日曜日。もうすぐ、お昼になる。  
「ふん、ふ〜ん………♪」  
私はいつも通り机に向かい、鼻歌混じりで内職の作業を続ける。  
「今日は、結構頑張ったなぁ。」  
ついつい、ぽつり、と声が漏れた。眼の前には、今まで見たこともないくらいに沢山の  
造花の山があった。これだけ作ったんだから、多少身体がだるいのは仕方ない。  
私は椅子に座ったまま、大きく身体を伸ばす。カーテンを閉め切った部屋は、薄暗い。  
けど私、どうしてこんな昼間からカーテンを閉めてるんだっけ。まぁ、いいか。  
「………お腹空いちゃった。」  
そういえば、なんだかまるで、長い間何も食べていないみたいな空腹感がある。そんな  
に仕事に熱中するなんて、自分でも珍しいと思う。けれど、私が働いた分だけ家計は  
楽になるんだから、頑張らなくちゃ。あの人と、一緒に。  
 
「(………あれ?)」  
 
なんだろう。今、頭の奥の方が、ズキッと痛んだ気がする。  
そういえばなんだか、ちょっとだけ気分も悪い気がする。頭が、くらくらする。  
どうしたんだろう、寝不足かな。頑張るのはいいけど、気をつけなくちゃ。身体を壊す  
わけにはいかないのに。何かあったら、治療費だって馬鹿にならないもの。  
「………疲れてるだけよね。ちょっと、無理しちゃったかしら。」  
とりあえず、一休みしてお昼にしよう。冷蔵庫に、何か残ってたかしら。そういえば、  
夕べのおかずはなんだっけ。嫌だわ、自分で作ったはずなのに、忘れるなんて………。  
 
「………あ、れ………?」  
 
昨日の、おかず?私、昨日………料理なんてしたかしら?  
どうしてだろう………なんだか私、ずっと、この部屋に居た気がする。朝から晩まで、  
ずっと。なんだか長い間、この部屋から1歩も外に出た覚えが無い気がする。おかしい  
な、そんなはず無いのに。ちゃんとあの人を玄関で見送って、帰ってくるのを出迎えて、  
台所でお料理して、皆でご飯を食べて………。  
「………なんで、思い出せないの………?」  
それが、私の日常のはずなのに………どうして、覚えてないの?  
それだけじゃない。昨日と今日はずっと家に居たけれど、その前は………学校にだって、  
行ったはずじゃない。皆と一緒に登校して、皆と一緒に授業を受けて。いつも通りに、  
先生が『絶望した!』って騒ぎ出して、それどころじゃなくなって………。  
でも、そんな記憶、無い。私ずっと………机の前で、この造花を作って………。  
「………え………何、これ………?」  
あれ、どうして………机の上に、こんな、ゴミの山があるの?ノートに切れ端に、丸めた  
ティッシュに、破れた布切れ………沢山あった造花は、どこに行ったの?  
 
あれ。けれど………ちょっと、待って。  
そんな………そんなの始めから、あるはずないじゃない。  
 
だって、私。  
内職なんて、していないもの。  
 
「………わ、た………私………?」  
 
私は、ずっと、この部屋で。  
ずっと………独り、で。  
 
ず、っと………。  
 
 
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意識の奥底に封印されていた真実をこじ開けられた、麻菜実の精神は。  
もはや、自分自身を欺き続けたかつての日常に還ることなど、適わなくなり。  
「………や………嫌、っ………。」  
ふとした瞬間に………全てを思い出し、悲鳴を上げる。  
 
「いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!!!!!!」  
 
もう何度目かになる絶叫を聞きつけた家族が、階段を駆け上がってくる音が聞こえる。  
 
 
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数日前………ボクがあの事実を知った日から、1週間ほど経ってから。  
大草さんは、学校に顔を出さなくなった。  
「(………関係ない。ボクには、関係ないことだ。)」  
今日も自分にそう言い聞かせて、極力彼女のことを考えないようにしながら、掌の中  
の小説に視線を落とす。残念ながら、内容が頭に入ってくる気配は、無い。  
「大丈夫かしら………先生は、風邪って言ってたけど………。」  
「こじらせたら、肺炎とかにもなっちゃうしね。お見舞い、行こうか?」  
「けど………私ちょっと、怖いかも。ほら、その………旦那さん、とか。」  
クラスの女の子が、彼女を気遣う会話をしてくるのばかりが、耳から頭に入ってくる。  
「………………。」  
もちろんボクだって、彼女が心配じゃないわけがない。あんな話を聞いてしまった後だ、  
彼女が家族から真実を聞かされてショックを受けてしまったんじゃないか、という縁起  
でもない想像は、否が応にも浮かんできてしまう。  
けれど………それでもやはり、ボクは、部外者だ。いくら彼女のことを想っていても、  
助けたいと思っていても、家族でも担任でもない、ただの1人のクラスメイト。例えば  
本当に、他の皆がお見舞いに行くというなら、多少無理矢理だとしても、彼女に会いに  
行く口実もできようというものだが。  
「………っ………。」  
考えてみれば、皮肉な話だ。  
彼女には本当は夫など居なかった、彼女はまだ誰の妻でもなかった。それが、明らかに  
なったというのに………ボクは、そのことを知る以前よりも更に、彼女との間に距離を  
感じるようになってしまった。  
ボクなんかが、自分勝手な恋愛感情や同情で手を差し伸べることなど、許されはしない。  
彼女はそれほどに、繊細で壊れやすい、まるで氷の彫像のような存在だ。  
もどかしさに、人知れず奥歯を噛み締めてみても、現実は何一つ変化しない。  
「………では、この時間で書き終わらなかった人は、明日私に提出してください。」  
いつの間にかホームルームの時間も終わり、先生が二言三言の連絡を残して、教室から  
去っていく。いつものメンバーの数人がそれを追って廊下に飛び出して、何やらまた  
騒ぎが始まったみたいだ。今は、とても首を突っ込む気にはなれないけれど。  
他の生徒も、だんだんと散り散りになっていく。ボクは、日直の仕事があるからまだ  
帰れない。男女が1人ずつ日直を努める今のシステムだと、比較的人数が少ない男子は  
どうしたって、仕事が回ってくる回数が多くなる。  
「(………って、常月さんも日直だったじゃないか。)」  
ボクはそのことに思い至り、早くも人影のまばらになった教室を見渡す。先生の背中を  
追って行った常月さんの姿は、当然のことながら見当たらない。まぁ、あとは机の整頓  
と、窓とカーテンのチェックくらいだから、別にいいのだけれど。  
「………………。」  
そういえば………あの日も彼女が先に帰ってしまって、1人で日直の仕事を片付けたん  
だっけ。風浦さんは、今日は皆と一緒に、先生にくっついていったみたいだ。  
前から順に、机を整頓していく。その間に教室には誰もいなくなる。窓の鍵は、誰かが  
気を利かせてくれたのか、全部閉まっていた。  
最後に教室の灯りを消して、ドアを潜る。他のクラスの生徒数人が行き交うだけの廊下  
に踏み出し、はぁ、と深い溜め息を吐く。  
「(………………。)」  
家に帰っても、また、独りで無力感と倦怠感に苛まれるだけだ。  
本の返却がてら、また少し………図書室で、時間を潰していこう。  
 
 
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望がいつもの面々から解放されたときには、窓の外の景色は夕闇に沈み始めていた。  
宿直室に戻り、はぁ、と息を吐く。  
「おかえり、せんせ。」  
「お帰りなさいませ。」  
「………おかえり。」  
霧、まとい、そして交が、順に望を迎える。女生徒2人に何かを言うような気力は、今  
の望にはもう残されていなかった。  
ただでさえ、麻菜実のことが気に掛かっている上に………数日前に、麻菜実の家族から  
連絡を受けたその事実を、生徒達には決して悟られないよう、気を遣っているのだ。  
「………大丈夫?」  
「ご気分が、優れませんか?」  
2人が、少し心配そうに望の顔を見上げる。今度は、交は黙ったままだ。  
「まぁ、皆さんに付き合った後では、そりゃぁ疲れもしますよ。」  
望はそう言って、精神の疲労を誤魔化した。霧とまといは、それであっさり納得する。  
内心ほっと胸を撫で下ろしながら、望は、すでに1人分しか空いていないちゃぶ台の前  
に、よっこらせ、と腰を降ろした。  
 
