―――子供の頃、兄に教会に連れて行ってもらったことがある。  
 
色とりどりのステンドグラスを通る、柔らかい光に包まれた空間に、  
パイプオルガンの音色が響いていた。  
 
美しい曲だ、と思った。  
兄に曲名を尋ねると、「主よ、人の望みよ喜びよ」と言う曲だと教えてくれた。  
 
―――題名に兄の名が入ったこの曲は  
         そのときから、私の、一番のお気に入りになった―――  
 
 
* * * * * * * *  
 
 
コンコンとノックの音がする。  
「倫、入りますよ。」  
ドアを開けて、小さな控え室に望が入ってきた。  
 
「あら、お兄様。ここは、夫となられる方以外の殿方は立ち入り禁止ですわよ。」  
「兄妹で固いこと言いっこなしですよ。」  
 
望は部屋を見回した。  
「…花嫁が一人きりですか?手伝いの者は?お母様は?」  
「……皆、用事で、ちょっと出ています。」  
「なんですか、それは。まったく、なんてことですかね。」  
ぶつぶつ言いながら、望は妹の姿の晴れ姿を眺めると、眩しそうに目を細めた。  
 
「………きれいですね、倫。」  
「ありがとう、お兄様。お兄様も、洋装姿、お似合いですわよ。」  
「さすがに、教会に紋付袴は似合わないですからね。」  
 
倫が首をすくめて笑った。  
「それにしても、お兄様が素直に褒めてくださるなんて。  
 雨が降らなければいいのですけど。」  
 
望は、ムッと頬を膨らませた。  
「私だってTPOは心得てます。こんな日に絶望的なことなんかいいませんよ。」  
そう言いつつ、望は、真面目な顔になった。  
「それに……。花嫁姿のあなたは、本当に、美しいですよ。」  
 
倫は、望の言葉に一瞬目を見開くと、無言で目を伏せた。  
 
2人の間に沈黙が落ちる。  
化粧台の上のCDデッキから流れる曲が、一際大きく感じられた。  
 
望がふと微笑んだ。  
「倫は、この曲が本当に好きなんですね。」  
「…ええ…とても…。」  
「意外でしたけどね…お前が賛美歌なんて。」  
 
望はしばらくその美しい旋律に耳を傾けていた。  
倫は、そんな望を眺めていたが、そっと望に語りかけた。  
 
「お兄様。」  
「はい?」  
「覚えてますか?子供の頃、2人で教会に行ったときのことを。」  
「ええ、覚えてますよ。帰りに迷子になって、えらく叱られましたっけ。」  
「…あのときに、初めて、私はこの曲を聴いたのですわ。」  
「……。」  
「お兄様が、曲名を教えてくださいました。」  
「………そう、でしたかね………。」  
 
2人の間に、再び沈黙が落ちた。  
 
望が、コホンと咳払いをした。  
「そろそろ、時間ですね、私はお暇しなければ…。」  
「お兄様!」  
 
帰ろうと背を向けた望を、倫が呼び止めた。  
倫に向けられた望の背中がこわばった。  
 
倫は、望の背中に向けて、はっきりとした声で告げた。  
「お兄様…。私、お兄様が、好きでした。」  
「……。」  
「子供の頃から、誰よりも、一番、お兄様のことが、大好きでした。」  
 
望は、振り返らない。  
倫の声がひび割れた。  
「分かっています。今さらそんなことを言っても、詮無いことだと。  
 でも…私が嫁ぐ前に…他人の者になる前に、言っておきたかったのです。」  
 
遠くの方から、人の声が聞こえてきた。  
 
望が、前を向いたまま呟いた。  
「…皆が、帰ってきたようですね。…いったい何をしていたんだか…。」  
「………皆には、私が用事をいいつけたのです。  
 お兄様が……いらしてくれるような、気がして………。」  
 
「―――!」  
望が、倫を振り向いた。  
 
望と倫の目が合う。  
2人は、そのまましばらく無言で見つめ合っていた。  
 
バッハの対位法を生かした旋律が、2人の間に満ちて行く。  
 
倫は、望の目を食い入るようにして見つめていたが、やがて、  
ほっと息をついた。  
そして―――天使のような笑みを浮かべた。  
 
望は、ただ倫の笑顔を呆けたように見つめているだけだった。  
 
大勢の足音が近づいてきている。  
 
望は、声を絞り出すようにして尋ねた。  
「倫、あなたは、幸せになるのですよね…?」  
 
倫は、望に晴れ晴れとした笑顔を向けた。  
「―――ええ、お兄様、心配なさらず。  
 私、ちゃんとあの人を愛しております。」  
「……。」  
 
そのとき、控え室のドアが開き、大勢の人間がどやどやと入ってきた。  
「んまー、倫ちゃんきれいだこと!花婿さんは果報者だわぁ〜!」  
「あら、望さん、どちらにいたかと思えばこんなところに。」  
「倫、そろそろですよ、お父様がお待ちです。準備はできてますか?」  
部屋の中は一気に賑やかになった。  
 
倫は立ち上がると、あでやかに微笑んだ。  
「はい、お母様。」  
 
母親に伴われて倫は控え室を後にする。  
 
「それでは、ごきげんよう、お兄様…。」  
倫は、望の顔を見ずにその横を通り過ぎると、式場へと向かった。  
 
「望さん、あなたも親族なんだから早くいらっしゃいね!」  
親戚の叔母が望に声をかけたが、望はあいまいに頷いただけだった。  
 
 
 
 
 
望は、皆が出て行った控え室に、1人ぽつんと残っていた。  
ふと、デッキの上のCDケースに目が行き、望はそれを取り上げた。  
 
倫は、このCDを、随分と聴き込んだのであろう、  
古びたケースは傷だらけになっていた。  
 
望は、CDケースを胸に握り締めると、呟いた。  
「倫…。どうか、幸せに……。」  
 
遠くで、祝福を告げる鐘の音が鳴り響く中、  
神に捧げる賛美歌の流れる部屋で、望は、いつまでも立ち尽くしていた。  
 
 

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