昼食の後、ダラダラとお喋りをしていた為、あれから結構な時間が経ってしまっていた。
取り出した懐中時計は、午後3時半を告げている。
それでも、街に出て着物を買って帰るのに遅すぎる時間ではない。
望は可符香を一瞥する。彼女は望の前を、いつものように軽い足取りで歩いている。
見慣れた並木道。ついさっき犬を埋葬した場所に差し掛かる。
可符香は土の盛り上がった木の根元――犬の眠るその場所を、チラリと横目に見た。
それだけだ。
思わず足を止める望を置いて、さっさと先へ行こうとする。
「お祈りはしないのですか?」
予想外の態度に驚いて、立ち止まったまま可符香を呼び止めようとする。
「さっき皆で、十分お祈りしたじゃないですか」
「ですが…」
「置いてっちゃいますよー、先生」
望の声に立ち止まる事すらせず、言葉通りズンズン先へ進んでいく可符香。
慌てて追い付こうと、小走りで駆け寄り、隣へ並んだ。
可符香は相変わらずの笑顔で、ただ前だけを見つめている。望の方を見ようともしない。
「どうしたんですか、風浦さん」
「何がですか?」
問い掛けにようやく、こちらに視線を向ける可符香。
つい条件反射で目を逸らしそうになるが、ぐっと堪えて言葉を続ける。
「何がって…普通ここは、お祈りの一つもする所でしょう。不自然です」
「じゃあ先生はお祈りしてればいいじゃないですか」
答える可符香の声は、いつものそれよりやや固く響いた。
妙に突き放した物言いに、怒りよりも戸惑いが生まれる。
「変ですよ、風浦さん」
「変じゃないですよ」
笑顔で答えて、可符香は歩を速めた。
最初と同じように、望の前を歩く形になる。これでまた、表情が見えなくなった。
つれない態度に思わずムっとして、望も歩を早める。
並ぶ二人。するとまた、可符香が歩を早めて望を追い越す。
追う望。追い越す可符香。それをまた追って、再び追い越される。
―――――明らかに、何かから逃げている。
望から…というより、これ以上言及される事を避けるように。
最近の可符香は、少し様子がおかしかった。
よく注意しないとわからない程度にだが、稀に、望から逃げるような態度を取るのだ。
もちろん、いつもはここまで露骨ではない。
彼女の態度がおかしくなり始めたのは、丁度、望が久藤と図書室で話をしてからしばらくしての事だ。
―――正しくは、可符香は態度を変えたりしていない。今まで通り望に接している。
違うのは、望の彼女を見る視点だった。
可符香が稀に何かから逃げるような態度を取っている事に、最近になって望が気付き始めたのだ。
今までは、僅かな違和感でしかなかった。
だがこうして露骨な態度を取られて、ようやく望は、彼女が逃げの姿勢を取る時に見せる、感情の色を理解した。
「何を怖がっているんですか」
その言葉に反応して、
望を追い越そうとした可符香の足が、止まる。
今度は望が彼女の数歩先を行ってしまい、思わず踏鞴を踏んで立ち止まった。
振り返り、その表情を窺う。
相変わらず完璧な可符香の笑顔。
その中で、瞳だけが僅かに揺らめいていた。
「先生こそ、最近変ですよ」
質問に答えるつもりはないらしい。
話題を逸らすような言葉に、あえて乗る事にする。
「私がですか?」
「何だか最近、常月さんみたいです」
「…私が、ですか?」
それはつまり、どういう事だろう。
戸惑って言葉を失う望に、可符香はやや強い口調で続ける。
「私、先生に好かれるような事しちゃいました?