と、次の瞬間。  
宿直室に据えられた電話が、けたたましいベルの音を鳴り響かせる。  
 
「………なんですか、一体………。」  
すぐさま、いささか不機嫌そうな様子で立ち上がって、望が自分を呼び続ける電話の下  
へと向かう。受話器を取ると、その向こうから、職員室に居る甚六の声がした。  
「………電話?私に、ですか?はい、解かりました、有難うございます………。」  
それは、職員室からの内線だった。どうやら望宛に、電話が来ているらしい。甚六に  
一言礼を言ってから、望は電話のボタンを押し、保留されていた電話に出た。  
「はい、お電話代わりました、糸色………。」  
電話を受けた瞬間、望が挨拶の文句を言い終えるよりも先に、受話器から声がする。  
酷く取り乱したその声の主に、望はすぐに思い至った。  
「え、と………お、大草さんの、お兄さんですか?」  
そこで初めて、受話器の向こう側の麻菜実の兄は、自分の名を名乗った。  
「とにかく、落ち着いてください………どうなさいました?」  
望は、受話器の向こうから聞こえる声に、時折相槌を打ちながら耳を傾け、そして。  
 
「………抜け出した………!?」  
 
思わず受話器を取り落としそうになりながら、その言葉を復唱した。  
 
 
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見間違い、だろうか。  
「………え………?」  
図書室で、時間も忘れて本を読み耽った後。蛍光灯も消えて、廊下はすっかり薄暗い。  
けれど………確かに、見えた気がしたんだ。  
歩いていく、先。1階から屋上までを繋ぐ、その階段に。  
「(………まさか………そんな、はず………?)」  
ふわりと、風を孕んで揺れる………彼女とよく似た、黒のポニーテールが。  
「………………。」  
気のせいかも知れない。窓の外を、何かが飛んでいった、影かも知れない。だいたい、  
今日彼女は学校に来ていなかったじゃないか、それがどうしてこんな時間にやって来て、  
屋上に向かっているというんだ。そんなこと、あるはずないじゃないか。  
 
「(………そんな、馬鹿な。)」  
そう、見間違いだ。  
そうに決まっている。  
彼女のことを気にし過ぎて、ありもしない幻覚が見えるんだ。  
 
………そうだと、心に言い聞かせる、けれど。  
「………………。」  
心に芽生えてしまった、胸騒ぎは………消えてはくれなかった。  
 
内心、自分自身の行動を馬鹿馬鹿しいと思いながらも。  
ボクの足は、下駄箱への経路を逸れて、そこに居るはずのない彼女の影を追った。  
 
 
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「………ちょっと、出てきます。2人は、ここに居てください。」  
身だしなみを整える暇も無く宿直室を飛び出そうとする望の姿に、何かただならぬ気配  
を感じ、ちゃぶ台に着いた3人は一斉に望に視線を送った。  
「先生、私も………!」  
「いえ………すいません、今回ばかりは常月さんも、残ってくださいませんか。」  
「どうしてですか!?」  
「………何かあったの、先生?」  
2人が食い下がる。交は、その様子をどこか他人事のように見つめている。  
「………交を、お願いします。」  
質問には答えず、望は1度だけ微笑んで、足早に今来た廊下を逆戻りしていった。  
立ち上がって望の後を追いそうになったまといは、しばしの葛藤の後、苦虫を噛み潰す  
ような表情で、再びちゃぶ台に着いた。霧と交は微動だにせず、そのままの格好で座り  
続けている。  
 
