この恋が始まるには、ほんの少しの希望が必要です。  
 
 春――四月。  
 桃色の花弁が舞い散る並木道を、軽やかな足取りで進む。  
 朝日を受けて白く輝く花弁は、まるで真昼に降る雪のようだ。  
 眩しそうに目を細めながら空を仰ぐ少女は、朗らかな笑みを浮かべていた。  
 何という事のない朝の風景を、この上ない幸せと感じているように。  
 確かに少女は今、この上なく幸せだった。  
 彼女のトレードマークである髪留めが、日差しを受けて輝いている。  
 同様に、彼女の大きく丸い瞳も。  
「あ―――」  
 一際強く春風が通り過ぎ、少し短めのスカートを翻らせる。  
 首筋を撫ぜる風と花弁の感触に、少女は擽ったそうに首を竦ませた。  
 思わず目を閉じる。  
「ふふ」  
 止めていた歩を進めようと、両目を開き、顔を上げた。  
 その目に―――宙に浮かぶ男が映る。  
「…え?」  
 宙に浮いているように見えたのは一瞬の事。  
 桃色ガブリエル。  
 彼女がいつかそう名付けた桜の木の下に、その男は吊り下がっていた。  
 男と木の枝を繋ぐ縄が、ギシギシと音を立てる。  
 その姿に。  
 
「―――――い」  
 嫌、と。  
 声は出ず、ただ唇がその呟きをかたどった。  
 笑顔が、凍りつく。  
   
 ぶら下がる男。縄の軋む音。  
 いつか見た映像が重なって、彼女の立つ現実が崩れる音がする。  
 
 見上げるしかなかった、幼子の自分。引き攣る頬。剥がれない笑顔。  
 
 ―――いや、それはもう実際にあってしまった事だから、  
 思い出す事自体は問題ではないのだ。  
 問題なのは、彼女はその記憶を僅かでも「悪いモノ」として思い出した。  
 一瞬でも湧き上がったネガティブな感情。  
 それを認めてはいけない。認めては、彼女の全てが駄目になる。  
 
 
「―――いけません!!」  
 男に対して、そして何より自分に対して叫びながら、地面を蹴る。  
 
 ―――そう。あれは不幸な事などではなかったのだ。  
 内心で呟く。泣き叫ぶ幼子の自分に、言い聞かせるように。  
 
 思い切り男の足に飛び掛ると、頭上から奇妙な呻きが降ってくる。  
「命を粗末にしてはいけません!」  
「○×△◇∀♀%※!!」  
 無我夢中でしがみ付く。ギシリと、男と木を繋ぐ縄が悲鳴を上げた。  
 やがて縄は二人分の体重に耐え切れず引き千切れ、  
 二人はそのまま地面に転がった。  
 慌てて起き上がり顔を上げると、男は意識が戻ったのか、  
 激しく咽込んでいる。  
 喘息のように荒く息を付きながら勢い良く上げた顔は、  
 控えめに言っても美しい部類に入るであろう。  
 つり上がった目には涙が浮かんでおり、  
 本人は睨んでいるつもりでも迫力がない。  
 男は狭まった気管から、無理矢理掠れた声を張り上げた。  
「死んだらどーする!!」  
「え?」  
 まさかの抗議に、きょとんと目を丸くする。  
 さっきまで間違いなく首を吊っていた人間には、  
 あまりに似つかわしくない台詞である。  
「あ」  
 すぐにその事に気付いたのか、男は気まずげに少女から視線を外した。  
 かと思えば、妙に芝居がかった口調で「また死ねなかった」と呟き、  
 その責任を彼女に押し付けるかのような発言をする。  
(あ、そっか…この人)  
「死ぬ気、なかったんですよね?」  
「死ぬ気まんまんで―――」  
「ですよね!」  
 まだ何か言おうとする男の言葉を遮って、彼女はすっくと立ち上がった。  
 
