新井智恵の日課はカウンセリング室の受付箱を見ることから始まる。
とは言っても、いつも押しかけてくるのは決まっていて、その本人は担任その人なので、
カードなど出しはしない。生徒は生徒で悩みが少ないのか、あまりカウンセリングを頼み
には来ない、しかも来るにしてもカードを出さないことも多いだから箱はだいたい空っぽ。
従って、見ることに意味はほとんどないが、職業柄か、つい、いつも覗いてしまう。
「まあ、今日も何もあるわけないか・・・・」
そう、つぶやきながら中を見ると、一枚だけ珍しくカードが置いてある。
「へえ・・・・誰かしらね」
そういいカードの名前を見てみると、小節あびると氏名欄にあり、用件のほうは、
「そちらでお話します」と書かれ、時間の方は放課後と書かれている。
「あの子が?」
多少変わった趣味を除けば、成績優秀で性格のほうも悪くない彼女に一体なんの悩みが
あるのかさっぱり検討がつかない・・・そう思いかけたところでふと恐ろしい考えに行き着く、
(まさか・・・つい父親を・・・?)
彼女はいつも全身を怪我している、それは同居している父親からのDVによるものではないか、
そう考え、前に一度調査をした結果、本人の趣味、動物の尻尾を引っ張ることによって受ける
反撃だったと判明した。だが、彼女を調査していた時にもうひとつの恐ろしいことがわかった。
なんと、彼女自身が父親に暴行を加えていたのだ。
別にそれは父親が憎いからとかではなく体が勝手に動いてしまうそうだ。
(ひょっとしたら・・・それに耐え切れなくなって)
これは大事になるかもしれない。そんな考えを抱きながら、智恵は放課後を待った。
放課後のチャイムが鳴り終わって数分後に、扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
なかば緊張気味にそう声をかけると、扉が開かれ、おさげを揺らし松葉杖をつきながらあびる
が部屋へと入ってきた。
「よく来たわね。さ、座って」
黙ってコクリとあたまを下げると、あびるは黙って、椅子に腰掛ける。確かに彼女は口が少なく
無表情なほうだが、今回は少し異常だ。今は無表情というより、引き締まって緊張している。
これはいよいよ大変だ。と心の中で思ったが、顔にはまったく出さず勤めてにこやかにたずねる。
「で、なにかしら?話したいことって・・・」
そう問い掛けられ、あびるは口を開こうか思案するような素振りをみせたが、意を決したかのように
ゆっくりと声をだす。
「実は・・・」
「実は?」
あびるのあまりの緊張に思わず声を硬くしてしまいながらも、繰り返したずねる。
「私・・・」
「私?」
もう覚悟はできた。昏睡にしたか、どこか骨折でもさせたか、はたまた
「好きな人が出来たんです!」
「は!?」
考えていたのとまったく違う答えに思わず間の抜けた声をだしてしまう。
「そ、そんな顔しないでください!」
あびるは彼女らしくなく声を荒げ抗議する。
「ごめん・・・・ちょっと予想してない答えだったんで、ついね・・・・でも、よかったわね」
謝りながらも智恵は微笑ましい気持ちになるのを感じた。
こんな彼女でも、ちゃんと人並みに恋が出来たのだ。これなら、父親にかんするDVもおさまるかも
しれない。
「それで、私・・・人を好きになるのとか始めてだから・・・ちょっと相談にのってもらいたくて」
「ええ、私でよければなんなりと」
せっかく彼女が人並みになりかけているのだから、しっかりと手助けしてやらねばならない。
どこぞの教師の自殺を引き止めるより、よほどカウンセリングらしい仕事に思わず声が弾む。
そんな智恵の調子に戸惑いながらもあびるは話を続ける。
「実はその人、他の人にもよくモテるんです」
「へえ・・・・」
なるほど、それなりに容姿はいい人間のようだ。だとすれば、ライバルも多いのだろう。
「それじゃ、積極的にアピールしなくちゃね」
「はい、そうなんですけど、他の人たちの方がすごくて、しかも私より前からその人を狙ってたらしい
んです」
ここまで聞いて、ふと、智恵は一人の男の姿を想像し、急いでかき消す。いくらなんでもありえない。
が、
「その人たちのアピールがすごいんです。一人はその人のあと四六時中ついてまわってるし、一人は
同じ場所に同居みたいに住んでるんです」
ここまで言われれば、該当する人間なんてもう一人しかいない
