望は、放課後、校庭の隅にある花壇の横を歩いていて、
ふと、自分のクラスの生徒がいることに気が付き、声をかけた。
「どうしたんですか、木津さん。」
少女が、泥に汚れた顔をあげた。
「男子生徒が花壇を荒らしてしまって…植え替えてるんです。」
見ると、確かに花壇の一角を占める多肉植物のコーナーが
無残に踏み荒らされている。
おおかた、この近くでサッカーでもやったのだろう。
「ここは、花壇の中でも地味な一角ですからね…。
そういえば、この間も、踏み荒らされてましたよ。」
望の言葉に、千里が憤慨したように首を振った。
「こんなぐちゃぐちゃにするなんて…許せません。」
望は、その男子生徒達がどうなったのかは深く考えないようにした。
「木津さんは、きっちりした性格ですからね。」
そのことは、良く知っている。
千里のこの粘着きっちり性質のために、何度死ぬ目にあったことか。
と、千里が吐息をついた。
「それだけじゃなくて、このサボテンたち、なんだか他人事と思えなくて…。」
「え…?」
「水もそんなにいらなくて、我慢強くて…でも、いつもとげとげしていて、
誰も、可愛いがってなんかくれないんです。」
千里はうつむいて、サボテンをそっとなでた。
望は、その千里の横顔があまりにも頼りなげなのに驚いた。
引き篭りの少女ほどではないが、千里もきめ細やかな白い肌をしている。
その肌に、真っ直ぐな黒い髪が一筋流れ、可憐な風情をかもし出していた。
―――こんな可憐な少女が、何故、こんな性格になったのだろう…。
望は、思わず、疑問を口に乗せていた。
「木津さんは…どうして、そんなにきっちりした性格になったんですか?」
千里は、虚を突かれたように目をまたたいた。
そして、ふっと目をそらせると呟いた。
「お姉ちゃんの、せいかもしれないですね…。」
「あなたの、お姉さん?」
千里の言葉に、今度は望が不思議そうな顔をする。
「…うちの姉は、子供の頃から体が弱くて、入退院を繰り返してて…。」
早く直って欲しくて、お医者さんの真似事をして、
ジュースを注射しちゃったりしたこともあったけど、と
千里は恐ろしいことをさらっと言った。
「私、いつも『千里はしっかり後を頼んだよ。』って言われて育ったから…。」
突如として、望の脳裏に、幼い頃の千里の姿が浮かんだ。
姉の心配で手一杯の両親に、負担をかけまいと必死に頑張る小さな子供。
全てを、きっちり、頑張ってこなそうと懸命で…。
「でも、頼られるのは嫌いじゃないから、もともとの性格なのかもしれないです。」
千里は小さく笑った。
それだけではないだろう。
望は思った。
小さい頃、姉の病、という暗い恐怖に裏打ちされて培われた責任感は、
強迫観念のように、彼女を今でも縛り付けている。
思えば、彼女の普段のマリアに対する態度や、
こういう校庭の隅の植物をも気にかけるところを見ても分かるように、
本当の彼女は、単に、面倒身の良い、心優しい少女なのだろう。
それが、常に「しっかり者」と皆に頼られ、それに応えているうちに、
責任感が彼女を追い詰めて、結局、猟奇的な行動に走らせるのだ。
望は、思わず、千里の泥だらけの手を取った。
「木津さん。」
「は、はい?」
望の唐突な行動に、千里が頬を赤らめた。
「ねえ、そんなに、しっかりしなくてもいいんですよ…気を抜いてください。」
「…そんなこと言って、私がドジっ子になったら、先生逃げるじゃないですか。」
望は苦笑した。
「確かにあれは、さすがに…。でもね、木津さん。
あなたは、まだ、子供なんですよ。もっと大人に頼ってもいいんです。」
千里が、はっとしたように望を見上げた。
「先生は、頼りない大人かもしれませんけど…それでも。
あなたが、辛いとき、大変なときは、頼って欲しいです。」
千里の目が、心なしか潤んできた。
千里は、慌てて咳払いすると、顔を上げて目をしばたいた。
「な、何言ってるんですか、先生、心の弱い大人の癖に…。
だいたい、そんなにすぐに性格なんて変わりませんよ。」
そういって、望を見返した。
「じゃあ、先生は、絶望するのやめられます?」
望は思わず言葉に詰まった。
確かに、千里の言うとおりだ。
言うは易し、行うは難し…。
―――でも、それでも。
望は、この、見えない鎖にがんじがらめになっている少女を
そこから解放したいと思った。
解放された千里の笑顔を見たいと、心から思った。
「分かりました、努力しましょう。」
「え…。」
千里が驚いたように望を見上げる。
望は、千里に微笑みを返した。
「私も、絶望しないように努力します。
だから、木津さんも、きっちりしすぎしないように努力してください。」
「……きっちりしないように努力、なんて、おかしいですね…。」
口では文句を言いながらも、千里の表情はやわらいでいた。
望は、しばらく、千里がサボテンをそっと植え替えるのを見ていた。
「ねえ、木津さん…。」
「はい?」
「この、サボテンね、めったに花はつけないですけど…花が咲くと、
それは美しいんですよ…。」
「…!」
千里は目を見張った。
「…我慢して、一生懸命生きているものは、皆、美しいんです。
それは、人間も、一緒なんですよ。」
「…。」
今度こそ、千里の目から涙がこぼれ落ちてきた。
望は、そっと手を伸ばしてそれをぬぐった。
―――ねえ、木津さん。
あなたがもう少し、きっちりしなくなって、私が絶望しなくなって。
そうして、この、サボテンの花が咲いたら…。
そうしたら、私たちも、何かが変わるかもしれないですね…。
放課後の、柔らかい日差しの中。
サボテンの葉が、千里の涙のしずくを受けて、きらきらと光っていた。