「これで、僕の話はおしまいです」
語り終えた久藤は、ふぅ…と深く息を吐いた。
目を閉じ、じっと聞き入っていた望は、
「――おしまい、ですか」
そう呟いて、椅子から腰を上げた。
「はい。おしまいです」
久藤も立ち上がる。
もうすっかり、下校時刻は過ぎていた。
「随分と…長いようで、短い話ですね」
「ほとんど人伝に聞いた話ですから」
「彼女に問う事は、しなかったのですか」
「僕にその資格はありません」
立ち上がった久藤は、出口ではなく窓へと歩み寄る。
夕闇がさし迫る校庭を見下ろして、寂しげに呟いた。
「彼女と再会して、僕は――心底、何もしなかった子供の自分を呪いました」
「…誰も貴方を責めないと思いますよ、私は」
そんな慰めに意味はないと知りつつも、望はその背に言葉を掛けずにはいられなかった。
日に日に彼女の笑みは、硬度を増していく。
それがいけない事だと肌で感じながらも、それを止める事が本当に彼女の為になるのか、結局彼は最後の最後まで判らずじまいだった。
「彼女は不幸でした。
だけど、傍で僕がいつものように物語を語っている間、彼女は幸せそうに笑ってくれました。
それが嘘モノと知ってたのに僕は――その笑顔に、縋ったんです」
問う事で、その笑顔を崩す事が恐ろしかった。
彼女の傍で語り部で居れば、彼女はずっと笑っていてくれる。
『私の事、これからは、風浦可符香って呼んでね』
そう言われた時も、特に理由を聞く事はしなかった。
何も問わずに頷けば、彼女は満足気に微笑んでくれた。
人としての故障ごと、彼女を受け入れる――それが、彼の役割になっていた。
「――ひとつ、貴方は勘違いをしています」
「…え」
振り返る久藤の顔は、年相応の少年のように、不安定に揺れていた。
対する望は、まるでいつもと違う、大人のような落ち着きを宿した表情で、言葉を続ける。
「きっと貴方の傍に居る時の彼女は、本当に幸せだったんだと思いますよ。
だから――貴方の見てきた彼女の笑顔は、嘘モノなんかじゃありません」
「―――……」
その言葉に。
何だか救われた気分になってしまって、久藤は不覚にも泣きそうになった。
そんな自分を必死に律して、表情を隠すように俯く久藤。
「…何だか今日の先生は、まるで先生みたいですね」
「日本語がおかしいですよ、久藤君。あと、何だか失礼な事を言われた気がするのは」
「気のせいです」
顔を上げた久藤の表情は、すっかりいつもの微笑に戻っていた。
その笑顔は、いつもより幾分柔らかい。
ああ、彼はこんな笑い方も出来るのか…と内心で歓心しながら、望もフワリと笑い返した。
「それで、先生。僕の話は、何か役に立ちそうですか?」
「さて…それはまだわかりません。けど、聞いて良かったと思います」
踵を返す望。
「引き止めてしまってすみませんでしたね。
もうこんな時分です――久藤くんも…」
背を向けた望の身体が、ユラリと揺れた。
出口に向う望の歩が、止まる。
「――早く、か…―――え――っ、て…っ」
途切れた言葉と共に、望の身体はゆっくりと床に崩れ落ちていた。
「先生――!」
咄嗟に走り寄ってきた久藤に抱き止められたおかげで、寸での所で床との顔面衝突は避ける事が出来た。
が、せり上がってくる嘔吐感と痛みだけはどうしようもない。
荒い呼吸の中で、「大丈夫です、大丈夫です…」とうわ言のように呟き続ける望。
明らかに大丈夫ではないその様子に、久藤はまるで望と痛みを共有しているかのごとく表情を歪ませた。
