◆ ◇ ◆ ◇
掌で形を失くした結晶は、暖かな雫となって、肌を濡らす。
それを、愛おしく想った。
◆ ◇ ◆ ◇
吐く息は白く染まり、吸い込む空気は身体を内から凍らせるように冷たい。
望は身震いして、マフラーを口元まで上げ、首を竦めた。
街はすっかり冬の装いに染まり、気の早い事にクリスマスムードを漂わせている。
店先を飾るイルミネーション。電力の無駄遣いだと、望は内心で毒づいた。
道を行く人々――特にカップルは、心なしか浮かれているように思える。
通り過ぎざまに、カップルの会話が耳を掠めた。
「イブはどうする?どっか出かけようか」
女の問いに、男は間を置かずに答える。
「そうだなぁ、やっぱお前の家で、二人で過ごしたいな〜」
「もぉやだっ、絶対やらしい事考えてるでしょっ!」
女はまんざらでもないようで、不満を口にしながらもその声は弾んでいた。
(……あなた達のような人が、私のような不幸な人間を作るんですよ……)
通り過ぎていくカップルに、望は心の中で恨みがましく呟いた。
世間がクリスマスに浮かれるほど、望の心は深く沈んでいく。
「…っふん」
そんな自らの絶望を振り切るように、足を速める。
早々に買物を済ませて宿直室に帰り、こたつに潜り込む事にしよう。
小森から預かった、夕食の材料を記したメモを懐から取り出す。
どうやら今夜は鍋のようだ。望の足は更に速まる。早く帰って、三人で鍋を囲みたい。
っどん。
「あ」
「おっと、すみませ……ん?」
メモに視線を落としていた所為か、前方からの人の接近に気付かなかった。
真正面からぶつかった人物に咄嗟に謝ろうとするが、すぐにそれが見知った顔だという事に気付く。
ぶつかった少年は、体勢を立て直しながら望の顔を見上げて、少し驚いたように瞬きをする。
手には、分厚い本を携えていた。
「久藤くん……大丈夫ですか?」
「先生。すみません、こちらこそ」
ベージュのコートにすっぽりと身体を包んだ久藤は、微笑を湛えて頭を下げた。
「……また、本を読みながら歩いてたんですか?」
「さすがに人ごみの中で読むのは、やめようって思ってたんですけど」
「我慢出来なかった、と」
「はい。さっき、そこの書店で買ったんです。
新刊なんですよ。読み終わったら、先生にも貸してあげます」
「それはありがたいですが、それは家に帰るまで鞄にでもしまっておきなさい」
「そうですね。そうします」
素直に本を、肩から提げた大きめの鞄にしまい込む久藤。
「先生はお買物ですか?」
「えぇ、夕飯の買出しを頼まれまして。
……本当は、この時期はなるたけ出歩きたくないのですが」
「どうしてです?」
望はそっと、店先で輝くイルミネーションに視線を移した。
その様子を見て、久藤はクスリと可笑しそうに笑う。
「笑わないで下さいよ、人の真剣な悩みを」
「だって、可笑しいですよ、先生」
半眼で睨むも、彼は臆した様子もなく笑みを深める。
「だって先生は、今年は浮かれる側の人なんじゃないんですか?」
「……え?」
キョトンと目を丸くする望に、久藤は言葉を重ねる。
「少なくとも、カップルをジト目で睨む側の人間じゃないって事ですよ」
「み、見てたんですか?」
「いいえ。ただ、想像はつきますから」
すっかり行動を読まれている。
「さ、さすがですね……」
よろり、とたじろく。やはり彼は心が読めるのかと、冷や汗が額を流れた。
「先生は、クリスマスはどうするんですか?」
「え? えぇ、ああ……そ、そうですね」
久藤の問いにしどろもどろになりながらも、咳払いしてどうにか心を落ち着かせるよう努める。
「多分、なんだかんだで生徒達と騒ぐ事になりそうです。
クリスマス会、今年もやるんでしょう?」
「あぁ…、そういえば、木津さんが張り切ってスケジュール組んでましたね」
休み時間、何やら机に向って時間表らしきものを書いていた彼女を思い出して、久藤は少し思案顔になった。
「まぁ、それはそれで楽しそうですけど……」
「…? 何か、思う所でも?」
彼らしからぬハッキリとしない物言いに、望は少し首を傾げる。
「僕としては、先生には、クリスマスは恋人と二人で浮かれていて欲しいです」
ニコリ、と微笑む久藤。
その言葉に、望は自分の顔に血が上るのを自覚せざるを得なかった。
