救急車で望が運ばれた先は、命の居る糸色医院であった。  
望の意識はハッキリしていた。だが、逆にそれは彼にとって残酷な事であったようだ。  
運ばれている間も苦悶に身を捩る望を、可符香はただ傍で見つめる事しか出来なかった。  
 
そうして気が付けば、可符香は病室の扉の前に立っていた。  
望が運び込まれた後も、何やら色々あった気がする。  
こうして扉の前に立ってから、どのくらい時間が経過したのだろう。  
途中、看護師に「面会時間は終わっていますよ」などと注意をされた気がする。  
自分は命の知り合いだと告げると、看護師は彼女がここに居る事を了承してくれた。  
その会話すら、今の彼女はろくに覚えていない。夢の中の出来事にすら思えてくる。  
意識がハッキリしない。混乱が、彼女の思考力を奪っていた。  
ハっとして、ブンブンと勢い良く左右に首を振り乱す。  
不安など、馬鹿げている。何を不安に思う事があるのだろう。  
 
(大丈夫だよ…大した病気じゃない。お医者さんに診てもらえば、すぐ治るわ)  
望の吐瀉物に混じっていた、コーヒー色の何かは――そう、きっと本当にコーヒーだったのだ。  
昼食の時にでも飲んでいたのだろう。  
――だが、確か自分は…彼と一緒に昼食を取ったのではなかったか。  
その時彼は何を飲んでいた?少なくともコーヒーでは無かった気がする。  
 
(…じゃあきっと、朝にでも飲んだのね)  
朝に飲んだものが夕方近くまで胃に残っている不自然さには、目を瞑る事にする。  
そうして悶々と扉の前に佇んでいると、中から人の話し声が聞こえてきた。  
一瞬、目を覚ました望の独り言かと思った。  
だがそれは確かに会話になっていて、すぐに命と望が話している事に気が付く。  
二人は外見だけでなく、声も良く似ていた。  
 
「…どうしてもっと、早くに来なかった…」  
開いた窓から、身を切るような夜風が滑り込んでくる。  
それがカーテンを揺らし、そして自らの背筋を撫でていくのを、命は失意の最中で感じていた。  
項垂れた兄を、薄目を開けて見つめる望。  
望は申し訳無さそうに微笑んで、蚊の鳴くような声で「すみません」と謝罪した。  
その笑顔があまりにも透明で、このまま弟が霞んで消えるのではないかという不安に襲われる命。  
馬鹿げた妄想に自嘲して、命はカルテに目を落とす。  
「―――入院しなさい、望」  
「…すぐに、ですか」  
「当たり前だろう―――血を…吐いたんだぞ」  
「えぇ、はい…。苦しかったです」  
吐血した時に襲ってきた苦痛もだが、その後の胃洗浄も辛かった。  
「もう少し何とかなりませんか、あれ」  
「そんなになるまで放っておいたお前が悪い」  
カルテの角で軽く頭を小突かれた。  
小さく笑ってみせる望から、目を逸らすように立ち上がる命。  
「…手続きは、私がやっておくから」  
そう言って踵を返そうとする命の耳に、  
 
「―――待ってください」  
 
――小さな、だがどこか必死さを感じさせる声が、届く。  
その微かな声すらも、静寂に満たされた病室には大きすぎるくらいだった。  
「何だ?」  
命は振り返らない。その背中に語りかけるように、望は言葉を続けた。  
「もう少し、待ってもらえませんか…入院」  
息を呑む気配。  
命と、そしてあともう一つ。  
 
 
扉の向こうで、少女の呼吸が一瞬止まった。  
 
 
「まだ少し、やり残した事があるんです」  
「――縁起でもない事を言うな…ッ」  
まるで死刑を間近に控えた囚人のような物言いに、命は溜まらず声を荒げた。  
勢い良く振り返る。白衣が、夜風に煽られてはためいた。  
「そんなものすぐに治してやるッ、だから――そんな言い方は止せ」  
「――…兄さん」  
 