「ひょっとして、もう一人はもの凄くきっちりしてて、近寄りがたいような子?」
やはり図星だったのか、あびるの表情が固まる。
「なんで・・・わかったんですか?」
認めたくない、認めたくないが、これでもう誰かは確定した。それでも最後のあがきのような形で
確認する。
「ねえ、それってもしかして、あなたの担任の先生?」
その言葉を聞いた瞬間、あびるの顔がほんのり紅く染まる。
間違いない、糸色望だ。
「どうして・・・どうしてわかるんですか?」
蚊の鳴くような声で聞いてくるあびるに、智恵は苦笑するしかなく、とりあえず聞き返す。
「ええと、先生をどうして好きになったの?」
そう聞かれた途端、あびるはさらに顔を紅くして、首を振る。
「い、言えません!」
「そう・・・」
別段、追求する気はなかった。どうせ、おおかた、また何かの手違いだろう。今までの事例だって
みんなそうだ。
(それにしても、それでなんでこんなに生徒にもてるのかしら)
積極的に生徒を口説くわけでもないのに、何故かよく生徒にモテる。
確かに容姿はいい、いつも着ている和服姿も様になっている。なにより高校の教師だけあって、頭も
いい。だが、それらを差し引いてなお余りあるのが性格である。とにかく超のつくネガティブ思考
の持ち主で、ことあるごとに死にたがる。だが、よくよく観察してれば、それら全ては未遂に終わって
いて、死ぬ気があるとは到底思えない、そういう意味のないことを繰り返す。まあ、簡単な話が
変人の部類に入る。それが糸色望、通称「絶望先生」だ
だが、それでも生徒にモテているのが現実だ。(本人はまったく喜んでいないが)
中には結婚前提で付き合っているなどと、シャレにならない者までいる。
(でも・・・・あの小節さんが、ここまでになるなんて・・・一体何したのかしら・・・まさか!)
「あの・・・先生?」
いやな想像をしていたところで急に声をかけられ、慌てて現実に戻る。まさか面と向かって
そんなことを聞くわけにはいかないので、とにかく今は望の常識を信じることにした。
「あ、ああ・・・・ごめんね、そうか・・・そうよね・・・他の人のアピール激しいもんね」
あれは最早激しいなどというレベルを超え犯罪の域に達している気もするが、
「そうなんです、だから、私じゃついていけない気がして」
正直ついていってもらったら困る。超怒級の曲者揃いのあのクラスの数少ないまともな人間を
減らしたくない。が、一応恋はしているのだ。相手が誰であれ、一応初恋の手助けはしてやり
たい。
「そうね・・・だったら、あなたは逆をいったらどう?」
「逆?」
「ええ、そこまで存在を誇示するんじゃなくてさりげなく近寄るの、そうね、食事に誘うとか・・・」
智恵はとにかくあびるまで過剰なアピールに走らないようにそれなりの助言をしてみると、
あびるは嬉しそうに微笑み何か、ごそごそ口の中でつぶやき始めた。
「そっかぁ・・・じゃあ、あの店に一緒に食事に・・・」
そうひとしきりつぶやいた、さっぱりした。もとに無表情な顔に戻って、ぺこりと頭を下げ、
「ありがとうございました」
と短く言った。
「いえいえ、どういたしまして、頑張って!」
頑張りすぎられてもこまるけどね、と小さく付け足したが、どうやら聞こえなかったらしく。そのまま
部屋から出て行きかけ、ふと思い出したように、立ち止まると振り返り言った。
「きっと、先生と先生の彼氏って仲いいんでしょうね、先生恋するのうまそうだし」
「え・・・ま、まあね」
「一回会ってみたいですね。それじゃ」
最後に一礼するとあびるはドアを閉めて出て行った。
「恋するのが、うまそうか・・・」
自分しかいなくなった部屋であびるに最後に言われた言葉を繰り返し口に出して言うと、
自虐的に微笑み、
「そうでもないのよね・・・」
と小さくため息混じりにもらした
「智恵・・・智恵!ついたわよ!起きなさいよ」
「うん・・・あびるちゃん・・・大事なのはさりげなさよ・・・」
「なに寝ぼけてんの、起きなさい!」
思いっきり頭をひっぱたかれて、やっと目が覚める。
「夢・・・か」
つい数日前の出来事を夢でみていたのだと、気づき、そして、今の状況を確認する。
確かハンドベル仲間の友人達に飲みに誘われたのだった。車に乗せられ揺られているうちに眠って
しまったらしい。
「まったく、夢でも仕事してたの、口が仕事口調だったわよ・・・仕事しすぎるとはやく老けちゃ