 そうしてこの世界の輝かしさを、身振り手振りも交えつつ語りながら、  
 彼女は胸の奥に痞える、妙な感情を感じていた。  
 それは、彼女が認めたくない類の感情。  
 
 ―――何でこんなくだらない人に、驚かされなくちゃいけないんだろ―――  
 
 物事をネガティブにしかとれない男。  
 物事を何でもポジティブにとらなければ『ならない』少女。  
   
 出会ってはいけない二人が出会ったのは、今から少し前の話。  
 
 
 秋――神無月。  
 可符香はいつもの登校路を、軽い足取りで歩いていた。  
 色とりどりに染まった葉が舞う並木道は、美しく彼女の視界を彩る。  
「小さい秋♪小さい秋♪小さい秋、見つけ―――」  
 調子外れな鼻歌を口ずさみながら歩いていた可符香だったが、  
 不意にその足を止めた。鼻歌と一緒に、落ち葉を踏みしめる音も止まる。  
 残念ながら、彼女が見つけたのは小さい秋ではなかったようである。  
「小さ…くないけど、糸色先生みーつけたー♪」  
「歌ってないで、少しは心配して下さい…」  
 敷き詰められた落ち葉の上にうつ伏せに倒れた望は、  
 能天気な歌声に弱弱しく訴えた。  
 小走りに駆け寄り、望の顔を覗き込むように、  
 膝を抱えてしゃがみ込む可符香。  
「今日も身長伸ばしてたんですか?熱心ですね」  
「二重に違います」  
 答えながら、伏せていた顔を上げようとする望だったが、  
 ふと戸惑ったように硬直した。  
「ん?」  
「あの…風浦さん。その姿勢で目の前に居られると困るのですが…」  
 言いながら、すぐに顔を伏せる望。  
 その指摘にようやく、彼の目前にスカートから覗く自分の下着が  
 晒されている事に気付いた。それでもあっけらかんとしたもので、  
 彼女は微笑みを絶やす事なく言ってのける。  
「やだなぁ、気にする事ないですよ。これは所謂、見せパンですから」  
「見せられるほうの身にもなってください!」  
「嫌なんですか?」  
「嫌じゃな――――いや、嫌です!」  
 うっかり本音を口走りそうになるも、  
 すんでの所で問題発言と気付き、自粛する事に成功。  
 可符香曰く見せパンをなるたけ見ないよう注意しつつ、  
 台詞の勢いに合わせるように身体を起こそうとした。  
 だが、今度は腹部に走る鋭い痛みに硬直し、  
 腕で半身を支えるような姿勢で居るのが精一杯だった。  
 眉間に皺を寄せ、腫れ物に触れるようにそっと下腹部を撫でる望。  
 
「んん?先生、もしかして体調が悪いんですか?」  
「もしかしなくても体調不良です…。  
 わかったならこれ以上疲れさせないで下さい」  
 グッタリとした様子で項垂れる望の顔は、いつもよりも更に青白い。  
 額には薄っすらと汗が滲み、髪がペッタリと顔に張り付いていた。  
 本当に辛そうなその様子に、さすがにこれ以上からかうのはやめにして、  
 そっと肩に手を掛ける可符香。  
「立てますか?無理そうなら、学校まで行って人を呼んで来ますけど」  
「いえ…もう、どうにか動けそうです」  
 可符香に肩を貸してもらいつつ、危なげながら立ち上がる。  
 それだけの動作で随分と疲れたのか、  
 大きく息を付く望の顔を仰ぎ見る可符香。  
「貧血か何かですか」  
「さぁ…何でしょうかね。最近ちょっと不摂生な生活だったもので」  
「駄目ですよ、交君も居るのに」  
「私ではなく交の心配ですか」  
「ちゃんとしたご飯を食べさせないのも、十分虐待になるんですよ?」  
「うっ…!ぜ、絶望した…。  
 ちょっとした放任すらネガレクト扱いする世間に絶望したッ!」  
「わかったら、ちゃんと食べて下さいね。  
 ほら、隣の女子大生に夕飯を分けてもらうとか」  
「あ、いいですね。それを機に距離を…、  
 って何で貴方がそんな事まで知っているんですか」  
 話しているうちに少しずつ体調も戻り、  
 礼を言いつつゆっくりと可符香から身体を離す望。  
「ありがとうございます。もう大丈夫です」  
「授業、できそうですか?」  
「この分なら大丈夫でしょう。ですが、些か遅刻してしまいましたね」  
 懐中時計を懐から取り出して時間を確認すると、  
 もうとっくにHRは始まってしまっていた。  
「すみません、遅刻させてしまって」  
「大丈夫です。先生が出席簿に丸を付けてくれればいいんですから」  
 人差し指と親指で丸の形を作りながら、悪戯っぽく笑う教え子に苦笑する。  
 小さな共犯関係に、  
 何とも言えないくすぐったさを感じながら、二人はゆっくりと歩き出した。  
 