「先生、とりあえず保健室に行きましょう」
言いながら、望の身体を背負い上げる久藤。
そのあまりに軽い感触に、久藤の内心の不安は煽られるばかりだった。
◇ ◆ ◇ ◆
少女は走る。
呼吸を荒げて、泣き出す直前のような表情で走り続ける。
その様子を、病院の廊下の窓から見下ろして、
「―――本当に、酷い男だな…我が弟ながら」
糸色命は、泣き出す直前のような表情で、呟いた。
◇ ◆ ◇ ◆
心臓が、肺が、血を巡らす管達が、もう限界だと叫んでいる。
それでも彼女は走るのをやめない。全力で廊下を蹴り、前へ前へと突き進む。
校内はすっかり夕闇に溶け込んでいた。
最近は日が落ちるのが早い。外はすっかり暗くなっているものの、時刻にすればまだ六時前後といったところだろう。
校門は閉まっていた。だが、校門以外にも学校への入り口というものはあるのである。
もちろんソコは一般生徒…どころか、教職員達も知らない秘密のスポットなのだが、今はそんな事はどうでもいい。
とにかく彼女はそこから学校に潜入し、こうして廊下を駆けている。
向う先は――宿直室だった。
その細い足のどこからそんな力が湧いて来るのか不思議になるほどの速度で、彼女は走り続ける。
「――杏ちゃん」
酸欠で霞がかった意識に、ハッキリと響く男子生徒の声。
彼女は咄嗟に立ち止まろうとして、だがすぐに勢いが殺せる訳も無く、そのまま前のめりに倒れそうになる。眼前に迫る、冷たく硬い床。
「わぁ…ッ!」
小さく悲鳴を上げて、襲い来るであろう衝撃に身を竦ませる可符香。
だが、彼女の身体に訪れたのは固い床の感触ではなく、両の腕で包まれる柔らかな感触だった。
「大丈夫?」
恐る恐る目を開き、視線を上げると、そこには心配そうにこちらを覗き込む幼馴染の少年の顔がある。
「准君…」
「危ないよ。急いでいるのはわかるけれど、君が怪我したら先生も、きっと悲しむ」
久藤の口から紡がれた「先生」という言葉に反応して、ハッと目を見開く可符香。
「あ、ありがとう准君!でも、私急いで先生に―――」
「先生なら、そっちには居ないよ」
自らを支える腕を押しのけようともがきながら、早口にまくし立てる可符香の言葉を、久藤は静かな声音で遮った。
可符香は驚いたように久藤の顔を見上げる。
大きな丸い瞳の中に、久藤の穏やかな微笑みが映り込む。
「どうして…?」
「先生は、保健室に居るよ」
久藤はそっと可符香から身体を離し、すっと保健室の方を指し示す。
「どうして、准君が知ってるの?」
「――急いでるんだろう、杏ちゃん」
可符香の問いに答える事はせず、久藤は可符香に早く行くよう促してみせた。
釈然としないながらも、この質問の優先順位はそう高いものでもない。
可符香はコクリと頷いて、機敏な動作で踵を返す。
「うん…。教えてくれてありがとう、准君ッ」
駆け出しながら礼を言う可符香の背中に、小さく「いってらっしゃい」と声を掛けながら手を振る久藤。
遠く、小さくなっていく可符香の足音の残響を聞きながら、久藤は窓の外へ視線を移した。
ふと。
「――あれ」
頬に濡れた感触を覚えて、そっと掌で撫上げた。
それが涙である事に、しばらく気付くことが出来なくて、呆然とする久藤。
涙は一筋だけ彼の頬を濡らして、顎を伝い落ち、制服に小さな染みを作る。
それはすぐに乾いてわからなくなる程度の、小さな跡。
窓ガラスに映る自分の泣き顔に苦笑しながら、久藤は掠れた声で一人ごちた。
「あぁ…そうか。
僕も――彼女の事が、好きだったのか」
