「――そうですか、兄さんに」  
記憶の海に溺れていた可符香の思考は、望の声によって浮上した。  
望は自らの顎に手を当てて、何事か考え込んでいる。  
「それじゃあ、私が明日には入院しなければならない事も、知っているんですね」  
「知ってます」  
「では何も、怒ることはないじゃないですか」  
「怒ってません」  
そう、彼女は怒ってなどいない。  
ただ、日頃あんなに他人の同情を集める事に必死な彼が、どうして病を隠してまで学校に来たのか。  
そしてそれをするだけの価値がある、「やり残した事」が何なのか。  
それが気になって仕方がないだけだ。  
「先生――先生のやり残した事…もう、やれたんですか」  
苦痛を嫌うこの男が、それに自ら進んで耐える事を選ぶほどの事。  
気にならない筈が無い。まして、それが心寄せる男の事であれば、尚更だ。  
可符香の真剣な問いに、望は柔らかく微笑みながら答える。  
「いいえ、残念ながら。何せその相手が、今まで学校に居てくれませんでしたからね。  
 それに私も、一時限目が終わった後体調を崩しまして……宿直室で休んでいたんですよ」  
 
その際に、交に自分の病の事も伝えてあった。  
 
『叔父さんの馬鹿』  
 
それだけ言って顔を伏せた甥の髪を、ゆっくりと撫でた感触を思い出す。  
彼の事は、小森に任せてある。他の生徒たちも、何だかんだ彼の面倒は見てくれるはずだ。  
寂しい思いはさせずにすむだろう。  
 
「……人に関係する事なんですか?」  
「ええ」  
「―――誰に、関係する事なんですか?」  
望はふと、少し戸惑うように口を噤んだ。  
その沈黙に滑り込むように、可符香は重ねて問い掛ける。  
 
「―――やり残した事って、なんですか?」  
 
問われて、明確にそれが言葉に出来ない事に戸惑う望。  
頭の中で伝えたい事を整理しながら、ゆっくりと、口を開いた。  
「――伝えたい事があります。貴女に」  
「……私に?」  
まさか自分に関係する事だとは思っていなかったようだ。  
可符香はキョトンと目を丸くして、自分を指差す。  
望は頷いた。  
「こういう状況で言うのもなんですけどね」  
「なん、ですか?」  
 
「好きですよ」  
ともすれば、それが告白だと気付かないほどの自然さで、彼は言った。  
 
「…は?」  
何を言われたのか咄嗟に理解できず、思考が停止してしまう。  
何か、何かとても大変な事を言われた気がするのだが。  
「好きなんです。貴女が」  
そんな可符香に、今度は染み入るような深い声音で、望は繰り返し愛を伝える。  
ああ、告白されたのか、と。  
ようやく理解した頃には、身体の方が先に反応したのか、可符香の頬は朱に染まっていた。  
「……さ、さらっと言わないで下さい」  
「だって、じっくりとっくり愛の告白なんて、照れるじゃないですか」  
「これはこれで困ります。言われた方は」  
誰かの言葉に、これほど困惑するのは初めてだった。  
だって、理由がわからない。  
確かに思わせぶりな態度も取った。けれど、まさかアレで好いてもらえるとは思っていない。  
彼が自分に好意を示した理由がわからない。その告白は彼女にとっては、あまりに唐突過ぎた。  
それも、自らが彼に好意を持っている事を自覚した矢先である。  
幸運を通り越して、むしろ何かの罠じゃないかと勘繰ってしまう。  
「好きとかじゃないって、こないだは言ってたクセに」  
「言いましたね――でも、もう……私から素直にならないと、貴女も素直になってはくれないでしょう?」  
ああ、アレは本当にツンデレだったのか。  
という事は、今は彼のデレの部分を垣間見ているという事なのだろうか。  
思考の端で冷静にそんな事を思いつつも、熱くなる頬はいっこうに冷めてくれない。  
「私は貴女に、いつも自然に――あの時見せてくれたような、あんな笑顔で居て欲しいんです」  
自分で抑制が効かないような、心の底から込み上げる笑顔。  
そんな笑顔が、自然と彼女の顔に浮かぶようになれば、それはどんなに素敵な事だろう。  
「……常に爆笑してればいいんですか?」  
あまりにも真っ直ぐな望の目に耐えかねたようにそっぽを向いて、照れのあまり軽口を叩く可符香。  
その様子が、いつもの余裕綽々なそれより何倍も可愛らしく見えて、望は笑みを隠しきれなかった。  
 
