悪い事に、彼女は交際相手を付け回して写真を隠し撮りした上、深夜相手のアパートに押し掛けたり
部屋に盗聴器まで仕掛けていたという。
「正真正銘のストーカーじゃないですか――」
幼児のように訥々と語るまといを前に、糸色は重い息を吐いた。もっともそれで彼の心に圧し掛かった
重荷が下りる訳ではないが。
どうして彼の受け持つクラスばかり、学校でも札付きの問題児ばかり抱えてしまうのだろうか。先週引き
こもりの件を片付けたと思った矢先に、今度はストーカーと来た物だ。
厄介者は自分一人で十分だ――糸色の呟きは本心をそのまま吐露した物だった。死ぬに死ねない。
糸色は生徒の態度に然程関心を寄せない。それでも彼の受け持つ現国の授業中に騒ぐ生徒は誰一人とおらず、
水を打ったような静けさの内に授業時間が過ぎて行く。この為糸色は甚六先生からの信頼を得ていたが、
実際には生徒の方が糸色を腫れ物扱いしているだけの話だった。
新学期早々に起こったある事件で、生徒達は糸色が病的に繊細な人物だと知ってしまったのだ。
先生は心の弱い大人なんだ――
大人なんだ――
生徒達は糸色をそう評した。自分等が授業中騒いで、その結果糸色の自殺を招いたりすれば――
残りの一生を後悔の内に過ごす羽目になるだろう。そんな訳で糸色の扱いにはいつも注意を払っている。
それが人一倍心の弱い大人を担任に頂く、二年へ組の張り詰めた姿であった。
とはいえ――
意外に思われるかも知れないが、糸色はこの厄介な案件を片付けるのに吝かではなかった。
責任追及の末に職を失う事だけは避けたい。最悪免職になれば、教師以外の職能を持たない
糸色は生活の糧を失って餓死してしまうだろう。
それだけは嫌だ――
いくら糸色が死にたがりと言っても、彼でさえ死に方だけは自分で選びたいと思うものである。
死ぬまでの苦痛も長引くだろうし、骨と皮ばかりに痩せ衰えた骸を晒す事になる。そんな死に方は
糸色の望む所とは正反対の極地にあった。
何度目かのチャイムをやり過ごした頃、まといが思い詰めた顔を上げて正面の糸色を見た。
「私――」
弾力のありそうな頬に残る、乾きかけた涙の跡が生々しい。
「恋をするとダメなんです。どうしても好きになった人が気になって」
先生には解らないわ――まといは呟く。気を利かせて糸色が出した茶に手も付けない。
「先生には私の気持ちなんて解りません。私がどんなに深く彼の事を想っていたのか、私がどれほど
彼を愛していたか知らないでしょうから」
「愛ですか――」
ちゃんちゃら可笑しい、と糸色は内心腹立たしく思った。そんな幼稚な考えで行動した結果が、
今回のケーサツ沙汰を招いたのだ。高校生が簡単に愛などという言葉を出さないで欲しい――
糸色は関心の薄い態度で、まといの言う『愛』という言葉に触れず言った。
「だからって交際相手の部屋に盗聴器を仕掛けますか?とても普通じゃないと思いますがね。
いずれにせよ君がやった事はストーカーです。君も高校生なんだから良く考えて――」
「ストーカーですって?!」
突然耳元で聞こえた素っ頓狂な黄色い声に、糸色は会話の中断を余儀なくされる。
天真爛漫を絵に描いたような幼い顔立ちの少女が、いつの間にか糸色の隣に腰掛けていた。
彼女の存在に、糸色の気分はさらに暗澹たる物となった。
ペンネーム、可符香――
先日の進路希望調査票をペンネームで提出した時点で論外だが、さらに彼女が記入した進路希望先は
『第一希望 神』『第二希望 未来人』『第三希望 ポロロッカ星人』という、頭の悪い小学生でも
書くのを躊躇うような凄まじい内容だった。
以来彼女は糸色の中で、最も注意を要する生徒に認定された。
早々に立ち去って貰いたい――痛む頭痛を抱えつつ、糸色は彼の茶碗を啜る可符香に声を掛けた。
「なぜ君がここにいるのですか?それに君が飲んでるのは私のお茶ですが」
糸色先生と間接キスしちゃった――可符香が茶碗をガラステーブルに置いて無邪気にはしゃぐ。
聞いちゃいない――とどこか冷めた糸色の視線に気付いて、彼女は茶碗を置いた。
「先生が気になって職員室まで来たんですよ。そしたら先生が常月さんと向き合って、ストーカーが
何とかって話をしてたでしょう。もうビックリしちゃいました」
糸色はそうですか、と力なく肩を落とした。
余計な話を聞かれた以上、論外の干渉を覚悟せねばならないだろう――
