◇ ◆ ◇ ◆  
 
望はせり上がってくる激痛に、堪らず目を覚ました。  
「―――……ッ!!」  
悲鳴を上げそうになるのを必死に堪える。愛しい少女の。優しい眠りを妨げぬように。  
望は痛みに身体を震わせながら、可符香の身体を抱きしめる事でそれを凌いだ。  
穏やかな彼女の呼吸が、少しずつ望の苦痛を緩和していく。  
「――――は、ぁ」  
苦痛の波も過ぎ去って、涙目になりながら、腕の中の少女の顔を覗き込む。  
望の異変には気付かなかったようで、穏やかな表情のまま、静かに寝息をたてている。  
望は愛おしげに、小さな微笑を浮かべた寝顔を撫でた。  
そっと目尻に溜まった涙を指で拭うと、彼女を起こさないように細心の注意を払いながら身体を起こす。  
彼に許された時間は、もう大分オーバーしている。  
今頃彼の兄はやきもきしながら、弟からの何らかの連絡を待っているに違いない。  
命の様子を想像して失笑しながら、彼はゆっくりとベッドから降りようとした。  
と。自らの着物を掴む小さな掌の感触に、思わず動きが止まる。  
望は小さく苦笑しながら、そっとその手に自らの掌を重ねた。  
「――すみません、可符香さん――」  
 
 
愛してます。  
 
 
小さく呟き、そっとその手を解くと。  
彼は覚束ない足取りで、保健室を後にした。  
 
後にはただ、独り眠る少女だけが残された。  
 
◇ ◆ ◇ ◆  
 
寒い。  
とても寒い。  
さっきまで、とても暖かなものに包まれていたはずなのに、今は堪らなく寒かった。  
それがとても寂しい事に思えて、彼女は喪失感の中で目を覚ます。  
   
もうベッドには、愛しき人の残り香すら、残っては居なかった。  
 
「――せんせ……?」  
迷子の幼子のような表情で、ずっと一緒に居るはずだった彼を呼ぶ。  
返事はない。  
「先生……糸色先生……」  
うわ言のように「先生」と繰り返しながら、彼女は覚束ない足取りで、保健室を後にした。  
窓から差し込む日の光が、誰も居なくなった室内を、明るく照らしていた。  
 
彼女は迷子のように学校を彷徨う。  
時刻は早朝。まだ、部活動のある生徒すら登校してきていない。  
 
教室。誰も居ない。  
宿直室。そっと中を窺うと、交と小森が寄り添って眠っていた。  
職員室。教職員の何人かは来ていたものの、彼女の求める彼の姿はない。  
果ては男子トイレまで赴くも、彼女はとうとう、学校内に彼の姿を見つける事は出来なかった。  
 
 
先生はどこ?  
その答えを知りながら、彼女は彼を探す足を止められない。  
気が付けば彼女は校門を越えて、いつも通るあの並木道を歩いていた。  
「――あ」  
彼女の視界に、一本の大樹が映りこむ。  
今は桃色ではなく紅に色づいている、大天使様の木の根元。  
そこに眠っている、一匹の名も無き犬の事を、彼女は忘れていなかった。  
「お祈り……しなくちゃ」  
彼女は小さく盛り上がった土の前に跪く。  
あの時逃げ出した、悲しい命の結末に、真正面から向き直る。  
可符香はそっと目を閉じて、しばらくその場を動かなかった。  
本来ならばあの時、彼と二人で祈るはずだった冥福を、心から願う。  
そこに。  
 
