千里とまといの暴行による傷もすっかり癒えた頃。  
 望はゆっくりとした足取りで、図書室に向かっていた。以前借りた本を返す為だ。  
 下校時間が迫っている時分なので、てっきり鍵が掛かっているだろうと思っていた。  
 だが、先ほど見てきたが職員室に図書室の鍵は返されていない。  
 という事は、まだ生徒が残っているという事なのだろう。誰かはだいたい想像できるのだが。  
「失礼しますよ」  
 一声掛けてから戸を開く。  
 予想通り、一人の男子生徒が居残って本を読んでいた。  
 夕日の射し込む窓際の席に座り、本を読むその姿は、まるで一枚の絵のように完成されている。  
 つい、と顔を上げて望の姿を見止めると、親しげに微笑みを向けて、  
「いらっしゃい、先生」  
「すっかり図書室の主ですね、久藤君。もうすぐ下校時間ですよ?」  
「あ、すみません。つい夢中になっちゃって」  
「まぁ気持ちはわかりますけど」  
 図書委員の使うカウンターから勝手にカードを取り出して、判を押す。  
 元あった棚へ本を返すと、望は鞄に本を納めている久藤に振り返った。  
「この間はありがとうございました」  
「可符香ちゃんの事ですか?」  
 可符香ちゃん。その予想外に親しげな呼び方に意表を突かれつつ、頷く。  
「え、ええ…。もしかして、お二人は仲が良いんですか?」  
「仲良しかどうかはわかりませんけど、幼稚園の頃からの付き合いだから」  
 以外な事実に目を丸くする。久藤は「言ってませんでしたっけ」と素知らぬ顔だ。  
「存じ上げませんでした。…どうりで、風浦さんも貴方に親しげだったわけだ」  
「彼女は…誰に対してもああでしょう?」  
 珍しく瞳を驚きに揺らして、聞き返す久藤。  
 
「うーん、何といいますか。  
 何となく貴方には、他の人より心を許しているように見えたんです」  
 保健室での二人の姿を思い出す。  
 久藤の後を追う可符香の姿は、なんだか安心しているように見えたのだ。  
「――――………そう、ですか」  
 久藤は何か考え込むように目を伏せた。  
「久藤君からも言ってくれませんか?私をからかうのも程ほどにして欲しいと」  
 苦笑交じりに言う望の言葉など聞いていないように、少し考え込む久藤。  
「…久藤君?下校時間過ぎちゃいますよ」  
 
「先生」  
 
 久藤は伏せていた顔を上げて、真っ直ぐに望の目を見る。  
 本心の見えない仮面じみたその表情は、望の良く知る少女を彷彿とさせた。  
 だが、脳裏に過ぎる彼女の絶えぬ笑顔より、幾分か人間味があるように感じられる。  
 不思議と目を逸らす事が出来ず、緊張に身体が強張る望。  
「先生は可符香ちゃんの事、どう思ってます?」  
「…どう、とは?」  
「何でもいいです。何か、彼女に対して思う所はありますか?」  
 言われて考え込む。糸色望にとって、風浦可符香という少女はどういう存在なのか。  
「そう、ですね…」  
 ほんの少し、間を置いてから、  
 
「――油断ならない子だと思います。  
 気を抜くとすぐ人を絆そうとしますからね、彼女は」  
 
 その答が、久藤の望むものだったのかはわからない。  
 だがとりあえずの回答を得て、久藤は視線による束縛から望を開放した。  
 視線を窓の外へ移し、背を向ける事で表情を隠す久藤。  
 窓から見えるグラウンドは、沈み逝く夕日に染められて、  
 赤く燃え上がっているようにも見える。  
 
 その景色を眼下に見下ろす久藤の表情が、何故だか無性に気になった。  
「…ふぅん」  
「な、何ですか。その意味あり気なリアクションは」  
「何でもないです。ほら、下校時間ギリギリですよ。  
 鍵は僕が閉めますから、先生は先に出て下さい」  
 振り返る久藤の表情は、またいつもの薄い笑顔。  
 だが、退室を促す彼の様子は、どこか素っ気無かった。  
「はぁ…わかりました」  
 望は少し戸惑いつつも、言われた通りに扉へ向かう。  
 戸を開けた瞬間、背後から声が掛かる。  
 
「でも、可符香ちゃんは先生の事、好きですよ」  
 
「え?」  
 肩越しに振り返る。  
 いつの間にか手が届く距離まで近づいて来ていた久藤は、  
 それ以上何も言わず、望の背を軽く押した。  
「わ、と」  
 僅かに前につんのめり、廊下へ押し出される。  
「さよなら、先生」  
 最後にそれだけを言い残し、ピシャリと扉を閉める久藤。  
 