論外こと可符香はそんな糸色の苦悩を察する事もなく、自分のクラスメートに目を向けて声を掛けた。
「常月さん、どうして先生とストーカーの話をしていたの?」
まといが目を細めて俯く。自嘲気味に小さく吐き捨てた。
「私ストーカーなんだって先生に言われた。たかしを愛してただけなのに――」
先生ヒドい――可符香の叫びに、まといと糸色が同時に目を大きく開いた。ただし一方は思わぬ味方の
出現に、もう一方は論外の取った予想外の言動に対する驚きという違いはあったが。
可符香は立ち上がり、自信に満ち溢れた表情できっぱりと言った。
「常月さんはストーカーなんかじゃありません。私たちの身近にストーカーなんかがいるわけ
ないじゃないですか」
彼女の目は世の中を疑う様子など微塵も見せず、キラキラと輝いていた。糸色の苦手な目だ。
ストーカーでなければ、では何だと言うつもりなのか。糸色が尋ねると、可符香は糸色の気付かない
僅かな間を置いて答える。
「彼女のはただの純愛ですよ。常月さんは一途だから、それだけ相手の事を好きになっちゃうんです。
マジメに書いたら本になって売れちゃいますよ。ちょっとしたディープラヴじゃないですか」
何がディープラヴですか――糸色はげんなりとした物を胸に覚えながら反論した。
「違う意味でディープなんでしょうが。盗聴器仕掛ける事のどこがラヴですか?」
「――そうよね常月さん?」
可符香は彼を無視してまといに目を遣った。
聞いちゃいない――糸色は彼女の言動に眩暈を覚え、こめかみを指で押さえた。
半ば予想はしていたものの、可符香の脳構造から編み出される解釈はやはり常軌を逸しているように思える。
先週は引きこもりの生徒を『座敷童』呼ばわりしたのだが、脳のどの部分を捻ればクラスメートを妖怪
呼ばわり出来るのか糸色には不思議で仕方ない。
一方のまといは、横に立った可符香を少し慌て気味に見上げた。
やがて救われた表情で頷いたかと思うと、彼女は立ち上がって糸色を圧するように力強く言った。
「彼女の言う通りです先生!私ちょっとだけ愛が濃いだけなんです!好きなんです、仕方ないんです!」
アイコですか――糸色は呆れた面持ちで、しかし口調だけは穏やかに応じた。
「高校生がラヴなんて口にしても、大人の前では底の浅さは隠せませんよ。大体大人のラヴが出来る
人間は、最初からストーカーなんてやらかしません――」
論外と厄介にニ方向から睨み付けられ、圧されるように糸色は黙った。
「私ストーカーなんかじゃありません!これだけ私が何度も言ってるのに、先生は私がどれだけ思い
詰めているのかさえ解らないんですか?!」
一旦口火を切ると、言葉という物は止め処なく溢れ出るらしい。糸色に言葉を挟む隙さえ与えず、
まといは早口で捲くし立てた。
「私はただ彼を好きになっただけなのに、彼を愛してしまっただけなのに、どうして私の行動は
解って貰えないんですか?! 好きになった相手が気になるのは当然でしょう?!
それとも何ですか?先生は愛してしまった人を心配するのが良くないって言うんですか?
そんなの不自然ですよ!もしかしたら先生、大人なのに愛する心を知らないんじゃないですか?!
可哀想――糸色先生可哀想ですよ!私彼の事を考えただけで、胸が暖かくなって――」
まといはきゅっと右手を鳩尾で握り締めた。この手の少女にありがちな自己陶酔まみれの演技、と糸色は見る。
可符香がまといの大袈裟な演技に、感動した面持ちでその通りだと大きく頷いた。
「解るわ常月さん!それがラヴよね!」
可哀想なのは君たちの脳味噌です――と、糸色は自分が教師である事も忘れてそう叫びかけた。だが。
三角に釣り上がったまといの目をまともに見て、糸色は彼女を表現し得る、いかなる言葉をも失った。
完全に――
逝っている――
こんな女に付き纏われるそのたかしという相手に、糸色は同情を禁じ得なかった。別にたかしでなくとも、
常月まといの異常な精神に触れたら気がおかしくなるに違いないだろう。
まといは天井に顔を向け、最早聞き手の存在など意にも介さず喋る。
「――だけど同時に、ものすごく不安な気持ちも生まれるんです。私が付いていない間、彼は一体何を
してるんだろう。好きな彼――たかしの事なのに、私が知らない事なんてあって良いんでしょうか?