お願いします、と。  
唇の動きだけで訴える。  
 
―――――鈴虫の声。  
窓際に、いつの間にかとまっていたようだ。  
リンリンリン…。  
まるで静寂を嫌うように、鈴虫の鳴き声が病室を満たす。  
 
「…一日だけだ」  
リン…。  
命が答えると、鈴虫は遠慮するかのように、鳴くのをやめた。  
 
「明日一日だけなら…動き回ってもかまわない。  
但し少しでも無理だと思ったら、すぐにうちに電話しろ」  
「随分とまぁ、過保護ですね」  
「茶化すな」  
苦笑しあう、同質の声が重なった。  
「もう寝なさい」  
それだけ言って部屋を後にしようと、扉に向う命。  
「兄さん」  
「ん?」  
肩越しに振り返ると、望は目を細めて笑っていた。  
「ありがとうございます」  
嬉しそうに礼を言う弟に、どう返事をすればいいのか、わからなかった。  
 
部屋を出る。  
廊下に人影などある筈もなく、聞こえるのは、震える自分の呼吸だけだった。  
 
 
翌日。  
 
望はいつも通り、教壇に立っていた。  
その様子はいたって普段通りである。  
いつもと違う事と言えば、HRが始まる5分前には、既に望が教室に居た事くらいだろうか。  
普段の望は、いつもHRのチャイムが鳴ると同時に教室に入って来る。  
望の予期せぬ5分前行動に、生徒たちは少なからず驚いていたようである。  
    
黒板とチョークが奏でる音。生徒たちがノートにペンを走らせる音。  
その音に眠気を誘われて、遠慮なく眠りの世界に落ちる者。  
授業とは無縁とでも言わんばかりに、趣味に没頭している者。  
それはいつも通りの、2のへの授業風景。  
その中で、  
 
「―――…」  
 
可符香はじっと、黒板ではなく望の顔だけを凝視していた。  
まるでいつもまといがするかのように、瞬きもせず望の姿を目で追っている。  
その顔は微笑んではいるものの、瞳は不安そうに揺れている。  
もはやその笑顔は、完璧なものではなくなっていた。  
ノートを開いてはいるもののページは真っ白で、教科書にいたっては、国語の授業中だというのに社会の教科書を開いている。  
完全に上の空だった。  
「…可符香さん」  
見かねた千里が、後ろの席から指で可符香の背中を突っつく。  
「な、なぁに、千里ちゃん?」  
それでようやく我に返ったのか、慌てて笑顔を作って振り返る可符香。  
「今何の授業かわかってる?」  
「うん、糸色先生の授業だよね」  
「誰の、じゃなくて何の授業かって聞いてるのッ」  
小声で怒鳴るという器用な真似をして、可符香の額にでこぴんする千里。  
可符香は小さく仰け反って、エヘヘと照れ笑いを浮かべながら、黒板に振り返った。  
 
と。期せずして望と目が合ってしまった。  
「あ」  
小さく声を上げる可符香。  
「……」  
だが望の方は一瞬硬直したのみで、何事もなかったかのように授業を再開する。  
「可符香さん?」  
突然素っ頓狂な声を上げた可符香に、千里は訝しげな顔をする。  
弾かれたように振り返る彼女の顔は、心なしか青ざめていた。  
「え!あ、ううん。えと…こ、国語の授業だよね」  
わかったならちゃんと教科書を出せ。  
そう言おうと思っていた千里だったが、可符香の表情を見て、思わず言葉を詰まらせる。  
まるで迷子になった幼子のように、気弱げな表情。  
それはいつもの朗らかな彼女には、あまりに似つかわしくないものだった。  
「…可符香さん、貴女、体調が悪いんだったら…」  
「ううん。大丈夫よ、千里ちゃん」  
 
体調が悪いのは、私じゃないから。  
 
内心でそう付け足してしまってから、自分で自分の思考に不安感を煽られる可符香。  
「…ほんとに、私は大丈夫だから」  
「そ、そう」  
黒板に視線を戻す可符香の背中を、千里は、納得のいかない様子で見つめていた。  
 
「――――……」  
そんな可符香の様子を、チラリと横目に見る久藤。  
彼女に気取られぬよう、すぐに手元の本に視線を戻す。  
望の顔色が、いつもより優れない事にも、彼は気付いていた。  
 
(…サナトリウム文学は嫌いだって、言ったじゃないですか)  
 
ふと考えてしまった、あまりにチープな二人の恋の結末。  
久藤は心の中で、そんな物語のラストページに唾を吐き捨てた。  
 
 
 
望は1時間目の授業以降、生徒たちの前に姿を現さなかった。  
予定ではその後の授業のいくつかも望が受け持っていたのだが、急遽智恵が代行する事となったそうだ。  
もちろん生徒たちは理由を聞いた。だが、智恵は「諸事情」とだけ答えてお茶を濁すだけだった。  
 