 閉まる扉の隙間から、僅かに垣間見た久藤の顔は、  
 まるで望を責めるかのように不満気だった。  
 
「…さよなら、って…」  
 もう下校時間ですよ、と。  
 教師としてはそう忠告して、一緒に部屋を出るべきだったはずなのに。  
 望はそれが出来ず、何故だか妙な罪悪感を抱えて、図書室を後にした。  
 
 
 あれから数日。  
 
『可符香ちゃんは、先生の事が好きですよ』  
 
 去り際にそう言い放った、可符香の幼馴染である少年の言葉が、耳から離れない。  
 その言葉を、どこか不満気に言い放った彼の本意がわからない。  
 人をからかうのが生甲斐のような少女が、一定の対象に特別な好意を寄せるとは思えなかった。  
 望に対する態度も、他の人間に対する態度も、そう変らないように思える。  
 スルリと心に滑り込み、散々掻き回して、気が付けば忽然と居なくなる。  
 そういう残酷な少女でしかない。そしてその残酷さは、差別なく平等に発揮される。  
 そんな様子から、どこをどう取れば自分への特別な好意が感じられるというのか。  
 そしてそんな彼女に対して、間違っても特別な好意など抱けようはずもない。  
 
 ―――望は気付いていない。  
 彼女の残酷さに気付く事こそが、既に特別な事であるという事に。  
 元々、彼は人の心の動きには過敏な方である。  
 巧みに心の隙間に滑り込んでくる可符香の気配にも、敏感に気付いてしまうのだ。  
 ―――まぁ、その気配に気付かずに絆されて、何かと酷い目に合う事も多々あるのだが。  
 何はともあれその過敏さが、望に彼女の本質を垣間見せる事となった。  
 そしてあの一件以来、彼の可符香に対する意識が少しだけ変化する。  
 いつもの性質の悪い冗談に、少し注意深く耳を傾けてみたり、  
 僅かな表情の変化を気に止めてみたりと、自然に彼女の姿を目で追うようになっていく。  
 少し注意を払うだけで、今まで見えてこなかった少女の新たな一面。  
 僅かに覗くのみだった彼女の本意が、少しずつ自分の中で浮き彫りになっていく。  
 その事が嬉しい。だが、同時に見えてくる彼女の本質が、悲しい。  
 彼女に対して芽生えてくる、ある種の情愛を、望は自覚せざるえなかった。  
 
 そうして、望が薄々可符香の「病」の正体に気付き始めた頃。  
 
 ◇ ◆ ◇ ◆  
 
「…風浦さん、それは」  
   
 カンカンカンカン―――  
 
 踏み切りの音が、望の呆然とした声音を掻き消した。  
 電車が、轟音を立てて通り過ぎる。  
 その間際、踏み切りを挟んだ向こう側で、何か赤いものを抱えている少女の姿を見た。  
 
 カンカンカンカン―――  
 
 電車が、轟音を立てて通り過ぎた。  
 見間違いと思いたかったが、電車が過ぎ去った後も、  
 少女は変らずに赤いものを抱えている。  
 自らの腕の中にあるものを眺めていた彼女は、  
 望に気付くと顔を上げて、笑顔で走り寄ってくる。  
 今日は休日で、学校は休みである。  
 この間の、千里とまといの猛攻によってボロボロになった着物の代わりを買い求める予定だった。  
 彼女は薄い桃色のカーディガンを羽織り、真っ白いスカートを翻して駆けてくる。  
「先生、おはようございます」  
 変らぬ声音。変らぬ笑顔。  
「風浦さん、それは…」  
 おそらく彼女に届かなかったであろう台詞を繰り返す。  
「あぁ、この子ですか?」  
 そう言って事も無げに言いながら、自らの腕の中にある「この子」に視線を落とす可符香。  
 おそらくは小型の犬だったであろうソレは、今は辛うじて原型を留めているにすぎない。  
 薄い色彩が美しい可符香の私服は、胸元だけをどす黒く赤に染めていた。  
 無論、血塗れの犬を抱いているからである。  
 望は痛ましげに表情を曇らせる。  
「―――…どこで見つけたんですか?」  
「ついさっき、そこでです」  
「そうですか…車にでも、轢かれたんでしょうかね」  
 その犬を撥ねたであろう運転手に、  
 悪意があろうとなかろうと、あまり良い感情は抱けない。  
 よしんば撥ねてしまっても、そのまま放置するのはあまりにも酷いと思った。  
「やだなぁ。轢き逃げなんてあるわけないじゃないですか」  
 不愉快を露にする望に、相変わらずの笑顔で言って、赤黒い人差し指をピっと立てる可符香。  
 