そんな筈ないわ、それって愛が足りないって事じゃない!彼の一日二十四時間の行動を把握しないと、
逢えない時間に思い浮かべるたかしの姿に現実味が伴わなくなるわ!そんなの只の妄想じゃない!
私の中のたかしは、現実のたかしと一緒じゃないと駄目なんです!私の知らないたかしなんて
この世に存在してはいけないんです! ああたかし――あなた今何をしているの?!
電話くれたっていいじゃない!電源切れてわかんない!何処に、誰といるんだかわかんない!
たかし、ちゃんと私の事見てる?たかしに逢えないと、この苦しみが治まらない――
だから今、会いにゆきます――」
たかし――
たかしたかし――
たかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかし
たかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかしたかし――
壊れた機械のように、ここにはいない恋人に対して幾度も幾度も呼び掛けるまといの姿は、とても生きている
人間のそれには見えなかった。
喩えるなら幽鬼と云うか生ける屍と云うか。精神状態も尋常のそれとは程遠い状態にあるのは明らかだ。
やがてまといは糸色を突き飛ばし、凄まじい勢いで職員室を飛び出す。糸色は床に打付けた後頭部を擦りながら
起き上がり、すかさず彼女の後姿に呼び掛ける。
「待ちなさい常月さん!今度相手の部屋に侵入したらタイホですよ!」
呆気に取られた可符香をその場に残し、まといを追って糸色も袴の裾を翻して走り出した。
袴穿きという事もあって、糸色の足は遅い。それでも校内で常月まといに追い付けたのは、歩幅が世の成人男性
相応にあったのと、追い付いた場所が下駄箱であった事が幸いしたのだろう。まといが靴を履き替えるのに必要な
タイムラグが生じるからだ。
靴も履かずに逃げ出そうとした常月まといの後ろから、糸色は覆い被さるようにして羽交い絞めに抱き付いた。
糸色の胸板の感触が、制服の上着越しを通してまといの身体に伝わった。腕の筋肉も女のそれとははっきり違う。
まといの抵抗が一瞬止んだ。その間に糸色は彼女を抱えて立ち上がる。
だがすぐにまといは手足をばたつかせ、担任の国語教師と、それから自分の中に沸き起こった何かを振り払おうとした。
「先生はなして!邪魔しないで、たかしが私を――」
待っているのだ、と言いかけた丁度その時、まといは数人の生徒が自分達を遠巻きにして取り囲んでいたのに
気付いた。時間からして恐らく教室移動の途中にあったのだろう、とまといは当りを付ける。
彼らに向かって、まといは懇願した。
「ちょっと誰か助けてよ!糸色先生が私に抱き付いて――これってセクハラじゃないの?!」
互いに隣り合う生徒同士で顔を見合わせ、雑談とも相談とも付かぬ冗長な会話が繰り広げられた。
――あれストーカーじゃないのか?
――知ってるの?
――ああ。何でも隠し撮りしたり盗聴器仕掛けたりするみたいだぜ。
――うわ、あんな可愛い娘が?マジで?
――マジだよ。今日だって職員室でずっと説教食らってたんだってよ。
――オマエ詳しいな、何でそんな事知ってるんだよ?ソースは?
――今日の現国って自習だったろ?その娘の担任が絶望だからさ
――ああへ組か。それで絶望が捕まえてるんだな?
――どうするお前、あの娘助けたらどうだ。彼女欲しいって言ってたろ?
――盗聴器仕掛けるんだろ?オレはイヤだよ。
――オレもだ。第一付け回されるなんてキモいじゃねえか。
――そうだよね。それに下手に関わって糸色先生が自殺したら夢見悪いし。
――どっちも厄介者だからな。関わらないのが一番だ。
まといが昨夜やらかした事件は、昼頃にはすっかり学校中に知れ渡っていたらしい。そして彼女を捕らえている
袴姿の国語教師も、生徒たちの間では腫れ物として有名だった。どちらも関わりたい相手ではなかろう。
何で私を助けてくれないの、とまといは涙の滲む目で無責任な生徒達を睨む。会話がぴたりと止んだ。
彼等は組み合った教師と女生徒を困惑の目で見る。二人とも、彼等には荷が勝ちすぎた。
「あの――ごめんなさい!」
女生徒の一人が頭をぺこりと下げて回れ右をする。それを合図に、彼等は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
絶望的な表情で、まといは彼女から逃げ出した制服の後姿を見送った。
そんな常月まといに、糸色は優しげな低い声で耳打ちする。
「あなたを心待ちにしている人が、ケーサツを呼んだりしますか?」
まといの髪が僅かに揺れるのを糸色は見て取った。彼女はいやいや、と拒絶の態度を取る。
糸色の言葉を信じまい、と心に決めているようだ。
「絶対何かの間違いよ、私たちあれほど愛し合っていたのに!」
「愛――ですか」
身体を密着させ、落ち着いた口調で語る糸色の言葉は、意志とは関係なく自分を落ち着かせるような
不思議な力を持っている。まといにはそう感じられた。
「ならばお尋ねしましょう。彼の目を思い出せますか?最後に会った時、彼に何を言われましたか?