「――おはよう、杏ちゃん」  
風が、紅葉と共に懐かしい匂いを運んでくる。  
背後からかかる声に振り向くと、そこには本を携えて佇む、久藤の姿があった。  
「准君」  
「何をしてるの?」  
久藤はしゃがみ込んだままの可符香のもとまで歩み寄る。  
「……お祈りをしてたの」  
事の次第を話すと、久藤は黙って頷いた。可符香に倣って静かに目を閉じ、黙祷する。  
「――准君。先生に合わなかった?」  
自然と、その問いが唇を滑り出ていた。  
ああ、今朝そこで会ったよ――何ていう、軽い返事をほんの少しだけ期待して。  
日常の象徴である彼の口から、元気な望の姿を見たと聞けたなら、彼女は心から安心できただろう。  
だが、それがありえない事という事も、彼女は知っている。  
「…………」  
久藤は答えなかった。  
ただ静かに目を閉じて、すっかり冷たくなった風に、髪を撫でられるままにしている。  
「……うん、ごめんね」  
くだらない質問をしたと、申し訳無さそうにする可符香に、久藤はそっと首を左右に振った。  
「謝る事ないよ」  
「……私、何となくだけど知ってるの――先生が今、本当はどこにいるのか」  
 
   
眠る可符香の髪を撫でて、そっと寝床を出て行く望。  
愛しい少女に自分の苦しむ姿を見せぬよう、彼はそっと保健室を後にする。  
その足で、兄の下に向おうとして―――  
 
耐えかねたように、彼は地に膝を付く。  
 
 
そんなイメージが可符香の脳裏を過ぎる。まるで年老いた猫のようだと、彼女は思った。  
「知っているなら、行けばいいんじゃないかな。先生の所へ」  
「うん――うん。そう…だけど」  
彼が自ら消えた理由を深読みしてしまって、可符香の足は、その場所へ動いてはくれなかった。  
可符香は口を閉ざし、俯いたまま黙して語らない。  
二人の間に、沈黙が降りた。  
カサカサと、地面に積もった枯葉が奏でる音だけが、静寂を満たす。  
先に口を開いたのは、可符香の方だった。  
「ねぇ准君」  
「何?杏ちゃん」  
 
「私ね――先生が好き」  
 
顔を上げて、久藤の目を直視しながら、可符香は言った。  
久藤は一瞬、ほんの僅かに悲しげに笑って――すぐにいつもの優しい微笑に戻る。  
「そう……良かったね。本当に」  
そう言う久藤の声は、本当に嬉しそうだった。  
「最初はね、好きじゃなかった。  
 ――ううん…きっと、嫌いだった。一目惚れなんて嘘だった」  
想いが、言葉になって溢れ出す。  
こんな事を彼に言っても、迷惑なだけだとわかってはいたけれど。  
彼女の口は止まる事無く、胸中に渦巻く想いを吐き出し続ける。  
それは愛の告白であり、懺悔でもあった。  
 
「くだらない人だと思ってたのに……いつの間にか本当に好きになってたんだって、やっとわかった。  
 ――そしたらね、先生も……私のこと好きだって、言ってくれて……」  
久藤はただ、静かに可符香の言葉に耳を傾ける。  
深く深く頷きながら、泣き出しそうな彼女の声を聞いている。  
「嬉しかった――抱きしめられて、思いっきり甘えて……幸せだった。  
 先生は暖かくて……こんな私でも、優しくなれる気がしたの」  
傍に体温を感じるだけで、波打つ気持ちが静かになった。  
日頃あんなに落ち着きの無い人なのに、あんなにも穏やかな顔で笑うとは思わなかった。  
たった一晩の触れ合いで、これほど愛しさが込み上げるなんて、思わなかった。  
「なのに――なのに、幸せなのに」  
 
 
嘘モノじゃない。勘違いじゃない。自己暗示でもない。  
本当の幸せに包まれて、とても優しくなれた。  
なのに。  
 
 
「先生……、居なく、なっちゃう――」  
 
 
限界まで瞳に溜まっていた涙が、とうとう溢れ出し、彼女の頬を濡らした。  
自分がこんなに泣き虫だと――それを気付かせてくれたのもまた、望だった。  
ぼろぼろと涙を零す可符香の肩に、久藤はそっと手を回した。  
 
