「………つ………疲れた………。」  
誰も居ない教室で、望は深い息を吐いた。  
 
今日は本当に、いつにも増していろいろなことがあった。  
いつものように朝からストーカー少女に付き纏われ落ち着いてトイレにも行けないような気分で過ごし、  
教室に着けばポジティブ電波少女の奇行に振り回され、事故で下着を目撃してしまった人格バイリンガル  
少女に訴えられ、同人誌の資料にと猫耳を付けられそうになり、そのついでに尻尾を生やされそうになり、  
逃げ惑う様を毒舌メールで執拗に罵倒され、何を間違ったかそんな一連の流れを自分の所為だと勘違い  
した加害妄想少女を泣かせてしまい、それを目撃した正義の粘着質少女にはそのことできっちり落とし前  
を付けろと迫られ、慌てて逃げていたら昇降口で普通に女生徒と衝突し、そうして転んでいる隙に背後  
から尻の穴を狙われ、逃げ帰った宿直室では綺麗に整頓された洗濯物と掃除の行き届いた部屋のお出迎え  
に逆に自分の情けなさを見せ付けられ、居たたまれなくなって学校を飛び出して………以下略。  
 
と、今日もおよそ1人の人間における1日の経験とは思えないほどのアクシデントに見舞われた。最近  
では、自分の中でそれがごく普通の日常であると勘違いしそうになるときもあり、慣れとは恐ろしい  
ものだ、と恐怖せずにはいられない。  
が。そうこうしているうちにいつの間にか夕暮れを迎え、門限をきっちり守る彼女を先頭に1人、また  
1人と生徒達は家路に着き。恐る恐る学校に戻ってみれば、望はこうして独り、誰も居ない教室でぼんやり  
と物思いに耽ることができる状況を手に入れていたのであった。  
誰にも干渉されず、監視もされず。こうして独りきりになるなんて、いつ以来のことだろうか。  
それを許さない主たる原因となっているストーカー少女も、いつも以上に尋常ではないどさくさに紛れて、  
望を見失ってしまったらしい。なんだかんだで、学校を飛び出して電車やらバスやらタクシーやら自転車  
やらフェリーやらを乗り継ぎ、自分でも思い出せないほどの範囲を駆け巡ったのだから無理も無い。本当に、  
自分で自分に、一体今日という1日の間に何をしていたのかと問い詰めたくなってくる。  
「………静かで、いいものですね。孤独って素晴らしい。」  
望なりにその状況を満喫しているらしい台詞を漏らして、望は教卓に頬杖をつき、窓の外を眺めた。  
夕刻の街を抜けた風がそよぎ、望の髪を、頬を、優しく撫でていく。どこからか、カレーの匂いがする。  
近所の家の、夕食の食卓にでも上るのだろうか。  
 
………などと、望が徒然なるままに考えを巡らせていると。  
窓の向こうに広がる、夕焼けの鮮やかなオレンジに染められた景色の中に。  
 
「ヨ、っと。」  
「っ!?」  
 
突如、黒い人影が現れた。  
器用にサッシにぶら下がり、その背が低く華奢な印象の人影は、窓の外から振り子のような動きで教室  
に飛び込んで来る。空中に投げ出された猫のような華麗な着地で教室の床を踏みしめるその脚は、靴も  
上履きも履いていない、綺麗な裸足だ。  
ほんの一瞬の、間の後。望はすぐに、その人影の正体を見抜く。  
 