 二人が出会った並木道は、すっかりその表情を秋の色彩に変えて、  
 歩み去る二人を見守るように見つめていた。  
 
 
「おはようございます」  
「先生!いい加減きっちり時間――――」  
 2のへの教室に足を踏み入れた瞬間、予想通り千里の罵声が飛んでくる。  
 が、威勢よく発した声は、何故か徐々に尻すぼみになっていった。  
「はい?」  
 とうとう黙ってしまった千里の視線を辿ると、  
 そこには望の後から教室に入ってきた可符香の姿。  
 見つめられている本人は、いつもの笑顔で小首を傾げたりしている。  
「あぁ…!」  
 別方向から、愕然としたかのような声。  
 声の主は、教卓に立つであろう愛しき教師を待っていた、まといであった。  
 まるで大事な物を奪われたかのように悲痛な顔で、  
 教卓から顔を覗かせている。  
「ど、どうしました?お二人とも。  
 私が遅刻してくるなんて珍しい事じゃ無いんですし、  
 今更そんなに驚かなくても」  
「やっぱり自覚あるんだ」  
 やる気なさそうに呟くあびる。相変わらず盛大に包帯だらけである。  
「…どうして可符香さんと先生が一緒に登校して来るんです…?」  
「それも、遅刻までして」  
 何やら目つきが怪しくなっている千里。彼女に続いて呟くまといも、  
 明らかに目が座っている。説明を求められる事は意外でも何でもない。  
 だが、この様子はいったいどういう事だろう。  
 内心で首を傾げつつも、求められたならば答えようと口を開く望。  
「あ、あぁ…それはですね」  
 
「やだなぁ。身体を寄せ合ったり、私が先生に下着を見られたりしただけで、  
 特に何もなかったから大丈夫よ」  
 
 望の言葉を遮るように。  
 人差し指を立てて、悪意など欠片も滲ませない声で可符香は言った。  
 その表情は満面の笑みである。  
 望は二の句が告げず、顔色を青ざめさせながら可符香に振り返る。  
「あ、あ、あ…貴方はまたそういう事を…!」  
「でも、本当の事ですし」  
「拾うポイントが悪すぎるんです!  
 だいたい下着は私が故意に見たわけじゃありません!」  
「別に無理矢理だなんて言ってないですよ。結果的には合意の上ですよね」  
「当たり前です、人聞きの悪い!」  
 口を開けば開くほど事態が悪化している事に気付かない哀れな教師に、  
 他のクラスメイト達は内心で同情するしかなかった。  
「先生」「先生」  
 静かなのに妙に凄みの効いた声が教室に響く。  
 吐息が耳朶に触れる程の距離で囁かれ、望はビクリと身を強張らせた。  
 右側に千里。左側にはまといが。  
 一人の声でも恐ろしいのに、ステレオで聞かせられては硬直するしかない。  
(というか、いつ近寄って来たんですか、二人とも…)  
 椅子の引く音や、教卓の動く音くらいしそうなものだが、  
 二人は今の今まで望にその気配を気取らせずに接近してきていた。  
 もちろん可符香に弁解するのに必死になっていたのもあるが。  
 さっきまで同情の目を向けていたクラスメイト達は、  
 いつの間にか教室外に非難している。  
 あろう事か、直前まで会話していたはずの可符香すら、  
 一瞬目を放した隙に消えていた。  
「あ、あ…あ」  
 理不尽だ。  
 そう訴えようと口を開くも、喉の奥で声が凍り付いて、言葉にならない。  
   