「それは――悲しい事だね……」  
それはこの上なく、悲しい事。とても不幸な事だ。  
 
「―――うぁ……ッ、わぁぁああ……ッ!」  
可符香はもう声すら抑えられなくなって、子供のように泣きじゃくりながら久藤の胸に縋りついた。  
 
彼女は深く傷ついている。どうしようもなく怯えている。  
愛しい人を失うという、悲しい現実に、  
逃げる事なく、言い訳を並べる事無く、真正面から向き合って。  
 
(そっか……先生、上手くやれたんですね……)  
望がそうしたように、縋りつく可符香の髪を撫でながら、久藤は胸中で呟いた。  
彼女の嘆く姿はとても痛ましくて、久藤の心も酷く痛む。  
 
けれどその涙の先に―――いつかまた、桜の下で微笑む彼女の姿が見える気がした。  
 
大丈夫。  
彼女はもう、大丈夫だ。  
逃げる事無く、悲しみに正面から向き合って、こうして涙を流せるのだから。  
久藤は心から望に感謝して、聳え立つ大樹の先にある空を見上げた。  
まるでそこに、望の姿があるように。  
 
◇ ◆ ◇ ◆  
 
今はまだ、貴方に会えるかもしれない。  
もしも貴方に出会えても、笑おうとして泣くだろう。  
それでも会えるものならば、会って貴方に伝えたい。  
 
あの夜伝えられなかった、「好きだ」というこの気持ち。  
 
◇ ◆ ◇ ◆  
 
 
〜エピローグ〜  
 
 
大勢の足音が、不規則に入り乱れて廊下を反響する。  
各々皆、汗を額に張り付かせながら、我先にと駆けていく。  
 
2のへの生徒たちは、今朝のHRで初めて担任教師の病を知る事となった。  
智恵からその話を聞いた生徒たちは誰からともなく席を立ち、教室を飛び出した。  
望の病室は、もうすぐそこである。  
先頭をきっていた千里はすぐさまドアに飛びつき、  
「――先生!!」  
悲鳴に近い声を上げながら、勢いよく開け放った。  
   
糸色望は、静かに瞳を閉じて、そこに横たわっていた。  
 
弟の眠るベッドの傍に立ち尽くしていた命は、ぞろぞろと病室に入って来る生徒達を驚いたように見つめた。  
「あなたたち、授業は―――」  
そんな無粋な事を言いそうになって、すぐに口を閉ざす。  
そう、彼女達にとってそんなものよりも――弟の存在の方が大切だったのだ。  
「……先生……」  
誰かが、呆然と呟いた。  
   
望はそれに答えない。  
青白い顔で、深く静かに眠っている。  
 
皆、言葉を失ったように口を噤んだ。  
カーテンの揺れる布ずれの音だけが、無言の病室を満たす。  
 
 
 
―――その無音を打ち破ったのは、マリアの声高な掛け声だった。  
 
 
 
「センセー、おっきろー!!」  
ッどずんば!  
生徒達の隙間をぬうように駆けてきたマリアは、そのままの勢いで望の胸の上に飛び乗った。  
 
「ッうっぶぇ!」  
 
望は途端に目を見開き、喉の奥から潰れた蛙を思わせる奇声を発して痙攣した。  
「ああちょっと!」  
慌てたような命の声など完璧にスルーして、マリアは何度も何度も望の身体の上で跳ねた。  
「起きろ、起きろ、おっきろ〜!」  
 