「茶々を入れない。そういう事じゃなく、本心から笑っていて欲しいって事ですよ」  
「……話が見えてきません。私は先生のやり残した事が聞きたいんです。  
 それがどうして、そこに繋がるんですか?」  
はぐらかされたと取ったのか、不満そうな顔で問い質す可符香の頬は、まだほの赤く染まったままだ。  
望は少しだけ困ったように沈黙を挟んでから、  
「この間、話しましたよね。貴女の――怖がっているものの事を」  
「……私が、逃げてるって話、ですか」  
「そう……、あの話を、このまま有耶無耶にしてはいけないと、思ったんです。  
 風浦さん。貴女が避けているソレは、いずれ―――」  
 
「わかってます」  
 
いずれ貴女を、酷く傷つける事になる。  
続く言葉は、強く放たれた可符香の声に断ち切られた。  
「わかってます…先生。もう、その話には――決着がついちゃってます」  
望は驚いて、眼鏡の奥の瞳を見開いた。  
可符香はもう、笑顔が歪むのを隠そうともしなかった。  
瞳は潤み、唇は震えて――今にも、泣き出しそうだ。  
「私もう、あの時先生の言葉を否定できなかったから……。  
 だから、もう――私先生に、言い負かされちゃってるんです」  
糸色医院での葛藤の末に、彼女は自らの故障を認めていた。  
だがそれも、こうして改めて望に言われるまで、ハッキリとは認められなかった。  
こうして望を前にして、会話を交わし、心の柔らかい部分に触れられて。  
彼女はますます言い逃れが出来ない状況に追いやられていた。  
どうにか笑顔を崩さずにすむのなら、それにこした事はなかったけれど、どうやらもう無理そうだ。  
 
「私は――きっと、怖がりです…人よりずっと、怖がりです。  
 必死になって嫌なモノを見ないフリして……そうしないと、駄目になっちゃうから」  
 
子供の彼女にはあまりに凄惨な、父の亡骸を前にして。  
いっその事その時、母親のように壊れてしまえたら、楽だったかもしれない。  
けれど彼女には、戻りたい日常があった。  
 
毎日一緒に居てくれる、楽しい物語を聞かせてくれる、幼馴染との日常が。  
 
おかしくなっていく日常の中で、彼との時間だけが、彼女に残された幸福だった。  
耐えなければいけない。自分までおかしくなってはいけない。  
自分は不幸などではない。不幸な事など何一つあるものか。  
降りかかる数々の不幸に、幼い少女が耐える為には、そんな歪な自己暗示くらいしかなかった。  
その無理矢理さに薄々気付いていたけれど、それでも――直視さえしなければ、彼女の心は耐えられた。  
彼の許から、ずっと遠くに引っ越す事になった時は、さすがに挫けてしまいそうだったけれど、  
最後に過ごした彼との優しい思い出は、再会を果たすその時まで、彼女を支え続けた。  
自分流の世渡りのコツを覚えて、どんどん生きるのが楽になっていった。  
軋んでいた心は硬化していって、痛みも麻痺し始めていた。  
 