 その後の描写はとてもオンエアに耐えうるものではなかったので、  
 割愛させていただく。  
 
 
「貴方は私に、何か恨みでもあるんですか?」  
 あびるよろしく包帯だらけになった望は、放課後の保健室で憮然と呟いた。  
 もはや『赤い』としか言い表せない物体に成り果てた彼は、  
保健室に担ぎ込まれ手当てを受けた。  
 それからずっと眠り続け、目覚めた時には既に、  
 開いたカーテンから夕日が射し込み、室内を照らしている時分だった。  
 随分と長い事眠ってしまったらしい。  
 目を覚まして開口一発の恨み言に、  
 様子を見に来ていた可符香は笑顔で答える。  
「やだなぁ。可愛さ余ってなんとやら、ですよ」  
「やっぱり憎いんじゃないですか!」  
「冗談です。私に嫌いなものなんて、あるわけないじゃないですかぁ」  
 無邪気に言って、  
 何食わぬ顔でベッド脇までパイプ椅子を引っ張ってくる可符香。  
 その発言に妙に納得してしまって、思わず口を噤む望。  
 確かに彼女が何かを嫌悪する様子は想像出来ない。  
 キモい試しの時ですら、いつもの笑顔を崩さずに、  
 あろう事か倫をからかって遊んでいた。  
 キモい!と泣きながら走り去る可符香を想像しようとしたのだが、  
 あまりに想像し難く、つい難しい顔になる。  
「はい、先生」  
 ふいに、頬に硬く熱い何かが押し当てられた。  
「あっつ!」  
「はい、これでも飲んで機嫌直してください」  
 反射的に頬を押さえながら身を引く望に、改めて差し出されたのは、  
 缶入りのお汁粉だった。  
「…わざわざ、外で買って来たのですか?」  
「はい。もう結構寒いから、喜んでもらえると思って」  
 笑顔で差し出されるお汁粉をおずおずと受け取りながら、  
 すっかり毒気を抜かれたように礼を言ってしまう望。  
 可符香は笑顔で頷いて、自分用であろうホットのお茶を鞄から取り出し、  
 一口啜った。それに釣られる様に望も、プルタブを開けてお汁粉を口に  
 含もうとする…のだが、  
 
「糖類(砂糖、トレハ糖)、小豆、食塩、増粘剤(キサンタンガム)、  
 乳化剤、環状オリゴ糖、pH調整剤、安定剤(セルロース、カラギンナン)  
 …色々入ってるんですねー」  
 唐突に読み上げられる、何かの原材料名。  
「げ、原材料名を読み上げないでください!非通知で、非通知でお願いします!」  
 もちろんそれは、今しがた望の飲もうとしたお汁粉のそれである。  
 いつかプリンの材料表記に絶望させられた事を否が応にも思い出し、  
 堪らず悲鳴を上げた。  
「だったら貴女の飲んでるそれは…!」  
 負けじと望も可符香の飲んでいるお茶を引ったくり、原材料を読み上げる。が、  
「…玄米、緑茶、発芽玄米、はと麦、ビタミンC…」  
「特に聞き覚えのないものは入ってないですね」  
「ワザとでしょう、絶対ワザとでしょう!」  
「やだなぁ、偶然ですよぉ」  
 良いようにおちょくられ、悔しさのあまりお汁粉を突っ返し、  
 わぁわぁと咽び泣く糸色教師、2○歳。  
「やっぱり貴女、絶対私に恨みがあるんでしょう、そうなんでしょう…!」  
 その様子が可笑しいのか、可符香はニンマリと笑みを深めた。  
「だからありませんよ。  
 ほら、好きな子ほど意地悪したくなるって言うじゃないですか」  
「嫌がらせって自覚はあるんですね、やっぱり」  
「意地悪、ですよ」  
「教師を弄んで楽しいですか…!」  
「愛あればこそ、です。嫌われるよりいいじゃないですか」  
 教師どころか大人としての面子も立たない。  
 グズグズと鼻を啜りつつ、眼鏡を外して目元を拭っていると、  
 
