そんな恋愛なんて、ボクにとっては、フィクションの世界だけの存在だと思っていた。  
本当にドラマチックな恋なんていうのは、世界に星の数ほど居る人間のうちのほんの  
一部だけが体験できる特別な代物であって。その他大勢の人間は、フィクションの世界  
に触れることで疑似体験することしか出来ないものであって。そしてボクは、確実に  
その他大勢の側に居る人間であると。ずっと、そう思っていた。  
「………はぁ………。」  
そう。ずっと、思っていたんだ。  
このクラスで………あの人に、出会うまでは。  
 
「ごめんなさい、帰って夕食の用意しなきゃいけなくて………。」  
「あ、そうなんだ。いいよ、あとはやっておくから。お疲れ様。」  
その日、残った日直の仕事を引き受けて、ボクは大草さんの背中を見送った。申し訳  
なさそうに1度ぺこりとお辞儀をして、改めてお礼を言って、彼女は去っていく。  
廊下へ続くドアからこっそり顔を出して、小走りに昇降口へと向かう大草さんの背中  
を見つめながら………ボクは、小さな溜め息を吐いた。  
「どうしたの久藤くん。溜め息なんて。」  
教室に誰も残っていないことを確認した後だったから………背後から突然声を掛けられ  
て、ボクの身体は思わずビクリと跳ねた。  
「………あれ。まだ残ってたんだ、風浦さん。」  
いつの間にか背中を取っていた彼女に内心驚きながら、なんとか平静を保って返事を  
する。彼女とは小さい頃から何かと縁があり、まぁそれなりに長い付き合いにはなる  
のだが………今でも、何を考えているのか解からないことがある。  
「別に、なんでもないよ。ちょっと、疲れてるだけ。」  
「そう。あれ………麻菜実ちゃん、帰っちゃったの?日直は?」  
「夕食の準備だってさ。ほら………いろいろ、大変なんでしょ。大草さん。」  
「そっか………手伝う?」  
「有難う、でも大丈夫。もう終わるから。」  
こうして、普通の会話も出来るんだけど。時折見せる、妙な行動力というか、傍から  
見たら奇行にしか見えないことに注ぐエネルギーは、どこから出てくるんだろう。  
………ああ、やっぱりこんなドラマチックな恋は、風浦さんみたいな、ちょっと普通  
からは外れた人が体験するべきだな。ボクみたいなありきたりな男には、荷が重い。  
そんなことをつらつらと考えているうちに、風浦さんは教室を出て行った。去り際、  
無理しないでね、と一声掛けてくれた彼女に微笑んで、手を振る。  
そして………独り残された教室で、ボクはまた、溜め息を吐くのだった。  
 
子供の頃は、ちょっと気になる女の子の2人や3人、出来たことはあるけれど。それ  
は、この歳になって考える恋愛とは、やっぱり少し違ったもので。そう考えると、  
ボクは今まで、本当に誰かに恋をしたことが無かったんじゃないかと思う。  
だから………今、ボクが落ちているこの恋こそが、ボクにとっては、人生で初めての  
恋ということになる。  
正直に言えば、今までに女の子から愛の告白を受けたことは、何度もある。それこそ、  
両手の指じゃ数え切れないくらいに。自分では、どこにそんな要素があるのかピンと  
来ないけれど、どうも昔から、恋愛対象にされやすいらしい。けれど、そのどれもが、  
ボクにとっての初恋には到らなかった。その理由は………やっぱり、自分が恋愛感情  
を抱いていない相手と付き合うというのは、その相手にとっても失礼だと思ったから  
………だろうか。まぁ、それを言うと、愛の告白なんてものはほとんど成立しない  
ことになってしまうけれど。特に気になっていたわけじゃないけれど、告白された  
からとりあえず受け入れる、という人も居るけれど………まぁ、それで結果的に幸せ  
になれれば問題無いのかも知れないし、そもそもボクなんかがそれが正しいか間違って  
いるかなんて決められない。だからそれについて、何か言うつもりは無い。  
 