うわよ」
「大きなお世話よ!」
そう言い合いながら、店に入ると、
「おっそーい!」
「遅刻よ、遅刻!」
などと、先についていた仲間たちの出迎えが待っていた。
そのまま、宴会へと流れ込み、騒ぎがつづいたが、急に一人が時計を眺め慌てたように
「いっけない!そろそろ帰らないと、彼が帰ってきちゃう!」
「ええ、いくらなんでも早いでしょ!?ねえ、みんな!」
思わず智恵はそう叫び、周囲に同意を求めるが、他もそれぞれ、帰る準備を始めている。
「ごめん!私も彼が帰ってくるから、今日は一緒に過ごしたいの」
「私も・・・」
「そ、そう・・・」
そういわれてはどうしようもないので、仕方なく、宴会は思ったより早くお開きとなった。
「ねえ、智恵・・・・」
「ん?」
なにか一抹の寂しさを抱えながら、助手席で、きだるげに座っていた智恵は突然の呼びかけに
驚いたように、首をおこした。そんな彼女をみながら、友人は言った。
「あんたさぁ・・・いつまで、そうやって色気ない生活続けるの?」
「何よ・・・突然」
不意の質問に驚いたかのように首をかしげ、とぼけようとしたが、友人はそれを許さずさらに続ける。
「あんた、わかってる?みんな大体、彼氏作って、なかには来年には結婚するような子だって
いんのよ?」
「へ、へえ!?誰、言ってくれたらよかったのに!」
追求を逃れるのは無理そうなのでせめて話をそらそうとするが、それでも友人はごまかされずに
続ける。
「智恵、あんた、顔とかスタイルとか悪くない・・・ううん、すっごくいいんだから、せめて、彼氏
作んなさいよ」
友人は決してうわべだけでなく、心の底から心配してくれている。
それはわかっている。が、それとこれとは別問題だ。
それに少し、誤解があった。智恵とて、異性と付き合ったことはある。
もちろん体を重ねたことも何度かあった。だが、続かないのだ。
あのころの智恵はとにかく、勉強一筋だった。夢であった教師になるため、必要だったこととはいえ、
勉強に打ち込めば、必然的に異性との交流は少なくなる。
そうなれば、当然相手は面白くなくなり、はじめはよかった仲もしだいに悪くなってくる。
なかには夢と自分とどっちが大事なんだ。などとわけのわからないことを言ってくる者もいた。
そうなると当然喧嘩になり、そのまま別れてしまうばかりだった。
だが、相手は何も悪くない、両立できなかった自分が悪いのだ。そうわかっていても、同じこと
を繰り返してしまう。そうやっているうちに、ここまで来てしまった。
皮肉なことに目指し、たどり着いた先は空虚なものだった。最近では、時間を持て余すことが多く、
あのころはなんだったのか、と真剣に悩むことすらある。今ならうまく恋も出来そうなものだが、
幾度もの出会いと別れを繰り返すうち、異性と付き合うことそのものが恐怖となっていた。
(恋がうまいだなんて、ありえないわ・・・)
数日前のあびるの言葉を思い出し、自虐的にそう考えていたところに友人が再び声をかけてきた。
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてるって・・・」
「あんた・・・まじめに考えといたほうがいいわよ・・・あんまりしぶってたら、本格的に行き
送れて、天涯孤独とかそういうことにもなりかねないわよ」
「天涯孤独・・・ねえ・・・」
それも仕方ないと思った。ここまでうまく異性と付き合ってこなかったのだから、今ごろまた恋が
したいなどと思っても失敗することを恐れ、またうまくいかないに決まってる。
「そうだ!!」
「ど、どうしたのよ!?」
突然の大声に驚く智恵にかまわず友人は顔を輝かせ言った。
「いるじゃない!あんたの身近に手ごろな人!」
「え?」
いきなり、そんなことを言われても誰のことやらさっぱりわからない。
「ほら、こないだ演奏会にあんたが演奏会に誘った。あんたと同じ学校の教師!」
「ええ!?糸色先生!?」
「そうそう!その人よ!」
「何をいきなり・・・」
確かに、前の演奏会で一人でも多く客を招けと言われ、何気なく望に招待券を渡した。
あのとき、もの凄く恐縮しながら、和服でたずねてきたときにはどうしようかと思ったが、
なかなか評判がよく友人達からもてはやされていたのを覚えている。
「あの人すごくかっこよかったじゃない!みんなからの人気も高かったし、和服を着てるのも