「………………関内さん!?」  
 
立ち上がった、望とは対照的な褐色の肌を持つ小柄な少女………関内・マリア・太郎は、望の顔を見つける  
なり、にぱ、と屈託の無い笑顔を浮かべた。  
「オー、先生!」  
遠くに居る人に挨拶をするように頭の上で片手を振りながら、さきほどのアクション映画顔負けの運動  
の後とは思えないのほほんとした調子で、マリアが望に歩み寄る。  
「な………何してるんですか?というか、なんで、窓から?」  
「屋上デ、鳥獲ってタヨ。」  
身振り手振りで話すその様子が、その小さな体躯と相まって、とても高校生とは思えない、子供っぽい  
雰囲気を演出する。まぁ実際、彼女の本当のプロフィールなど誰にも解かりはしないので、それが歳相応  
である可能性も大いに有り得るのだが。  
「デモ、カゴ置いテ、エサ撒いトイタノニ、1匹モ獲れナカッタヨ。」  
「獲ってどうしようと………してたかは、ともかく。だからって、なんで窓から入ってくるんですか。」  
「鍵閉めラレチャッテ、下見たラ、窓開いてタカラ!」  
「………3階ですよ、ここ。」  
気がつけばまた、独りの時間はどこかへ影を潜めてしまっていた。望が、力無く苦笑する。  
 
と。マリアが、ぱたぱたと裸足の足音を立てながら、望に駆け寄る。  
 
「先生、元気無いノカ?」  
「はい?」  
突然の言葉に、望は、やや驚いたような表情を見せる。  
実の所、マリアは、望の顔にもろに表れていた疲労感を読み取っただけなのだが。望本人にそんな自覚は  
まるで無かったらしい。  
「………生まれつき、そういう顔ですが。」  
「イツモダケド、今日はモット酷いヨ。死にソウダヨ。」  
「………まぁ………いろいろ、ありまして。」  
普段から子供っぽいが、子供っぽいだけに鋭い所もあるのかも知れない………などと。望は、つらつらと  
そんなことを考える。  
「このクラスを担任すれば、疲れもしますよ………正面から挑んだら、気が狂ってもおかしくない。」  
さらり、ととんでもない発言をしながら、望はまた、ああ、つまり自分は生まれ持った逃げ腰のおかげで  
このクラスの担任という職務に耐えられているわけで、その適合性が、事態をより一層ややこしくして  
いるのだなぁ、などということをつらつらと考える。  
「ジャァ、マリアガ、元気出るオマジナイシテアゲルヨ。」  
煙のように、ゆらゆらと不規則に流動する意識の端で、望はマリアの声を聞いていた。。  
「………おまじない、ですか?」  
おまじない、だなんて。なんとも子供らしい、微笑ましい発言ではないか。  
 
と。望は、改めてマリアの姿を見つめ、また考える。  
そういえば………自分は今まで、彼女に対してそれほど大きなストレスを感じたことはあったろうか。  
確かに、傍から見ていて危なっかしい程の奔放さにはときどきヒヤリとさせられる。屈託の無い笑みを  
浮かべながら、ときに胸の奥に沈みこむような重苦しい台詞を吐くこともある。だが、そんなものは、  
超弩級の曲者が集う2のへ組においてはまだまだ可愛いものなのではないか。  
本気かどうかはさておき、命や貞操を狙われることも珍しくないこのクラスにおいて。  
自分にとって、マリアの存在とは………一体、どんな………。  
 
「………………って。」  
と、そこまで考えた所で。  
望の思考が止まり………その意識が、別の場所を向く。  
 
「ンー………チョット狭いネ………。」  
「あの………関内さん?」  
「ヘェ、まとい、イツモコンナ所入ってるノカ。」  
「………何してるんですか?」  
意識が向いた先は………足元、さっきまで頬杖を付いていた教卓の下。  
その空間に小さな身体を器用に潜り込ませたマリアは、望の質問には答えず、上目遣いで望を見上げる。  
 