一瞬の悲しみを、ほんの一滴の涙で洗い流して。
瞬きの後にはもう、彼はいつもの静かな笑みに戻っていた。
早鐘を打つ心の臓。そのリズムに合わせて、米神がズキンズキンと痛んだ。
それでも彼女は止まらない。思考に回す労力は、今は走る為に使う。
今までにない程全力で駆けて―――久藤と会話して数分も経たぬ内に、彼女はそこに辿り付いた。
保健室。
白く記されたその三文字は、暗闇の中にも溶け込む事無く、彼女の瞳に映し出された。
「っは、っは、っは―――ッはぁ」
扉の前で、すっかり熱くなった全身を冷ますように呼吸を整える。
途中で何度も咽こんで、彼女は痛む肺を直接握りつぶそうとするかのように、自らの胸を掴んだ。
熱暴走した身体は、夜気と――それ以外の、徐々に湧き上がる良くない感情に、外と内から冷やされていく。
どうにか呼吸が治まり、胸から手を引き剥がしながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
――この先、何があっても声が震えないよう、一度だけイメージトレーニングをする。
「……―――」
自慢のアルカイックスマイルを拵えて。
彼女は、静かに保健室の扉を開いた。
糸色望は、まるで人形のような顔色で、そこに横たわっていた。
窓にカーテンはかかっていなかった。月光が、青白く室内を照らしている。
人が居るならば、いつもはベッドとこちら側を間切る為のカーテンが閉まっている。
だが今は、ベッドの上に人が横たわっているにも関わらず、それは開いたままになっていた。
「―――先生?」
声を掛ける。その声が震えていない事に満足しながら、彼女はゆっくりとベッドまで歩み寄る。
「先生。私です――寝ているんですか?」
横たわる彼の隣に立つ。近くで見ると、元来の肌の白さも手伝って、彼の肌は病的に人形じみていた。
触れても、体温がある気がしない。
「先生…」
薄い胸が上下して居る――呼吸は、あるようだ。
だがそれだけでは確信を持てずに、薄く開いた唇から漏れる呼吸を確認するために、そっとその上に掌を翳してみる。
掌を擽る僅かな息遣い。本当に、僅かな。
「―――先生…」
もう一度、呼んだ。
「先生。起きて下さい……、起きて下さいよ」
翳した掌を、そのまま頬に滑らせる。
返ってくる感触は思いのほか柔らかだった。
マネキンのような硬く冷たい質感を想像していただけに、少し驚いてしまう。
少し考えればそんな筈はないのだが、彼の肌の青白さは、そう思い込んでしまうほど人間味が無かった。
「………」
確かに掌に感じる体温が、じんわりと掌から全身に伝わるような感覚が、可符香を安心させた。
安堵の吐息を吐くと、それに反応したかのように、望はゆっくりと両目を開いた。
「あ――やっと起きましたね」
「……目覚め、の」
「はい?」
ぼんやりと中空を見つめていた彼の目が、優しげな笑みの形を象る。
頬に置かれた小さな掌に、自らの掌を重ね合わせながら、可符香の瞳を仰ぎ見る望。
「目覚めのキスでも、してくれたんですか?」
自らの掌を覆う、以外にも大きく暖かな掌の感触。
それに何故か泣きそうになりながらも、彼女は必死にその感情を笑みの中に押し隠しながら答えた。
「…して欲しかったんですか?」
「ええ、わりと」
「わりと、ですか」
いつもの、何という事のない会話。
可符香はクスリと微笑んで、いつものようにからかう様な口調で返した。
「でも、それじゃ立場が逆じゃありません?