「ぶ、ぅぶぇ…!」  
バタバタとのたうつ望だが、軽い少女一人すら跳ね除けられないほど非力な為、成すがまま悶絶するしかない。  
さすがに見かねて、助け舟を出す千里。  
「マ太郎。もう起きてるから、降りなさい」  
「でも、なんかグッタリしてるヨ」  
「それは貴女の所為」  
どうやらワザとではなく、本気で気付いていなかったようだ。  
千里がマリアをベッドから降ろすと、望は勢いよく咽込んだ。  
「ひ、酷いじゃないですか…ッ!病人なんですよ!?」  
「元気そうじゃないですか」  
涙目で訴えるが、即座に奈美からの普通の突っ込みが入る。  
「いや…、わりとそうでもないんだけど」  
生徒達のテンションに気圧されたように、おずおずと命が言った。  
「ただの胃炎といっても、放っておけば十分危険なんだから」  
 
急性外因性胃炎。  
暴飲暴食や、刺激物、アルコール類を飲みすぎた時などに起こる胃炎である。  
初期症状は上腹部の痛み、胃の不快感。酷くなると嘔吐、吐血などを引き起こす。  
 
「そうですよ。血だって吐いたんですからね」  
「――何でだろ。確かに心配な話なのに、本人が言っちゃうと途端に心配する気が失せるのよね」  
あびるの呟きに、芽留は『かわいそぶりっこはいつものことだろ』とメールに打ち込み、それをあえて望の携帯に送信した。  
病院内ではくれぐれも携帯電話の電源はお切りください。  
「体調管理くらい、きっちりして下さい。大人なんだから」  
「ぜ…絶望した。わりと重病なのに少しも心配してくれない生徒達に絶望した…」  
望は拗ねたように布団の中に潜り込み、スンスンと泣き出した。  
「ふんだ。もう帰ってください、私は病人なんですから」  
「どうせカワイソぶるならカーテンの裏とかで、  
『何だよ〜病人なんだぞぉ、はうはうはう〜!』くらいやればいいんですよ、先生」  
「それは先生違いです!」  
邪な希望を目を輝かせて言う藤吉に、布団から頭だけ出してツッコむ望。  
 
 
―――そんな喧騒を、ドアの向こうから、笑顔で見つめている少女が一人。  
 
 
「――あ」  
望はその少女の姿を見止めると、顔を引き攣らせて硬直した。  
それを胃の痛みによるものだと勘違いした命は、コホンと一つ咳払いして、  
「申し訳ないが、そろそろ休ませてやってくれないか?  
 まぁ自業自得とはいえ、患者である事にかわりはないからね」  
ワイワイと騒ぐ生徒達に、帰るよう促がした。  
「貴女も」  
「…ちぇ」  
いつの間にかベッドの下に潜り込んでいたまといにも釘を刺しておく。  
生徒達はしばらく名残惜しそうにしていたが、来た時と同じような騒がしさで病室を後にした。  
あの様子では、またぞろ日を改めて来るだろうと、その時の事を考えて命はうんざりと溜息を吐いた。  
「絶命先生?騒がしくしないから、あとちょっとだけお話させてくれません?」  
「「ひあぁッ!?」」  
気配もさせず病室に入り込んできた可符香の声に、ステレオで悲鳴を上げる男が二人。  
あわあわと布団の中で冷や汗をかく望に、可符香は眩しいばかりの笑顔を向けた。二度目の悲鳴が上がる。  
可符香は今度は命に向き直り、優しい声で問いかけた。  
「ね、いいでしょう?」  
声は優しいというのに、その質問に拒否権がない事を、命はひしひしと感じていた。  
「い、いいですが――それより貴女いつ入って来たんですか。  
 あと、私の名前は糸色命ですと何度言えば」  
「じゃ、席を外してください。二人で話したい事があるんです」  
命の抗議にも耳を貸さず、可符香は有無を言わさぬ態度で命を部屋の外へと押し出した。  
「あ、ちょ、ま」  
 
バタン。  
命が何か言おうとしたが、かまわずに扉を閉めてその声を遮断する。  
扉の閉まる音が何故か冷たく聞こえて、望は身震いした。  
「あ、あの…」  
恐々声を掛ける。その背が、何かオーラを纏っているような気がしてならない。  
「先生?お話、しましょうか」  
 