それは――愛し合っている人のものでしたか?」
一言づつ丁寧に紡がれた糸色の呼び掛けが、まといの頑なな心の隙間を潜って彼女に染み込んで行く。
くすぐったいようなもどかしいような気分の中で、まといは昨夜の記憶を手繰り寄せた。
彼の――たかしの怯えたような顔。激しい怒りを含んだ叱責の言葉と、それに続く冷淡な口調。
――ケーサツ呼んだから。
駆け付けたケーサツに両脇を抱えられて部屋を出る時、縋り付くように振り返って見た物は――
自分とは全く違う人種、いや生物を見るような冷たい目付き。
「あんなに一緒だったのに――もう」
まといの目尻から涙が零れ、身体からは力が抜けた。糸色は打ち拉がれた彼女の体重を支え、
寄り掛かったまといの顎を指で自分の顔に向けさせる。
「言葉一つ通らないんですね。宜しかったら、私が本当のラヴを教えて差し上げましょうか?」
まといの髪や頬を撫でながら、口調はあくまでも優しく。彼の姿は教師と云うより、文学青年気取りの
手馴れたジゴロと表現した方が相応しかった。
高校生のラヴではない――
本当のディープラヴを――
無言で頷いた常月まといに、考える力も抗う意思も見出す事は出来なかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
糸色先生――
本当の愛を教えてくれるって言いましたけど、結局は身体の事なんですね。
保健室に連れて来られた時に気付くべきでした。私にはたかしがいるんです――けど。
糸色先生に抵抗できません。ベッドの上に横たえられた時も、先生の為すがままになって――
先生――
先生の手って暖かいんですね。制服越しにも丁寧な愛撫が伝わって来ます。
服を着てるのがもどかしくなってしまいます。
上着もブラウスも早く脱がせて欲しい――
やだ、何を考えているのだろう。私にはたかしがいるのに。
私たかしを裏切るつもりなんてありません!お願いだから上着のスカーフに手を掛けないで下さい!
お願いだからスカートのベルトを緩めないで、裾を捲くり上げないで――パンツ見えちゃう。
やだ食い込んでる、そこ触らないで!って、触らないんですか?
たかしなら筋上に食い込んだそれを指で撫って、その内布越しでは足りなくなって
パンツの中に手を突っ込んで来るんですが。
触られてもいないのに、
内側から――
下りてくる――
違います!パンツに染み出来ちゃったけど、先生を受け入れるつもりなんてありませんから!
そんな不敵な目で見ないで下さい!やだ近づかないで抵抗できない――
うなじ舐めないで内股撫でないで――ああくすぐったい。
ヘンな声が出てしまいます。決して糸色先生で感じてる訳じゃありません。
やだ、糸色先生重いわ――先生から逃げられない。
頬擦りしないでキスしないで――私の口の中を舐め回さないで下さい。
頭の奥の方がずん、と痺れてしまいますから。無意識の内に先生の舌を突付き返してしまいます。
ダメ、上顎の裏は弱いの――
くすぐったくて息が苦しくて。でももっと欲しくなって、先生の首を掴んで私からも
ディープキスを返しちゃいました。
上着の裾から先生の手が入って来ます。上着の下でブラウスのボタンが外され、先生の手がブラ越しに
私のおっぱいを鷲掴みに揉み上げました。
ダメよ――おっぱいはもっと包むように触って下さい。
そうそう、そんな風に優しく触ってくれるのなら別にいいんですけど。
ああ、何だか先生の手付きって安心できますね。
このまま何時間触られても揉まれても――
先生がほっぺたとかおでことか、あっちこっちにキスしてくれてる。
私も手を襟の中に突っ込んで、先生の広い胸板を撫でちゃおう。
――結構固いのね、男の人だから当たり前か。
先生の唇をついばみながら、彼の肌触りと体温とを感じ取ります。甘々な雰囲気に酔い始めて、
この人とならいいかも、とか思ってしまいます。
だって先生の顔、キレイなんだもの。糸色先生からは生理的にイヤな印象を受けません。
それに優しいし。ホントはたかしにもこうやって、優しく愛撫して欲しかったな――
って先生、いきなり何するんですか!