最初はどうかなって思ってたけど、しばらくしたら妙になじんで見えて・・・うんうん、
かっこよかった!あと年下ってのもポイント高いわよね!」
それは、あなたが、あの人の内面を知らないからよ。と言ってやろうかと思ったが、別に彼女が
この先の人生で彼にかかわることはまずないだろうから、あえて黙っておいた。
「知ってる。あの後、あの人にメルアド教えてって子結構いたのよ!」
それは初耳だった。なるほど、あのあとしばらく望の姿が見えなかったと思ったら、そんな事情
があったのか。
「それでね、彼はどうしたと思う?」
「どうしたの?」
「全部、断わってたのよ!」
さすがにこれには驚いた。あの人のことだから、全員に教えているだろうと思っていたのだが、
まさか、自分のメルアドを忘れたなんてことがあるはずはないだろうし。
「それでね、ここからは私の推測なんだけど、彼、あなたに気があるんじゃないかな」
「ちょっと、ちょっと!なんでそうなんのよ」
あまりに突拍子もない話の飛び方に思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
「だって、普通アドレスぐらい教えたっていいはずでしょ、それを教えないってことは、私の
推測だけど、あなたに知られたくなかったんじゃない?」
いくらなんでもそれは推測を通り越して妄想だ。あきれてどういったものかと迷っていると、
友人は興味深そうに、
「それで、あんたはどう思ってんの?」
と、聞いてきた。
「え・・・・」
「一緒の職場で働いてんだし、なんかの感情くらいあるのかしら?」
「それは・・・・」
予想もしない質問に口ごもってしまう。と、そのとき目前に智恵の住んでいるアパートが見えてきた
ため、ちょうどいい口実を見つけたとばかりに、
「ここでいいわ、あとは歩いて帰れるから、ありがとう」
と車を止め、ドアから外へと出る。
「え?ここでいいの?」
「うん、ちょっと、歩きたいから・・・・」
本当は今の会話から逃げるためだが、まさか正直にも言えない。友人は胡散臭そうな顔をしながらも、
うなずくと、最後に
「今の話、よく覚えておいてね」
そう言い残し、エンジン音と共に走り去っていった。
一人取り残された智恵は、ぐったりと疲れた気分になりながら、目の前のアパートに向かって歩き
出した。
(なにかの感情?そんなものあるわけない)
次の日、智恵は一人カウンセリング室でモヤモヤした気分に囚われながら、本日で何度目かの
自問自答を繰り返していた。
(大体、糸色先生も私にそんな気を持ってるはずがないじゃない・・・)
そう考えるたびに、昨日の友人の言葉が木霊する。
(あの人、アドレスを教えなかったのよ・・・ひょっとして、あなたに知られたくなかったん
じゃない?)
妄想に決まっている、だが、どこか説得力のあるその言葉が頭から離れない。
(でも・・・もし、もし、本当だとしたら?)
そこまで考えては、ありえないと打消し、また考え、とその繰り返しから抜け出せない。
思えば、異性に関してこんなに悩んだのはいつ以来だろう。
と、その時、コンコンと扉をノックする音がした。
慌てて時計を見ると、いつのまにか放課後になっている。
(いやだわ・・・今日一日なにやってたのかしら)
おそらく、上の空でボーっとしながら過ごしていたのだろう。
(こんなことじゃいけないわね!)
と、無理に気持ちを切り替えると、事務的な口調で
「どうぞ」
と短くいい、入ってきた人物の顔を見た途端、再び、気持ちを切り替えさせられてしまった。
「申し訳ありません・・・・予約もなしに・・・」
入ってきた人物、糸色望本人はいつもどおりの和服をまといよろめくようにカウンセリング室に
入ってきた。
(なんで、よりにもよってこんなときに・・・)
思わず、心の中でそう思ってしまったが、別にいつものことなので、望を攻めるのは間違いと
言うものだろう。
(まあ、いつもどおりにやれば問題ないわ・・・)
そう考えとりあえず椅子をすすめ、適当に机の上にお茶を並べる。
「すいません、いつもいつも・・・」
そう言いつつ望はくずれるように椅子に座った。
「それで、なんで今日は死にたくなったんですか?」
「実は・・・」
いつものように、どうでもいい、いきさつを語る望の言葉を聞きながら。智恵は再び昨日の友人
の言葉を思い返した。
(あんたはどう思ってんの?なんか感情とかないの?)