「よ、よよよ余計なお世話ですッ!」
『浮かれる側の人なんじゃないですか?』
ようやく先ほどの彼の言葉の意味を理解した。
――確かに今の望には、聖夜を二人でムーディに過ごす相手が、居るには居る。
けれど恋人が居るからといって、自分は世間のカップルみたいに浮かれたりしない。
あまつさえ浮かれた勢いで、色々いたしたりも絶対にしない。しないったらしない。
「照れない照れない。先生だって、本当は杏ちゃんと二人で恋人らしい事がしたいって、思ってるんでしょう?」
「お、思ってない事はないですが…うぅん…」
望の脳裏に、先ほど通り過ぎたカップルの様子が浮かぶ。
あんな風に、臆面も無く周囲に幸せバカップルオーラを撒き散らしたい、とまでは思わない。
けれどせめて、二人で居る時くらいはあんな風に、恋人を照れさせてみたいものだ。
普段の二人といえば、良い雰囲気になる事なんて本当にざらで、大概可符香にからかわれているだけだった。
「――正直に、言いますと」
「言いますと?」
いつの間にか望の唇からは、本音が零れ落ちていた。
「ちょっとあの娘を、可愛らしく照れさせたり出来たら良いなぁ、とか……思っちゃってます」
その本音は、いたく久藤のお気に召すものだったようで、彼は上機嫌に微笑んだ。
「随分と、ささやかな望みなんですね」
「そう言いますがね、久藤君。
あの娘を照れさせるなんて、常人には不可能なんじゃないかと思いますよ」
飄々と、いつも望の思考の遥か上を行く行動で、自分を惑わせる可符香。
そんな彼女が、どうすれば可愛らしくモジモジと照れてくれるというのか。
「確かに常人には不可能ですね」
「でしょう?」
ふはぁ、と溜息を吐く望とは対照的に、
「でも、先生になら案外簡単な事だと思いますよ」
久藤はあっさりとした口調で言った。その言葉に、望は反射的に頭を振る。
「む、無理ですよそんな、簡単になんて」
初めて身体を重ねた夜すら、照れる素振りを見せなかった可符香だ。
「うーん……まぁ、先生はそれで良いと思いますけどね」
グッタリと項垂れる望の様子を微笑ましく思いながら、思わせぶりな言葉を呟く久藤。
望は突然ハッと顔を上げて、名案だとばかりに弾んだ口調で言った。
「そうだっ、プレゼントなんてどうでしょうか」
「プレゼント?」
「そうです―――クリスマス当日は、どうせ生徒皆で騒ぐ事になるでしょう。
だから、一足早いクリスマスプレゼントを彼女に贈るんです。
どうです? 不意打ちにはなりませんか、これ」
わくっ、と両の拳を胸の前で握って久藤に同意を求める望。
「あぁ、良いですね―――不意打ちになるかはともかくとして」
その望み通りに久藤は同意した。後半の言葉は、胸を弾ませる望に聞こえないよう、小声で呟く。
「……ですが」
だが、すぐに望の表情は沈んでしまった。どよんど、と背に影を背負いながら、
「……普通のプレゼントなんかじゃ、駄目ですよねぇ……。
彼女を照れさせる程のプレゼントなんて、私なんかじゃ思いつきません……」
自らの恋人の事だというのに……と、望の心は深く沈んでいく。
「照れる、とかは置いておいて、彼女の喜びそうなものとかは?」
「―――それすら思いつきません」
フォローの為に言った久藤の一言は、どうやらトドメの一撃だったようである。
望はズルズルとその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。通行人の視線もお構いなしだ。
「絶望した…っ、自分の恋人へのプレゼントもろくに決められない、甲斐性なしの自分に絶望したぁ…っ!」
「やだなぁ、先生は甲斐性なしなんかじゃないですよぉ」
その悲鳴に答えるように、軽やかな少女の声が、望の頭上から降ってきた。
聞き覚えがありすぎる声に、ぐぁばッ、と顔を上げる望。
そこには予想通り、髪留めを付けた彼の恋人が、冬の装いで立っていた。
淡い桃色のセーターを羽織った可符香は、気さくに手を上げて久藤に挨拶している。
「「やぁ」」
ポン、と掌を打ち合う二人。それを横目に、望は立ち上がった。
「か、可符香さん…!? いつからそこに…ッ」
「『あなた達のような人が、私のような不幸な人間を作るんですよ』
って、先生が毒づいてたあたりから、です」
「それ最初からじゃないですかッ!?