まぁ確かに先生は、王子様より眠り姫の方が似合ってますけどね」
「それは嬉しくないですねぇ」
「綺麗だって言ってるんですよ」
「――……やっぱり嬉しくないです」
「ふふッ」
じゃれ合うように軽口を言い合う。掌は、重ねたままで。
不自然な程に穏やかな空気が、二人の間に流れていた。
いつもの二人ならば、もう少しだけ賑やかな会話になっていただろう。
望が可符香にからかわれ、嘆く彼をまた可符香が宥め賺す。
だが今は、まるで望の方が年長のように――事実年長者なのだが――落ち着きを払い、
彼女は認めてはいないものの、逆に少しだけ、可符香の心が乱れている。
いつもとは、立場が逆転していた。
「随分と…急いで来たのですね」
「え?」
「掌が熱いですよ――それに、少し汗ばんでいます」
もう十分に冷えたかと思っていたが、どうやらまだ冷却が足りなかったようだ。
可符香は少しだけ焦ったように手を引いた。その動きに気付いて、望も重ねていた掌を放す。
お互いに名残惜しさを感じながら、二つの手は放れていった。
「気のせいですよ」
すかさず言い返す声音は、まだ震えてはいない。
「そうですか」
特に突っかかる事もせず、望は素直に頷いて見せた。
その顔に浮かぶ楽しげな微笑に、見透かされたような不快感を感じる。
「それで、そんなに急いで来たんですから…何か大事な用があったのでしょう?」
「だから急いでなんて居ませんよぉ。悠々と歩いて来ました。それに、大した用事でもありません」
本当に、いつもと立場が逆だ。
可符香は望にからかわれている事を自覚して、僅かに眉を顰めた。
「拗ねないで下さい、風浦さん」
「からかわないで下さい、先生」
売り言葉に買い言葉。このままでは、ちっとも本題に入れない。
可符香はコホンと小さく咳払いをして、場の空気をリセットした。
「――絶命先生に会ってきました」
命がその場に居たら即座に名称に対して突っ込むだろうが、残念ながら当人はこの場には居ない。
もしかしたら今頃、くしゃみの一つでもしているかもしれない。
脳裏に兄の姿を思い浮かべながら、聞き返す望。
「兄さんに?」
「はい」
「それで、何を話したんです?」
ぐっ、と。可符香は思わず拳を握り締める。
何を…と、聞き返す望の態度に、怒りに似た感情が込み上げる。
何を話したか。そんなもの、一つしかないではないか。
「…先生、倒れましたよね。私の、目の前で」
「――……ええ。あの時は、本当にありが」
「なのに何で、学校に居るんです?」
今更礼を言おうとする望の声を断ち切るように言い放つ可符香。
僅かに、声が震え始めていた。
「お兄さんに聞きました。先生、今すぐ入院しないといけない病気……なんでしょう?」
揺れる瞳を隠すように俯きながら、可符香は病院での命との会話を、思い出していた。
◇ ◆ ◇ ◆
望の授業が終わった後。
可符香はすぐに命の病院へ向った。もちろん、望の病態を詳しく聞くためである。
昨夜の思わせぶりな会話についても、問い質すつもりでいた。
――糸色命は、ああ見えて意外と過保護な所のある男だ。
だからたいした病気でないにも関わらず、用心にと、弟に入院を勧めたに違いない―――
病院に着くまでの間に考えた、彼女お得意のポジティブな遁辞は、こんなところだ。
命の病院は相変わらず患者も疎らで、二人で話をする時間は簡単に取れた。
「先生の病態はどうなんですか?」
挨拶もそこそこに本題に入る可符香。その様子に深刻なものを感じ取り、命は真剣な表情で頷く。
「――正直なところ…良くは、ないよ」
「そんなのわかってます。どの程度、良くないんですか」
曖昧な態度の命に、可符香は容赦なく質問を浴びせる。
その頬を、一筋の冷や汗が流れるのを、命は見逃さなかった。
(――ああ、彼女は…。知るのが怖い、のか)
それにも関わらず、少女は必死にここに立ち、返答を待っている。
縋るような眼差しに答えるように、命は口を開いた。
「…早急に入院が必要な程、だ」
「じゃあどうして、先生は学校に来てるんです?」
「それは―――」
言い淀む命に、可符香は反論を許さない。非難するような強い口調でたたみ掛ける。
「お医者さんなら、患者さんを治す事を優先するべきじゃないんですか。