(どう、思ってるって・・・)
智恵は自分の目の前に座っている糸色の姿をまじまじと見つめる。
まず、肌は抜けるように白い、日焼けなど体験したことが無いような肌。
そして、華奢な体まさにぽっきりと折れてしまいそうにも見える。
そして、最後に顔はまさに端整と言うのをそのまま具現化したような顔をしている。
まさに完璧と言っていいだろう。が、
(けど・・・・性格がねえ・・・)
今言っている、泣き言と情けない表情がそれら全てを台無しにしてしまっている。
(けど、じゃあ、なんで私はこんなに真剣に話を聞いてあげてるんだろう)
仕事だからと、言えばそれまでだが、なぜか、彼の話は親身になって聞いてしまう。
「・・・と、いうわけなんですよ!・・・智恵先生?」
「は、はい!それは大変ですね!」
呆けていて、よく話を聞いていなかった智恵は突然現実に引き戻され、適当に相槌をうち、
慌てて、湯飲み茶碗に手を伸ばす。
が、あせって伸ばしたては勢いづいて思わず茶碗を弾き飛ばしてしまい、そのまま机の下に
落下してしまう。
幸い結構丈夫な茶碗であったようで、茶碗自体は割れなかったが、中に入っていた茶は床に
広がってしまった。
「ああ、私ったら!!」
「大丈夫ですか?お茶かかってませんか?」
「ええ、なんとか・・・・きゃああああああ!!」
智恵は、心配そうに身を乗り出してきていた望を思わず突き飛ばしていた。
「うわぁあ!!」
と、なんとも情けない声をあげ、望は後ろへと弾き飛ばされる。
「な、なにを・・・?」
思いっきり打ち付けたらしい腰をさすりながら、望は涙声で訴えてきた。
「え、あ、ご、ごめんなさい!つ、つい・・・」
取り成そうとするが、気が動転して、うまくしゃべれない。
「あ、あの掃除しなくちゃならないんで、その話はまた明日に!!」
「ええっ!!」
話についていけず困惑した声を上げる望の背を押すように外に追い出すと、そのまま、
扉を閉めてしまった。
閉め出され、廊下に放り出された望は何がなんだかわからないままにとりあえず。
「絶望した!ぜんぜんわからない話の流れに絶望した!!」
と叫ぶと、目に涙を溢れさせながら走り去っていった。
(私ったら・・・・何やってるのかしら)
とぼとぼと家路につきながら、智恵はため息をついた。
動転した気を鎮めてから、謝ろうと廊下を覗くとすでに望は姿を消していた。
(わたしも、あんな言葉をいつまでも気にするなんて・・・)
これで望からは奇人という印象をうけるかもしれない、そう考えると何故かずっしりと気が
重くなった。
(明日はちゃんと謝らなきゃ・・・)
そう考えながら、アパートの自分の部屋にたどり着くと、中に入り何をするでもなく、
床に倒れこみ、そのまま眠ってしまった。
それからしばらくして、電話の鳴る音に目が覚めた。
時計を見ると、結構眠ってしまったようで、夜も大分遅い。
(誰かしら・・・こんな夜に・・・)
不信に思いつつも智恵は電話をとった。
「ああ・・・ついに、智恵先生にまで嫌われてしまいました。私は一体どうすれば・・・」
望は暗い夜道をとぼとぼと歩きながら、途方に暮れたように呟いた。
自殺願望を持っている(本人の思い込み)望にとって、智恵は唯一自分の悩みを解決してくれる。
いわば、心のより所だった。
だが、今日、その人からも冷たくあしらわれてしまった。(あくまで本人の思い込み)
「ふ・・・どうやら神様はそろそろ私に死ねと言うようですね・・・」
神が聞いたら絶対に違うと言うようなことを勝手に並べ、覚悟を決めたように、今自分の渡って
いる橋の欄干に足をかけた。
「思えば、儚くつまらない人生でしたね・・・」
と、わりかし、マジっぽい言葉を呟く姿は様になっているが、肝心の足をかけている橋が小さく
しかもすぐ下に流れている水路も浅く小さいもので、これどうやったら死ねるの?的な場所でそ
んなことをやってもはたから見れば、ただの変な人にしか見えない。
そんな場所でも、この男根っからのチキンなので、足をかけた姿勢のまま、ちらりと後ろを振り