最近なんだか、よく気にかけてくれますよね」
「――――……」
気付かれていた事に恥ずかしさを覚えて、熱くなる顔を隠すように、手の平で覆う。
「そ、そんな事はございませんよ」
答える声は、自分でも悲しくなるほど裏返っていた。
「安心して下さい先生。私、ちゃんと知ってますから」
だが彼女はそんな彼の様子など気に掛けず、空に視線を投げた。
「准君に言われたんですよね」
「!」
まさかの名前に驚愕を隠しきれず、望は息を詰まらせた。
「く…久藤君と、何を話したんです?」
まるで瞼の裏に久藤の姿があるように、瞳を閉じる可符香。
「私と先生との仲を、取り持とうとしてくれたんですよね、彼」
そうして、語り始める。
◇ ◆ ◇ ◆
―――ある日を境に、可符香は望に対して違和感を抱いていた。
本人は隠していたつもりでも、彼が確実に自分を意識し始めている事が、日頃の態度で知れた。
例えばそれが、可符香が望んで彼の心の隙間に入り込み、その心を盗んだ結果というのならば、いい。
だが可符香は意図的に望の心を盗むような真似はしていない。
確かに保健室で思わせぶりな態度を取って見せたが、それだけだ。
望の性格からして、ああいうアプローチを受けたなら、逆に身を退くようになるだろう。
だというのに、彼は突然可符香を意識し始めた。
何か、他者による介入があったのだと、可符香は判断した。
そしてすぐに、その原因となった人物に思い当たる。
というより、自分が望に明確な好意を持っている事を知る人間が、彼しかいない。
保健室の扉越しに、二人の会話を聞いていた人物。
やんわりと問い詰めると、彼――久藤は、特に隠すつもりもないようで全てを話してくれた。
「二人の恋を、応援したくって」
幼馴染の恋の行く末を思っての事だったと、微笑みながら久藤は言った。
彼が可符香の身を按じているのは、本当の事である。可符香もその事は知っていた。
「ありがとう。でも大丈夫よ」
他人からの支援で実る恋は、フェアじゃない。恋というのは、自らの力で掴み取るものだ。
そう言って微笑む可符香に、久藤は頷いて見せた。
「余計な事をしたね」
詫びる彼に、可符香は笑顔で頭を下げた。
◇ ◆ ◇ ◆
「そう、ですか」
全て筒抜け、という事らしい。
何だか久藤と可符香に良い様に踊らされている気がして、冷や汗が頬を流れた。
「だから先生は気にしないで、今まで通りにしていればいいんです」
すぅ、と瞳を開く可符香。だが、視線は降ろさず空を見上げたままである。
瞳に蒼を宿した彼女は、しかし空など見ていない風に、遠く遠くを眺めている。
彼女の見ている世界は、きっと自分の見ているそれとは違うものなのだろうと、改めて思う。
――私にも見せて欲しい。貴女の目に映る世界を。
思わずそんな恥ずかしい台詞を考えてしまって、慌てて頭を左右に振る望。
(ああああ…これでは本当に、思春期の中学生じゃないですか)
唐突に頭を振り乱した望に、可符香はキョトンと視線を向けた。
「何やってんですか?」
「何でも!――それと、風浦さん」
「はい」
気を取り直すように、コホンと一つ咳払いして、
「えぇと、ですね…。私が貴女を気にしているのは、正しくは久藤君の言葉が切欠ではありませんよ」
「それは先生がそう思い込んでるだけですよ。ホラ、恋は盲目って言いますし」
「いいからお聞きなさい」
少しだけ強い口調で、ピシャリと言い放つ。
その言い方が妙に教師らしくて、思わず口を噤む可符香。腐っても学生である。
「多分切欠は、もう少し以前―――そうですね…。保健室で貴女に愛の告白をされた時です」
愛の告白、の所だけ、思わず棒読みになる。
それが照れからくるものか、それともあの言葉を告白と真正直に受け止められていないからか、望は自分でもよくわからなかった。
「一応女性にそういう事を言われた訳ですし、気にしないわけないでしょう?