「マリアの、オマジナイで………スグ、元気ニなるヨ。」  
マリアの瞳が一瞬だけ、怪しく輝いた。  
「………はい………っ?」  
その、直後。  
 
望の視界から………マリアの姿が、消えた。  
 
「な………っ………!?」  
しかし望は、一瞬で眼の前から姿を消したマリアの行方を、更に短い一瞬で把握する。  
それも、そのはず………誰かに脚の間に潜り込まれて、それを見過ごす人間など居るはずがない。  
「ワー。真っ暗ダヨ………。」  
厚手の布に覆われて、ほとんど真っ暗闇であろう望の脚の間で、マリアが動く。その小さな掌が、ぺた、  
ぺたと望の脚の上を這って行く。普段他人に触れられることなど滅多に無い場所を遠慮無しに弄られ、  
望は思わずその身体を硬直させた。  
「あ、あの………関、内、さん………?」  
「………うーん、ト……こっちカ?」  
そうこうしている内に、暗闇の中のマリアは………手探りで、目的の物を探し当てた。  
望の身体が、引き攣る。  
 
「ッッッッッッ!!!???」  
ガタン、と椅子が倒れる音がする。勢いあまって背中を打ちつけた黒板から、埃とチョークの粉が混じった  
ものが、ふわふわと舞い落ちる。せっかく捕まえた獲物に逃げられて、マリアは教卓の下に収まったまま、  
どこか不服そうな表情で望の顔を見上げていた。  
「な………な………っ!!?」  
「ジットしててヨ、先生〜。」  
「先生、じゃありません!あ、あなた一体………何を………!?」  
マリアが、立ち上がる。それでもまだ自分の目線よりかなり下にあるその顔を見下ろしながら、望は、  
どうにか彼女と距離を取ろうとして、じりじりと横に移動を試みる。  
「ダッテ………先生、元気無さソウダッタカラ。」  
望が逃げようとする方に先回りしながら、マリアが言った。  
その顔には、何か………普段のマリアには決してあり得ない何かが、宿っているように見えた。  
「ダカラ、マリアガ元気ニしてアゲルヨ。」  
「元気に、って………!!」  
「ホラ………ソコ、大キクなってキタヨ。ビックリしたノカナ?」  
『ソコ』と言いながら遠慮無しに視線を注がれた場所を意識して、望は、思わず顔を上気させた。  
ついさっき、マリアの細くしなやかな指が捕まえた、『ソコ』………望の分身である絶棒は、完全に不意  
を突いたその刺激に、主人の意思とは関係なく、膨張を始めてしまっていた。  
「先生………大丈夫ダヨ。誰モ、見てナイヨ。」  
マリアの声のトーンが、落ちる。  
「う、わ………!?」  
つい、と距離を詰めながら、マリアの手が再び、今度は厚手の布越しに絶棒に触れる。その刺激に反応し、  
絶棒はまたぴくぴくと痙攣しながら、その体積を増していく。  
自分よりかなり低い位置にあるマリアの瞳は、いつもの奔放な少女とは全く別の………まるで、娼婦か何か  
のような艶っぽい輝きを放っていた。  
自分が今まで知り得なかった、彼女の一面を目の当たりにして。望の心は、どこか恐怖にも似た危機感を  
感じ、咄嗟にマリアの接近を拒んだ。  
「や、止めてくださいよ!!」  
望の腕が、マリアの肩を掴んで、その身体を自分から引き剥がす。  
そして、まるで見合いの儀のときのように、必死でその熱を帯びた視線から眼を背けながら。  
「い、一体どこでそんな………。」  
 
『どこでそんなことを覚えたのか』  
 
眼の前のマリアに向かって、そんな言葉を放ちかけて。  
そしてすぐに………自分自身で、その答えに、思い至り。  
口を、噤んだ。  
「こと、を………っ。」  
望の声が、失速する。肩を掴む腕から、力が抜ける。  
 