かえるが、こんな時間帯に出歩くような人はいない、唯一、尻の穴に棒を突き刺された犬が
胡散臭そうな表情を陰気な顔に浮かべこっちを見ている。
「う・・・」
唯一、いつも自分を止めてくれる、ストーカー少女まといも実家に帰るとかで今はいない。
あのような言葉を吐いて、そのまま何もせずに立ち去ったのでは、自分の中の何かが崩れ去り
そうな気がする。
「むむ・・・」
足を橋の欄干にかけたまま考え込む姿は最早無気味さすら漂ってくる。
おそらく人がいたとしても、これを見たら決して止めはしないだろう。
そうすること数分、突然、
「そうだ!」
といきなり叫び声を上げる。
ここまで来るともはや奇人である。もしおまわりさんが通りかかったら間違いなくお世話に
なっていただろう。
「智恵先生が私を嫌ったということは、それなりに何か私が迷惑をかけてしまったに違いあり
ません!それなのに死んで逃げようなどとは考えが甘すぎます!」
はるか昔に、天動説を覆す発言をコペルニクスもびっくりの逆転の発想を咄嗟に導きだすと、晴れ晴れ
とした顔で欄干から足を下ろす。
「いやぁ、よかった、よかった。危うく死んで逃げるなどという安易な考えに走ってしまうところ
でした。ちゃんと、智恵先生に謝らなくては・・・」
自分の間違いに気づいたというより、今の状況から逃れられたことを喜んでいるようにしか
見えない。
と、その時、望は自分が空腹だったということに気づく。
思えば、晩御飯を食べていない。
「せっかく、間違いに気付けたんです。豪勢な物でも食べますか」
態度を一転させて歩き去っていく望の後ろ姿を犬はあほらしそうに眺めていた。
「とは言ったものの・・・・」
手持ちの所持金は四千円ちょっと、豪華なものを食べられるはずもない。
「絶望した!!寒い自分の財布の中に絶望した!!」
とりあえず叫んでもお金が増えるはずもなく、空腹と虚しさがつのるばかり。
「仕方がない・・・・ここにしますか・・・」
と、ふらりと立ち寄った場所、それは、ちょくちょくお世話になっている居酒屋だった。
何度か死のうと思った時、ここに寄ると何故か心が落ち着くのだった。
まあ、本人に死ぬ気がないのだから、あんまり特別な意味はないのだが。
「まあ、豪勢とは行かないまでも・・・お金の心配はないでしょう・・・」
などといいながら、中に入ると、やはり、いつもどおりすいている。
いらっしゃいという声に適当に返し。座る席を探していると。焼酎のとっくりが並べられている
席が目に入った。
(おや、これは・・・)
望は何度かここに来てわかっていた、こういう客は大体がなにか嫌なことから逃げるために
酒をあおってるのだ。
普段ならこの人も大変なんだなと、適当に流すのだが、今日は何故か妙に親近感が沸く。
(私も同じだからでしょうかね・・・)
どんな人か見てみようと、前に回りこんで、思わず息を呑んでしまった。
「ち、智恵先生!?」
「あらぁ!糸色センセじゃありませんかぁ、奇遇れすねえ!」
普段からは想像もつかないようなろれつの回らない喋り方に思わず面食らいながらもとりあえず、
目の前の席に座ると、とりあえず聞く。
「あのどうしたんですか?智恵先生がこんな所にいるなんて・・・」
「あらしが、こんな所にいちゃらめなんれすかぁ!!」
「いえ、そうじゃ、ありませんけど・・・」
あまりの剣幕に思わずたじろく、酒には慣れてないのか、相当な酔い方だ。
一体何があったのか悩む望を智恵は尻目にケラケラと笑い声を上げ、さらに続ける。
「今日は糸色センセの言葉がよ〜くわかりましたよぉ!本当に世の中絶望的なことばーっかり
れすねぇ!それなのにあらしったら偉そうに説教なんてしちゃってぇ!ああ、おかしい!」
これはひどい、何があったか知らないが、これはやめさせなければならない、下手にやけに
なって慣れない酒を飲み続けていると下手をすれば命にかかわる。
自分の自殺方法として考えていたのだから、その恐ろしさはよくわかっている。
だが、智恵は再びとっくりを掴み中身を注ごうとする。慌てて望はその手を掴み止める。