………話がズレたけれど、とにかく、今まで恋愛らしい恋愛をしたことがなかった、  
恋愛に関してはまるで素人のボクにとって。  
「(………大草さん………。)」  
この恋は………余りに、重たかった。それこそ、両手に余るくらいに。  
相手が同級生、というだけなら、どこにでもある恋愛だけれど。まさか、その相手が  
………高校生にして既婚の、人妻だなんて。しかも、そもそもそんな女の子自体が、  
そうそう身近に居るものではないだろうに、その上で彼女はその結構生活に、旦那の  
借金やら浮気やらと、複雑すぎる問題を抱えている。  
 
同い年で、そんな、とてつもない心労を抱えているにも関わらず。ああして、ボク等  
となんら変わらない笑顔で強く生きている彼女に、ボクは惹かれたのだろうか。  
それとも、彼女の境遇に、あの人の影を………いや、それは考えないようにしよう。  
いずれにしても………彼女が既に他の男の妻である以上、ボクの出る幕など、ありは  
しないのだ。どうして、ボクが割り込んでいく隙なんてものがあろうものか。  
 
この心の内で確かに花開き。しかし、決して実を結ぶことは有り得ない。  
この先に何を残すでもなく、ただそこにあるだけの、まるで徒花のような恋心。  
本当に………こんなに面倒な恋煩いなんて、小説の中だけの話にして欲しかった。  
 
机の整頓を終える。窓の鍵は、さっきチェックした。  
「………帰ろう………。」  
ボクは独り、力無くそう呟いて………鞄を担ぎ、教室を後にした。  
 
 
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ホームルームを終えて、望が宿直室に戻る。生徒達もあらから出払って、残っている  
のはクラブ活動に勤しむ部員達くらいのものだ。文学部や書道部の顧問は、授業が  
終わっても生徒に付き合わなければならない………断っておいて良かった。  
「交………は、皆さんと一緒ですか。」  
ちゃぶ台の上のメモを手に取って、望は苦笑した。  
『少し、交くんを借りていきます。2のへ組一同。』  
一同、とはまず間違いなく、女子一同のことだろう。女子高生のお姉様方と一緒に外出  
だなんて、普通は、あの歳の男の子にとっては楽しいイベントだろうが………メンバー  
がメンバーだ。交も、また何か新しいトラウマを作ってくるかも知れない。  
「………まぁ、交には悪いですが………のんびりさせて貰いますか。」  
「そうですね………。」  
「って、常月さん!皆さんと一緒じゃないんですか!?」  
いつの間にかちゃぶ台の向かいに陣取ったまといの姿に、望は思わず1歩後退る。  
「迷ったんですが、やっぱり先生のお傍に居たくて………。」  
「………はぁ………。」  
「久々に、先生と2人きり………嬉しいですわ。」  
「3人だよ。」  
そうしているうちに、今度は押入れの中から、霧の声が割って入る。  
「って、小森さんまで!人のプライベートルームに、勝手に入らないで下さい!」  
「………宿直室だよ、ここ。」  
せっかくの孤独な時間を邪魔されて、望ががっくりと肩を落とした。  
 
と。そのとき。  
『コン、コン。』  
宿直室の戸をノックする音が、宿直室に響く。  
 
「おや………誰でしょう?」  
これ幸い、とばかりに、望が立ち上がりそそくさと出入り口へと向かう。正直な話、  
あの2人の間に居るというのは、かなり気まずかった。原因はほとんど、望が彼女達  
にあらぬ勘違いをさせたことにあるだが。  
「はいはい、今開けます。」  
ガラ、と引き戸を開ける。その先に立っていたのは、望の見知らぬ、男であった。  
「え、っと………失礼ですが、2年へ組の、糸色先生はいらっしゃいますか?」  
「糸色は、私ですが………どちら様でしょう。」  
「あ、すいません、申し送れました。私達は………。」  
私達、と言われ、望は首を傾げる。すると、戸の前に居た男の背後から、背の低い女性  
が1人顔を出し、ぺこり、と頭を下げた。  
そして、男の方も。  
 