「これはただの――」  
「いいです。いいですから、早くどこかで休ませてあげましょう」  
 後に続く言葉を聞くのが何となく怖くて、望は台詞を遮るように早口に捲くし立てた。  
 最後まで言えなかったのが不満なのか、可符香は少し唇を尖らせつつも、反論せずに頷き返す。  
 
 結局犬は可符香の提案で、ここから近いという事もあり、  
 あの並木道にある、桃色ガブリエルの根元に埋める事となった。  
 いつもの如く望を尾行していたまといも、流石に見て見ぬフリをするのは心苦しかったらしく、  
 自ら手伝いを申し出てきた。そんな彼女の申し出に素直に甘える事にして、  
 まといに学校からスコップを借りて来てもらい、望が穴を掘る事になる。  
 スコップと一緒に持ってきてもらったタオルで、犬の亡骸を包んだ。  
 優しく穴の底に横たわらせ、そっと柔らかな土をかけていく。  
「ばいばい」  
 その様子をじっと見つめながら、可符香は小さな声で犬に別れを告げた。  
 
 そうして少々手間取ったものの、無事犬を埋葬し終えた頃には、昼を少しまわっていた。  
 名も知らぬ――あるいは名も無かったであろう犬に、三人は黙祷を捧げる。  
「手向けの花は、必要なさそうですね」  
 額の汗を拭いつつ、聳える立派な桜の木を仰ぎ見る望。  
 釣られるように、まといと可符香も桃色ガブリエルを見上げた。  
 今はまだ開花の準備期間中らしく、美しい桃色の花を見る事は出来ない。  
 だが暖かな春を迎えれば、いつかのようにまた、  
 視界いっぱいに広がる花吹雪を降らすだろう。  
 
「ところで…」  
 木から視線を、おずおずと可符香の胸元――赤黒く染まった汚れに移すまとい。  
 可符香は自分の服を見下ろしながら、何故か得意げに、  
「大丈夫、模様と思えば違和感ゼロだから!」  
「違和感ありまくりです」  
 胸を張って断言する可符香に、即座に突っ込みを入れる望。  
 服のデザインによっては通用したかもしれないが、生憎真っ白いのワンピースに、  
 生々しい赤色は浮きすぎである。下手をすれば警察を呼ばれかねない。  
 結局学校でジャージに着替える事となり、三人は休日だというのに学校を訪れた。  
 もっとも望は学校が自宅のようなものであるし、  
 まといも彼の観察に休日を費やす事などざらなのだが。  
 
 一人の「ただいま」の声に、二人の「お邪魔します」が続く。  
 返ってくる「おかえり」の声は、二人分のものだった。  
 三人でぞろぞろと宿直室に上がり込むと、交を膝に抱えた小森が振り返る。   
 二人の手にはコントローラーが握られていた。  
 どうやらTVゲームに興じていたようだ。  
 小森は少し驚いたように目を丸くして、三人の顔を順番にそれぞれ見つめた。  
 イベント事のある日などは、生徒が望の所に集まる事も多々ある。  
 だがそういう時は、不法侵入と言っていいほど強引に生徒たちが上がり込み、妙な騒ぎに発展する事が殆どだ。  
 小森自身も、今でこそ望の許可を得て居るものの、最初の頃は勝手に上がり込んで家事をやっていた。  
 こうして正面から、普通の客人として2のへの女子が招かれるとは珍しい。  
「お帰りなさい。あと、いらっしゃいませ」  
 ぺこりと可符香に頭を下げつつも、望の背後に寄り添うまといに対して、牽制するかのように眼つきを鋭くする。  
 だがまといはそれには取り合わず、疲れたように視線を逸らした。  
 その様子に肩透かしを食らい、キョトンとする小森。  
「お邪魔しまーす」  
 そんな彼女らの様子に気付いているのかいないのか、  
 可符香はマイペースにヒラヒラと手を振って答え、誰に断るでもなくコタツに潜り込んだ。  
 既に着替えは済ませており、今は上下共に小森愛用のジャージと同じものを着ている。  
 コタツに入る際、脇に置いた一見手土産にも見える紙袋の中身は、残念ながら血で汚れた私服である。  
「ただいま。やれやれ…些か疲れましたねぇ」  
「あ。私、お茶淹れてくるね」  
「すみません。お願いします」  
 交を降ろし、パタパタと台所へ向う小森の姿に頭を下げて、望は礼を言った。  
 小森の膝から降ろされた交は、やれやれと呟きながらこたつに潜り込む叔父を一瞥する。  
 ゲーム機の本体を消しながら、憮然とした口調で言い放った。  
 
