恐ろしいのは、当たり前になってしまうこと。
*
不自然な角度で居眠りをしていたためだろう、首に痛みを覚えたはずみで糸
色望は目が覚める。じんわりと重い左側の首筋を擦ろうと手を挙げれば、辛う
じて指先に引っかかっていた何かが畳に零れた。無残に頁が折れた姿で広がる
何か――つまり小説本を見下ろしながら、どうやら自分が読書の合間に睡魔に
襲われたらしいことを悟る。若き日は文学少年であったのにこの体たらく――
人を撲殺できそうなほどに分厚いかの思想家の書ですら夜通しで読みふけって
いた日のことを、懐かしく思う。今では薄い背表紙の娯楽小説の途中でさえ、
容易に意識を手放してしまうのだから。
(……涼しい)
開放した窓の外に、すでに陽の姿はない。
黄昏のときを通り越して、夜の闇が広がっている。昼間の熱気は未だに余韻
を残すが、時おり入り込む風には秋の気配が混じっていた。残暑はうんざりす
るほどに続いていはいるが、確実に新たな季節はやってきている。
(秋といえば食欲の秋)
真っ先に読書の秋と出てこなかった自分に呆れつつ、それでも空腹であるこ
とを言い訳にあれこれ想像を膨らませた。栗や梨、それに秋刀魚などなど、秋
が旬の食材は豊富である。たっぷりの大根おろしを添えた秋刀魚の姿を思い浮
かべると腹の虫が鳴りそうになった。そういえば昼以降なにも口にしていなか
ったことを思い出す。壁時計を見遣れば、すでに八時を回っていた。夕飯の時
間にしても遅い。いっそ外食でも、と手軽なほうへと逃げそうになりながらも、
念のために冷蔵庫を確認することにする。放っておけば折り目がついてしまう
小説を拾い上げ、卓の上に載せた。それから立ち上がろうとして、背中に違和
を覚える――重いのだ。
「……常月さん?」
恐る恐る振り返れば、そこにはなぜかというべきかやはりというべきか。
望の背中に自分のものを預けるようにして、教え子である常月まといが居眠
りをしていた。そういえば起きたときに妙に身体が重いと思っていたのだが、
それは居眠りによる不自然な体勢ゆえだと納得していた。起さぬようそっとま
といの身体を壁にもたれさせると、先ほどまでのだるさは大分楽になる。
(むう)
さすがに背中を預けていることには驚いたが、それでも彼女が傍にいること
自体に違和を覚えたわけではないことに違和を覚えた。いつのまにか、手の届
く範囲内に彼女が居ることが当たり前になってきてしまっている。
これではまずい。
非常によろしくない。
「……先生?」
背中に当たる感触が変わったことを敏感に察したのか、まといが目を擦りな
がら声を発す。普段より年頃の娘らしく愛らしい声をしているが、目覚めとな
れば舌足らずさも加わってさらに愛らしさが増している。不覚にも早まる自身
の動悸に気付いて、望は首をつりたい衝動に駆られた。
「常月さん、あの、ですね」
高校生がこんな時間に出歩いていいと思ってるんですか。
年若い婦女子が男性の部屋に上がりこんで居眠りなど、けしからんですよ。
言いたいことはたくさんある――が、望の口は一つしかない。
ゆえに、我先にとあふれ出す言葉の数々を順序良く声にすることができぬ。
ただただ口をもごもごと動かしていれば、目が覚めたらしいまといがにっこり
と笑顔を見せた。
「おはようございます、先生」
その笑顔の可愛らしいこと。
なんといっても寝起きというオプションつきである。わずかに寝乱れた襟元