しばしの、沈黙。そして。  
「………行かないの?」  
霧が、望以外の人間と話すときの、抑揚に欠ける声で呟く。  
身じろぎ一つせずにじっと正座していたまといが、つ、と視線を上げる。  
「………こっそり、着いて行くと思ってた?」  
「着いて行こうとしたら、止めようと思ってた。」  
ごく静かな、しかしそれと解かるものにはひしひしと伝わる熱を孕んだ、声。  
しばらくの間、霧と視線をぶつからせてから。まといは、机に突っ伏した。  
「………行けるはず、無いじゃない。あんな………。」  
「あんな先生、初めて見たから?」  
言葉の先回りをする霧に、まといがまた、伏せた視線を上げる。どこか、刺すような  
威圧感を帯びたその視線にも、霧は全く動じる気配を見せなかった。  
「………そうよ。だから、何?」  
ぶっきら棒で、刺々しい声。  
「別に………でも………。」  
「でも?」  
「私も、初めて見たから………あんな笑い方する、先生なんて。」  
「っ!」  
まといの瞳に、一瞬だけ、驚きの色が現れる。しかし、それを決して言葉や態度に出す  
ことはせず、まといはそのまま黙って顔を伏せてしまった。霧の方も、敢えてそれ以上  
接触しようとはせず、ずれ掛けた布団を被り直す。沈黙が、再び到来する。  
一抹の居心地の悪さを感じながら、交もまた一言も声を漏らさず、座り込んでいた。  
 
 
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麻菜実は、驚くほど冷静に、眼の前に広がる景色を眺めていた。これは、自分が全てを  
悟った所為なのか、それとも病院で精神を安定させる薬でも打たれた所為なのか。それ  
は解からなかったが、とにかく麻菜実の心は、ほんの数日前の錯乱状態が嘘だったかの  
ように、白波の1つも立たない、凪いだ湖面のような落ち着きを取り戻していた。  
 
数日前、長い間自分を騙していた………いや、『騙してくれていた』家族に聞かされた  
話を、麻菜実は既に、完全に理解し、受け止めていた。  
初めてそれを聞かされ、自分が長い間信じていたものが偽物だったこと、かつての自分  
が信じていた男が自分を裏切ったことを認識したとき。麻菜実の心は、その事実を受け  
止められず、また病んだ状態に逆戻りしそうになった。部屋に引篭もり、自分の頭が  
作り出した幻想の世界の残滓にすがり………しかしそれに陶酔することも許されず。  
麻菜実の心は、今度こそ完全に、壊れかけていた。  
 
しかし。今は、違う。  
家族の手で、精神に病を患った人間が通う病院に入院することとなり。そこで、数日間  
に渡って幾度もカウンセリングを受け、そして、徐々に平静を取り戻した。  
受け入れることの出来なかった残酷な過去も、今はどうにか現実として認められるよう  
になった。自分はかつて、愛し、信じていた男に騙され、捨てられ、その身に宿していた  
新たな命を失った。そして、貴重な青春のうちの長い、長い時間を、自分の病んだ心が  
生み出した幻想の為に、費やした。  
それが、現実である。そのことを、麻菜実は至極冷静な心で、受け入れていた。  
 
それ故に。  
「………………。」  
今こうして、日暮れを迎え、誰も居なくなった屋上に足を運んでいるのも。病んだ心に  
突き動かされた奇行、というわけではない。  
 
長い偽りの時間の中で、唯一偽りではなかった、この、学校での生活。  
数少ない、空想ではない現実の時間を過ごしたこの場所で………自らの命を、絶つこと。  
それが、全てを理解し受け止めた、健全な麻菜実の精神が導き出した、結論だった。  
 
 
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屋上へと続くドアを開き、ボクはしばしの間、呆然と立ち尽くした。  
橙から、灰色を経て濃紺に変わりゆく空を背景に、彼女が立っているその場所は………  
ボクとは、フェンス1枚を隔てた、外側の世界だった。  
ドアノブの音に、気付いたのか。彼女が、振り返る。彼女は、特に驚く様子も見せず、  
ただ、ボクがこの場に居ることが不思議なだけだ、とでも言うような表情で、こちらを  
眺めていた。  
「………大草、さん?」  
「あら………久藤くん。久しぶり。」  
まるで、夏休み明けに朝の教室でばったり出くわしたときのような、何食わぬ調子で  
彼女が挨拶をする。ボクは、彼女の名前を呼んだだけで、喉が震え上がってしまった。  
「な、何………何して、るの………危ないよ、大草、さん。」  
情けない声で、ボクは大草さんに呼び掛ける。そんな悠長なことじゃなく、もっと他に  
相応しい言い方があるように思えたが、しかし、それをゆっくり考えるには、その状況  
は余りに異常過ぎた。  
 