「着物を買いに行ってたんじゃないのか。何で手ぶらなんだよ」  
「そういえば、そうでした。何ででしょうね」  
 外出の目的をすっかり忘れていた。  
 ただ着物を買いに出ただけなのに、何故自分はスコップで穴など掘って帰って来たのだろう。  
「少しね、色々あったの」  
 いつの間にやら望と同じようにこたつに入っていたまといが、説明を始める。  
 その顔色は優れない。いくら彼女でも、やはり気分の良い光景ではなかったようだ。  
 交は話を聞き終わると、関心するどころか呆れたように溜息を付き、一言。  
「何やってんだ、お前」  
「本当に何やってんでしょうね」  
 お盆に人数分の湯呑を載せた小森が、台所から戻ってくる。  
「お疲れ様」  
 台所までまといの声は届いていたらしく、心から労いの言葉を掛けながら、お茶を並べていく小森。  
 さすがにそんな事の後では、いつも妙に挑発的なまといもげんなりしようというものだ。  
 今日くらいは、勘弁しておいてやろう。そんな思いを込めてまといを一瞥する。  
 二人は目が合うと、どちらともなく気まずげに目を逸らした。  
 
 その後、皆で少し遅い昼食をとる事となり、今度は女性陣全員が台所に立つ事となった。  
 三人の中で一番料理が得意なのは小森だ。必然的に彼女を中心に調理が行われる。  
 いつもならここで負けじと自己主張するであろうまといも、気分が滅入っているのか大人しく小森の指示に従った。  
 そうして出来上がったのはメニューは、食欲がなくとも食べられるもので、メニューを考えた小森の気遣いが感じ取れる。  
 食事中は自然と犬の話を避け、他愛無い話に花を咲かせる四人。  
 いつもと変らぬ様子で食べ進める可符香。  
 他人の作った食事を残す事に抵抗があるのか、少しだけ無理をしつつ、どうにか完食するまとい。  
 小森は食欲が無さそうなまといと望の様子を気にしている。  
 交は我関せずと、にの一番に食べ終えた。やや早食いではあるが、これでも彼なりにちゃんと味わって食べている。  
 
 そんな中で、望だけはどうしても食が進まず、半分どころか三分の一も胃に収められなかった。  
 
「先生は…仕方ないですよ。気にしないで下さい」  
 望は犬に直接触れていた時間が一番長い。気分が優れないのも仕方ない。  
 せっかくの食事を残す事をすまなそうに詫びる望に、まといはそっとフォローを入れた。  
 今回ばかりは皆同意して、誰も彼を責めるような事はしなかった。  
 
 しばらくして、小森が席を立つ。  
 最近は千恵の所でカウンセリングを受けていて、  
 定時にはカウンセリング室に赴かなければならないらしい。  
 小森が宿直室を出ると、それを切欠に、可符香も帰宅すると言い出した。  
「なら私も、そろそろ本当に着物の代えを買いに行きますか」  
 名残惜しそうにこたつを出て、望もその後に続く。  
 一言二言交わしながら、宿直室を出て行く二人。  
 
 まといはというと、望と一緒に部屋を出る事はせず、  
 望の背に「いってらっしゃい」と声を掛けるのみで、追う事はしなかった。  
 時間差で追いかけるのかと思いきや、その気配もない。  
「一緒に出ないのか?」  
 問う交に、深々と溜息を付くまとい。  
「いいの。ちょっと、疲れちゃって」  
 どうやらまだ気分が悪いらしく、その顔色は青白い。  
「キツかったんなら、無理して手伝わなくてもよかっただろ」  
「そうも行かないでしょ」  
 交はまといに良心が在った事に驚きを隠せなかった。  
 何せ彼がまといに持つ印象は、望の背後霊…というより、望にとり憑いた悪霊といった風だったからだ。  
 そんな交の様子を意に介さず、グッタリとこたつに突っ伏すまとい。  
 ―――望と女性徒が二人きりである事への危機感がないわけではない。  
「…大丈夫よ。あの子なら、特に心配する事もないもの」  
 一緒に居るのが千里や小森ならば、体調不良をおしてでも望に付いていっただろう。  
 だがまといは、可符香に対してあまり敵愾心を抱いてはいなかった。  
 というより、可符香が誰かに敵愾心を抱かれる行動をしないのだ。  
 望争奪戦にも、他の女子からすれば参加していないように見える。  
 先日の教室での一件は、後々ちゃんと誤解は解かれたのでノーカウント。  
 
 保健室での可符香の台詞は明確な好意を表していたが、  
 可符香はあの時、まといが居ない事を確認した上でその発言をしたのだ。ぬかりは無い。  
 
 そんな事など知りもしないまといは、すっかりふ抜けたように目を閉じた。  
「ふぅん」  
 何が大丈夫なのか交には理解出来なかったが、とりあえず気の無い返事を返しておく。  
 
(気分悪いなら、保健室か医者に行けよ…)  
 毒づいた言葉は、胸の内だけに留めておいた。  
 
 

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