ゆっくりと振り返る可符香は、この上ない程の笑顔だった。  
 
カーテンの裏で「はうはう」と嘆きたい衝動に駆られつつ、望はコクコクと頷いた。  
 
 
◇ ◆ ◇ ◆  
 
「さ、最初に言っておきますが、私は一切嘘なんて吐いてませんからね!」  
「じゃあどうして怯えているんですか?」  
可符香はあえてゆっくりとした動作で、ベッド脇に手を付いた。  
布団で顔の半分を隠している望を、上から覗き込むように見下ろす。  
「かかか、可符香さんがオーラで脅迫してるんでしょう!?」  
「やだなぁ脅しだなんて。私が怒ってるわけないじゃないですかー」  
今まで見たことのない、底知れぬ笑顔で見下ろされて、望は溜まらず悲鳴を上げながら身を竦ませた。  
「そうですよねー。先生、一度も不治の病とは言ってませんでしたもんねー。  
 エヘヘ、ですよねぇ――ぜーんぶ私の勘違いだったんですねアハハハハハハハハ」  
「あうあうあう……」  
空虚に笑う可符香の目は、少しも笑っていない。  
いっそ布団の中に潜り込んでしまいたいが、何故か視線に射抜かれたように身動きが取れないでいた。  
「もしかして最初倒れた時のアレは、胃炎ですらなくて二日酔いだったのかもしれませんねー」  
「そ…そうかもしれません、ねぇ…?」  
 
そう……思い返せば、誰も望が「不治の病」などとは言っていない。  
望が倒れた後の命との会話も、ただ妙に思わせぶりだっただけで、望の死を匂わせるような事は何一つ言っていなかった。  
命に望の容態を聞いた時も、彼はただ「胃をやられている」と答えただけだ。  
可符香はそれを聞いて、てっきり胃ガンか何かだと思い込んでいた。  
別れ際の言葉は「もう『しばらく』会えなくなるだろうから」とも受け取れる。  
 
「でも……でも先生?  
 さすがにあの夜の態度は――思わせぶりすぎじゃないんですか?」  
言いながら、可符香はずいと顔を寄せて、望の目を真っ直ぐに見つめた。  
「ひぃッ」  
睨まれているわけでもないのに、望はその目に底知れぬ恐怖を感じて、思わず悲鳴が漏れてしまう。  
 
今までの事例は、完全に思い込みだったと認められる。  
けれどあの夜の望の態度は、どうしても自分を謀ろうとしたようにしか思えない。  
 
「お、お言葉ですが可符香さん……よく思い出して下さい。  
 あの時だって私は、一切嘘なんて言っていませんよ」  
「そうですね――でも、わざわざそれを口に出して説明するのが、既に不自然なんですよ」  
可符香が「望が死ぬ」と勘違いしている事を知らなかったというなら、  
望はただキョトンとして、「何の事ですか」とでも聞いてくるだけだろう。  
弁解するという事は、本人にやましい事があったという何よりの証拠だ。  
「うぅ……」  
今更ながら墓穴を掘ってしまった事を自覚して、望は喉の奥から呻きを上げた。  
 
 
――ネタばらしをすると、望自身は彼女の勘違いに気付いていなかった。  
おそらく彼――久藤准の口添えがなければ、泣きじゃくる可符香に「心配しなくても、ただの胃炎ですよ」とでも言っていたかもしれない。  
図書室で倒れた後、実は少し、久藤と打ち合わせをしたのだ。  
どうやら久藤も、望が重病を患っていると勘違いしていたようで、望がただの胃炎だと打ち明けると、久藤は逆にそれを逆手に取ろうと考えた。  
「サナトリウム文学ですよ、先生」  
どうやら可符香も自分と同じ勘違いをしているらしいと久藤に教えられ、そこで望は初めて可符香の心境を知るに至った。  
そこで、心は痛むだろうが、最後まで彼女を勘違いさせたままにしてはどうかと、久藤は提案した。  
可符香が「大切な人の死」という、この上ない不幸と真っ直ぐに向き合えたなら、  
その時こそ彼女の心は、今よりずっと強くなれるだろう。  
いわゆるショック療法というやつである。  
その後、久藤が並木道で可符香に出会う所まで、彼の筋書き通りだったりする。  
 