彼女は柔らかく笑って、言う。  
「そうね、危ないわよね………結構、簡単に越えられるもの。このフェンス。」  
「そうじゃ、なくて………大草さん、そこで………何を………。」  
明らかに平常心を失っているボクに向かい、大草さんは笑顔を作るのを止めて、一転、  
どこか申し訳無さそうな表情を浮かべた。  
「ごめんなさい………見つかったら、久藤君にも迷惑掛けちゃうわよね。」  
「………迷惑………って………?」  
「もっと、こっそり独りで行けば良かったわよね………こんな………。」  
そして。次の、瞬間。  
 
「最後まで………関係無い友達にまで、迷惑掛けるなんて………。」  
 
彼女の、その台詞を聞いた途端に………ボクの中で、何かが、弾け飛んだ。  
 
手にしていた本を放り投げて、彼女に、いや、彼女とボクを隔てるフェンスに駆け寄る。  
そのままの勢いで飛び付くと、そのフェンスは彼女の言った通り、案外簡単によじ登る  
ことが出来た。  
頭の片隅では無謀なことだと理解しながらも、ボクはそれをひらりと乗り越えて、その  
向こう側、僅かに人の身体1つ分と少しの幅しかないスペースに飛び降りる。そして、  
片手でしっかりとフェンスにしがみ付いたまま、もう片方の手で、彼女の腕を力の限り  
握り締めた。  
「え………ッ………。」  
ボクの突然の行動と、おそらくは余りに必死な様子を悟った所為だろう。腕を掴まれた  
瞬間、彼女の身体が強張るのが解かった。  
「………、だ………そんな………大草、さん………!」  
自分でも理解のできない、言葉にならない声の断片が、口から漏れる。  
突然の事態に眼を白黒させながら、彼女は、がたがたと震えながら自分の腕を掴むボク  
の姿を見つめていた。  
「………久藤、くん?」  
「だめだ、そんな………ダメだよ………こんなの………!!」  
「え、どうしたの………腕、痛いよ、久藤くん………。」  
そう。ボクは、震えていたんだ。それは、屋上のフェンスの外側、一歩踏み出せば全て  
が終わってしまうような場所で、命綱も何も無しで立っているんだ。少しも怖がるなと  
いうのが、無理な話だ。こんな場所で少しも震えずに立っていられるなんて、よっぽど  
肝の据わった人間か、それともよっぽど頭の悪い人間か。  
そうでなければ………落ちても構わない、と思っている人間。そのつもりでここに居る  
………例えば、死を覚悟しているような人間くらいのものだろう。  
恐怖と、それから極度の緊張と混乱で、喉が震える。思ったような言葉が、出ない。  
しかしそれでも、ボクは必死で肺から息を吐き出して………そして。  
 
「………死ぬ、なんて………ダメだ………!!」  
「………………ッ!?」  
 
ようやく、その一言を搾り出した。  
彼女の表情が、変わる。  
「え………なんで………?」  
「なんで、も何も………そりゃ、こんな所で………それに………。」  
「………久藤、くん………?」  
 
