千里は、ひたすら夜の砂浜を走っていた。
涙で濡れた頬に当たる潮風が冷たい。
―――では先生と私の、きっちりとした恋愛はありですか。
期待に満ちて口にした質問。
―――それは無い。
それに対して、望の口から出たのは容赦ない言葉だった。
あびるや奈美、カエレ、マリア、智恵先生はともかく、
人妻の麻菜美や一旧まで「ありあり」と受け入れてきた男が、
彼女に対してだけは、迷いもなく拒絶したのだ。
非道な男は、たった今自分の手で埋めてきた。
しかし、心に深く抉られた傷は、埋まることなく血を流していた。
千里は、だいぶ走ったところで息を切らして立ち止まった。
ぼんやりと、海を見つめる。
―――…どうして私は、いつも、こうなんだろう…。
精一杯、一生懸命やっているのに報われることはない。
おいしいところを持っていくのは、いつも、役にも立たないドジっ子だった。
―――木津はしっかりしてるからな。
子供の頃からよく言われる言葉。
本当は、しっかりなんか、したくなかった。
―――千里ちゃん、几帳面だよね。
もとからきっちりした性格だったわけではない。
でも、きっちりと型に嵌まっていなければ、余りにも不安定な自分がいた。
幼い頃の、両親との会話が胸に蘇る。
―――ごめんね、千里ちゃん。
お姉ちゃんがまた具合悪くなっちゃったの。
千里ちゃん、1人でお留守番できる?
―――うん、大丈夫だよ、お父さん、お母さん!
千里は、1人でなんだってできるんだから!
―――千里がしっかりしてくれてるから、お父さん達、助かるよ。
いつも笑顔で、病院に急ぐ両親を見送った。
でも、その後、必ず1人で泣いた。
本当は、寂しくて、不安でたまらなかった。
寂しいのに、不安なのに、しっかりきっちりしなければならない。
その重圧は、彼女の精神を次第に追い詰めていた。
そうして、いつしか少女は、自分の精神のバランスを、
猟奇に走ることで保つようになったのだ。
―――でも、結局、そうやって先生にも嫌われちゃった…。
足の力が抜けて、千里は砂浜に座り込んだ。
潮風のせいなのか涙のせいなのか、口の中がしょっぱい。
千里は膝を抱えて顔を埋めると、思い切り泣いた。
どれくらい、そうやって泣いていたか分からない。
遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「…さーん、木津さーん。」
千里は顔を上げた。
月明かりの中、波打ち際をきょろきょろと見回しながら歩いているのは
先ほど、千里がこの手で埋めたはずの担任教師。
「先生…。」
千里は呟くとゆるゆると立ち上がった。
望が、千里の姿を認め走り寄ってきた。
「ああ、良かった、ここにいたんですね。」
「どうして…埋めたのに。」
千里の呟きに、望はふふん、と笑った。
「先生をなめちゃいけません。
あれだけしょっちゅう埋められていれば、這い出るコツもつかみます。」
しばしば望を埋めていることを指摘され、千里はうつむいた。
そのまま、小さな声で望をなじる。
「…何か用ですか。先生にとって、私は『ない』んでしょ。」
望は腕を組んで頷いた。
「そのことなんですけどね。あの後、ずっと考えていたんですよ。」
千里は顔を上げた。
「どうして、あのとき、あなたに対してだけ『ない』と言ってしまったのか。」
千里の顔が悲しげに歪む。
なんて残酷な人だろう。
わざわざ追いかけてきてまで、そんな理由を聞かせるなんて。
千里は、思わず望に背を向けて走り出そうとした。
と、その千里の手を、望がつかんだ。
千里は驚いて望を振り返った。
望は、真剣な顔で千里を見ていた。
「あのとき、本当は、流れで『あり』と答えそうになったんですよ。
でも、瞬間的に、それではいけないと思ったんです。」
千里は、目を瞬いた。
望は、千里の目を見ながら続ける。
「あなたは、いつも、いつも、真剣です。あいまいなところなど、1つもない。」
―――私は、きっちりさん、だものね。
だから、皆に煙たがられる。
千里は心の中で自嘲した。
「だから、私も、思ったんです。
皆の『ありあり』なんていう言葉に踊らされた、適当な返事はあなたに対して失礼だと。
あなたに対しては、きちんと、考えて答えを出さなければ、と。」
千里は、呆然と望を見ていたが、再びうつむいた。
「でも、先生は、あのとき『それは無い』って…。」
望はため息をついた。
「あれはですね…流れのまま、あり、と答えそうになった自分に、
反射的に、ストップをかけてしまったもので…。」
千里は目を見張った。
―――あれは、先生自身にいった言葉だったんだ…。
千里は、顔を上げると、望をじっと見つめた。
望の言っていることが段々と胸の奥に沈んでくるにつれて、
胸がどきどきしてきた。
かさかさに乾いた唇を一度湿すと、千里は聞いた。
「…それで、きちんと考えた結論は、どうなったんですか?」
望は、背をかがめて、目線を千里の高さに合わせた。
―――そして、ゆっくりと微笑んだ。
「『あり』です。私は、あなたと本気の恋愛をしたい。」
「―――!!」
千里の肩が震えた。
「…きっちり、しっかり、考えて出てきた結論です。
あなたは、私との恋愛は、ありですか?」
望は笑顔で千里を覗き込んだ。
「…ぁ。」
‘ありです’と返事をしようとしたが、声がでなかった。
ぼとり、と千里の目から、再び涙がこぼれた。
しかし、今度の涙は、さっきとは違って温かかった。
千里は、望にしがみつくと、声を上げて泣き始めた。
望が、優しく千里の背に腕を回す。
―――いつだって、不安だった。
心細かった。
―――こんな風に、誰かに抱きしめて、支えて欲しかったんだ…。
「木津さん、これからは、私がいつもあなたを抱きとめますから。
だから……泣きたいときには、思い切り泣いてくださいね。」
暖かい抱擁につつまれて、千里はいつまでも泣き続けていた。