「………麻菜実の、身内の者でございます。」  
 
そう言って、女性にならうように頭を下げた。  
 
 
//////////////////////////////////////  
 
 
図書室で本を返して、次に読む本を借りて、下駄箱へと向かう途中。  
宿直室の前を通り掛った所で、ボクは、意外な2人の姿を眼にした。  
「あれ………常月さん、小森さん。」  
2人が、振り返る。  
「あ………久藤くん、久し振り。」  
「あら。今、お帰り?」  
まず霧が、次いでまといがボクの姿に気付いて、各々挨拶をする。この2人が一緒に  
歩いているのを見るなんて、珍しいことだ。2人は一応、糸色先生を巡る恋敵のはず  
なんだけれど。  
と。そういえば、先生の姿が見当たらない。常月さんが先生の居ない所に居るなんて  
珍しい。小森さんに到っては、こうして廊下を歩いているのを見るのが久し振りだ。  
「珍しいね。先生の所じゃないんだ。」  
「先生、お客さんだって………大事な話があるから外して欲しい、って。」  
常月さんに尋ねたつもりが、小森さんに答えられる。  
「へぇ………先生に、ねぇ。」  
なんだか、先生がこの2人を追い出してまで対応するような相手を思い描くというの  
は、難しいような気がした。誰かの保護者でも来たのだろうか。まぁ、木津さん辺り  
なら家で先生のことをどう言っているのか解からないから、苦情の1つも言われそうな  
ものだけど。  
 
などと、つらつらと考えをめぐらせていた、そのとき。  
「大草さんの、ご家族の方ですって。なんでも、大事な話があるとかで。」  
常月さんが呟いたその言葉を聞いて………ボクの思考が、一瞬だけ、停止した。  
 
「………大草さんの、家族?」  
「ええ。せっかく皆出払って、先生と2人で静かに過ごせると思ったのに………。」  
「3人だってば。」  
2人の間に微かな火花が散るのにも、気付かず。ボクは、立ち尽くした。  
大草さんの、家族。  
それは、まさか………大草さんの、夫、のことだろうか。  
 
「………まだ、居るのかな?」  
「え?ええ多分、さっき来たばかりだから………。」  
「久藤くん、先生に用事?」  
「ああ、いや………ちょっとね。」  
適当に、話をはぐらかす。やがて2人との会話を終えて、結局、先生が忙しいなら用事  
は後にして今日は帰る、ということを2人に仄めかし、形だけは下駄箱に向って歩き  
出す。  
 
そして、宿直室を去る2人の背中が、廊下の曲がり角の向こうに消えた後………ボクは  
こっそりと、宿直室の前に舞い戻った。  
戸をほんの少しだけ開けて、中の様子を伺う。中には、こちらに背を向けて座る先生  
と………それに向かい合って、つまりはこちらを向いて座っている、2人分の人影が  
見えた。  
片方は、背の低い、見たところ初老の女性。そしてもう1人は………割と体格の良い、  
若い男の人だった。さっきの疑惑が、脳裏を過ぎる。  
「(まさか………あれが………?)」  
もしかするとあの男が、大草さんと結ばれ………借金や浮気で、彼女に苦労を掛けて  
いる張本人なのだろうか?  
少なくとも、一見した限りでは、そんなに不誠実な人間には見えないが………。  
「ご家族、と仰いましたが………そちらは、お母様で?」  
「はい。麻菜実の、母です。」  
 
「すると、そちらは、もしかして………。」  
先生が、いきなりボクにとっての核心に迫る質問をする。大草さんの家族と名乗った  
相手が、彼女とどんな関係なのか確かめているだけなのだから、至極当然の流れなの  
だが………ボクは必要以上に緊張し、掌に汗を滲ませた。  
そして………。  
「はい、私が、麻菜実の夫………。」  
「(………ッ………!?)」  
その男が放った、言葉を耳にして。  
 