ホラ、何も問題はありません。誰に強要された訳でもなく、他でもない貴女が、私に目を向けさせたのですから」
言っている間、何故かどんどん熱くなる頬。
おそらく赤くなっているだろう自分の顔を凝視される事に耐え切れず、望は着物の裾で口元を隠した。
本当は顔全て覆ってしまいたいくらいだったが、それでは可符香の表情すら見えなくなる。
「あと、最後に訂正させていただきます。
――先生、確かに貴女を意識していますが、
まだ恋とかそういった部類の感情ではありませんのでそこのところあしからずッ」
どうにか、言い切った。
思わず思い切り顔を背けてしまいたくなるが、どうにか気合で可符香の真っ直ぐな視線に耐える。
さっきまでは、むしろ積極的に自分から視線を逸らそうとしていたというのに、
何故かこういう恥ずかしい台詞を言う時に限って、可符香はじっとこちらの目を見つめてくる。
ちなみに可符香は、別にプレッシャーを与える為などではなく、
むしろ告白でも何でもない台詞を言うのに、やたら恥じらいまくる望が不思議でならなかった。
ちなみに要約すると、最後の一文はこうである。
『先生、まだ貴女の事、好きになった訳じゃないんだからね!』
(…ツ、ツンデレだ。)
その発想が自分で可笑しくなって、可符香は耐え切れず破顔した。声が、漏れる。
「―――ッく、あはは!先生、加賀さんの真似ですか?人気取りですか?」
「わ、笑わないで下さい!何の事ですか、人が結構真剣に話しているというのに!」
「っ、ふふふふ…だって。あはははは!」
妙なツボに入ってしまったようだ。
引き攣る腹筋を押さえて爆笑する可符香を、心外だと言わんばかりに不満気な顔で見下ろしていた望だったが、次第にその表情は優しいものに変っていった。
さっきまでの、妙にギスギスした雰囲気が嘘のように晴れていく。
それがたとえ自分を馬鹿にしているものとしても、さっきまで浮かべていた完璧過ぎる笑顔より、望には断然魅力的に思えた。
ひとしきり笑い転げて疲れたのか、弾む呼吸を抑えるように胸を押さえている可符香に、望は改めて怒ったような表情を作って見せる。
といっても、その目は優しく微笑んでしまっているのだが、本人は気付いていない。
「失礼ですね…何がそんなに可笑しいんですか?」
「ふふ…、何でもないですよぉ。あぁ可笑しかった」
「言ってる事が矛盾してます」
目尻に溜まった涙を拭ってこちらを見上げる可符香の頬は、熱を帯びたように上気している。
そんな彼女の表情が、素直に可愛いと思った。
「―――何だか、初めて貴女が笑うのを見た気がします」
「…は?」
リスを思わせる動作で小首を傾げる可符香。
望の台詞が本当に意外だったようで、キョトンと大きな丸い瞳を見開いている。
「何をお惚け言っちゃってるんですか、もー。私はいつだって笑ってるじゃないですか」
見せ付けるように、彼女は孤を描く自らの口元を指す。
望は少しばかりの罪悪感を覚えた。
せっかく和やかな雰囲気になったのに、これからまた、それを崩さなくてはならない。
それでも言わなければならない事がある。
望は意を決して言葉を続けた。
「そうですね――いつもの貴女の笑顔は…酷く痛々しい、です」
すぅ…と。
潮が引くように、彼女の柔らかな笑みが消えていく。
それでも、笑顔である事に変わりはない。
ただその笑みの持つ性質が、ハッキリと変っていた。
能面のように、ある種完璧な笑みをその顔に貼り付けた可符香は、少しばかり固い声で答える。
「先生の言ってる事が、よくわからないです」
可符香は目を逸らさない。
どうやら、彼女に妙な対抗心が芽生えたようである。
さっきからやたらと突っかかってくるこの男を、いつもの如く、完膚なきまでに言い包めてやろう。
そういう意思が、その瞳から僅かに見え隠れしている気がした。
臨むところだと、その視線を真っ向から見返す望。
「貴女はいつも、何を恐れているのですか」
「そこに話が戻るんですね」
「はぐらかしたのは貴女の方です」
少しだけ強くなった風が、二人の髪を揺らす。望の着物の裾が翻り、バサリと音を立てた。
「今日の先生はいつにも増してお惚けさんですね。私に怖いものなんてあると思うんですか?