望の姿が消えたと同時に、可符香も教室から姿を消していた。  
朝から可符香の顔色が優れなかった事は千里も知っていたし、他の生徒たちも薄々気付いてはいたようで、彼女の早退に疑問を持つ者は居なかった。  
 
そうして向えた放課後。  
久藤はいつものように、夕暮れの図書室で本を呼んでいた。  
他の図書委員は既に帰宅している。下校時間が迫る中で悠々と、彼は窓辺の席で本を読んでいる。  
彼は、ある人物が来るのを待っていた。  
「――失礼しますよ」  
いつかと同じ台詞。一拍置いて開かれた扉の向こうには、予想通り、糸色望の姿があった。  
いつかと同じように久藤も本から顔を上げて、薄く微笑みながら彼を迎え入れる。  
「いらっしゃい、先生。来ると思ってました」  
「そう思われてるだろうな、と思ってました」  
照れたように笑いながら軽口を叩く望。夕暮れの赤が、彼の肌の青白さを隠していた。  
「僕に聞きたい事があるんですね?」  
「はい。貴方に聞きたい事があります」  
久藤は開いていた窓を閉めて、冷たい風が望に当たるのを遮断した。  
扉の前に立ち尽くす彼に椅子をすすめ、望が座るのを確認すると、ふっと瞳を閉じて見せる。  
「可符香ちゃんの事ですか」  
「…はい」  
一拍置いて、頷く望。  
「幼馴染の君なら、彼女の事を良く知っていると思いまして」  
閉じていた目を開き、真っ直ぐに望の目を見る久藤。  
たじろく事もせず、真っ直ぐに見返してくる彼の目は、何だか妙に優しかった。  
「…彼女は幼少の時から…ああだったのですか?」  
ああ、とは何ですか――あえてそう問うことはせず、久藤はふっと呆れたように苦笑した。  
「ようやく気付いたんですか」  
「いやはや、面目ない」  
照れたように頭を掻く望。  
 
望は以前の図書室でのやり取りを思い出した。  
 
『油断ならない子だと思います』  
 
そう答えた自分に、不満そうだった彼の本心が、今ならなんとなくわかる。  
 
『それだけですか?』  
   
おそらくはそんな所だろうか。  
久藤からすれば期待はずれもいい所だったろう。  
可符香の鉄壁のような笑顔を少しでも剥がす事が出来た彼ならば、彼女をもっと理解しているに違いない――そんな期待を寄せて、彼にその質問をしたのだろうから。  
「先生は、彼女がああなった理由を知りたいんですね?」  
「…やはり、明確な理由があるのですか」  
「明確かどうかはわかりません。ですが、原因の一旦となったであろう出来事なら…」  
「教えて下さい」  
僅かな沈黙を挟んだ後、久藤は言った。  
「それを知って、先生は何がしたいんですか?」  
少しだけキツイ口調。だがその台詞からは、可符香を想う久藤の気持ちが読み取れた。  
ただの好奇心程度の気持ちしかない者に、彼女の根底に根ざすトラウマを伝える事など、出来よう筈もない。  
再び両者の間に、沈黙が降りる。  
 
「―――助けたい」  
 
答える望の声は、ともすればみっともない程に、震えていた。  
自分の返答に呆れたように苦笑する望。だが、その一言が自然と唇を零れたのだから仕方ない。  
自分は彼女を助けたいと思っている。たとえ彼女が、それを望んでいないとしても。  
 
僅かなネガティブにも耐えられない、脆い少女が選んだ不器用な選択肢。  
その危うさに気付いた時、望は胸が軋んで仕方なかった。  
無理矢理にでも全ての不幸を、幸福に差し替えるという彼女の生き方。  
それが最後まで、完璧に上手くいくというのならばかまわない。  
けれど問題は、薄々その無理矢理さに彼女自身が気付いてしまっている、というところだ。  
完全に物事をポジティブに取れる人間なら、わざわざそれを口にして自分に言い聞かせたりしない。  
このままではきっと支障が出る。いずれはネガティブな事に、正面から向き合う事になる。  
その時、彼女が今のままだったら、どうなってしまうだろう。  
望に少し図星を突かれただけで、ああも心を乱していたのだ。  
 