『どこでそんなことを覚えたのか』  
 
自分は………なんと、愚かなことを口走ろうとしたのか?  
その、答えなど………彼女の過去を想えば、明らかなことなのに。  
 
望は完全に言葉を失い、沈黙する。放ちかけた問いは、完全な形を為す前に、教室に満ちた空気の中へと  
霧散していく。  
………が、しかし。  
「………マリアの国、コンナノ、常識ダヨ。」  
「ッ!」  
なんとか途中で断ち切ったはずのその問いは、しっかりと彼女に伝わってしまったらしく。  
幼くも甘ったるい、どうしようもなく男心をくすぐる声で………マリアが、答える。  
「男の人元気ニしてアゲルノ、マリアノ仕事だったヨ。」  
マリアが再び、その身を望に摺り寄せる。意気消沈の所為か、それとも男としての穢れた本能がそうさせる  
のか、望はもはや、マリアの挙動に逆らうことができなかった。  
「パパトママ、ソウ教えてクレタヨ。友達モ皆、やってタ。」  
「………………っ。」  
「………ア。デモ先生、今日のコレハ、仕事ジャないヨ?」  
にぱ、と、マリアの顔にいつもの彼女の表情が戻る。  
「先生イツモ、マリアニ良くシテクレル。ダカラコレ、仕事ジャなくテ、オ礼ダヨ。」  
「………………。」  
「イツモハオ金貰うケド、先生ハ違うヨ。マリア、先生ニ元気ニなって欲シイ。ソレダケ!」  
その太陽のように明るい表情にも、望の心は、まるでその光が落とす影のように暗く沈んでいった。  
 
望は彼女との会話の中で、いつも、想うことがあった。  
彼女は………自分が、どれだけ残酷なことを口走っているのか、理解しているのだろうか、と。  
 
心が押し潰されそうなほど重苦しくて、聞いている方が死にたくなるほど自虐的な、言葉。けれど、当の  
本人はそんなことなど全く知らないかのように、あっけらかんとした調子で話それを放っている。  
その言葉を聞く度に、望は………全身を掻き毟るような、自責の念に襲われるのだ。  
自分が幾度となく絶望してきたこの世界が、彼女の居た世界と比べて、どれだけぬるま湯に浸かったような  
環境だったのか。それを想うと、自分自身を恥じずには居られなくなる。  
今も、そうだ。  
生物学的には、単なる生殖活動に過ぎないが。  
しかし、『恋愛』という感情を知る人間においては、本来ならば………愛し合う者同士が、相手に無条件の  
愛情を注ぎ合う為にあるはずの、その営み。  
それを、眼の前の小さな少女は………仕事、生きる術、返礼の方法といった、ある種の『取引の手段』で  
あると、覚え込まされているのだ。自らの幼い身体を、その為の『道具』であると認識しているのだ。  
まるでこの国の、一部の穢れた人間の認識にあるように………いつも、太陽のような無邪気な笑顔を見せて  
いる、あの、少女が。  
その事実に絶望せずして、一体、この世の何に絶望すればよいというのだろうか。  
不意に、それを彼女に教え込んだ張本人であろう、名前も顔も知らない彼女の両親に対する憎悪の炎が、  
望の心に灯る。しかし、『そうせざるを得ない状況』が存在する世界があるということを想った瞬間、その  
炎はまるで地に落ちる線香花火の如く、心の底の闇へと消えていった。  
 
「ネェ、先生………気持チ、良いヨ?マリア、前ハ男ノ人ニ大人気だったンダヨ?」  
そして。  
消えた、炎の代わりに………望の中で、ある1つの衝動が育っていく。  
「何、気ニしてル?マリア、小ッチャイカラ?学校ノ生徒ダカラ?」  
彼女の生きた世界に対する絶望。彼女の言葉に対する絶望。自らの言葉に絶望することを知らない、彼女  
の為の絶望。そこに、心の底の沼から湧き上がる泡のような、様々な想いがない交ぜになる。  
「関係無いヨ、ソンナノ………マリアノ国、ソンナノ全然気ニしない。」  
「………関内さん………。」  
望のようやくの返答に、マリアの眼の輝きと、声の艶が増す。  
「………ナァニ、先生?」  
望は1度、普段通りの呼び名でマリアを呼んだ後。  
「………いえ………。」  
しばし、マリアの眼を見つめてから。  
「………マリアさん。」  
「………………っ?」  
今まで、1度も呼んだことの無い名前で。  
彼女が、この国で買い取ったものではない………おそらくは彼女自身が生まれ持った、その名前で。  
マリアを、呼んだ。  
 