いや、そもそもその台詞、口に出してないんですけどッ!!」
「まぁまぁ、細かい事は良いじゃないですか」
「細かくねえぇッ!」
「先生、口調が」
そっと久藤に指摘されて、望は慌てたように咳払いをした。
「先生、いっそこの際だから、可符香ちゃんと一緒に買っちゃったらどうですか?」
「はい?」
「プレゼント、ですよ」
呆けたように聞き返す望に、久藤はぴっと人差し指を立てて言った。
「全部バレちゃってるんですから、今更隠すより、本人に欲しい物を聞いたほうが良いと思います」
「そ、そうですね……」
もう彼女を照れさせる、という目的は果たせそうにない。
けれど、少し早いクリスマスプレゼントを二人で選ぶ、というのは悪い案ではない。
望は少し考えてから頷いた。可符香はそんな二人の様子を、ニコニコと笑いながら見つめている。
「そうと決まれば、僕は退散した方が良さそうですね」
「私は、准君が居てくれてもかまわないよ?」
「そうですよ。遠慮なんていりません」
気を利かせてその場を去ろうとする久藤を引き止める可符香。望も、心から同意して頷いた。
けれど彼は笑顔で首を振り、
「実は、今日はこれからお呼ばれしているんです。
最近よく図書室に来てくれる娘で、今日は夕飯をご一緒する事になってまして」
「あぁ、それは……引き止めて悪かったですね」
「それなら早く行ってあげないと。その娘、きっと首を長くして待ってるよ」
「うん。それじゃ、さようなら。二人とも」
そういう事ならば仕方ないと、二人は手を振り去っていく久藤の後姿を見送った。
「さて、と」
その姿が見えなくなると、可符香はパッと勢い良く顔を上げて、望の瞳を真っ直ぐに見た。
「今日は何でも買ってくれるんですよねっ!」
邪気の無い笑顔で、さり気に恐ろしい事を言われる。
だが否定するわけにもいかず、望は微妙に引き攣った笑顔で頷いた。
「ま、まぁ……常識の範囲内の物であれば」
「先生、私コレが欲しいです、コレ!」
「―――って、言った傍から非常識なモノを欲しがらないで下さい!」
可符香は店先に飾られていた、ある商品を指差して瞳を輝かせる。
その指先にあるものを見て、望は堪らず悲鳴を上げた。
―――宇宙人コスプレセット。
そう書かれたパーティグッズを、可符香は物欲しそうに見つめていた。
銀色の全身タイツと、妙な触覚の生えたヘアバンドが同封されている。
そもそもこのグッズの製作者は宇宙人と遭遇した事があるのかと、小一時間問い詰めたい気持ちになる。
「私、クリスマスはこれを着た先生と、ムーディな一夜を過ごしたいです」
――相応の値段のするホテルの一室。
頬を桃色に染めて、可符香は愛しい男の胸に顔を寄せる。
その身体を抱きとめる―――全身銀色タイツの、頭から触覚を生やした男。
甘い声で囁く殺し文句は、
「――貴女と、交信したい――」
「アリです!」
「ねーよッ!!」
ビシィ!と両の親指をおっ立てる可符香に、即座に突っ込んでおいた。
―――それからも、二人はいくつかの店を梯子した。
可符香が欲しがるものは悉く非常識な物ばかりで、四店目を出た時には、望の疲労は限界をむかえていた。
「お願いです……後生ですからマトモな物を欲しがって下さい…」
「先生、わりと瀕死ですか?」
「死体一歩手前ですッ、死んだらどーする!」
恋人とのプレゼント選びによる過労死。あまりにも絶望的な死因である。
「仕方ないですねぇ。では、お疲れの先生に一服入れさせてあげます」
可符香はそう言うと、望の返事も待たずに駆け出した。
咄嗟に呼び止めようとするも、彼女の向かう先が、すぐそこにある自販機だと判って、ホッと息を吐く。
可符香が飲み物を買っている間、望は何の気なしに、近くの百円ショップの看板を見つめた。
その店先には、ちょっとしたアクセサリーが置いてある。
百円とはいえ、望の目には十分お洒落に使えそうな代物ばかりに見える。
ふと、一つの髪留めが目に留まる。キラリと白く光ったそれが、何故だか妙に気になった。
チラリと可符香の方を見る。何を買おうか迷っているようで、まだ時間が掛かりそうだった。
それを確認してから、望は自分の目を惹いた髪留めまで寄っていく。
雪の結晶をあしらった髪留めは、凝った細工とまでは言えないが、とても百円とは思えない美しさがあった。
手に取って、これを付けた恋人の姿を想像してみる。とても、愛らしかった。
(ですが、百円ですからね……)