放っておいたら、壊れてしまう。確実に。  
 
望の脳裏を、彼女の笑顔が粉々に砕けるイメージが過ぎった。  
 
「あの子の思考回路には、些か柔軟さが欠けるように思えます。  
 だから―――できる事なら、絆してやりたい」  
自由奔放に見える彼女の、あまりに凝り固まった観念。  
それを解いてやらない事には、彼女を救う事などできやしない。  
だがそれをするには、自分はあまりに彼女の事を知らなさ過ぎる。  
もちろんそれを知ったからと言って、確実に彼女を救ってやれるとは言い切れない。  
それでも知っておきたいのだ。彼女があそこまで頑なに心を閉ざす切欠となったであろう出来事を。  
「教えて下さい、久藤君。私はあまりに、彼女の事を知らなさ過ぎるんです」  
膝の上で両の拳を握り締めながら、望は深々と頭を下げた。  
「――そうかな」  
答える久藤の声は、何だかとても嬉しそうだった。  
顔を上げる望。久藤は目を細めて、静かに彼を見つめていた。  
「今の先生はきっと、僕よりも可符香ちゃんの事を理解してると思います」  
「…買い被りですよ」  
望は苦笑して首を振る。久藤は、いつも童話を話し出す時のように瞳を閉じてから、  
「――これから僕が話す事は、酷く、曖昧な話です」  
そう前置きして、ゆっくりとした口調で語り始めた。  
 
◇ ◆ ◇ ◆ ◇  
 
久藤准と赤木杏が出会ったのは、二人が幼稚園の頃まで遡る。  
二人は自宅が近いという事もあり、元々顔見知り程度の面識はあったものの、入園してしばらくの間は、特に会話する機会もなく時が過ぎた。  
この頃の彼女はとても無口で大人しく、今の彼女からは想像出来ないほど静かな子供であった。  
子供の頃から本の虫であった久藤は、他の子供と遊ばずに、一人で本を読んでいる事が多かった。  
杏も、性格からして友達とはしゃぎ回る事が出来なかったのだろう。よく一人で孤立していた。  
 
自ら望んで孤立した者。孤立せざる得なかった者。  
理由は違えど、二人は集団生活の中で異質な存在だった。  
 
ある日。久藤はいつものように本を読んでいた。他の子供たちは園内をはしゃぎ回っている。  
ふと隣に人の気配がして本から顔を上げると、杏がぼんやりとこちらを見ながら立っていた。  
目が合うと驚いたように身体を震わせて、すぐに視線を逸らしてしまう。まるで何かに怯えるように。  
「…座ったら?」  
見下ろされていると落ち着いて読書が出来ない。  
そう思って声を掛けると、杏は再度身体を震わせた。  
 
「――ここに、居ていい?」  
 
恐る恐る訊ねる少女の真意は、子供の彼には判らなかった。  
だが、杏にとっては一世一代の大勝負とも言える問いだったのだ。  
自らが協調性を欠いている事を理解している彼女は、自分が他人にとって迷惑な存在であると心に刷り込まれていた。だから自ら、他の子供たちと一線の距離を置いたのだ。  
けれど、元来寂しがりやの少女に、孤独はあまりに辛いものだった。  
そうして見つけたのが、自分と同じように一人逸れた少年の姿。  
彼は自分とは違う――その事は理解していた。  
けれど彼ならば、自分の事を受け入れてくれるのではないか。  
そんな僅かな希望を寄せて、少年の様子を窺う。その希望が、粉々に打ち砕かれる事に怯えながら。  
 
「うん、いいよ」  
 
別に断る必要もないではないか――彼はそう思っていた。  
拒絶される事を恐れる少女の心情を理解しないまま、彼はこくりと頷いてみせる。  
すると、さっきまで眉をハの字にして怯えていた表情とは一変して、杏は瞳をパァっと輝かせた。  
ここに居る事を許可された。ただそれだけの事が、彼女にとってはよほど大事な事だったらしい。  
その嬉しそうな彼女の顔を、久藤は素直に「可愛いな」と思った。  
 
それ以降。二人は共に時間を過ごす事が多くなった。  
 
久藤は相変わらず本を読むだけ。杏はその隣で、ぼんやりと空を眺めている。  
いつしか久藤は、杏に物語を読んで聞かせるようになった。  
杏はどんな話にでも瞳を輝かせ、まるでその物語の住人になったようにのめり込み、一喜一憂する。  
その様子が楽しくて、久藤の中でいつしか、杏という少女の存在は大きなものになっていった。  
彼女に興味を持つようになってから、彼女の周囲の環境にも目を配るようになる久藤。  
彼は両親や近所の人達の話から、杏が非常に恵まれない環境の中で生活している事を知る。  
 