「………ということに、なっております。」  
 
「え?」  
「(え?)」  
 
ボクと、先生が、同時に声を失った。  
 
 
//////////////////////////////////////  
 
 
麻菜実の夫、ということになっている。  
その言葉を聞いた瞬間には、望は、その意味を理解できなかった。  
「ええ、と………なっている、と、仰いますと………?」  
ちゃぶ台越しに望と向き合ったその男は、しばし、視線を落として口を噤んだ後………  
意を決したように顔を上げて、低い声で、語り始める。  
「私は………麻菜実の、兄です。」  
「………………は?」  
いよいよもって、話が見えなくなる。夫であるということになっていて、しかし実は  
兄である、とは一体全体どういった事情だろう。一瞬、禁断の恋を想像してしまうが  
………それを、わざわざ担任の教師に伝えには来ないだろう、と考えを改める。  
「すいません………その、何から話せばいいのか。」  
「あ、いえ………ゆっくりで、結構ですよ。どうせ暇ですから。」  
未だにどんな素性を持つのか解からない男と、麻菜実の母の重苦しい雰囲気を悟り、望  
は努めて明るい声でそう言った。しかし、その額には、何か嫌な汗が浮かんでいる。  
「おそらく先生は、うちの麻菜実が既に学生結婚をしているとお聞きでしょう。」  
「え、ええ………旦那さんの話は、よく伺っておりますが。」  
望の言葉に、男はまた視線を落とし………今度はそのままの姿勢で、言った。  
 
「麻菜実は………結婚なんて、していないんです。」  
 
宿直室の空気が、凍り付く。  
「え………いや、しかし………麻菜実さんご本人は、確かに………。」  
「ですから、その………非常に、言い難いことなんですが。」  
「………………。」  
「………麻菜実が、そう思い込んでいる、だけなんです。」  
予想だにしなかったその言葉に、望は再び、言葉を失った。  
 
「………まさか………何故、そんな………?」  
「話せば、長くなりますが………先生のお耳には、入れておきたくて………。」  
男は、そう前置きしてから、事の顛末を語り始める。  
 
 
麻菜実の兄の、話によれば。  
1年前まで………麻菜実には、実際に結婚するはずだった相手が、居たのだという。  
名前は明かさなかったが、どうやらその彼は、中学校の頃から麻菜実と付き合っていた  
恋人だったらしい。両親や兄とも仲良くなり、大草家とは、家族ぐるみの付き合いを  
していたのだそうだ。  
 
しかし。その関係は、ある事件をきっかけにして、激変することになる。  
麻菜実が………その恋人との間に、新たな命を授かってしまったのだ。  
 
高校生で妊娠、だなんて、最近ではそれほど珍しい話でもないが………しかし、それは  
決して、世間一般に認められるような出来事ではなかった。恋人の家族も麻菜実の家族  
も、そのことに関しては、2人をこれでもかと言うほど叱り付けたそうだ。  
しかし、いくら叱ったところで、麻菜実の置かれた状況は好転しない。冷静になった  
両家は、麻菜実の授かったその命について、今後どうしていくかを話し合った。どちら  
の家族も、その命の芽を摘み取ってしまうことには、いささかの抵抗があった。しかし  
高校生の2人が、赤ん坊1人を養って生きていけるほど世の中は甘くない。  
そこで両家は、麻菜実の出産を許し、生まれた子供は2人が家庭を築ける能力を持つ  
ようになるまで、協力し合って育てるという結論に到った。その頃、恋人の方は既に  
高校を卒業していたが、麻菜実はまだ法律上は結婚が許される歳ではなかった。  
その後、恋人は自立する為に必死で勉学に励み、やがて、自ら会社を立ち上げる決意を  
するまでに到った。大草家も、それに協力する為、少なからず資金を提供した。  
後は、恋人が自立し、妻と子供を養って生きていけるだけの人間に育って麻菜実を迎え  
に来てくれるまでの辛抱だ。麻菜実は、自分と恋人の家族に感謝しながら、腹の中に  
新たな命を抱き、辛抱強くその時を待った。どこからか噂を聞きつけたクラスメイトに  
後ろ指を指される様なこともあったが、しかし、恋人への信頼と自らの子供への愛情  
が、麻菜実の心を支えていた。  
 
しかし。悲劇は、突然訪れることになる。  
麻菜実の恋人は、あろうことか………起業の為に麻菜実の両親が貸した金を持ったまま、  
蒸発してしまったのだ。  
何の前触れも無く、連絡1つ寄越さず。家族にすらその行き先を告げず、恋人は………  
いや、麻菜実の恋人を名乗っていたその男は、全てを捨てて、逃げ出したのだった。  
麻菜実と家族が相手の家族を追及するも、恋人の行方は知れず。やがてはその家族も、  
断りも無く逃げるように転居し。後には、茫然自失の麻菜実だけが残された。  
 