次の、瞬間。  
「っ!!」  
 
初めて望にその名を呼ばれ、虚を突かれたような表情をしていたマリアの、小さな身体が………何か、  
温かく、そして力強いものに包み込まれる。  
マリアが、自分が望に抱き締められているのだということに気付くまでには、少しだけ時間が掛かった。  
「………セン、セー?」  
いくつもの絶望と、様々な想いと、そして………もう1つ。  
その根底にある………憐憫や同情とは違う、純粋無垢な笑顔で、澄んだ瞳で自分を見上げる彼女に対する、  
確かな、愛情。  
それらが生み出した衝動に駆られて、望はマリアの身体を、強く、強く抱き締める。  
「………聞いてください。マリアさん。」  
望はようやく、さきほど1度は断ち切られてしまった思考の行き着く先を、悟る。  
 
望にとって、マリアの存在は………1つの、救いなのだ。  
「今まで、私は、あなたに………。」  
ただでさえ、人よりも余計に精神を擦り減らしてしまう性分だ。教職という道を歩み、しかもこの2のへ組と  
いう尋常ならざるクラスを担任していれば、その心労も半端なものではない。  
決して口にはしないが………確かに、他の多くの教師がそう思っている(であろう)ように、望も、自分が受け  
持つクラスの生徒達を愛している。だが、一癖も二癖もある生徒だらけのこのクラスで、四六時中その行動に  
振り回されていれば、当然のことながら心は疲弊する。それは、望が生徒達との触れ合いを決して嫌っていない  
としても、仕方の無いことなのだ。スポーツが好きな人間でも、運動すれば身体は疲労する。それと同じだ。  
そして、そんな中。人よりも脆い心が、人よりも激しい波風に晒されるような、そんな日々の中で。  
彼女の………マリアの、あの曇り無い、太陽のような笑顔を目の当たりにすると。  
疲弊し、折れ掛かっていた心から………す、と、疲労感や倦怠感が引いていくのだった。  
「………教師が生徒に注ぐ、当然の愛情を………注いできた、つもりでした。」  
しかし。  
「………………ですが。」  
「………………?」  
望も、今の今まで気付かなかったことだが。  
彼女の笑顔に対して感じていた、愛情………それは、教師が生徒に注ぐ、いわゆる師弟愛の類のものとは、  
少し違った種類のものだった。  
 
彼女に、もう、あんな残酷な台詞を吐かせたくない。  
いつも、あんなに眩しい笑顔を見せてくれる少女が、そんな言葉を口にするなんて………間違っている。  
彼女の教師として、ではなく………彼女を愛する、1人の、男として。  
それが………愛ゆえに行われるべき営みであることを、知って欲しい。  
年齢も、国籍も、教師と生徒という垣根も。それらを全て飛び越えてでも、彼女に、それを伝えたい。  
その想いが、望を、突き動かしたのだった。  
 
「そうでは、ないんです。私は、もっと………純粋に………。」  
「………………?」  
「………1人の………男として。あなたを、愛しています。」  
「ッ!!」  
「あなたに、幸せになって欲しい。あなたに伝えたいことが、山のようにあります。」  
「………先生………。」  
「………許されざる、愛かも知れませんが………自分でも、どうしようもないんです。」  
「………………ッ。」  
「………ごめんなさい。突然、こんなことを………。」  
 