 
「うん。嫌いなんて、そんな事思わない」  
 不意に呟いた可符香の声は、驚くほど低く、静かだった。  
 今まで聞いた事もないような声色に驚いて、思わず顔を上げる。  
 
 
「そうです。これは恋とか、そういったものなんです」  
 彼女の表情を窺おうとするも、眼鏡を掛けていない事に気付きハッとなる。  
 その上ついさっきまで泣いていた所為で、余計に視界が不明瞭だ。  
 
「だから私、先生の事がきっと、大好きなんですよ」  
 不自然な程に落ち着いた声音。  
 いつも明朗に喋る普段の彼女と、あまりにかけ離れている、低い声。  
 彼女はいったいどんな顔で、その言葉を紡いでいるのか。  
 望は何故だかまた泣き出しそうになって、ぐっと息を詰まらせた。  
 
 
 慌てて眼鏡を掛けなおし、可符香の顔を見つめるも、  
 そこにはさっきまでの様子が嘘のように、いつもの笑顔があるだけだった。  
「先生はモテモテですよねー」  
 無邪気に笑う可符香にどう反応していいものか迷い、曖昧に笑って誤魔化す  
 事しか出来ない。先ほどの事を問い質しては、いけないような気がした。  
 僅かに迷った末、ふざけた調子で言う可符香のノリに合わせる事にする。  
「あ、貴女までそんな冗談はやめて下さいよ」  
 ただでさえ今日は、恋愛絡み…と言えるのかどうかわからないが、  
 とにかく女性関係でああいう目にあったのだ。  
 その衝撃といったら、思い出すだけで発狂ものだ。  
「ディープラブはもううんざりです。というか、アレが愛とは思えません」  
「えー?愛ですよ。海より深い愛です」  
「深すぎます。むしろ、深々と刺さってます。いろんなものが」  
 服の下の包帯を擦りながら、痛みを思い出して身震いする。  
 その様子を可笑しそうに笑って、可符香は椅子から立ち上がった。  
 
「それじゃあ、私はそろそろ御暇しますね」  
「ああ、そうですね。最近は日が落ちるのも早いですから。  
 …っと、何なら送って行きましょうか」  
 今まさに扉に手を掛けて退室しようとしていた可符香は、  
 珍しく苦笑しながら振り返る。  
「怒ってたんじゃないんですか?」  
「これでも先生ですからね、生徒の安否くらいは気にかかるんですよ。  
 それに、クラスから失踪者が出た日には、私が迷惑するんですから」  
「でも、今の先生じゃ不審者が出ても成す術ないと思いますよ?」  
「大丈夫です、声量には自信がありますから」  
「悲鳴要員ですか」  
 クスクスと可笑しそうに笑って、それでも彼女は首を左右に振った。  
「先生は大人しく寝てて下さい」  
「ですが…」  
「じゃあ、僕が送っていきますよ」  
 尚も食い下がる望の台詞を遮るように、扉の外から男子生徒の声が響く。  
 一瞬どこからの声かわからず、キョトンとする望。  
 可符香が平然と扉を開くと、  
 そこにはいつものように本を片手に携えて佇む、久藤の姿があった。  
「久藤君…来ていたのですか?」  
 目を丸くしながら問いかける。彼はいつもの薄い笑顔で望を一瞥して、  
「ついさっき通りかかって。そうしたら、何だか揉めているようだったから」  
 そう言うと可符香に向き直り、自分でいいかと問いかける。  
 笑顔で頷く可符香。  
「良かった、久藤君なら安心です。お願い出来ますか?」  
「はい、大丈夫です。僕も声量には自信がありますから」  
 冗談っぽく言ってお辞儀をし、踵を返す久藤。  
 その後に続いて保健室を出る可符香は、  
 最後に小さく「さよーなら」と言い残し、扉を閉めた。  
 