そんな乱暴に上着脱がさないでスカート引き摺り下ろさないで!
最後に残ったパンツまで取り去られて仰向けにされ、遂に来るのかと身構えます。
先生と触れ合っている内に私もそろそろ――
目を瞑って覚悟を決めました。先生が入りやすいように足を広げます。
けれども先生は私の恥ずかしい部分には直接触れませんでした。内腿を指で撫でたかと思うと
次はちょっとモジャモジャした茂みの地肌をくすぐるように――
先生、触ってくれないんですか?
もうイヤだ、こんなに下りて来た私のソコには興味ないんですか?
手足をじたばたさせていると、先生は突然私の足を掴んでようやくその部分にキスしてくれました。
舌で身体の中を舐めまわされて、ヘンな声が出ちゃいます。
そんなぺちゃぺちゃ音を立てないで、恥ずかしいよ!
イヤ、広げないで!そこ舌で突付かないで!痺れる――
お願い糸色先生、どうせイクのなら先生に抱かれてイキたいの!
先生だってイヤでしょう、せっかく女の子が目の前にいるのに抱けないなんて。
まといなら大丈夫ですから、ねえ早く!
先生のソコ、固く大きく反り返ってますよ!早く私の中に入りたいって言ってますよ!
やだ、焦らさないで!焦らすくらいなら、私腰を突き出して先生を迎え入れちゃいますよ!
何を驚いているの先生?私がこんな風になっちゃったの、先生が苛めたからですよ。
あ、先生大きい。深い、深いよぅ――
気分が落ち着いたので薄目を開けると、糸色先生の顔が間近にありました。
ううん、顔だけじゃない。私の中に糸色先生の熱い脈打ちがはっきりと感じられます。
やっと先生と一つになれたんですね。私からもう一回キスしちゃいます。
先生の方が私の態度にビックリしてました。そうだよね、私あんなに嫌がってたもんね。
嬉しい、糸色先生がまといの中で動いてくれてる。
にちゃにちゃ言ってる。私そんなに濡れてたんだ。
先生の動きに合わせてヘンな声出ちゃうけど、それは先生も一緒。
やだ足広げないで、アソコが繋がってるのが見えちゃう!
ぬらぬらとした光沢に覆われた私の裂け目を、同じく私ので濡れた先生が大きく広げながら
分け入って、その度に規則的な昂ぶりが私の中に生じて――
二人の息も鼓動も重なってきました。私の身体も先生を求めて自然に動きます。
先生が私の腰を掴んだと思うと、一層激しく私の中に打ち込んで来ました。
ああ先生凄い――
また来ちゃう――
息が苦しくなって、頭がまともに働かなくなります。先生が何か叫んでいます。
私も我慢出来ない、先生一緒に、先生、せんせい――
先生を何度も呼んでいる内に、私飛んじゃったみたい。
ゆったりと目を開けると、目を瞑った糸色先生の顔が間近に見えます。
肩で荒い息を吐きながらどくん、どくんと私の中に浴びせてる糸色先生を感じていると、
自分がたかしの事なんかどうでも良いと思っているのに気付きました。
けれども寂しいとか悲しいとか全然思いません。私には先生がいるんですから。
糸色先生と身も心も結ばれた喜びに比べたら、たかしの事なんか些細な問題なんですから――
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
常月まといから引き抜いて彼女の横に寝転ぶと、糸色は深い溜息を吐いてまといを眺めた。
行為の余韻が身体の中で燻っていたのか、まといはしばらく仰向けのままでつつましい胸を
上下させていたが、やがて首だけを隣の糸色に傾けて
にっこりと
微笑んだ。
「たかしに会うのだ」と狂ったように喚いていた少女の面影を、糸色は欠片も見出す事は出来ない。
ひとまず落ち着いて話を聞いてくれそうな雰囲気に、糸色は自分の仕出かした事の重大性にも気付かずに
少しばかり胸を撫で下ろした。
まといは息を吐いて身を起こすと、脱ぎ散らかしたスカートのポケットからティッシュを取り出して
内腿から少し濃い目の茂み辺りを軽く拭った。
一枚では足りなかったのか、二枚三枚と取り出す。流れ出てきた二人分の体液を四枚目のティッシュで
受け止めると、まといはそれを丸く纏めながら感慨深げに呟いた。
「素敵――これがディープラヴなんですね」
