ふわり、と柔らかな香りが降ってくる。
唇に暖かな体温を感じて、望はゆっくりと目を開いた。
目前に、愛しい少女の顔がある。
お互いの唇が触れ合っている――それに気付くのに、寝ぼけた頭はしばらくの時間を要した。
「おはようございます、先生」
可符香はすぐに顔を離して、何事もなかったかのようにニッコリと笑う。
「――おはよう、ございます」
まだ完全に意識が覚醒していないのか、ぼんやりとした口調で答える望。
「朝ご飯出来てますから、着替えたら降りて来て下さいね」
よく見ると可符香はエプロンを付けている。朝食の準備をしていたらしい。
一階から食欲をそそる香りが漂ってくる。その匂いに、望の胃は貪欲にも空腹を訴えてきた。
「あ、ありがとうございます」
のろのろと上半身を起こしながら返事をすると、可符香は踵を返してパタパタと軽い足音を立て、一階へ降りていった。
冬の早朝に漂う冷たい空気に、ようやく意識がハッキリし始める。
今更口づけで起こされた事に羞恥心が湧き上がってきて、望は熱くなる顔面を両手で覆った。
――目覚めのキスでも、してくれたんですか?
「いや……確かに言いましたけど」
ふと、数ヶ月前保健室で自分が言った台詞を思い出して、余計に恥ずかしくなってきてしまった。
ひとしきり羞恥に悶絶してから、ようやく望は自分が全裸である事を思い出す。
可符香との情事の後、そのまま眠ってしまったのだから、服を着ていないのは当たり前だ。
眠っている間は二人で身を寄せ合っていたので、心身ともに暖かく眠る事が出来たのだが、
こうして一人で布団の中に包まっていると、底冷えする寒さに震えを抑えきれない。
望は身震いしながら服を着込んだ。二の腕を擦り、白い息を吐きながら一階へと降りる。
居間は暖房が入っており、台所から流れてくる湯気も相まって、とても暖かい。
「あ、やっと降りてきましたね」
望が降りてきた気配を察して、台所からひょっこりと顔を出す可符香。
ミトンをはめた手には、温かい湯気を上げる片手鍋を持っている。
「良い匂いですね。何を作ってたんですか?」
「お野菜を適当に煮込んだだけですよ、大したものじゃありません」
テーブルの中央に畳まれた濡れ布巾の上に、可符香は手にした鍋を置いた。
琥珀色の液体の中に泳ぐ野菜たちは、良い塩梅に柔らかく煮込まれている。
玉葱の香りだろうか、仄かに甘い香りのするスープに食欲を刺激されて、思わず腹を擦った。
「何か手伝う事はありますか?」
「じゃあ、食器出して下さい。お料理はもう出来てますから。
と言っても、スープとパンだけなんですけどね」
「いえ、十分ありがたいですよ」
可符香の指示に遵って、棚から食器を出して並べる。実質、殆ど手伝う事など無かったのだが。
「先生。これ、あと少しなんで飲んじゃって下さい」
テーブルに大人しく座り可符香の着席を待っていた望の目前に置かれたのは、
残り三分の一程度の、一リットルサイズのペットボトル。
中身は――某ビバレッジ印のミルクティーである。
「あの、これ、まさか」
「心配しなくても、中に何も入ってませんよ」
昨日飲まされた媚薬入りのミルクティーと同じものかと、思わず冷や汗をかく望。
だが可符香は事も無げに笑って、
「っていうか、あの時飲んでもらったミルクティーにも、何も入ってませんでしたし」
軽い口調に似つかわしくない事実を、さらっと言ってのけた。
「あぁ、そうですか……それはよか―――ええぇえッ!?」
「お、良いリアクション」
思わず腰を浮かして驚愕の声を上げる望。
欲しかったリアクションそのままな反応に満足して、上機嫌に笑みを深める可符香。
「だ、だってあの、じゃあ昨日のアレは―――」
身体の奥から生じた熱に翻弄される感覚を思い出して、望は思わず赤面した。
確かにあの時自分は、どうしようもなく興奮してしまって――だがそれはあくまで薬の所為であって。
だがそもそも、彼女は薬など盛っていなかったという。
と、いうことは。
……ようするに、まぁ、全部自分の思い込みだった――という事なのだろう。
「―――ああぁぁぁあ〜…ッ!」
頭を抱えてテーブルに突っ伏す望に。