値段で物の価値を決める程愚かではないが、さすがに恋人のクリスマスプレゼントとしては粗末だろう。
少し名残惜しい思いで、望は元の場所にそれを戻そうとした。
「何見てるんですか?」
だが、背後から掛かった声に、思わずその手が止まる。
何故かどぎまぎしながら振り返ると、両手にホット飲料を持った可符香が立っていた。
「あ、いえ、何でも――」
「わぁっ」
望の返事を遮った可符香の声は、軽やかに弾んでいた。
その目には、彼の手の中にある髪留めが映っている。
「先生、案外良いセンスしてるじゃないですか」
「一言余計です。ですが、これ……」
たった百円ですよ―――そう言おうとするも、
隣に並び、嬉しそうに同じ髪留めを手に取る可符香の姿に、二の句が告げなくなる。
「決めましたっ、これが良いです」
「……本当に、これで良いんですか?」
「駄目ですか?」
―――そんな物欲しそうな目で小首を傾げないで欲しい。
慌てて赤く染まる頬を着物の裾で隠しつつ、「いいえ」と首を振った。
「貴女さえ良ければ」
「やったっ、えへへ」
―――髪留めを買った後、望は自分の買物がまだだった事に気が付いた。
可符香の買ってきたホット飲料を急いで飲み干し、二人は手早く夕飯の買物を済ませた。
そうして今、二人はゆっくりとした足取りで、帰り道を歩いている。
本当なら急ぎ足で帰らなければならないのだろう。
けれど、こうして二人で歩く時間を、まだ深く噛み締めていたかった。
買物は頑張って急いで済ませたのだから、帰り道くらいはゆっくりさせて欲しい。
心の中で小森と交に謝りつつ、二人の足が速まる事はなかった。
今、可符香の髪には雪の結晶が煌めいている。
(……こんなに喜んでもらえるなんて、思いませんでした……)
ニコニコと上機嫌に、さっきから笑みを絶やさない可符香。
そんな彼女の様子を嬉しく思いつつも、その程度のもので満足してもらう事に、申し訳なさを覚えてしまう。
商店街を抜け、民家の立ち並ぶ道へ出ると、夕食の香りが各々の家から漂ってきた。
ポツポツと、街灯に灯りが灯り始める。
「えへへ」
彼女が歩くたび、揺れる髪留めがキラキラと輝く。
――それと同じ光が、いつの間にか頭上から降ってきていた。
「あ、雪だ」
どうりで寒いはずだと、可符香は白い気を吐きながら空を見上げる。
その横顔を、望はしばらくじっと見つめていた。
それに気付いて、キョトンと望を見返す可符香。
「何ですか?」
「い、いいえ別に。――寒くはないですか?」
まさか見惚れていたとも言えず、慌てて言い繕う。
「平気です。むしろ今は暖かいくらいです」
贈られたのは雪の結晶だというのに、こんなにも心が温かいのも不思議な話だ。
可符香はそっと髪留めを撫でた。
―――その手に、そっと望の手が重なる。
少し驚いて望の顔を見上げる可符香。
「あぁ、やっぱり。随分冷たいですね」
望はやおら可符香の手を、自らの胸に引き寄せた。
片手が買物袋で塞がっていなければ、きっと両手で彼女の手を包み込んでいただろう。
―――望はただ、彼女の手があまりに白く、寒そうだったからそうしたに過ぎない。
だがその行為は、可符香の不意をつくには十分だった。
「…………」
可符香の頬に赤みが差す。望の掌は、自分のそれより随分暖かだった。
その様子に気付いた望は、少し驚いたように、
「もしかして…、照れてます?」
そう聞いた。可符香は否定も肯定もせず、少しぼんやりとした表情で、手を掴まれたままでいる。
雪のようだ、と、そう思った。
ふわふわと掴みどころの無い白い粒。
一度人肌に触れると、瞬く間にその温度に染まり、溶けていく。
望の体温が可符香の冷たい掌に伝わり、二人の温度は徐々に近づいていく。
「……クリスマスは」
無言の時を打ち破ったのは、可符香の方だった。
「クリスマスは、皆でいっぱい騒ぎましょうねっ」
そう言った可符香の頬は、まだ少しだけ赤かった。
掴まれた手を引き戻すと、フワリと身を翻す。
数歩望の先を行くと、彼女は一瞬だけ振り返り、
「―――えへへ」
言葉に困ったように微笑んで、それきり、振り返らずに走り去っていった。
それが彼女なりの照れ隠しだとわかって、望は満足気に笑みを深めた。
「何だ……こんな事でいいんですか」
まだ彼女の体温が残る掌を握り締めて、白い粒の降る空を見上げる。
彼女に贈った結晶の降る空は、とても美しかった。
その夜に振った雪は、一晩を掛けて街を白く染め上げた。
たくさんの粒が寄り添いあって、降り積もる。
その様は、愛しさにも似ていた。