「はぁー、今日も残業しちゃった…。」  
千里はやれやれとため息を吐きながら自宅マンションのドアを開けた。  
「…というより、もう、これが定時かな。」  
一人笑いをして壁の時計に目をやると、とうに日付は変わっている。  
 
「全く、今日中にドキュメント上げろなんて、無茶言ってくれるわよね…。」  
ぶつぶついいながら、千里は脱いだスーツをハンガーにかけた。  
千里は、今、外資系のコンサル会社でシニアマネージャーを務めていた。  
28歳という千里の年齢を考えれば大抜擢である。  
 
しかし、当然、それに呼応するように仕事は増えていく。  
最近では、日付が変わる前に千里が帰宅できることは、ほとんどなかった。  
 
軽くシャワーを浴び、楽な部屋着に着替えると、  
千里はブランデーグラスを片手に、ソファに背を預けて息をついた。  
部屋の電気を消したまま、そこから、ぼんやりと窓の外を眺める。  
都心の高層マンション。  
夜景が美しいという評判につられ、高い家賃にも関わらず引っ越した。  
「うーん、あんまり意味なかったかなぁ…。」  
千里は、窓の外の、既に照明を落とした観覧車を見ながら呟いた。  
 
それでも、都会の灯はまだ明るく、星の海のように千里の前に広がっている。  
千里は、自分が、その無数の星の1つであることを強く感じた。  
 
息を吐いて、グラスに少しだけ注いだブランデーを口に含む。  
ふと、高校生の頃、風呂上りに麦茶で似たようなことをしていたのを思い出した。  
クスリ、と千里の口から笑いがこぼれる。  
「あの頃は、背伸びばっかりしてたなぁ…。」  
 
今の自分が嫌で、何か別のものになりたくて必死だったあの頃。  
大人の真似をすれば、今の自分から抜け出せるような気がしていた。  
 
「でも、楽しかったな…あの頃は。」  
 
ふいに自分の口からついて出た言葉に、千里は自分で驚いた。  
「やだ、何で、こんな年寄りみたいなこと…。」  
思わず、背筋を伸ばしてソファの上に座りなおした。  
 
「疲れてるのかな…。」  
千里は、呟きながら目線を窓際の植木鉢にやって、目を見開いた。  
 
この部屋に入居したときに買ったサボテンに小さな蕾がついていた。  
千里は、窓際に歩み寄り、植木鉢を手にとって呟いた。  
「花が…咲くんだ…。」  
 
しばらくサボテンを見つめるうちに、目の前がだんだんぼやけて来た。  
息がつまり、千里は思わず胸を押さえた。  
 
―――ねえ、木津さん…。  
    この、サボテンね、めったに花はつけないですけど…花が咲くと、  
    それは美しいんですよ…。  
 
―――我慢して、一生懸命生きているものは、皆、美しいんです。  
    それは、人間も、一緒なんですよ。  
 
高校時代の担任の言葉が、鮮やかに脳裏に蘇る。  
それと同時に、穏やかに微笑む彼の笑顔も。  
それは、千里が今まで忘れていた…いや、忘れようとしていたものだった。  
 
高校時代の担任、糸色望に、千里は会って間もない頃から惹かれていた。  
望は、千里の隠された弱い部分を、初めて見つけてくれた大人でもあった。  
高校生活の間、様々な出来事を通して2人の間には少しずつ特別な想いが育まれ、  
そしていつしか、互いの存在を「恋人」と呼び合う関係になっていた。  
 
―――なんで、こんなこと…ずっと忘れてたのに…。  
 
いや、それは嘘だった。  
忘れたことなんかない。  
忘れた振りをしていただけだった。  
 
この部屋に入居して、一番はじめにサボテンを買ったのも、  
きっと、初めて望に優しい言葉をかけてもらったあのときのことが、  
どこか頭にあったからに違いないのだ。  
 
―――先生とは、もう、終わったのに…自分で、そう決めたのに。  
 
結局、2人の関係は、長くは続かなかった。  
実家に帰って跡を継ぐから一緒に来て欲しい、という望に  
千里が首を横に振ったのだ。  
 
当時、千里は社会人になったばかりだった。  
自分の将来に対する夢と希望が、胸に満ち溢れているときだった。  
社会で、自分の可能性を試すのが楽しくてならない、そんなときに、  
全てを捨てて望について行く、と、千里は思い切れなかったのだ。  
 
―――…しかた、ありませんね…あなたには輝かしい未来があります。  
    それを束縛する権利は、私にはありません。  
 
悩みぬいた挙句の千里の答えを聞いて、  
望は、どこかが痛むような笑顔で千里を見た。  
そのときの望の顔と声は、今も千里の胸に焼き付いている。  
 
千里とは別の選択をした女性もいた。  
彼女は、高校のときと同じ一途さで、望を蔵井沢まで追いかけて行った。  
その後しばらくして、千里は風の便りに、2人が結婚したと聞いた。  
今は子供にも恵まれ、幸せに暮らしているらしい。  
 
―――あのとき、先生に付いていかなかったこと…後悔してる…?  
 
千里はサボテンに問いかけた。  
 
あの時望に付いて行ったら、自分にはどんな人生が待っていたのだろう。  
望の隣で微笑んでいるのは、まといではなく自分だったのかもしれない。  
 
千里はしばらくサボテンを眺めていたが、頭を振った。  
そんなことを考えても意味はない。  
 
今の自分の生活に、不満があるわけではなかった。  
どんどん大きなプロジェクトを任されるようになっている。  
顧客の信頼も得られるようになって来た。  
 
千里は、自分の力で築き上げて行く人生に、確かな充実感を感じていた。  
 
―――これが、私の選んだ道なんだから…。  
 
それでも時に、こんな疲れた夜には、ふと、心をよぎることある。  
 
―――望と共に歩むことができたかもしれない、もう1つの人生が―――。  
 
千里は、サボテンの蕾をそっとなでた。  
 
―――先生、私、今も、一生懸命生きてます。  
    先生と同じ花は咲かせることはできなかったけど…。  
    でも、美しい花を咲かせるために、ここで、頑張ってます…。  
 
微笑みながら、サボテンをなで続ける千里の頬の上を、  
一粒の涙が、窓の外の光に煌きながら零れ落ちていった―――。  
 
 

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