「………知ってるんだ。大草さんが………君が、こんなことする………理由を。」  
「えッ………………!?」  
また、表情が変わる。彼女の顔に、驚きの色がありありと浮かび上がった。  
それはそうだろう。ボクの口からそんな言葉が出るなんて、思いもしなかったはずだ。  
ボクはとにかく、話を続ける。今は、彼女の意識をほんの少しでも逸らせておかない  
と、不安で仕方が無かった。  
彼女の口調がにわかに強張り始める。  
「………どうして、知ってるの?何を知ってるの?」  
「君の、過去のことだよ。昔の………辛いことが、あったって。」  
「誰から聞いたのよ、そんな話。」  
「君の家族が、先生に話してたんだ。ボクは………盗み聞きした。ごめん。」  
「………ッ………。」  
彼女はしばし、その言葉が信じられないような顔でじっとボクを見つめていたが………  
しかしやがて、ボクの言葉に嘘が無いことを悟ったのか、まるで全てを悟ったかのよう  
な無気力な表情をし始めた。  
「………全部、知ってるのね。何が、あったのか。」  
「………たぶん、そうだと思う。」  
「じゃぁ………ごめんなさい。手を、離して頂戴。」  
彼女の身体が、ぐらり、とフェンスとは逆方向に傾きそうになる。ボクは、少し乱暴に  
その腕を引いて、それを引き戻した。彼女は1度がくりと首を揺らしてから、泣いて  
いるのか怒っているのか解からないような顔でボクを見つめた。  
「お願い………離して。このまま………このまま、行かせて………!」  
「………嫌だ。絶対………離さないよ。」  
震える喉に精一杯の力を込めて、ボクは威圧するような声で言う。傍から聞けば、それ  
でもやっぱり情けない声だったかも知れないけれど。彼女はその言葉に反発するような  
強い声で、続けた。  
「どうしてよ………全部、聞いたんでしょ?何があったか、知ってるんでしょ?」  
「知ってるよ。昔の、恋人のことも………その………子供の、ことも。」  
「だったら、なんで離してくれないのよ!!いいから死なせてよッ!!」  
遂に、彼女が叫び声を上げた。  
「もう嫌なの!!どうしていいか、解からないのよ!!」  
「………嫌だ………ダメだ、そんなの………ッ!」  
「もう、何も無いのよ!?これから、どうやって………どうやったら、私………ッ!!」  
しかし、彼女の言葉の勢いは、長くは続かなかった。程なく彼女は声を擦れさせ、その  
ままその狭い空間で、ぺたりと崩れ落ちるようにへたり込んでしまった。片腕をボクに  
掴まれたまま、もう片方の掌で顔を覆う。その下から、涙の雫が滴り落ちる。  
「あの人も、子供も………全部………誰、も、居なくなって………。」  
「………………。」  
「それが嫌で、自分で偽者の世界を作って………それも………壊れ、て、ッ………!」  
「………ッ………。」  
「どうしろって、言うのよ………こんな………こんなに、ボロボロになって………!」  
嗚咽交じりの涙声で、彼女は、時折しゃくり上げながら嘆き続ける。  
その様子が、余りに辛くて、痛々しくて………居ても立っても、居られなくなって。  
 
そして。  
「………ッ………!」  
気が付けば。  
「………っ………?」  
ボクの腕は………フェンスを離れ、彼女の身体を、抱き締めていた。  
 
彼女の嗚咽が、止む。  
自分自身と、彼女と、その両方の震えを抑え込むように。自ら死を選ぶまでに追い詰め  
られてしまった彼女を、必死で、こちら側に引き止めるように。  
力一杯抱き締めた身体は、ボクが思っていた以上に華奢で、弱々しくて………そして、  
ボクと同じ様に、小刻みに震えていた。  
「………ぁ………ぇッ………?」  
彼女の、か細い声が聞こえる。何かを言おうとしているけれど、しかし、上手く声が  
出てくれない。さっきのボクが、そうだったように。  
頭の中で、様々な言葉が、台詞が、ぐるぐると渦を巻く。彼女に伝えたいこと、彼女  
に聞いて貰いたいこと。彼女と出会い、この学校で同じ時を過ごし、そして、彼女の  
真実を知って、彼女が学校に姿を見せなくなったこの数日間の間に想ったことの全てが  
想い返される。  
けれど結局………最後に口を突いて出てきたのは。  
「………大草さん。」  
気が利かない、飾り気も何もあったものではない。  
「ずっと………君のことが、好きでした。」  
「………っ………!?」  
何の変哲も無い、三文小説のような、愛の告白だった。  
しばしの、沈黙。どこか遠くから、踏み切りの警報が鳴る音が聞こえた。  
「………ぇ………な、ん………久藤、くん?」  
余りに突然の、何の前触れも無い告白。事情が飲み込めないのか、それとも言葉の意味  
を理解するのに手間取っているのか。彼女はボクの耳元で、まだ、言葉にならない声を  
発し続けていた。  
「ごめん、こんな………こんなときに、急に。けど………。」  
「なんで………なんで、私なんか………こんな………。」  
「………とにかく………ダメだ。こんなこと、して欲しく、ないんだ。」  
「………どう、して………。」  
お互いに、気持ちの整理など出来るはずもなく。ただ、心に浮かんだ言葉の断片の中  
から、少しでもまともな形をしているものを掬い上げていく。決して会話にはなって  
いなかったが、しかし………ボクは、彼女の震える腕が少しずつ自分の身体にすがって  
くるのを、感じた。  
より一層強く、彼女を抱き寄せる。  
「けど、私………今まで、ずっと………。」  
「………………。」  
「………今まで、皆と、一緒に居たのは………。」  
やがて彼女の言葉は、時を経るに連れてだんだんと確かなものになっていく。そして、  
その言葉から、ボクは彼女の言わんとしていることを、悟った。  
 