そんな中で出会った、糸色望という、くだらない男。  
そんなくだらないと思っていた男に――自分は今、どうしようもなく恋している。  
 
そしてその想い人は、今――――  
 
 
「認めます…私、弱いです。駄目なんです…認めます」  
 
こんなにも弱い自分を、暴き出しておきながら。  
 
「認めますから……、だから―――」  
 
 
―――いなく、ならないで下さい―――   
 
 
気が付けば、もう自分はとっくに泣き出していて、いつの間にか暖かな両腕に抱きしめられていた。  
ポンポン、と。まるで母親が子供をあやすように、可符香の背中を叩く望。  
抱き締められる安心感が、よりいっそう彼女の涙腺を緩ませたのか、  
可符香は肩を震わせて、何も言えなくなるほどに泣いている。  
望は思っていたよりも随分と小さな少女の身体を、より強く抱きしめた。  
「――それで、いいんです」  
穏やかな声。  
「泣いたって、弱くたっていいじゃないですか。私なんか、毎日泣いてる気がします」  
しゃっくり上げる可符香の髪をゆっくりと撫でながら、望はそっと言い聞かせるように言葉を続ける。  
「いつか泣き止んで――その先に笑顔があるのなら。  
 泣く事も悪い事じゃありませんよ、可符香さん」  
「――ッお、お願…しま…ッ、わた、私、が…ッ…」  
   
―――私が泣き止むまでは、せめて、一緒に居てください。  
 
そう言おうとするも、上手く呼吸が出来なくて、言葉にならない。  
日頃泣き慣れない所為か、息継ぎままならないほどだ。  
「大丈夫です、大丈夫ですよ」  
優しく背中や髪を撫でられると、少しだけ呼吸が楽になった。  
それでも涙はあとからあとから湧き上がってきて、絶える事なく彼女の頬を濡らし続ける。  
 
「大丈夫――ずっと、一緒に居ますから」  
 
その言葉が真実だと、今だけは心から信じていたい。  
可符香は痛い程に望の身体を抱き締め返した。  
このまま彼が、どこにも行ってしまわないようにと。  
 
 
どのくらい咽び泣いていただろうか。  
いつしか彼女の嗚咽は小さくなっていき、乱れた呼吸も落ち着きを取り戻していた。  
彼女が泣いている間、望はずっとその髪を優しく撫で続けた。  
「可符香さん」  
可符香を抱きしめる望の腕から、ほんの少しだけ力が抜ける。  
涙や鼻水でグチャグチャになった顔を上げて望を仰ぎ見ると、彼は予想以上に優しい表情をしていた。  
彼はやおら可符香から身体を放す。  
彼女がずっと顔を押し付けていた望の胸元は、涙と――少々不潔ではあるが、鼻水で濡れている。  
「っぇく――ごめんなさい、先生」  
可符香はそれに気付くと、まだ少し落ち着かない呼吸の隙間をぬう様に謝って、  
ポケットからハンカチを取り出し、望の胸元を拭おうとした。  
「私より先に、まず自分の顔をお拭きなさい」  
延ばしたハンカチを持った手を掴まれて、自分の顔の前まで導かれると、可符香はそれに逆らわず、乱雑に自分の顔を拭った。  
彼女が顔を拭いている間に、望は自前のハンカチで胸元を拭う。  
涙だけならともかく、さすがに鼻水を付けたままというのは気分の良いものではない。  
まぁそれが愛しい少女のものとなれば、汚らしいという気持ちは不思議としないのではあるが。  
「可符香さん」  
お互いにハンカチを仕舞い終えると、望はポンポンと、可符香側の空いたベッド脇を軽く叩いて見せた。  
「ずっと立ったままではなんでしょう?座りませんか」  
ずび、と鼻を啜りながら、コクリと頷く可符香。  
彼女がベッドに体重を掛けると、僅かにベッドが軋む音がする。  
望は彼女が窮屈な思いをしないよう、自分の座る位置を調整しながら、彼女の顔をのぞき見た。  
目尻と鼻を赤くして、目はまだ潤んでいる。  
そんな自分の顔を見られるのが気まずいのか、可符香は望の視線に気付くと不満気に眉根を寄せて、すぐに俯いてしまった。  
その様子が無性に愛らしく思えて、望は思わず可符香の肩を抱き寄せた。  
「――何だか先生、気安いです」  
「調子に乗ってますか?」  
「乗ってます。凄く」  
「嫌、ですか?」  
可符香は答える代わりに、ゆっくりと望の身体に体重を預けた。  
 