弟さんが大事なら尚の事です。どうして――先生の我侭なんかを、聞いたりしたんですか」
「ど、どうして君が…」
昨夜の事を知っているんだ。そう問い質そうとするも、
「そんな事どうでもいいんです」
ピシャリと言い放った可符香の眼光に二の句が告げなくなり、思わずすくみ上がる。
幼い少女の眼光に圧倒されている自分を、命は自覚せざる得なかった。
「それで先生は――……何の病気に、罹ってるんですか…?」
だが、次に彼女から紡がれた言葉は、先ほどまでの勢いが嘘のように、恐々と発された。
スルスルと萎むように、可符香の瞳に力が無くなっていく。
「――胃を、大分やられていてね…。
最近食欲が無かったり、お腹を痛がったりしては、いなかったかい?」
紅葉の上に倒れ付す、望の姿を思い出す。そういえば、腹部を押さえていた。
昨日、倒れる直前に取った昼食は、殆ど食べられずに残していた。
彼が倒れた時、肩に触れて初めて、元々細い身体が更に一回り小さくなっている事に気付いた。
思い出してみれば、何故気付かなかったのか不思議な程に、思い当たる節がありすぎる。
愕然とする可符香の様子から察したのか、命は眼鏡の奥の瞳を曇らせた。
「血を吐くまで……どうしてあいつも、気付かなかったんだかな」
その言葉が、まるで自分に向けられたものであるように聞こえて、可符香は胃の奥がきゅうと痛むのを感じた。
だがこの痛みの、何倍もの苦しみを望は味わった――いや、今も味わっているのかもしれない。
「あ、あはは…コーヒーじゃ、なかったんですね…」
乾いた嘲笑で自身を傷つける可符香の様子に、命は痛ましげに眉根を寄せた。
初診の時。それと、昨日望の付き添いに病院を訪れた時。合わせて二度程しか会っていない少女。
本来ならば彼女と望は、教師と生徒という間柄に過ぎない筈だ。
けれど、あまりに必死な彼女の様子は、二人がそれだけの関係ではない事を物語っているように思える。
いくら担任が倒れたとはいえ、それが自らの目前だったとはいえ。
わざわざ学校を早退してまで容態を訪ねに来るのには、何か特別な理由があるとしか思えない。
その『特別な理由』を――自分は聞く権利がある。
それに、昨夜望が残した意味深な言葉。
『やり残した事がある』
確信などない。だがその言葉が、この少女に繋がるような気がしてならなかった。
「風浦、可符香さん」
「はい」
頷く彼女の瞳は、今だ不安げに揺れている。
「貴女は望の生徒さんだ。それに、昨日は望を助けてくれた恩もある。
けれど――…何故君は、そんなにまで望を気にかけてくれるんだ?」
「それは」
ソレハ、センセイニ、コイヲシテイルカラデス。
彼女が彼を気にかける理由。今まで、ずっとそうだと信じてきた理由。それを口に出せばいい。
そうすれば、命は何の疑いもなく首を縦に振って、自分の質問に何でも答えてくれるだろう。
けれど何故だろう。彼女の唇は、その言葉を紡ぐ事を拒否していた。
笑みの形に強張って、ピクリとも動いてくれない。
(…あれ?)
唇どころか喉も凍りついたようで、無理矢理声を出そうとするも、掠れた呼吸が虚しく漏れるだけだった。
「どうしました?」
「…ぁ、…ァ」
呼吸すら危うくなる。冷や汗が顎を伝って、制服のスカートに染みをいくつか作り出す。
今までならば、すんなりと言えた。彼を監視するその理由。
それは、彼女の中で紛れもない真実であったからだ。
なら今は?
それを言葉に出来なくなったのは――自分の中で、それが真実ではなくなったと、言う事なのか。
そんな筈はない。そんな筈はない。
今だこの胸に痞える、以前より何倍も肥大したこの感情は、恋以外の何物でもない。
それ以外のモノとなると――彼女にとって、酷く都合が悪くなるから。
やだなぁ、怖いわけないじゃないですか。
やだなぁ、憎いわけないじゃないですか。
やだなぁ――決して、苛立ちなんかじゃありませんよ。
だってそれらは全て、自分の中にあってはならない感情だから。
そう。いつだって彼に抱いてた、この混沌とした感情は――――
『貴女はいつも、何を恐れているのですか』
彼女の心に、深く深く棘のように刺さった、望の言葉が蘇る。
刺し傷が、ズクンズクンと痛みだす。
今まで見てみぬフリをしてきた全てを、無理矢理見せつけようとする残酷な言葉が、痛みと共に蘇る。