「もぉ先生ってば、元気なんだから〜」
心底楽しそうな可符香の台詞に、否が応にも昨夜の事を思い出して、頬がカァっと熱くなる。
「ぜ……絶望した!あっさり暗示に掛かる節操のない下半身に絶望した!」
「暗示だなんて人聞きの悪い。あれはただ、先生が勝手に欲情しちゃっただけですよ〜」
「明らかに誘導してたじゃないですか!」
ぐわばっ!と顔を勢い良く上げて叫ぶが、可符香は悠々とした態度でそれを受け流した。
「責任転嫁は男らしくないですよ?」
「うぅ…ッ!」
確かに、彼女の身体に欲情していたのは紛れも無い事実である。
望はグッタリと項垂れながら、敗北感に打ちひしがれた。
してやったり、と得意げな顔の可符香。
彼女はビシィッ!と指でVサインを作り、いまだ項垂れたままの望の目前にVサインを突き出す。
「これでおあいこですねっ」
自分だけ騙されたままでは、彼女の気がおさまらなかった。
だがこれで、晴れてリベンジ成功である。
「おあいこ、ですか」
「はいッ!おあいこですっ」
満足気に頷く可符香。
それでようやく満足したらしい彼女は、何事も無かったかのように席につく。
「さてと。いただきましょうよ、先生。スープも冷めちゃいますし」
「―――はぁ……。そうですね」
しばし何か言いたそうに、じと目で可符香を見つめる望だったが、
やがて深い溜息を吐き、自分ものろのろと合唱した。
重なる「いただきます」の声。
可符香は皿に乗ったロールパンに手を伸ばし、小さな口を精一杯大きく開けて齧り付く。
勝利の味でもするのだろうか、彼女は心底美味そうにパンを頬張っている。
その様子にもはや怒る気も失せて、望は一口スープを啜った。
――暖かなスープは、ややしょっぱい敗北の味がした。
朝食を終えた後、二人は揃って学校に向っていた。
いつも通る並木道。名も無き犬の墓にお参りをして、二人はゆっくりと歩き出す。
「おはようございます、二人とも」
その途中、背後から落ち着いた声音で呼びかけられた。
振り向く二人。そこには、柔らかな眼差しの青年が、分厚い本を携えて立っている。
「おはよう、准君」
「おはようございます。随分と早いんですね」
微笑み返す可符香。軽く頭を下げる望。
「ええ、いつもこのくらいの時間に来るんです」
久藤准は、人の少ない時間帯に本を読みながら登校するのが好きだった。
人の多い所だと、前方不注意でうっかり誰かにぶつかってしまいかねない。
この時間帯ならば人も疎らだし、ぶつかるにしても電柱か枯れ木ぐらいだ。
「本を読みながら歩くのは、些か危ないと思いますよ」
「大丈夫です。最近は電柱に謝る回数も減りました」
「……久藤君、意外とドジっ子だったりします?」
冗談と取るべきかとも思ったが、久藤の表情からそれを読み取るのは難しい。
困惑顔の望の脇をすり抜けて、可符香はやおら久藤の顔に手を伸ばす。
そっと前髪をかき上げられて、普段は隠れている額が露になる。くすり、と苦笑する可符香。
唐突なその行動にキョトンとしたのは望だけで、久藤は照れたように微笑むばかりだ。
「准君の嘘つき。今朝も電柱に謝ったでしょう」
可符香の言葉に、望はようやく、久藤の額が少し赤く腫れている事に気付いた。
「ね、ネタじゃなかったんですね……」
「ちなみに、今朝謝ったのは電柱じゃなくて枯れ木の方です」
「どちらも変らないと思いますが」
というより枯れ木の方が、何となくぶつけた時のダメージが大きいような気がした。
表面がザラザラしているし、下手をすると擦りむいてしまうのではないだろうか。
「――ん」
しばらく可符香に額を撫でられるままにしていた久藤だったが、不意に何かに気付いたように声を上げた。
「どうしたの?」
額を撫でる手を止めて、そっと手を放しながら問う可符香。
久藤は答えずに、すぅっと滑るような動作で望との距離を詰める。
全身をしげしげと見つめられたかと思うと、彼は何かを嗅ぐような動作をした。
「な、なんですか」
困惑する望をよそに、二、三度可符香と望を交互に見比べる久藤。
「――あぁ、そういう事ですか」
そうしてようやく、彼は納得したように頷く。
かと思うと、突然にぃっと口の両端を吊り上げるように笑った。