あ、神様の事は確かに畏怖していますけど」
あくまでそれは尊敬の念ですよ。そう言って笑みを深める。
彼女はもう、完全に自分の心情を伝えないつもりなのか、笑顔の鉄火面を強くする。
以前の望なら、その変化にすら気付かなかっただろう。
だが今の彼は、そんな彼女の、どこか必死な様子を感じ取れる。
「以前の私なら、頷いていたんでしょうね。
でも今なら―――もう少し、貴女の事を理解できる気がするんです」
「うふふ、そんなに想ってもらって嬉しいです。私ったらハート泥棒ですね。
とっつぁ〜んさんに追いかけられちゃいますよ」
両の手首を合わせて、手錠のジェスチャーをする可符香。
何が何でもはぐらかそうとするその態度に取り合わず、話を続けようと口を開く。
「貴女は、もしかして」
「先生」
核心に触れようとした、その時。
遮るように、断ち切るように発せられた一言は、望の言葉を詰まらせるのに十分な力を持っていた。
可符香の笑みが、ほんの少しだけ崩れている。
眦が少しだけ釣り上がり、口元が僅かに引き攣る。
本当に注意しないとわからない程の、僅かな変化。
そこに浮かぶのは、純粋な怒りの感情だった。
「私はお買物に出ていたんです。
そろそろ行かないと、タイムサービスが始まってしまいます」
「まだタイムサービスまで時間はあると思いますよ」
「私の行き付けのお店は、普通のお店よりも早くに始まるんですよ」
少しだけ早口に言って、可符香はそのまま駆け出そうと足を撓ませた。
「逃げるつもりですか」
その動きを止めるのに、望の一言は十分な力を持っていたようだ。
逃げる。
彼女にとっては聞き逃せない言葉だ。
とても後ろ向きな…ネガティブな言葉だ。
「さっきから喧しいですね、本当に」
声色こそいつもの調子とはいえ、もう完全にその台詞は、こちらに怒りを伝えてきている。
それでも笑みは、剥がれない。
「私は日々の糧を、より効率的に得ようとしてるだけです。
それがどうして逃げるなんて事になるんですか?」
可符香は自分が劣勢である事を、否が応にも自覚していた。
いけない流れだ、これは。
それが判っているのに、今日の望は妙に強気で、中々言い負かされてくれない。
「貴女は」
望の唇の動きを凝視してしまう。
紡ぐな。もうこれ以上言葉を紡ぐな。そんな思いを込めて。
「貴女は怖がりだ。人よりもずっと、怖がりだ。
だからそんなに必死になって、ネガティブな事を否定するんじゃないですか。
そうでもしないと―――耐えられないから」
可符香は、唇を噛み締めた。
一瞬。ほんの一瞬。
彼女の顔から笑顔が消えた。
あぁやはり、嫌な予感はしていたのだ。
出会った時から、この男は自分の何か大切なものを、壊していってしまうんじゃないかと。
初めて彼を見た時、彼女は自らの記憶を悪いものとして思い出した。
もはや心乱される事などないと思っていた所に、この不意打ち。
けれどその原因となった男は、自殺など口ばかりのくだらない男。
何故この程度の男に、心乱されなくてはならないのだろう?
そうして次に生まれたのは、怒りの感情だった。
いっその事本当に絶望させて、居なくなってもらおうとも考えた。
けれど何があっても、どんなに絶望しても、男は「死」という選択だけは選ばない。
消せないというならば、男の全てを掌握してしまえばいい。
弱みを握って、心の隙間に滑り込んで、彼の全てを掌握してしまおう。
そうしていれば何の心配もない。こんなくだらない人間に、恐れる要素なんて何一つない。
そう思っていたのに。
否定するんだ。今すぐに。
まだ間に合う。今否定すればまだ、間に合う。
(だってそんなわけないじゃないですかいったい私の何を見てそんな事を言っているんです
どの口が、どの口がそんな突拍子もない事を言うんですおかしいじゃないですか先生は何
も知らないでいいんですよだって先生のキャラじゃないじゃないですか何をいきなりカウ
ンセラーみたいな事を言い出しているんです貴方は毎日「絶望した!!」と叫んで可哀相
ぶっていればいいんですよそうして私がそれを好意的な解釈でもって訂正してあげるんで
すホラいつもそうしてきたじゃないですかどうして今更そんな私の存在全否定するような
事言うんです先生は意地悪な人だなぁ先生の癖に、先生の癖に―――!)