全てが眼の前から消え去ったその日の夜、麻菜実は自宅で倒れ、近くの病院へ入院する  
ことになった。そのときの衝撃と、おそらく精神的な疲弊も祟ったのだろう………残酷  
なことに、麻菜実が宿した新しい命は、1度も外の世界の光を知ることなく、潰えた。  
入院中、麻菜実は家族に対しても一言も口をきくことはなく。体力的に回復し、自宅に  
戻った後も、長い間自室に引篭もるような生活が続いた。家族もその様子を悼みながら、  
しかし掛ける言葉を見つけることが出来ず、無力感と、蒸発した男への憎悪に苛まれ  
ながら日々を過ごした。  
 
そして。家族すらも麻菜実の姿を見ないまま、数日が経った、ある日。  
意を決して、麻菜実の部屋に向かったのが………麻菜実の、兄だった。  
兄には、麻菜実の心の傷の深さを推し測ることなど到底出来はしなかったが、しかし、  
そのまま何もせずに麻菜実を放っておくことなど、耐えられなかったのだ。麻菜実に、  
立ち直って欲しい。あんな男の為に、この先の人生をこれ以上大きく捻じ曲げて欲しく  
ない。その想い1つで、兄は、麻菜実を部屋から連れ出す決心をした。  
 
しかし。  
数日の間、麻菜実と家族を隔絶してきたそのドアを開いた先に居た、麻菜実は。  
自分を迎えに来た、兄の姿を見て………思わぬことを、口走った。  
 
『ああ………おかえりなさい、「あなた」。』  
 
麻菜実は、自分の、実の兄に向かって。そんな言葉を、放ったのだった。  
 
 
「………そんな、ことが………。」  
望は、声を詰まらせた。  
「医者からは………麻菜実の心が、自分を護る為に取った行動だと、聞かされました。」  
「………つまり、その………精神的なショックの所為で………?」  
「はい。耐え難い現実を忘れる為に、記憶を書き換えてしまったのだろう、と………。」  
余りに、残酷というか、壮絶というか………とにかく荷が重いその話を聞かされ、望は  
しばし、麻菜実の兄と母に掛ける言葉が見つからなかった。  
それを察したのか、望の返事を待たずに、兄が続ける。  
「その………こんな話をされても、迷惑かとは存じますが………。」  
「あ、いえ、そんな。」  
「けれど………糸色先生には、どうしても、伝えておきたかったんです。」  
「………私には、と言いますと、今までは………?」  
「今まで担任してくださった先生には………いえ、他のどの先生方にも、まだ。」  
望が、首を傾げる。  
「………どうして、私にだけ?」  
兄は、ほんの少しだけ言葉を探すために沈黙した後、疲れ切ったような、しかしどこか  
安らぎを感じさせる微笑みを浮かべた。彼がこの部屋に来てから笑顔を見せたのは、  
そういえば初めてのような気がした。  
「今までは、麻菜実の口から学校での話なんて、聞いたことが無かったんです。」  
「………………。」  
「それが、最近では………よく、話してくれるんです。クラスのこと、先生のこと。」  
「………そう、ですか。」  
「もしかしたら………麻菜実も、皆さんのお陰で、変わったのかも知れません。」  
確かに、変わり者だらけのあのクラスに居れば、変わりもするだろうが。喉まで出掛け  
たその言葉を、望はもう1度腹の底に呑み込んだ。  
「そう考えたら、どうしても、話しておかなければと思えてきまして………。」  
兄が、また、言葉を詰まらせる。その隣で、母は始終黙り込んだままだった。  
「………解かりました。有難うございます、心に留めておきます。」  
「………はい………。」  
そして。望は、最後に尋ねる。  
「差し出がましいようですが………これからは、どうなさるおつもりですか?」  
「麻菜実も、昔より、精神的に立ち直ってきているのだと思います。ですから………。」  
「………………。」  
 
「遠からず………真実を伝えなければ、と。そう、思っています。」  
 
その答えを聞き、望は微笑んだ。  
「………そうですか。」  
「麻菜実にはまだ、未来があります。私達が、触れるのを怖れていては………ね。」  
「うちには、カウンセラーの先生も居ますから。何かあったら、相談してください。」  
「………有難うございます。」  
兄はそう言って、深々と頭を下げた。天辺が少々薄くなっていて、これは気苦労の所為  
なのだろうな、というようなことを、望はぼんやりと考えた。  
 