二人はしばらく、そのままお互いに触れ合ったまま、何も語らなかった。  
次第に可符香の瞼が、うつろうつろと降りてくる。  
「眠いですか?」  
望の声にハッとなり、慌てて遠くなりかけた意識を戻す可符香。  
「だ、大丈夫です」  
「無理しなくていいですよ」  
そう言うと望は、ゆっくりと可符香の身体を横たわらせて、自分もベッドに身体を預けた。  
「いっそ一緒に寝ちゃいましょうか」  
「女の子に『一緒に寝よう』なんて、先生破廉恥なんですね」  
「破廉恥で結構――ですがまぁ、今は本当に……一緒に寝るだけで十分です」  
お互いに至近距離で顔をつき合わせて、二人はクスクスと笑い合った。  
まるで猫が甘える時のように、望の胸に顔を寄せる可符香。  
望もまた、それを受け入れるように彼女の身体を抱きしめた。  
「ああ――こうしてると、何だかとても落ち着きます……」  
望の呟きに、それはこちらの台詞だと胸中で呟きながら、可符香はよりいっそう望に身体をすり寄せる。  
 
「そういえば」  
「はい?」  
「いえね、どうでも良い話なんですけど……貴女、こんな時間にどうやって学校に入って来たんです?」  
「……本当にどうでもいいですね」  
「答えたくなければかまいませんよ」  
「――入り口は一つとは限らないんですよ?先生」  
可符香は悪戯っぽく笑って、こしょこしょと望に耳打ちした。  
「なるほど、あそこですか。私も使わせてもらおうかなぁ」  
「先生宿直室暮らしなんだから、そんなの必要ないじゃないですか――ん?」  
ふと可符香の中で、何かが引っかかった。  
「そういえば先生、最初並木道で倒れてた時……どうしてあんな時間に学校の外に居たんです?」  
「ああ、あれは……お恥ずかしながら、朝帰りってやつですよ。  
 久しぶりに一人で飲みに行ったんですが、気付いたらゴミ捨て場で寝てまして……」  
「先生でもそういう事あるんですね」  
駄目な大人、とからかうように可符香が言うと、望は困ったような笑みを浮かべた。  
 
 
次第に可符香の口数は少なくなっていき、眠気が彼女の意識を遠くしていく。  
――眠りたくない。その一心で必死に瞼をこじ開けるのだが、それも限界を迎えていた。  
そんな可符香の様子に気付いた望は、苦笑しながら可符香の髪を撫で付ける。  
「寝てもいいんですよ」  
「……でも……」  
寝て起きた時、望はもう――きっと自分の傍には居ない。  
「――大丈夫ですよ」  
そんな可符香の心の声が聞こえたかのように、望は言った。  
 
「ずっと一緒ですから」  
 
その声があまりに優しくて、可符香はまた泣き出しそうになった。  
「――先生」  
「うん?」  
望の着物を掴む可符香の手に、少しだけ力がこもる。  
「……言い忘れた事が、ありました……」  
眠い。とても眠い。  
もう殆ど閉じかけた瞼の隙間から、必死に彼の顔を見ようとするのだが、  
彼女の意図に反して、視界はどんどん閉じていく。  
(まだ……まだ私、大事なこと――伝えてないのに)  
眠ってはいけない。どうしても、言わなければならない事がある。  
だというのに、意識はどんどん霞がかかるように、白く――  
 
 
「私も―――先生の事―――」  
 
 
プツン、と。何かの電源が切れるように。  
彼女の意識は途切れた。  
 
「―――おやすみなさい、可符香さん」  
意識のない彼女に、それが聞こえたかどうかはわからない。  
だが、自らの腕の中で眠る少女は、その言葉に僅かに瞼を震わせた。  
 
 
この声が届けばいい――心底そう願いながら、望もゆっくりと瞳を閉じた。  
 
 
柔らかな体温に包まれて。  
彼女はその夜、とても幸せな夢を見た。  
 

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