しばらくの間、2人の落とす長い影は、望がマリアを抱き締めたその形のままで静止していた。  
望は、マリアの返答を待つ為に。マリアは、望の言葉の意味を呑み込んで理解する為に。それぞれ、沈黙する。  
そして、やがて。  
「………………っ。」  
影が、微かに、動く。  
直立したままその身を抱き締められていたマリアの、細い腕が………望の腰の後ろ側に、回る。  
望は、華奢な身体で自分に抱きつくマリアの髪を、優しく撫でた。  
「………私は………あなたに、もう………さっきのようなことを、言って欲しくありません。」  
「………………。」  
今度は、抱き合った形のまま。マリアの身体が、ぴくり、と震える。  
「詳しい事情を知らない私に、あなたの過去を否定する権利はありません。ただ………。」  
「………………。」  
「もう、いいんです。ここに居る限り、あなたは………昔のようなことを、する必要は無いんですから。」  
「………………。」  
「もっと、自分を、大事にして下さい。その………行いが、持つ………本当の意味を、知ってください。」  
細い腕に、見た目よりも強い力が篭る。望の胸に埋めた顔の表情は、読み取れない。  
じんわりとしたマリアの熱を感じながら、望は、慰めるようにマリアの髪を撫で続けた。  
 
そして。しばしの、後。  
「………先生………。」  
マリアが、擦れた声を上げる。望は髪を撫でる手の動きを止めて、その声の続きを待った。  
「………ゴメンナサイ………。」  
望が、意外そうな表情をする。  
彼女の口からその言葉が出たのを聞いたのは、思えば、初めてのことかも知れなかった。  
「あなたが、謝ることでは………。」  
「………マリア、先生ニ………先生ノコト………。」  
望の言葉を無視して、彼女は、一言ごとに次の言葉を探しながら、搾り出すような声で語り続ける。  
「………マリアモ………先生ノコト、好き、ダッタンダヨ………。」  
「………………っ!」  
「先生ト居るト、ナンダカ、気持チガアッタカクナッテ………。」  
「関………マリア、さん………。」  
「ナンダカ、ズット一緒ニ居たいッテ、気持チニナルンダヨ………ダケド………。」  
声が途切れ、腕に込められた力が更に増す。同時に、マリアの顔も、より強く望の胸に押し付けられる。  
望は、胸の辺りに、何か熱い湿り気のようなものを感じたが………そのことには、敢えて触れなかった。  
「マリア………ソウイウトキ、ドウしたら良イノカ、知らナカッタ………。」  
「………………。」  
「大好きナノニ………マリア、男ノ人ニ近づくノ、アアイウやり方シカ、知らナクテ、ダカラ………。」  
「………………。」  
「ダカラ………ゴメンナサイ、先生………。」  
「………いいんですよ、もう………ほら、顔を、上げてください。」  
望はそう言いながら、抱きついたマリアの腕を優しく解き、その身体をほんの少しだけ自分から遠ざける。  
身を屈めると………眼の前には、今まで1度も見たことの無い、涙に頬を塗らしたマリアの顔があった。  
目尻に涙を浮かべた双眸が、望を見つめる。望はそれを見つめながら………優しく、微笑む。  
「泣かないで………いつものように、笑ってください。せっかくの可愛い顔が、台無しです。」  
望の白くしなやかな指が、マリアの涙を拭い、そして………望の顔が、マリアの顔に、接近して。  
 
頬を伝う涙の跡の上に、望の口づけが、落とされた。  
 
「………………。」  
マリアが、一瞬、呆けたような表情をする。  
望が、再び微笑んでみせると………マリアは恥ずかしそうに、顔を背ける。頬が赤く染まっていたかどうか  
は、西日の所為でよく解からなかったが………普段は見られないその態度を、望は、心の底から愛らしいと  
思った。  
 
「何か、解からないことがあったら………いつでも、私が教えてあげます。」  
「………………。」  
「私は、あなたの、先生ですからね。」  
まだ涙に濡れたままのマリアの顔が、綻ぶ。  
 
「………アリガト、先生………。」  
夕闇に沈み行く教室の中、マリアの腕が再び、望の身体を抱き締めた。  
 

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