「さすがに課長島耕作みたいには行きませんでしたが」
糸色はそう言って苦笑した。まといは何だか良く分からないといった風な、きょとんとした顔を
彼に向けて訊ねる。
「課長島耕作って?」
一瞬だけ部屋の空気が止まった。
糸色はまといの反応に軽い失望を覚える。最近の娘は島耕作に課長時代のエピソードがあった事を
知らないのだろうか。何気ない会話の中にも、微妙な世代間のギャップが顔を出すものだ。
「銀座のママや大株主の娘を、中年のねっとりとした性で骨抜きにするエピソードですよ」
「やらしー、家の父親が読んでる新聞の連載小説みたい」
まといは忍び声で笑いを上げた。
若い娘には伝わりにくい話だったか、と糸色は島耕作のエピソードを自分一人で消化してしまう事に決めた。
糸色はベッドの脇に立ち、脱ぎ散らかした羽織と袴を身に着ける。足を開き気味に伸ばしたまといの隣に
座って、彼女を手招きした。まといは素直に応じ、彼の隣に座って身を預ける。
頭を引き寄せてそっと髪を撫でながら、糸色はまといの耳に囁いた。
「でもね常月さん」
まといって呼んで――少女が微笑んだ顔を上げて糸色を嗜めた。
「――まといさん、究極のディープラヴってこんな物じゃないんですよ」
「どういう事ですか?」
無邪気に尋ねるまといに対して、糸色は揺るぎない口調ではっきりと告げた。
「心中です」
心中――まといは糸色の言葉を口の中で繰り返した。
「愛し合う男女は一緒に死ぬ事で、その愛を完成させられるのです。結婚だって似たような物ですよ」
「どういう事ですか?」
「一緒の墓に入るんだから同じです」
それって――まといは目を輝かせ、糸色の眼鏡の奥を真っ直ぐに捉えた。
どうでしょう――糸色は苦笑しながらはぐらかす。
「私の持ち歩いている鞄の中を見せましょうか?」
纏わり付く全裸の少女をそっと引き離し、糸色は着衣を整えて床の鞄を手に取った。
横向けに座る彼女の目の前でその留め具を開ける。
練炭――
荒縄――
睡眠薬にエンヤのCD――
まといはしばらくそれを見つめたが、やがて不思議そうな様子で糸色に質問した。
「どうしてエンヤなんですか?ニルヴァーナじゃ駄目なんですか?」
「死ぬ時くらい好きな音楽を聴きたいでしょう。別に曰く因縁のあるアーティストを選ぶ必要はありません。
好きなアーティストなら、例え一青窈でも直太郎でもクイーンでも構いませんよ」
しかし直太郎やクイーンを聴きながら練炭で眠るというのもシュールな絵柄だ、と糸色は自分で
言いながらもそう思う。嗜好の問題とはいえ、糸色がやればギャグにしかならないだろう。
エンヤ好きなんだ――まといが声を漏らさずに笑う。
そうです――糸色は顔を背けて決まり悪そうに答える。
「私もエンヤ好きですよ。糸色先生と一緒です」
それは良かった、と糸色は頷いた。まといは殊更喜んだ様子で、先生と一緒、と繰り返す。
「常月、いやまといさん――」
はい、とまといは真面目な顔で返事する。すぐ目の前に糸色の優しそうな顔があった。
「死にたくなったら、私が一緒に死んで差し上げます、その時は是非私を呼んで下さい」
そう話す糸色の手を取り、まといは微笑んでキスをした。
その翌日――
朝のホームルームを迎えた二年ヘ組の教室で糸色が点呼を取っていると、横開きの扉が突然がらっと開いて
爽やかな朝の挨拶が教室に飛び込んだ。
「おはやうございます」
少し澄ましたレトロな発音に、糸色も生徒も一斉に扉へと注目する。
淡い桜色の羽織に紺の袴姿の少女。はいからさんが通るかサクラ大戦の世界からそのまま飛び出たような
彼女が、和傘を折り畳みながら教室へしずしずと足を踏み入れる。
常月まといだった。生徒たちの間に不吉な予感が走る。
居並ぶ生徒たちが言葉を失い、教室が凍り付いたような静けさに包まれた。
――常月まといが大正浪漫に染まった
彼等の身近な大正浪漫と言えば、当てはまる対象はただ一つ。彼等はそれに向けて一斉に視線を浴びせる。
当の大正浪漫こと糸色望は、しかし生徒の視線に気付く事なく普段通りの落ち着いた態度でいた。
「艶やかな出で立ちですな常月さん。何か祝い事でもあるのですか?」