杏の父親の会社の経営が危うく、家庭内はその事でピリピリした空気に包まれており、  
両親の理不尽な怒りの矛先は、常に彼女に向いていた。  
彼女は少しでも目立たぬよう、節目がちになり、小声で話すようになっていった。  
 
いつも隣で笑っている少女を取り巻く環境を知り、子供心に久藤の胸は酷く痛んだ。  
助けたい――だが、いったい何をすれば彼女を助けた事になるのかわからない。  
その事を彼女本人に伝えると、杏は眉をハの字にしながらも、懸命に微笑んで見せた。  
 
「准君は、今までみたいに一緒に居てくれるだけでいいの」  
 
それで十分だと、それだけで嬉しいと。  
心から久藤に感謝しながら言う杏の表情は、あまりにも儚げだった。  
 
翌日。杏の父親が自殺した。  
 
彼女はその現場に居合わせたらしい――後々駆けつけた大人たちは、引き攣った笑顔で父親を見上げる杏の姿を見たそうだ。  
全て人伝に聞いた話だ。久藤は杏の身にそんな不幸が及んだ事を実感出来ないままで、彼女の父親の葬式に出席した。  
そこで見た杏の姿に、彼女の身に及んだ不幸を、否が応にも実感する事となる。  
 
泣きそうな笑顔を張り付かせたまま、彼女の表情はピクリとも動かなくなっていた。  
 
葬式に、彼女の母親の姿はなかった。  
何でも、夫の自殺に耐え切れなかった彼女の母親は心を病み、今は病院に居るとの事だ。  
実質両親に放り出された杏は、母方の叔父に引き取られる事となった。  
といっても、叔父は半ば杏を押し付けられたようなものらしい。  
そんな彼が、杏に優しく接するはずもなかった。  
父親の死を目前にして以来、笑みが剥がれなくなった杏を見て、  
叔父は常日頃、八つ当たり気味にこんな事を言っていたらしい。  
 
「お前はいいな。何も知らずに、幸せそうで」  
 
子供は何も知らない、感じないと決め付けた、大人の残酷な上から目線。  
どうやら他の大人達も、彼女が笑顔を絶やせないのを見て、概ね同じ評価を下したらしい。  
 
「杏ちゃんはいつも笑っていて、本当に幸せそうね――身の不幸も知らずに」  
 
次第に彼女は、その周囲の声に合わせるようになっていった。  
 
―――皆私を幸せと言うからには、私は幸せなのだろう。  
 
不自然だった笑顔は、徐々に彼女の顔に馴染んでいく。  
その笑顔が自然になればなるほど、彼女の心は病んでいく。  
自らを幸せと思い込む事で、正常なフリが出来る事を覚えた少女は、物事を前向きに捉える事に必死になっていく。  
 
そんな彼女を、久藤は見ている事しか出来なかった。  
きっと何か出来たはずなのだ。だが、幼い自分はただ呆然と、彼女の隣に居ることしかしなかった。  
小学校に上がってしばらくすると、彼女は名古屋に転校する事になった。  
彼女に直接聞く事が憚られ、人伝に聞いた話では、何でも彼女の叔父が何か犯罪を犯したらしい。  
再び放り出された彼女は、今度は名古屋の親戚の下に預けられるのだそうだ。  
 
引っ越しの前日。  
二人は幼稚園の頃からそうだったように、共に時間を過ごした。  
久藤は何も聞かない。杏も、何も語ろうとはしない。  
他の生徒の消えた夕暮れの教室で、久藤は彼女に、最後の物語を語る。  
最後に彼女に読んで聞かせた物語は、「赤毛のアン」だった。  
彼女はひどく安らかな顔で、久藤の声に耳を傾けていた。  
 
そうして二人は、しばらくの間、袂を分かつ事になる。   
   
彼女が引っ越してから、数年の時が経った。  
その数年の間、彼女の身に何が起こり、彼女が何を感じてきたのか、久藤は知らない。  
数年後に再会した彼女は、自らを「風浦可符香」と名乗るようになっており、  
以前は少しだけ歪さを残していた笑顔は、すっかり少女の顔に馴染んでいた。  
 
◇ ◆ ◇ ◆   
 

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