―――子供より親が大事、と思いたい。  
彼の文豪はそう言ったが、うちの親は違うらしい。  
 
望は、目の前の箱に収まった小粒の桜桃を見ながら思った。  
 
この桜桃は実家の庭に毎年なるものだ。  
望が子供の頃からこの桜桃が好きだったことを、母親は今でも覚えていて、  
毎年この時期になると、母親自らの手で摘んだその薄桃色の粒を、  
箱につめて望に送ってくる。  
 
添えられた簡単な手紙を読みながら、  
「ありがたきものは、親の愛情ですね…。」  
望は母親に感謝した。  
 
しかし。  
おりしも世の中は連休で、甥の交は昨日から倫の家に泊まりに行ってしまっていた。  
密かに付き合っている教え子も、この連休は用事があると言っていたっけ。  
 
「困ったな…私1人では多いし、かといって、連休が終わるまではもたないし…。」  
望は独り言を呟いた。  
 
ふと、思いついて顔を上げる。  
「常月さん、いますか?」  
 
「はい、ずっと。」  
部屋の外から、袴姿の少女がすっと姿を現した。  
 
「実家から、桜桃を送ってきたんです。…一緒に食べませんか?」  
差し出された可愛らしい小粒の桜桃を見て、まといは顔を輝かせた。  
 
桜桃を丁寧に洗って皿に盛る。  
「うふふっ。」  
まといは、桜桃のヘタを持って口に含むと、ぽんと音を立てて取り出した。  
「こら、お行儀が悪いですよ。」  
「だって、余りにも可愛くて、食べてしまうのがもったいないんですもの。」  
そういいつつ、まといは、嬉しそうに目の前に小さい桜桃を掲げて眺めやる。  
 
―――こうやって見ると、ごく普通の女子学生なんですけどね…。  
 
望は、微笑ましい気持ちでまといを見つめた。  
 
まといは、相変わらず桜桃を口に入れては出し、その感触を楽しんでいる。  
ぼんやりとそれを見ていた望は、ふと、まといの唇の紅さに目を奪われた。  
 
紅い唇が、つやつやした薄桃色の粒を咥え、含み、再び外に押し出す。  
その拍子に、唇よりも紅い舌がちろりと顔をのぞかせる。  
 
その光景に、望は思わず目をそらした。  
気付くと、手に、うっすらと汗をかいている。  
 
―――ど、どうしたんだ、私は…。  
 
望は、慌てて、目の前の桜桃をいくつか乱暴に口に放り込んだ。  
まといも、ようやく桜桃を食べることにしたようだ。  
しばらく2人でもごもごと口を動かしていると、横からつんつんと腕をつつかれた。  
 
「先生、見てください、ほら。」  
まといがべっと舌を出す。  
その上にはきれいに結ばれた桜桃のヘタが乗っていた。  
 
紅い、紅い舌の上に載った、淡い緑の戒め。  
それは、何か、触れてはいけない禁忌の証のようで…。  
 
―――…って、さっきから、私は何を考えてるんですか…。  
 
望は、愛する少女の姿を必死に思い浮かべて、自分を落ち着かせると、  
まといにやや厳しい声で注意した。  
「まったく、いつまでも、そんな子供みたいなことをやってるんじゃありません。」  
「うふふ。」  
まといは、いつものとおり全く意に介していない。  
 
望は、気を取り直すと、目の前の桜桃のヘタをつまみ上げた。  
―――桜桃のヘタを結べる人は、キスが上手いとか言いますが…いやいや。  
再び不穏な方向にさまよい始めた考えを、首を振って振り払う。  
 
まといを、誰もいない部屋に上げたのは間違いだったかもしれない。  
望は密かに後悔した。  
 
と、再び横から腕をつつかれた。  
「先生、はい、あーん。」  
まといの声に振り向いた瞬間、望はのけぞった。  
 
まといが、桃色の実を口にくわえて見上げているのだ。  
桜桃よりもはるかに紅い唇は、桜桃と同じようにつやつやと光っていた。  
 
望は、ごくりとつばを飲み込むと、目をそらした。  
「何馬鹿なことやってるんですか。早く食べなさい。」  
「んー。」  
まといは、桜桃をくわえたまま口を尖らせた。  
 
―――おや。  
口を尖らすまといの表情は、意外に幼く見えた。  
 
望は、それを見て、ほっと肩の力を抜くと、笑いながら軽い気持ちで  
「食べ物で遊ぶんじゃありません。」  
と、まといがくわえている桜桃を指で口の中に押し込んだ。  
 
と、その指をまといがぱくりとくわえた。  
 
望の頭が一瞬ショートした。  
 
そのまま、まといは、望の手を両手で捕らえると、  
口の中の桜桃とともに望の指を舌でゆっくりと押し上げた。  
 
指の下で、ぐしゃりと桜桃がつぶれる感触がする。  
と同時に、その指は暖かくねっとりと柔らかなものに包まれた。  
 
―――引き抜け、指を、離すんだ。  
 
頭の中で何度も自分に言い聞かせるが、体が言うことをきかない。  
まといの舌が、望の指先をちろちろとくすぐる。  
「…っ!」  
指に全ての神経が集中してしまったかのようだった。  
 
