ドアを開けると、あたり一面はオレンジ色に染まっていた。  
屋上には人の姿はない。  
奈美はゆっくりとドアを閉めた。  
西側の手すりまで歩いて行き、軽くもたれる。  
少し冷えた風が夜の訪れを知らせているようだった。  
「・・・・先生。式には来なかったなー・・・・。練習の時はいたのに・・・・・・・」  
奈美は呟き、片手に持った卒業証書の筒を見た。  
一つ溜め息を付くと、手すりの上で両腕を軽く組んで、その上に頭を乗せた。  
(・・・・・・・もう、今日で最後なんだよ・・・・・・先生。・・・・・何で・・・・?)  
ぼんやりと考えながら、沈もうとしてゆく夕日を眺めていた。  
「・・・・・・・綺麗ね・・・・・・・」  
「・・・・普通な感想ですね。」  
出し抜けに先生の声が聞こえ、奈美は驚いて振り返る。  
しかし先生の姿はない。  
「・・・・・・先生?」  
「・・・ここです。」  
声が聞こえた場所を見る。  
屋上の入り口の上に、先生は立っていた。  
「先生? なんで?」  
「・・・・どうやら式は終わったようですね。」  
先生はそう言って上から降りてくる。  
着物についた埃を払い落としながら、奈美のそばまできた。  
「いつからそこに・・・? てゆうか・・・何で?」  
先生は夕日に視線を向けて答える。  
「先生は本番には出ませんから。」  
「・・・・・・あー・・・・・」  
奈美は脱力した表情になる。  
「みんなで私の第二ボタンを略奪するのでしょう・・・! 花束を渡して花粉症で泣かすのでしょう・・・!」  
「・・・・・・いいですけど。」  
投げやりに答え、奈美は苦笑を浮かべる。  
「・・・・あのさ。先生・・・・・。えーと。・・・・・・私たちの担任は、どうだった? 良かった?」  
「・・・・・・絶望的な生徒さんたちでしたね。」  
「マジメに!」  
奈美は少し眉を寄せて、先生をたしなめる。  
先生は自嘲的な笑みを浮かべた。  
「・・・・・・・皆さん、私が卒業まで導けると思っていたんでしょうかね・・・・・・・」  
「うわぁぁぁ・・・・・・」  
奈美は本気で力が抜けてゆくのを感じた。  
「まあ、面白かったですよ。多少、命の危険を感じた事もありましたが。」  
「それ、先生が自分で・・・・・」  
「日塔さんは、就職なさるのでしたね?」  
先生は突然話題を変えた。  
「・・・・え? ああ、はい。そうですけど。」  
奈美は少し面食らいながらもちゃんと答える。  
「・・・・・・社会人生活に絶望したらいつでも来なさい。旅立ちの手ほどきをしてあげますから。」  
「・・・いえ、そこは、何かアドバイスとかしてくれるのが、先生ってものじゃ?」  
奈美は投げやりに答える。  
「私ができる精一杯のアドバイスですが・・・・・・?」  
「・・・そうでしたよね。」  
奈美は少し笑った。  
「なんか、こうして先生と話してると、卒業したなんて思えないなー・・・・・」  
その時、学校のベルが鳴った。  
普段と変わらない音色なのに、やけにゆっくりと聞こえた。  
「・・・・・閉門時間のようですね。」  
「・・・うん。・・・・・・・ね、先生! かわいい生徒を校門まで見送って下さいよ。」  
奈美は先生の顔を覗き込みながら冗談めかして言う。  
「・・・・・・・ああっ! ・・・やはり、誰かのドラマに巻き込まれるのですね! 避けては通れないのですね・・・・・!」  
「・・・いや、ドラマって・・・・・」  
ネガティブ思考が始まった先生と一緒に、奈美は屋上を後にした。  
 