いつもの穏やかな笑い方とは違う、少し意地の悪い笑い方だ。
「な、ななな……何なんですかッ!?」
その表情は、まるで可符香が自分をからかう時に浮かべる笑みを彷彿とさせる。
思わず身震いする望に背を向けて、今度は可符香に向き直る。
その顔に先ほどまでの人の悪い笑みはない。
彼女に向けられたのは、母性すら感じさせる慈しみの表情だった。
そしてその口から、優しい声音で問われた言葉は、
「可符香ちゃん。先生は優しかった?」
望の胸に、あまりにも深く突き刺さる一言だった。
「―――な、え」
石化したように硬直する望。
可符香は一瞬キョトンと目を丸くしたが、すぐにニコリと笑って頷いた。
「うん、優しかったよ」
「そっか」
その笑顔が本当に幸せそうで、久藤は心の底から彼女の幸せを祝福する。
「おめでとう」
「ありがとう」
固まったままの望をよそに、和気藹々と微笑みあう二人。
――ようやく我に返った望は、慌てて何か言おうと口を開く。だが、
「それじゃあ、僕は先に行きますから。若い二人はごゆっくり」
望が何か言う前に、久藤はさっさと軽い足取りで先に行ってしまった。
「あ、ああああ……貴方の方が若いでしょうがーッ!!」
その後姿に、裏返った声で叫ぶ。
大音量の絶叫にもまったく動じずに、久藤はヒラヒラと片手を振るだけで答えて振り返りもしない。
(な……何だかこの先も、彼には色々からかわれるような気がします……)
ゼェゼェと肩で息をしながら、おそらく当たっているであろう予感に青ざめる望。
「――先生」
歩み去る久藤の背を見つめていた可符香は、やおら望に向き直り、幸せそうに目を細めた。
「祝福されちゃいました」
その表情に、望は一瞬で毒気を抜かれてしまった。
蟠っていた感情が流されて、後に残るのは――目の前で微笑む少女への愛しみだけだ。
「……そう、ですね」
おそらく一番心を許していたであろう久藤の祝福の言葉が、本当に嬉しかったのだろう。
「――あははっ」
可符香はじわじわと湧き上がってくる幸福感を、どうにかして望に伝えたくて、
この感覚が肌越しに伝わって欲しいという願いを込めて、望の胸に飛び込んだ。
「おっとっ」
そんな可符香の華奢な肩を、少し照れながらもしっかりと抱きとめる。
服越しに感じる少女の鼓動は速く、彼女が浮かれている事を如実に伝えてくる。
――呼吸を白く染める冬の空気。だが、触れ合う二人の肌は温かい。
「幸せですねー」
吐息に乗せて呟く可符香。
「――……」
望は咄嗟に口から出そうになった台詞を、すんでの所で飲み込んだ。
口にするにはあまりに気恥ずかしい言葉だ。
「そうですね」
「もぉ〜、何ですか?その気の無い返事」
「すみませんね、気の利かない大人で」
「そんな、先生は気の利かない大人なんかじゃないですよ。むしろ大人になりきれてないですよ」
「それフォローじゃありませんよね!?」
……甘い空気は一瞬でどこかに吹っ飛んでしまった。
――二人はじゃれ合うように、並木道を歩いていく。
ふわりふわりと舞うように先を行く、年下のような、年上のような恋人を必死に追い駆けながら、
彼は心の中でだけ、しっかりと誓いを立てる。
『――今よりもっと、幸せにしてみせますよ。
……ろくでもない私でも、精一杯に――――』
それは愛しい恋人と、彼女の幸せを心から願う少年への、確かな誓い。
時は放課後。
人気の無い図書室。夕暮れに染まる蔵書達に囲まれながら、彼は眼下の光景を見つめる。
その瞳には、じゃれ合う担任教師と生徒達の姿が映っている。
その中でも、彼の瞳はある一人の女生徒に注目している。
(あぁ、楽しそうだな……)
彼は穏やかな心地で目を細めた。
彼女の視線の先には、散々生徒たちに弄り倒されて半泣きの教師の姿がある。
まぁ彼がわりと本気で悲鳴を上げている事を無視さえすれば、とても微笑ましい光景である。
とりあえず久藤にとって、可符香が幸せかどうかに重点が置かれるので、そのあたりは問題ない。
久藤はゆっくりと目を閉じて、脳裏にハッキリと浮かび上がる少女の面影に思いを馳せた。
彼女を――恋人として、男として愛したい。
そういう考えも少なからずあった。