の浮き具合と相まって、いつもと少し違う雰囲気が漂っていた。
「……おはようございます」
結局、彼女の行動を咎める言葉の一つ口にできず、ため息混じりに望は応え
てしまう。一瞬であれ、彼女に抱いてしまった不埒な感情への罪悪感ゆえに。
(いやしかし)
反面教師とはいえ、腐っても自分は教師。
近ごろのPTAはことにうるさいと聞くし、万が一このような時間までまとい
が部屋にいたと知れれば大事になる。きっと破廉恥者の烙印が押され、写真つ
きで実名が全国新聞に掲載されるのだ。そして、たとえ教師を辞職して他の職
業に就こうとしてもセクハラ予備軍として面接で落とされるに違いない。元々
はプロテスタンティズムの実践という世俗の汚さとは無縁の精神から生み出さ
れた合理主義の帰結としての資本主義だというのに、夏目先生の高等遊民の世
界はどこへやら、現代は「働かざるもの喰うべからず・ニート氏ね」的な雰囲
気が蔓延する世知辛い世の中、きっと前科というスティグマを与えられた自分
はどこぞで入水する自由ぐらいしか与えられなくなるのだ。
「そのときはわたしも付き合いますよ」
無意識に、棚から取り出した縄で輪を作っていた望の手をがっしりとまとい
が掴んで微笑む。
「き、きみは心の声が読めるのか?」
眠っていたせいか、まといの手の温度は高い。
そのことが余計に望を動揺させた。
人形なんかではなく、彼女は確かに目の前に居る。
目の前に居て、望を見つめている。
望だけを、見つめている。
「やだ、先生。全部声に出してお話していたじゃないですか」
「ど、どのあたりから」
えーと、PTA云々の辺りからかなあ?
小首を傾げてまといが答える。
――全部じゃないか。
迂闊すぎる自分に頭痛を覚えて、重い頭を手で支えた。
「先生が働けなくてもわたしがちゃんと働きますから。昨今はジェンダーフ
リーが流行ですし、先生は主夫になってくだされば大丈夫です」
「いやあの、そういう問題ではなく」
「でも先生と離れるのは寂しいから、お仕事は家でできるものにしますね。そ
れともいっしょに造花でも作りましょうか。わたし、手先は器用です」
言うが早いか、懐から取り出したミニタオルを素早くヒヨコの形に仕上げる。その手際のよさに思わず見惚れるも、すぐに首を振って我に返った。
「……常月さん、わたしは教師できみは生徒です」
いつかは言わねばならぬことだと思っていた。
できれば先延ばしにして、その間に彼女が気付いてくれればいいと思ってい
たのだが――そう人生は甘くはない。
「知ってます。だから、先生って呼んでるじゃないですか」
「呼び名がどうだとかいうことではないんです。きみは生徒でわたしは教師で
あるのだから、その、きみが」
どれだけ想ってくれても。
最後まで言えなかったのは、伸びたまといの人差し指が望の唇に触れたせい。きれいに切りそろえられた爪にどうしようもなく目が惹き、言葉が消えた。
「じゃあ、学校を辞めたら応えてくれますか」
大粒の目が、少しの遠慮もなく真っ直ぐに望を見上げる。
「先生と生徒じゃなくなったら、わたしの気持ちを受け入れてくださいます
か」
指先が角度を失い、こちらは些かの躊躇いを含んだ仕草で肩に触れた。布越
しですら分かるほどに暖かなてのひら。そして、近付く華奢な身体。
「先生」
突き飛ばすことは、簡単だ。
彼女は女で、自分は男。体格差は歴然としている。
ましてや彼女は子どもで、自分は大人なのだ。
(子ども?)