「何すんれすかぁ!楽しみを邪魔しないでくらさいよ!!」
そういって手を振り解こうと暴れたその瞬間
「智恵先生!!」
と、思わぬ大きな声が望の口から発せられ智恵の手がビクッと震え力が弱まる。
それを確認すると、望は声を和らげると言葉を続ける。
「酒に逃げるなんて、あなたらしくないですよ・・・それは私のような人間のやることです。
智恵先生はそれを止めてくれるのが仕事じゃないですか」
そう諭すように言う望の顔をぼんやり眺めていた智恵は突如
「ヒック・・・う、ウッ!ウッ!私だって・・・私だって!!」
としゃくりあげ、そのまま、目から涙を溢れ出させはじめ、そのまま、テーブルに突っ伏す。
「え、えええ!?」
望は驚いたかのように慌てて智恵の背中をさする。
いきなり泣き出されてはそれも当然の反応だ。
どうしたものかと、悩んだ末、一応謝ることにした。
「ごめんなさい、私としたことがデリカシーのないことを、本当にすいません」
が、反応がない、怒っているわけではなさそうだ。
「智恵先生?」
声をかけても無反応、そこで耳を近づけてみると、かすかに寝息が聞こえてくる。
「眠ってしまわれましたか・・・」
とりあえず自棄酒を止められれたことに安堵したその時、もっと重大なことに気付く。
「お勘定・・・どうすればいいんですか?」
これは夢だ。
自分でわかるのは奇妙なことだが、なぜかはっきりそうわかる。自分は薄ぼんやりとしたもやの
中に立っている。
と、突如、声が聞こえてくる。
「もう、智恵とはやってけないよ!」
忘れもしない、初恋の人の声。
「お前はそうやって、勉強ばっかり、ちょっとは俺のこともかんがえろよ!!」
そんなことわかっている。それでもがむしゃらに夢を追うことしか自分にはできなかった。
「はじめはそんなことなかったじゃないか!なんで付き合いはじめて急に!!」
付き合い始めたからこそ、はやく夢をかなえてほめてもらいたかった。ただそれだけ
「いいよ!どうせ、お前はそっちが大事なんだろ!俺がいちゃ邪魔なんだ!!」
そんなことない、私にはあなたが必要なんだ!そう叫びたいが声が出ない。
「じゃあな!せいぜい、いい先生になれよ!!」
走り去る音が響く、引き止めたいが体が動かない、そのまま急に周りが暗く染まり、自分を
覆っていく。
その時
「智恵先生!!智恵先生!!」
暖かい声が頭に響き、
「気がつかれましたか?うなされてましたが」
気付けば心配そうに振り返ってこちらを見ている、望の顔が目に入った。
(振り返ってる?)
そこで初めて智恵は自分の状況に気付く、智恵は望におぶわれていた。
「え?え?ええええ!!」
驚いて思わず、体を揺り動かしてしまう。
「うわっと!動かないでください!こけたらどうするんですか?」
「あ、ああ、すいません・・・」
思わず謝ってしまい、そこで改めて記憶の糸を手繰り寄せ、居酒屋に入りとっくりを二本目を
飲んだ後からの記憶がプッツリと途切れている。
「ひょっとして・・・私、酔っ払ってたんですか?」
「そんなことありません!あれはちょっと飲みすぎてただけです!」
否定の仕方からどれだけ、自分が酔っ払っていたかが、伺い知れる。
そういえば、勘定はどうしたんだろうか。払った記憶はないが、
「あの、勘定は・・・」
「ああ、安心してください!私が払っておきましたから、なに、私お金は困ってないですから!」
望は胸を張って言うがお金に困ってない人間ならあんな場所に来ないだろう。
申し訳なさでいっぱいになりながら、顔を伏せた智恵に慌てたように望は話をそらす。
「ああ、そういえば、智恵先生のアパートってこっちですよね。送っていきますよ」
そこまで言って、心配そうに続ける。
「それとも・・・私じゃ、迷惑ですか・・・」
「いえ・・・ありがたいですけど・・・私、重くないですか?」
「そんな!とんでもありません!これでも力があるんですよ!」
どうみても無理が見え見えだ。だが、降ろされた所で、歩けず迷惑をかけるのが関の山だ。
ならば、今は好意に甘えるとしよう。