校内にはもう人気が無くなり、薄暗くなっている。  
誰もいない廊下を、奈美と先生は二人並んで歩いていた。  
「・・・でも正直、楽しかったですよ、先生のクラス。大変な事の方が多かった気がしますけど・・・・・・今になって思ったら  
それも、・・・・・・ええと、まあ・・・・・少なくとも、平凡な思い出じゃないですよ。」  
「なぜ言いよどむのですか・・・・・」  
「あ・・・あはは・・・・。でも! 楽しかったのは本当ですよ! 毎日のように何かあるし、先生が先生ですし、下手な  
テーマパークよりずっと!」  
自分でもフォローになっていない事は分かりながらも、奈美は語ってゆく。  
「・・・・まだ、実感湧かないけど、終わっちゃうのがもったいないな・・・・・って、思いますよ。」  
「お祭りや・・・・・遊園地のような物です。いずれは、閉園時間がきます。」  
「またぁ・・・・・・」  
いつものように『後ろ向きですね』と言おうとした奈美だったが、先生の表情がいつもと違う事に気が付いた。  
「先生・・・・・・・?」  
「私たちはその遊園地の管理者ですかね・・・。生徒達が楽しく過ごした時間は共有もできます・・・が、その生徒達は  
いずれ一斉に居なくなってしまうのですよ。・・・・・・騒いだ生徒達を見送って、遊園地は急に静かになって、先生たちは  
そこに取り残されて・・・・・・・・・・。ただ、見送るだけです。」  
「先生・・・・・・・・」  
先生はふっと表情を緩めた。  
「・・・私たちは、永遠に居残り組なのですよ。」  
「・・・・・なんか、マジメな先生って初めて見る気がします。」  
奈美は先生に笑いかけた。  
「さみしそうに言われると、こっちまでしんみりするじゃないですか。」  
先生は何も答えずに立ち止まった。  
いつの間にか昇降口の前に着いていた。  
夕日も届かないそこは、薄暗く、静まりかえっていた。  
(・・・・・・あ、そうか、もう・・・・・・・)  
一枚だけ開いている昇降口のドアを見て、奈美は焦る気持ちが湧き上がってくるのを感じた。  
「・・・・・・では、日塔さん・・・・」  
「・・・せ・・・・先生は・・・・・・・その。・・・違った。・・・先生! 私はどんな生徒でしたか!?」  
先生は驚いたように目を見開いたが、軽く笑って答えた。  
「・・・あ、そうでした。一応、卒業おめでとうございます。・・・・最後になって言うのも何ですが。」  
奈美の鼓動が段々と早くなり、焦りが増してくる。  
(・・・違う! ・・・・違う! ・・・・違う! 私は・・・!)  
「・・・あなたは普通の生徒でしたから、・・・君が、私のクラスに居てくれて良かったと思っていますよ。私の受け持った  
生徒さんの中では、唯一、まともでしたから。・・・・皆さんには内緒ですけどね。」  
先生は、考え考え、ゆっくりとそう告げた。  
奈美は自分の中で壊れそうになる何かを、必死に押さえつけていた。  
言葉が出てこなかった。先生の言葉と、その意味が、頭の中に何度も響いていた。  
「・・・・・・では、元気で。」  
しばしの沈黙の後、先生はぽつりと言った。  
奈美は、ゆっくりうなずくと、先生に背を向けた。  
先生の顔は見れなかった。どんな表情で自分を見送るのか、知りたく無かった。  
「先生・・・・」  
ガラス戸を一歩出た所で、奈美はようやく声が出た。  
振り返ると、暗がりの中で、自分を見つめている先生がいた。  
「・・・・私・・・先生の生徒で・・・・・とても、良かったです。・・・普通って言う・・・・ただの・・・・・ただの普通の生徒でしたけど・・・・。  
とても、楽しかったです。」  
先生は少し沈黙し、ゆっくりと口を開いた。  
「・・・・・私もです。あなたが、私の生徒で、嬉しかったですよ。」  
奈美は何も答えず、黙って背を向けて足を踏み出した。  
背後でゆっくりと、扉が閉まる音が聞こえた。  
振り返らなかった。先生がガラスの向うから見送っているのが分かる。  
一歩一歩、その扉から離れる。  
痛かった。心が潰れそうに痛んだ。振り返る事は出来なかった。  
 
 
夕日は街の空の端に、赤い残り火を見せるだけとなり、暮れ行く道を奈美は歩いていた。  
何も考えられなかった。  
心の中はスイッチが切れたように止まっていた。  
その虚ろな視線の先に、ふと、小さな人影が入った。  
『もう全員そろってるぞ  カメ女! 手間かけさすなボケ!』  
携帯の画面が差し出された。  
「・・・・・あ・・・・・」  
『ボーっとしてんじゃねえよ! ブス!』  
奈美は芽留には答えず、その両肩にしがみついた。  
膝が崩れていった。せき止めていた物が止まる事無く吹き出してきた。  
「・・・・・・・・・・・ぃ・・・・・・!?」  
「・・・・あ・・・・あ・・・・ううあ・・・あああああああああっ!!」  
涙で視界が歪む。芽留が困惑した姿が一瞬だけ映った。  
『何泣いてんだ!? キモっ! キモ女! コラ!』  
奈美は芽留に力いっぱいしがみ付き、泣き声を上げていた。  
「・・・せんせい! せんせい! せん・・・・せい!! せんせえぇ・・・!!」  
芽留の前で、ただ「先生」と繰り返す奈美を見て、芽留は溜め息をついたようだった。  
『オレはしらねー  勝手に泣いてろ  バカ女』  
見てないと分かっている奈美に画面を見せると、芽留は横にあるガードレールを手すり代わりに掴んだ。  
奈美の号泣は嗚咽へと変わっていった。  
『ホント  バカだな  シネ』  
芽留はそれだけ打つと、携帯を畳み、少し潤んだ目の端を手で拭った。  
 