 二人分の軽い足音のが遠ざかるのを聞きながら、  
 しばらく望は、ぼんやりと扉の方を見つめていた。  
「好き…ねぇ…」  
 無意識に呟いて、ゆっくりと布団に身を沈める。  
 
 その夜は、彼女の夢を見た。  
 
 
 ◇ ◆ ◇ ◆  
 
「可符香ちゃんは、先生の事が好きなんだね」  
 緋色に染まっていた世界は、徐々に黒に侵食されつつあった。  
「聞いてたの?」  
「うん、ごめん」  
 チカリ、と街灯が灯る。  
 民家からは夕食の香りが漂い、一日の終わりを感じさせる。  
 闇に溶けつつある住宅地を、  
 僅かな光で照らそうとする灯が、何だか滑稽に見えた。  
「謝る事ないよ。  
 うん、私先生の事、好きだよ」  
 軽やかな足取りで少しだけ前を行く少女の様子を、  
 笑顔の中に複雑な感情を湛えて見つめる久藤。  
「この胸の中に痞える感情は、恋に違いないから」  
 胸に手を当てて、まさに恋する乙女を体現するようなジェスチャーで語る可符香。  
 夢見るように瞼を閉じるその様子は、  
 ときめきに胸を焦がしているようにしか見えない。  
「いつから好きなの?」  
「出会った時から」  
 自信満々に断言する、その瞳に迷いはない。  
「へぇ…もし良かったら、聞いてみたいな。二人の出会い話」  
「童話にでもしてくれるの?」  
 クスクスと笑った後、いいよ、と頷いて。  
 四月の二人の出会いを身振り手振りを加えつつ、実に大仰に話し始める。  
「―――こうして二人は運命的な出会いを果たしました。  
 私はそれから、胸に疼くこの不思議な感情に心を焦がすようになったのです。  
 そう、人はそれを恋と呼びます」  
 神妙に聞き入っていた久藤は、ピクリと瞼を震わせた。  
「さっきも言ってたけど…疼きって?」  
「だから、恋だよ」  
 答える可符香の表情は、背を向けているため窺い知れない。  
 久藤は二人の出会いのシーンを、なるたけ詳しく想像してみる。  
 
 
 新学期。桜の花弁が降る爽やかな朝。  
 その清々しい景色を、確実に壊したであろう、首を吊る男。  
 もしかしてそれは、彼女にとって完全な不意打ちだったのではないか。  
 彼女は滅多な事では心乱さない―――そういう評価を人から受けている。  
 だが正しくは違う。心乱される事が嫌いだから、  
 必死に全てを掌握しようと動くのだ。  
 何があっても驚かないように、怖くないように、予防線を張ろうとする。  
 最近では知ることを楽しんでいる節もあるが、  
 彼女の「全てを知りたい」という願望の始まりは、ある種の恐怖からだった。  
 もはや殆どのシチュエーションには耐えうるであろう彼女だったが、  
 望はあまりにピンポイントに、彼女の不意を突いたのではないか。  
 
 今ではすっかり、彼の首吊りは恒例である。  
 けれど初めてそれに遭遇した彼女は、いったい何を思い出したのだろう。  
 恐ろしいと思っただろうか。それとも。  
 
「―――怒った、のかな…」  
「え?」  
 無意識の呟きに、きょとんとした顔で振り返る可符香。  
 その笑顔に曇りなど見受けられない。  
「何でもないよ」  
「変なの」  
 カサリカサリと、彼女が枯葉を踏む音がリズムを刻む。  
 
(…杏ちゃん、それは)  
 
『恋だよ』  
 望と出会った瞬間、胸に痞えた感情を、彼女はそう表現した。  
(それはきっとまだ、恋とは呼べないよ)  
 心に浮かんだネガティブな感情。彼女が全力で否定しなければならないもの。  
 
 
 やだなぁ、この気持ちはきっと恋ですよ。  
 ―――決して、苛立ちなんかじゃありません。  
 
 
 

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