一通りの話を終えて。望は、2人を来客用の玄関まで見送った。  
ひとまず、クラスメイトの面々には麻菜実のことを口外しないことを約束した。それは、  
麻菜実が本当に立ち直ったその後に、知らせればいいことだ。変に気遣わせて、生徒達  
の関係を壊してしまうようなことがあってはいけない。  
挨拶を済ませ、その背中を見送った後。望は、がくり、と肩を落とす。  
「………どっと、気疲れしてました………話が、重い………。」  
「御疲れ様です、先生。」  
「もう、戻っていいの?」  
「わぁ!け、気配を消して忍び寄らないで下さい!しかも、小森さんまで!」  
いつの間にか後を追っていた2人に狼狽しながら、望はいつもの調子で、ばたばたと  
宿直室へ引き返していった。  
 
結局最後まで………望が、いつの間にか学校を去った准に気付くことは、無かった。  
 
 
//////////////////////////////////////  
 
 
後悔した。  
何も、知ろうとしなければよかった。  
心の底から、自分の軽率な行動を、呪った。  
「(………なんだよ………そんなの………。)」  
彼女を捨て、彼女の心を病ませた男への、果てしない憎悪。  
何の理由も無く、そんな身勝手な男に人生を狂わされた彼女への、深い憐憫。  
そして………。  
「(ボクが、知ったところで………どうしようも、ないじゃないか………ッ。)」  
絶望的な程の、無力感。  
ボクは自分が、彼女にとっては所詮、1人のクラスメイトに過ぎないことを改めて思い  
知る。本来ならば知る由も無いはずの、愛しい彼女の悲しい真実を知り………しかし、  
何一つとして、起こせる行動などありはしない。一方的に憧れているだけの彼女の過去  
に根差した問題に、どうしてボクなんかがしゃしゃり出ていけるものか。  
「(ボクは………ボク、なんか………ッ!)」  
彼女の日常に干渉する権利も、彼女が信じてきた世界を否定する権利も………ボクには、  
彼女を救い得るどんな権利も与えられていない。唯一与えられているのは、彼女が真実  
を知り、そして立ち直るその時を、ただ祈りながら待つという権利だけ。  
その程度だ。ボクに、そんな大それた資格など、あるはずもないのだ。  
「(………くそ………っ………。)」  
コンクリートの塀に、拳を叩き付ける。鈍い音が鳴り、痛みが骨にまで響く。  
 
全身を掻き毟るような、焦燥にも似た感情は消えることなく。  
ただ、ボクの心の闇の底で、じりじりと燻り続けるのだった。  
 
 
//////////////////////////////////////  
 
 
数日後。  
 
麻菜実は、自宅の居間で、見慣れた顔の男と向き合っていた。  
テーブルを挟んだその向こう、男の両隣に、自分の両親が控えている。  
何故、こんなに沈痛な表情をしているんだろう。数分前、麻菜実は首を傾げた。  
 
そして、今。  
 
「麻菜実。今日はお前に、大切な話をしなくちゃいけない。」  
「お前にとっては、とても辛いことかも知れないが………。」  
「お前には、真実を知る権利があって、俺達にはそれを伝える義務がある。」  
「家族として………いつかは、通らなければいけない、試練なんだ。」  
「だから………眼を背けずに、向き合って欲しい。」  
「お前なら、きっと受け止められるって………俺達は、信じてる。」  
「………『兄さん』が………これから、話すこと。しっかり、聞いてくれ。」  
 
麻菜実の頭の中で、眼の前の男が数分前に放った言葉が、リピートされる。  
壊れたビデオデッキのように、同じ言葉と場面が何度も何度も再生される。それは、  
いつも決まった所で頭出し繰り返し、その先へ進もうとしない。  
まるで………麻菜実の頭が、場面がその先へ進むことを、拒んでいるかのようだった。  
 
やがて。  
延々と繰り返されるその映像を見つめ続ける、麻菜実の心の中で。  
 
何かが、ひび割れる音がした。  
 
 
(続く)  
 
 

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