それは………こうして彼女に会うまで、少なからず、ボクも感じていたことだった。  
彼女は今まで、自分の心が自己防衛の為に作り出した、幻想の中で生きてきた。彼女は、  
確かにボク達と同じ時間を過ごしていたが、しかし、彼女が見ていた世界は、ボク達が  
見ていたそれとは違う世界だった。  
そんな世界の中で、何の疑いも抱かずに、平穏に暮らしていた彼女。そして………今、  
こうしてボクの眼の前に居る、全てを知り、それまで信じていた世界が偽物だったこと  
に気付いてしまった彼女。  
果たして………それは、両方とも同じ彼女であると、言えるのだろうか。彼女が真実を  
知り、自らの正体に気付いたとき、2年へ組のクラスメイトの大草麻菜実という少女は、  
果たして実在し得るのだろうか。  
それは、ボクが彼女の真実を知った後、彼女に対しそれまで以上の距離を感じていた  
原因の1つでもあった。再び彼女がボクの眼の前に姿を現したとき、彼女が、ボクが  
ずっと恋焦がれてきた彼女とは別の誰かになってしまっていたら。そんな不安に苛まれ  
たことは、1度や2度ではない。  
 
しかし………ボクはもう、気付いていた。それが、全くの杞憂だったことに。  
「違うよ。」  
「え………………?」  
 
彼女が、死を決意していることを悟ったとき。ボクの身体は、ボクの意識がそう命じる  
よりも早く、彼女をここに引き止める為に駆け出していた。  
そして、今。こうして、腕の中に居る彼女の嘆きを聞く度に、彼女が死を口にする度に、  
ボクの胸は、まるで万力にでも締め上げられているような痛みを覚えた。  
彼女に、死んで欲しくない。そんな決断を、して欲しくない。  
愛する人がそんなにも傷付いている姿を、どうして、黙って見ていることができようか。  
「………好きなんだよ。大草さんが………今、ここに居る、君が!」  
「ッ!!」  
「今までのことなんて、関係無い………君は、君だ………!」  
そう。ボクは、全てを知り、この世界に絶望した彼女を………引き止めたいと、思った。  
今でも、彼女への愛は、消えていない。それが、今ここに居る彼女が、紛うことなく、  
ボクがずっと恋焦がれてきた彼女自身であることを証明している。  
「死んで欲しくないんだ………君が居なくなるなんて、考えられない!嫌なんだ!!」  
彼女を掻き抱いたまま、吠えるように愛を叫ぶ。彼女の腕は震えながら、いつの間にか  
ボクの背中に回されていた。  
 
「………ぁ………ぅ、ぇ………ッ………!」  
彼女がまた、何事かを呟く。なんと言っていたのかは、よく、解からなかった。  
「だから………ダメ、だよ………戻ろう、大草さん。」  
ボクは声量と声のトーンを落として、彼女の耳元でそう呟く。  
ぐずぐずとすすり上げながら、彼女がゆっくり、小さく頷いたのが、解かった。  
 

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