『貴女は怖がりだ。人よりもずっと、怖がりだ。
だからそんなに必死になって、ネガティブな事を否定するんじゃないですか。
そうでもしないと―――耐えられないから』
ああ、そういえば。
―――あの時自分は彼の言葉を、少しも否定出来なかったじゃないか。
ようするに、この、恋とは名ばかりの、感情は。
「 あ はは 」
小さな乾いた笑いが、喉から滑り出た。
何かを諦めたように、強張っていた肩から力が抜ける。
何事か呼びかけている命の声を、遠く遠くに聞きながら、可符香は妙に穏やかな心地でいた。
(そうだ…もう、あの時とっくに、言い負かされていたんだ)
せっかく死に物狂いで築き上げた、風浦可符香という人物像を壊された事へのショックよりも、
それを暴いた人間が、彼で良かったという安心感が、彼女を満たしていた。
―――そう、人はそれを、恋と呼びます。
見開いた瞳に光が灯る。青ざめた頬に赤みが差した。
ようやく彼女の中で、糸色望への恋が、始まった。
気がつくと、可符香はベッドの上で横になっていた。
一瞬状況が飲み込めず、真っ白い天井をぼんやりと仰ぎ見る。
「目が覚めましたか?」
隣で聞こえた声にハッとして身体を起こすと、そこには心配そうにこちらを見る命の姿があった。
ここは診察室で、自分は彼に話を聞きに来ていたのだ。
しかし何がどうして、ベッドに寝転がったりしていたのだろう。
「あの、私」
「疲れていたようだね――話の途中で気を失ってしまったんだよ、君は」
言われてぼんやりと思い出す。どうやら葛藤に耐え切れず、意識を失ってしまったようだ。
「す、すみませんでした」
「いいんですよ。どうせ患者さんも来ませんから」
フッと影のある笑い方をする命。どうやら、彼女が寝ている間も来客はなかったようだ。
「どのくらい寝ていたんですか?私」
時計を見てみると、結構な時間が経ってしまっていた。もう夕方になろうとしている。
「気にしないで下さい……あぁ、随分と顔色は良くなったようですね」
可符香の顔を覗き込んで、ホッと息を吐く命。
「……それで、どこまで話しましたっけね」
「あ…ッ!」
言われてハッとなる可符香。
彼女の中で導き出された結論を、今ならば口に出来る。
―――そう、それを人は、恋と―――
「――ぁあ…。そうです」
ふっと、可符香の瞳に力が宿る。薄い唇から漏れた声は、喜びで上ずっていた。
「私――私、先生の事が……好きなんです」
頬を桃色に染めて、潤んだ瞳で言うその表情は、まさに恋する乙女のそれであった。
思わずその台詞が、自分に向けられたものだと錯覚して、不覚にも照れてしまう命。
だがすぐにそれが弟に向けられたものと思い直し、一瞬でも高揚してしまった自分を叱り付けながら、命は気まずげに咳払いをした。
「そう…そうか…。そんな所だとは思ってたよ」
可符香はもう落ち着いたようで、さっきまでの不安定な様子とは一変して、真っ直ぐな瞳で命を見つめている。
「絶命先生は、先生がどうして入院を延ばしたのか知ってますか?」
「――人をおちょくる余裕は出てきたというわけですね」
さっき僅かにでも少女にときめいてしまった自分を内心で自嘲しながら、命はズレてもいない眼鏡を人差し指で直した。
「私も理由は聞いていないよ。やり残した事がある……としか」
「――そうですか」
可符香はやおらベッドから降り立ち、ペコリと一つお辞儀した。
「ありがとうございました。絶命先生」
「だからッ!――あーもう、こんな時まで……!」
反射的に噛み付きそうになるのを必死に自制して、ブンブンと頭を振る事でどうにか耐え忍ぶ。
「直接望に聞くなら、早めに行った方がいい。―――もう……」
出口に向う少女の背中に、最後に掛けた命の言葉は、彼女を焦らせるには十分なものだった。
―――もう、会えなくなるかもしれないから。
バタンッ。
扉が閉まる音と同時に、彼女が廊下を駆け出す気配。
足音が遠ざかったのを確認すると、命も静かな足取りで診察室を出る。
窓から下を見下ろすと、さっきまで自分をおちょくっていた少女とは思えない、必死な表情で掛けていく可符香の姿が見えた。
「―――本当に、酷い男だな…我が弟ながら」
その姿が見えなくなるまで、命はじっと、廊下に立ち尽くしていた。
◇ ◆ ◇ ◆