まといは、舌を望の指の付け根から先端までゆっくりと動かした。  
望は、自分の息が浅くなっていくのを感じていた。  
 
と、まといの手が、そっと望の膝に伸びる。  
「―――!!」  
 
その動きで、呪縛が融けた。  
望はまといの口から指を引き抜くと、息を切らしてまといを見た。  
 
 
しばらく、望とまといは黙ったまま向き合っていた。  
初夏のそよ風が、2人の間を吹きぬけていく。  
 
まといは、ふと望から目をそらせると、ぽつんと呟いた。  
「桜桃は…背徳の果実ですよね。」  
突然のまといの言葉に、望は困惑する。  
「…は?林檎ではなく、桜桃が、ですか?」  
「『桜桃』の主人公は、家族から逃げて、愛人のもとで桜桃を食べるでしょう?」  
 
まといが望の方を向いた。  
「先生…私、この間、先生と小森さんの間に何があったか知ってます。」  
望の表情がぴくりと動いた。  
まといは下を向いて唇を噛んだ。  
「…なんで、小森さんは良くて、私では駄目なんですか?」  
 
望は、ため息をついた。  
「常月さん。私は、頼まれれば誰とでも寝るわけではありません。  
 小森さんとの件は…あのときは、ああせざるを得なかった事情があるんです。  
 …それに、あなたは、そんなことを望むんですか?」  
 
―――私の、心がどこにあるか知っていながら、そんなことを?  
 
まといは、望の目をじっと見つめながら、必死にこみ上げてくるものを  
抑えようとしていたようだったが、ふいに両手に顔を埋めた。  
そして、そのまま無言で肩を震わせた。  
 
まといの肩は余りに細く頼りなげで、望は、思わず抱きしめてやりたくなったが、  
ぐっと両手を膝の上で握りしめ、我慢した。  
 
中途半端な同情が、彼女のためにならないことは分かっていたし、  
それに、自分も所詮は男である。  
今、彼女を抱きしめてしまったら、何が起きるか自信がなかった。  
 
しばらくすると、まといは顔を上げた。  
そして、す、と立ち上がると望の顔を見ずに呟いた。  
 
「桜桃、おいしかったです。…ご馳走様でした。」  
「…。」  
 
まといは、いつものように音も立てずに、部屋から出て行った。  
望は、部屋の中で1人、いつまでも皿の上の桜桃を睨んでいた。  
 
すっかり辺りが暗くなった頃、  
「たっだいまーーーー!」  
元気な声が辺りに響き渡った。  
 
「交…?帰ってきたんですか。」  
部屋に駆け込んでくる甥っ子の後ろから、倫が顔を出した。  
「結局、この子はお兄様のそばが良いみたいですわ。」  
少し拗ねたように望を睨む。  
 
「あー、おばあちゃんのさくらんぼ、きてたんだ!」  
交が、ちゃぶ台の上の桜桃を見てうれしそうな声を上げた。  
「あら、本当、懐かしい。」  
倫も交と一緒になって粒をつまんだ。  
 
望は、おいしそうに桜桃をほお張る交を見ながら、そっとため息をついた。  
 
―――やはり、桜桃は、子供と食べた方がよい…。  
 
望は、ちらと部屋の外を見たが、まといがそこにいるのかどうか、  
その姿は、闇に溶けて見えなかった―――。  
 
 
 
 
 
 おまけ小ネタ 
 
 
「あら、これは何かしら…?」  
倫がちゃぶ台の上からつまみ上げたものを見て、望は焦った。  
それは、先ほどまといが口の中で結んだ桜桃のヘタであった。  
 
倫が、意味ありげに望をちろりと見る。  
「…お兄様は、確か、こんな器用なことはおできにはならなかったはず。」  
「いや、それは、ほら、そう!手で結んでみたんですよ!」  
倫は、望の言葉を無視して皿の横の桜桃の種を見ると、極上の笑みを浮かべた。  
「お1人でずい分召し上がったこと。ねえ、お兄様…?」  
「…。」  
望はすでに蛇に睨まれた蛙の状態であった。  
昔から、この妹に勝てた試しがない。  
 
「お兄様。」  
倫は、笑顔のまま、小首をかしげた。  
「この間お話した、久藤君とライブに行きたい、という件ですけど。  
 …お兄様のお考えが、変わったのじゃないかと思いまして。」  
望は、とたんに眉をしかめると、腕を組んだ。  
「とんでもない!未成年者だけで夜遊びなんて、絶対に許しませんよ。」  
倫はため息をついた。  
「…仕方ありませんわね。では、このヘタはお土産にいただいて…。」  
そうそう、と唇に指をあてた。  
「ライブの代わりに、風浦さんと、桜桃狩りにでも行ってこようかしら。」  
「〜〜〜!!脅迫する気ですか!!」  
望は顔色を変えた。  
倫はにっこり笑った。  
「そんなこと。ただ、女の子同士の内緒話など楽しかろうと思いますの。」  
「分かった!分かりました!ライブだろうがなんだろうが、勝手になさい!」  
倫は、あら、と目を見張ると、嬉しそうにうなずいた。  
「さすがはお兄様、話が分かりますわ。お兄様も、新譜お聴きになります?」  
「…けっこうです…。」  
 
倫がブレブレ〜♪と鼻歌を歌いながら帰って行くのを見送ると、  
望はぐったりとちゃぶ台にうつ伏した。  
 
しかし、その会話の一部始終を聞いていた交が、後日、遊びに来た可符香に  
「さくらんぼのヘタを結ぶのって、そんなにいけないことなのか?」  
と質問して、結局全てがバレてしまうことを、望は、まだ知らない…。  
 
 

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