 
 
 
 
「・・・あー、雨だと蒸すなぁ、ホントに。」  
不快そうにシャツの襟をハタハタさせながら、奈美は電車に乗り込んだ。  
「ふー・・・・・エアコン気持ちいー・・・・・」  
終電も近い時刻だからか、車内には人の姿は無い。  
奈美は適当な壁にもたれて、携帯を取り出した。  
・・・メールをチェックして、少し笑う。  
「・・・・・・・大学はもうすぐ夏休みかー・・・・・。いいなー。・・・じゃなくて・・・・・・コレ、嫌がらせかね。」  
卒業から数ヶ月が経ち、奈美はだいぶん仕事にも慣れて来ていた。  
しばらくの間、家と会社を往復するだけの日々が続いたが、最近は少し余裕も出てきていた。  
「・・・週末に買い物もいいかな・・・・・」  
ぼんやりと考えていた時、発車のアナウンスが鳴った。  
と同時に、ホームの方からバタバタと駆け込もうとする足音が聞こえてきた。  
足音の主は、奈美の側にある入り口から勢い良く駆け込んできた。  
「・・・・・・・・・・・・・・・!!」  
奈美の口から声にならない叫び声が上がった。  
エアー音がして、扉が閉まるり、電車は動き出した。  
「せ・・・・・先生っ!?」  
先生はいつもと変わらない姿で、電車に乗り込んできた。  
あごの先からは雨なのか汗なのかしずくが滴り、肩で息をしながら真っ直ぐに奈美の方へ向かってくる。  
あまりの事に声が出ず、硬直している奈美を捕らえるように、その後ろの壁に手を付き奈美を正面から見据える。  
「好きだ!!」  
・・・・・・その言葉が先生の発した物と理解できるまで、奈美は数秒の時を要した。  
先生の目はいつもの伏し目がちな表情と違い、奈美の瞳を真っ直ぐに射る。  
奈美の中で何かがストンと落ちた。  
何かの蓋のような、堰のような物が、自分の中で落ちるのを奈美は感じた。  
その瞬間、奈美の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。  
「・・・・・せ・・・・・・・・・・せ・・」  
自分でも、どんな言葉を発したのか判らないだろう。  
奈美は先生の細い首に腕を絡め、夢中で抱きしめた。  
頬が先生の耳に触れた。  
先生の懐かしい香りがした。  
先生が奈美の背に手をまわし、力の限り抱きしめた。  
その絞め付ける痛みも、今は心地よく感じて、  
先生の背中に、髪に触れ、乱暴なまでに握りしめる。  
「・・・・・先生・・・・・・・会えたよ・・・・・・・・・先生・・・・・」  
「・・・・日塔さん。先生・・・・あなたに会えた時の為に・・・気の利いた言葉をいくつも考えていたんです・・・」  
先生は奈美の後ろ髪を優しくかきあげながら、少し苦笑を浮かべて口を開いた。  
「・・・うん・・・・」  
「でも・・・あなたの顔を見たら全部忘れちゃいましたよ・・・・・・駄目ですねぇ・・・・私・・・」  
「・・・・・・そうなんだ。・・・・・・・駄目なせんせい。・・・・・・だいすき・・・」  
奈美は嬉しそうに、先生の頬に自分のひたいをこすりつけた。  
「日塔さん・・・・・・・」  
先生はもう一度、奈美を強く抱きしめた。  
奈美は涙の浮かぶ目で先生を見上げた。  
「・・・・・・いえ・・・・・・奈美さん・・・・・でいいですか?」  
「・・・うん。・・・先生の呼びたい方でいいですよ。・・・・・・無理しないで、いつもの先生でいてくださいね。」  
先生は困ったような、嬉しいような表情をみせた。  
そして、いつもの、悪戯を思いついた子供のような笑みをうかべる。  
「私も・・・・・・・普通に、先生と呼ばれたほうが、しっくりきます。」  
「普通って言うなぁ!」  
そのやり取りに、一瞬、奈美と先生は顔を見合わせ、  
そして、同時に吹き出した。  
お互いの手を、しっかりと握り締めて。  
 

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