だが彼には、そうするだけの資格――いや、勇気がなかった。
幼い少女の強がりを突き崩して、温かく抱きしめる事だって出来たはずだ。
だが自分はその役割を怖がって、ただの傍観者で居る事しかしなかったのだ。
結局その役目は、今眼下で生徒達に囲まれている担任教師に押し付けて……。
彼女への愛情は、後悔に埋め尽くされていた。
けれど今――二人は幸せそうに微笑んでくれている。
それが彼にとっての、何よりの救いだった。
誰も貴方を責めないと、望は言ってくれた。
幸せだと、愛しい少女は微笑んでくれた。
「あぁ――良かった」
本当に心の底から安堵して、久藤は深く息を吐いた。
「やっぱり、僕は……ハッピーエンドの方が好きだな……」
二人はいつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし。
チープな終わり方と言われてもかまわない。
それでも彼は、いつまでも幸せな二人を見ていたい。
二人はいつまでも、幸せに。
その幸せを傍で見守り続ける語り部で居られる事が、自分は何よりも嬉しいのだ……きっと。
「僕も……幸せだよ、杏ちゃん」
――僕は君を助けてあげられなかったけれど。
ただの語り部にしかなれなかった僕に、君はこれからも微笑みかけてくれるだろうか――
「――あの……」
思考の海に沈んでいた久藤の意識を呼び戻したのは、掠れた細い声音だった。
内心驚きつつも、彼の顔に驚愕が浮かぶ事はない。元々感情が表に出難いのだ。
眼下の光景から視線をはなして振り向くと、そこには一人の女生徒が、所在無さ気に立ち竦んでいた。
久藤が視線を合わせると、何故か慌てたように視線を泳がせる。心なしか頬が赤い。
その様子に疑問を抱きつつも、彼は穏やかな口調で、
「何?」
そう問いかけた。だが、女生徒は答えない。
というより、咄嗟に答えようにも声が出ないといった感じだ。
オロオロと視線を彷徨わせ、落ち着かない呼吸を抑えるように胸に手を当てて、深呼吸をしている。
気分が優れないのかと心配になり、体調を訊ねようと口を開こうとする。
だがそんな久藤を遮るように、女生徒は決意を秘めた瞳を向けて、必死に喉の奥から声を絞り出した。
「――こ、ここに……ッ、居て、いいですか…ッ…?」
それは恋する少女の、精一杯の勇気から成る、決死の一言。
『――ここに、居ていい?』
それは、必死に誰かの温もりを求めた、幼き日の少女を思わせた。
拒絶される事を心底恐れているにも関わらず、それでも必死に手を伸ばしてきた、幼馴染の少女の事を。
記憶に深く刻み込まれた少女の面影と、今、震える足で目の前に立つ女生徒の姿が重なる。
彼女と――在りし日の杏に共通するのは、弱さの中に垣間見える、強い光を湛えた瞳。
女生徒は今、持ちうる限りの勇気を総動員して、久藤の前に立っている。
それが自らに寄せられた、強い恋心から来るものとまでは、彼は気付かなかったけれど。
「――うん、いいよ」
あの日と同じ言葉。
だが、幼かったあの頃にはない慈しみを込めて、柔らかく微笑みながら答えた。
すると女生徒は、何かに救われたようにパァっと瞳を輝かせた。
元々赤かった頬が更に紅潮して、耳まで真っ赤になってしまう。
その様子に久藤は、心が満たされていくような安堵感を覚えていた。
――自らの返答で、彼女がこんなにも喜んでくれた事が、嬉しい。
「……きみ、常連さんだよね。よくここで見かけるよ」
「う、うんッ!…お、覚えててくれたの…?」
「うん。よく僕と同じ本借りてたから、名前も覚えてるよ。
確か―――」
――あの日、彼女に差し伸べられなかった手。
この臆病者の手を、目の前に居る少女は、心から必要としているようだった。
その覚悟を、その勇気を、今の自分ならば――ちゃんと受け止める事が出来る。
そう思いたい。
(……今度は……、うまくできる気がする……)
ずばり名前を言い当てると、少女は涙すら零して歓喜した。
そんな自分に焦ったように慌てふためく少女。
そっとハンカチを取り出して、久藤はそっと、少女の頬を流れる涙を拭った。
―――どうか二人の物語が、ハッピーエンドを迎えますように。