胸中で自嘲する。
寝乱れた襟元からは、汗の匂いに混じった女性特有の甘い匂いがするではな
いか。潤みを帯びた目は大人びた艶を宿しており、心なしか間隔短く吐かれる
息は熱を孕んでいる。全身でこれほど抱いてくれとせがんでいる彼女を、果た
して子どもと呼んでもいいものだろうか。
――生徒じゃなくなったら。
まといの言葉を反芻する。
教師と教え子でなければ確かに問題はない。高校二年生ならば、もう法的に
も結婚が認められる年である。少々後ろめたさはあるだろうが、望が後ろ指を
指されるようなことは何一つない。
それでも。
(駄目だ)
彼女の気持ちには応えられぬ。
「……わたしには応えられません」
肩に痛みがはしる。
まといが強く握り締めているのだと、ぼんやり気付いた。
「わたし、先生のことが好きです」
ええ。知っていますよ。
「いっしょに心中したいぐらい、大好きなんです」
そうですね。そうできたら、幸せでしょうね。
「……どうして……だめなんですか?」
とうとう泣き崩れたまといが望の胸に倒れこむ。半ば諦めるような気持ちで
抱きとめてやれば、いよいよまといが嗚咽を漏らして泣き出した。なんとなく
艶やかな髪を撫でてみたい衝動に駆られて指先でそっと触れてみれば、自分の
ものとは違う柔らかな感触に驚く。
「わたしはね、臆病者なんですよ」
今は望を好きだというまといも、やがてはどこかへ去るだろう。
(恥の多い人生を生きてきたガラクタのようなわたしには、きみを繋ぎとめて
おく術なんて一つもない。ましてや君は若くて美しいのだから)
きまぐれに年上の異性を好いてみるのは、思春期特有の青い過ちなのだ。や
がては誰もがそれを美しい思い出に変えてしまう。通り雨のようなその感情に
振り回されて平気でいられるほど、望は強くはない。通り雨で風邪をこじらせ
た挙句、あまつさえ肺炎で死ぬなんて真っ平だ。
(バリ封してまで射止めたレディ・ジェーンとだって、結局長続きはしなかったじゃないですか)
芥川龍之介賞受賞作家の自伝的小説を思い出す。
けれど、もしそれが通り雨ではなかったら。
移ろいやすい秋空のようなものではなかったら。
あらぬ期待を抱くなと自嘲する。お前にその価値などない、と。
恐ろしいのは、当たり前になってしまうこと。
いつか心の底から触れたいと思うたときに触れることが叶わなかったら、そ
のとき自分はどうなってしまうだろう――それが、なによりも怖い。受け入れ
る勇気もないくせに、受け入れた後のことを考えてはひっそりと怯える。これ
を臆病者と呼ばずなんと呼ぼう。
「……たとえば、大人になってもまだわたしのことを覚えていてくれたら」
手触りの好い髪を撫でながら続ける。
「そのとき、もう一度会いに来てください」
精一杯の望の譲歩だった。
自分のために、彼女のためにできる、最大限の歩み寄り。
腕の中で小さな身体がわずかに震えた。
しかし、まといからの返事はない。嗚咽はいつの間にか収まっており、やや
してから代わりのような穏やかな寝息が聞こえた。泣き疲れたのだろう――こ
うしてみれば、本当に彼女は子どもだ。
起さぬように抱きかかえたまま、さてどうしたものかと悩む。このまま寝る
にはさすがにまずい。さしあたって体勢も辛ければ、腹も減っている。だんだ
ん腹が立ってきてまといを放り出そうとも思うが、心底安堵したような寝顔を
見せられてはどうにもできぬ。
「……絶望した」
ぼそりと呟く。
教育者として何一つ間違った行いはしていないというのに、なぜさらに苦難
が訪れるのだろうか。むしろこの鉄壁の理性を褒め称え、いますぐ彼女を誰に
も見られないよう極秘に自宅まで運んでくれるサービスをしてくれても構わな
いくらいだ。世の中信賞必罰じゃなかったのか神よそこらへん。
「あ。神は死んだんでしたっけ」
どこぞの思想家の名言を呟くと、妙に納得してしまった。納得した途端、睡
魔に襲われ――まといの規則正しい寝息につられたのがひとつ、そして、処理
できぬ現状から匙子を投げたかったのもひとつ――望も目を閉じる。
やがて仲良く眠りに落ちた二人の髪を、晩夏の涼風がふわりと揺らした。