後から後から、言葉が溢れ出てくる。
だがその量が膨大過ぎて、喉を通ってくれなかった。
外に出る事を許されなかった言葉達は、彼女の思考力を容赦なく奪っていく。
彼女は、混乱していた。
その僅かな隙に、畳み掛けるように望は言った。
「貴方のポジティブは、ネガティブに対する逃げなんじゃないですか。
犬のお墓参りを避けたのだって、もうこれ以上悲しくなるのが嫌だったからじゃないんですか」
「…やだなぁ先生。あのワンちゃんの死は悲しい事なんかじゃないですよ。
だってワンちゃんは神様の所へ行っただけ。来世で新しい命を授かって幸せになるんです。
だから今更私たちがあの子の死を悼む必要がないってだけの話ですよぉ」
どうにか思考を整理して、今度はちゃんとポジティブな意見を返す事が出来た。
それでも望は食い下がる。
「なら、どうして…――」
(どうしてあの時、あんな顔をしていたのですか?)
そう言おうとして、今度は望が言葉に詰まる。
犬を抱えて立ちすくむ、彼女の姿が蘇る。
踏み切り越しに見た彼女の笑み。
――――それは今にも、泣き出しそうな笑顔だった。
◇ ◆ ◇ ◆
目前で犬が跳ねられた。
痛ましい姿を、可符香は悲しいと思った。
けれどその悲しみを直視できない。そういう風にしか、彼女は出来ていない。
真っ赤な犬を抱えて、ポジティブという言い訳を考えながら、迷子のように彷徨う可符香。
やだなぁ轢き逃げなんかあるわけないじゃないですか。
目の前でワンちゃんが弾き飛ばされたけど、轢き逃げじゃないんです。
これは、轢き逃げじゃなくて―――なんだろう?
あれ。
おかしいな、今日に限って、良い解釈が思いつかない―――
望に出会って、何事か聞かれた時も、彼女は何も思いついていなかった。
あの時望が台詞を遮ってくれなければ、どうしようかと思っていたくらいだ。
そうして今も、あの轢き逃げに対する言い訳を思いつけないでいる。
彼女の中であの光景はまだ、ネガティブな事として記憶されてしまっている。
だから犬の墓参りも、自然と避けてしまった。
このまま無かった事にしてしまいたかったのだ。
◇ ◆ ◇ ◆
「…何も問題ないって、言ってるじゃないですか」
けれど認めない。彼女はそんな自分の思考を認めない。
それらは全て無意識に行われる事だ。意識したらもう、彼女はそれに耐えられない。
意識してはいけない、気が付いてはいけない。
だからそれ以上言ってくれるな。もうその口を閉ざしてしまえ。
そんな思いを込めて、今日に限ってやたら饒舌な教師の顔を見つめた。
そこでふと、望の異変に気付く。
彼の顔色が、随分と青白いのは気の所為だろうか。
「――――先生?」
さっきまでの勢いはどこへやら、突然押し黙ってしまった望の顔を覗き込む。
近くで見ると、一層顔色が悪く見える。
さっきまでのやり取りはとりあえず思考の隅に追いやって、様子を窺うように声を掛ける。
「せんせ…」
「―――」
何か答えようとしたのだろう。
けれどそれは叶わず、望は突然身体をくの字に折り曲げて、地に膝を付いた。
可符香は思わず驚いて身を引くが、すぐに自分も膝を折って、俯く彼の顔を覗き込む。
「先生…、糸色先生ッ」
「…っひ、は―――」
呼吸がおかしい。
苦悶の表情で腹部を押さえて、パクパクと鯉のように口を開いたり閉じたりしている。
肩に手を回と、返ってくる感触で、以前よりも彼が随分痩せている事に気が付いた。
「す…っ、すぐに、救急車呼びますから…ッ」
動揺を隠し切れず、震える声で言いながら、慌てて鞄から携帯電話を取り出す。
コールしている最中も、少しでもその苦痛が和らげばと、背中を擦り続ける可符香。
「――…ぐ…、っ…ぇッ…!」
望の身体が僅かにはねる。
望が吐いた吐瀉物には、コーヒー色の血が混じっていた。