前日まといと交わした関係など微塵も見せない、冷静な口調だった。
それでもまといには糸色から声を掛けられた事が嬉しいらしく、教卓に向けて微笑を送った。
それから恥ずかしそうに目を伏せる。大勢のクラスメートなど、彼女の視界には映っていないようだ。
常月まといと糸色とを順に見比べ、生徒たちは二人の間に生じた関係を雰囲気から読み取る。
糸色の泰然とした雰囲気は、自らの立場を理解した上でのものなのか――女生徒が堪らず手を挙げ、
糸色は彼女の発言を許可した。
「先生、ご自分のピンチわかってますか?」
「何がですか?」
状況をまるで理解していない糸色の返答に、彼女はいいです、と諦めた様子で教科書を広げた。
まといが教卓の正面にあった空席に腰を下ろす。糸色は勝手に着席した彼女を嗜めた。
「常月さんそこは今日休みですよ。君の席はもっと後ろでしょう」
いいじゃないですか先生――まといはニコニコとした笑顔を糸色に向けた。
「私前の方でしっかり勉強したいんです。いいでしょ先生?」
教室にどよめきが起こり、糸色はそれを制した。着席したまといを指差しながら、糸色は教室中の生徒に話す。
「聞きましたか皆さん。皆さんも彼女の勉強熱心な所を見習って下さいね」
先生――今度は男子生徒が挙手した。
「先生、彼女の場合は勉強熱心なのとは違う気がしますけど」
「どう違うんです?」
少し首を捻り、男子生徒は糸色から目を逸らしながら曖昧に答えた。
「えっと――その内解ると思います」
そう言って自分の卓に目を落とした男子生徒を、糸色は不審な目付きで眺める。
そんな糸色を、常月まといが教卓の前から笑みを浮かべて眺める。
そんな三人を、教室の生徒たちは不安そうに見守った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
糸色先生――
まといはね、先生の事を考えると夜も眠れません。
私の知る限り、一番リアルで神聖な愛を教えてくれたのが先生なのだもの。
好きになって当然でしょう?
だから私も先生に近付こうと、先生と同じ袴を穿いてみたの。クラスのみんなには不評だったけど、
先生の一言でそんな事どうでも良くなっちゃった。
艶やかですね――
先生私の格好を見て、そう言ってくれたよね。お世辞でも私本当に嬉しかったよ。
ねえ先生見てる?
先生と同じ格好をした私が一番前の席で、授業中に胸元を見せてるのに気付いてるでしょ?
ほら、ここ――鎖骨の下、胸が膨らみ始めるこの場所。
先生が付けてくれたキスマークだよ。今日はブラ着けてないから、鳩尾の辺りに付けられた
もっと沢山のキスマークも見せてあげるんだけど。
そしたらおっぱい見えちゃうね。それはさすがに恥ずかしいか――
いいよ、先生にだけ見えるのなら。それで先生の目が私に釘付けになるのなら。
こんな事できるのも、一番前の席だからだよ。これ見て何とも思わない?
私がこんな風にユーワクする相手って、先生が初めてだよ。
私たちの関係が学校にバレたら――その時は先生、一緒に死にましょうね。
小指同士を赤い糸で繋いで、二人仲良くあの世へ旅立つの。高校教師みたいで素敵じゃない?
先生――どうして私から目を逸らすの?
黒板に書かなくても、先生の授業だったらみんなノートに取るじゃない。その気になればずっと
私だけを見ながら授業できるのに、どうしてそうしてくれないの?
もしかしてエッチなまといは嫌いですか?じゃあ止めますけど――やっぱり見てくれない。
別にエッチなのが嫌いって訳じゃないのよね。あんな事やこんな事もしてくれたし。
あ、先生!どうして授業が終わるとすぐに職員室に戻っちゃうの?
何で他のクラスでも授業するの?その間私たちは離れ離れになってしまうけど、先生は寂しくないの?
他のクラスでもそうやって淡々と授業してるの?それとも他のクラスにも私以外に女の子がいて――
ああ気になる、気になって仕方ない。
今先生が何をしているのかも、先生が私の事を想い続けてくれてるのかどうかも。
先生の何もかもが気になるのよ。電話はダメでもメールならいいでしょう?