 
その全てを語ってしまえば、おそらく彼女の笑顔の矛先は久藤にも向くだろう。  
さすがにそれは忍びなく、望はただ耐え忍ぶしかなかった。  
「な――何を言われても、私は悪くなんてありませんッ」  
必死に勇気を振り絞り――そのわりに弱弱しい声ではあったが――訴えると、可符香は少し間を置いて、ゆっくりと望から身体を放した。  
彼女の纏う雰囲気が、幾分柔らかなものになったように、望には見えた。  
プレッシャーから開放されて、ほっと息を吐きながら身体を起こす。  
「そうですね……確かに、先生は悪くなんてない」  
そう呟く可符香は、さっきまでとはうって変わって、何だか拗ねたように不満顔になっている  
 
「―――心配、しましたか?」  
「はい。とっても」  
反射的に謝ってしまいそうになる。が、悪くないと言い張った手前それも憚られた。  
望は困った末に――そっと可符香の髪を撫でた。  
「言ったじゃないですか、ずっと一緒ですよって」  
可符香は少しの間、じっと撫でられるがままにしていたが、やがてクシャリと表情を歪ませた。  
「はい……はい。先生は――嘘、つきませんでした」  
嬉しいと。勘違いで良かったと、今更ながら思い直して。  
可符香はまた泣き出しそうな自分の顔を見られないよう、望に抱きついた。  
望は少し驚いたが、すぐにその背中に手を回して抱き締め返す。  
 
「先生、私、言いそびれた事があったんです」  
「何ですか?」  
「私も好きですよ」  
まるで望の口調を真似るように、彼女は望の耳元で囁いた。  
その吐息がくすぐったかったのか、望の唇からクスクスと笑みが零れた。  
「あれ、もしかして私、返事貰ってなかったんでしたっけ?」  
「そうです。ですから、今まで先生は片想いだったんですよ」  
「うわ、それは……つまり私は、好かれてもいない相手にあれだけの事を?」  
「んー、強ち…そうとも言えませんけどね」  
一目惚れではなかったものの、きっと自分はもっと以前から――彼の事が、好きだったのだろうから。  
あえてそれは言葉にせず、可符香はそっと望から身体を放した。  
首の後ろに回していた手を滑らせて、望の両頬に添える。  
 
「じゃあ、両想いになった記念に」  
 
可符香は彼の薄い唇に、そっと口づけた。  
 
望は一瞬、驚いたように目を見開くが――すぐに目を閉じて、間近に感じる少女の香りに酔いしれる。  
羽のように軽い口づけ。それだけでも、お互いの体温を感じるには十分だった。  
 
 
 
カーテンの隙間から見える外の景色は、少しずつ冬の気配を強くしていく。  
やがて雪が降り、景色を白く染めるだろう。  
身を切るような寒さを経て、春が来て――雪解けがぬかるみを作り出す。  
その泥に足を取られて、転ぶ事もある。どこか擦り剥いてしまう事だってあるだろう。  
けれど今の彼女には、その痛みに耐えうるだけの強さがある。  
一人で立ち上がれなくても、そっとその手を取ってくれる人がいる。  
それはこの上なく幸せな事だ。  
この幸せがあるならば、これからの一切の痛みにも、耐えていけるような気がした。  
 
 
 
―――雪どけを越えれば、今度は真昼に降る雪の季節がやってくる。  
   日の光を浴びて輝く、桜吹雪の降る季節が―――  
 
 
 
―真昼が雪― 完。  
 
 

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