何で――何で返事が来ないの?
早く返事してよ。好きだって返信してよ。
でないと私おかしくなりそう。ちょっとでも先生の事を考えると、それが後から後から膨らんで
私の心を押し潰すの。
先生――もしかしてメールに返信できないの?
だったら待ってて、FAXならどう?
これだけいっぱい「好き」って書いて伝えたら、私の気持ちも解ってもらえるかな。
ううん違うわね、私の気持ちは「好き」って言葉だけじゃ伝えきれないかも。
生ける屍みたいにおかしくなりそうなんだもの、こう書こう。先生、先生――
先生――
先生せんせい――
せんせいせんせいせんせいせんせいせんせい
せんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせい
せんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせい
せんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせい
せんせいが私を見てる――
買い物しながら――
捨て犬を雨から守りながら――
睡眠薬を飲みながら――
文豪のお墓に手を合わせながら――
部屋の壁いっぱいに貼られた色んな先生が私を見てる。私だけを見てる。
目線は私の方を向いてないけど、でも私には判るの。
見ることは見られる事――私が先生を覗いている時、先生もまた私を覗いているから。
だから部屋中から注がれる先生の視線を浴びて、私は――
ああ先生――私はもう我慢が出来ません。
まといの身体が先生の物だからって、そんな恥ずかしい所まで見ないで下さい。
まといの指に乗り移って、身体のあちこちを触らないで下さい。
敏感な所を苛めないで下さい。身体の奥を掻き回さないで下さい。
そんな事するなら、私先生の指を締め上げちゃいますから。
ヤダ先生、そこだけはダメなの――
逝っちゃいます――何も考えられない。ただ大好きな糸色先生の事だけ。
心を闇に引き摺り込まれながら、壊れた私は何度も口に出して叫ぶの。
先生――
先生せんせい――
せんせいせんせいせんせいせんせいせんせい
せんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせい
せんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせい
せんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせいせんせい
――――
――
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
常月まといが放心状態から回復するや、彼女のいた部屋の外から足音が聞こえた。
自慰の余韻に浸る感傷も得られないまま、まといは素早く身繕いに取り掛かる。
開いた胸元、引き摺り落ろしたショーツと袴の順に着衣を直し、零してしまった
椅子の上の愛液はその上に座ることで誤魔化す。
まだ熱の冷め切らない敏感な部分に濡れた布地が当たる。その感触にまといは小さく身悶える。
ノックの音がした。
「まといちゃん、入るわよ」
はーい――努めて平静な声でまといが応じると、扉を開けて彼女の母親が部屋に足を踏み入れた。
極く普通の主婦に見える。一見する限り、彼女はストーカー少女の母であるようには思われない。
もっとも明らかにそれと判る母親がどんな物なのか、知っている人間の方が少ないが――
「夜遅くまでお勉強ごくろうさま。お茶持って来たんだけどいかが?」
うん飲む――まといは机に向かったまま、母親を振り返らずに応じた。紅潮した顔を見られて、
自慰に耽っていた事を知られまい、と考えたのだろう。
母親はまといの机に向かおうとしたが、やがて娘の部屋に違和感を覚えて部屋の中を見渡した。
ピンク系の内装に縫いぐるみといった、世間一般でイメージされるような女の子の部屋からは
程遠い。机にはPC、その他本やマンガなどを収める棚の代わりに金属製のラックが用いられた
極めて殺風景な部屋である。
どちらかと言うと男の子のそれに近いだろう、その部屋全ての壁に――
和装束の青年を撮影した写真が
びっしりと
隙間なく張り付けられている。
買い物の途中を捉えたもの――
捨て犬を雨から守る様子――
睡眠薬を呷る光景――
文豪の墓前で手を合わせる姿――
数百枚、いや数千枚はあろうか。しかもどれ一つとして、青年の正面を捉えた物はない。
暫し考えを巡らせて、母親は違和感の理由に辿り着いた。
娘は自分の好きな相手を写真に収め、壁中に隙間なく張り付ける癖がある。その写真の人物が、
先日部屋に入った時とは違う。つまり――
「まといちゃん、新しい好きな人出来たのね」
母親は茶碗を娘の傍らに置きながら、穏やかな笑みを浮かべて尋ねる。
娘に恋人がいる事を素直に喜んでいるようだ。
――うん、ママ
常月まといは机の前に張ったお気に入りの一枚を見つめたまま、歪んだ笑みを口元に浮かべて答えた。
<<終>>