「はい、みなさん、ちょっと静かにしてください。先週お話したとおり今日から2週
間、教育実習の先生と一緒に授業することになります。それではまずみなさんに挨拶を
お願いできますか?」一年ろ組の教室、いつもの月曜の朝と同じように、糸式望は大声
で教室の生徒達に話を始めた。
教室の入り口の近くには、地味目のワンピースに身を包んだ教育実習生の女性が立っ
ている。望に促されて教卓に上がり、一呼吸置いてから口を開いた。
「みなさん、始めまして。木津千里といいます。今日からこのクラスで、糸色先生、
そしてみなさんと一緒に勉強することになりました。いろいろ至らないところが多いと
思いますが、一生懸命頑張りますので、何かありましたら気楽に話しかけて下さいね」
そう言うと黒板に大きく「木津千里」と書いた。
教室の後ろの方からは、男子生徒たちの「結構可愛いじゃん」という小声だが無遠慮
な内容のおしゃべりが聞こえてくる。
(木津さんが、先生になるんですね・・・)望ははっきりとはしていないが、やや苦笑
したといった感じの面持ちで木津の挨拶を聞いていた。
木津が教育実習に来ることを知ったのは、つい一週間ほど前のことである。実のとこ
ろ、教育実習生を受け入れなければならないことはもっと前から通知で知らされていた
のだが、、名前を確認することすらしていなかったので、通知に木津の名前が載ってい
るのに気づいたときには相当驚くことになった。
木津が新宿区の小石川区との境にある有名私立大学の文学部に進学したことは、自分
が進路指導を担当したこともあり、もちろん知ってはいたのだが、卒業後は年賀状のや
り取りがあるくらいで、まさか教職に進もうとしているなどとは思ってもみなかったの
だ。
(私を驚かせようとしたんでしょうか?)教育実習可能なら母校に来ることが優先さ
れるため、糸色のクラスに来ることも可能性としては十分考えられる。
(しかしそれでも偶然ですよね・・・)
木津の挨拶が終わると、1日目の予定の通り、教室の後ろで授業を見学することにな
った。
「はい、では授業を始めます。教科書は・・・148ページですね。その日、玉川上水を水
源とする地域で、水道水を飲むのは嫌だった、その心理を想像してみましょう、という
問題です」
その国語の授業の最中、視野の隅で熱心に木津がメモを取っている姿が見える。いつ
になく緊張して授業をすることになってしまった。
(昔なら、私が脱線するたびに、木津さんが注意してくれたものですね。私も昔ほど
は脱線しなくなりました。私がつまらない大人になったのか、あのクラスが特別だった
のかどっちでしょうね?)
* * *
放課後、職員室で今日の授業の内容について、木津がまとめたレポートを元に、質問
や指導を行った。木津のまとめた内容はさすがにしっかりしており、望は素直に関心し
た。
説明も一段落がつき、木津も少し気が緩んだ感じとなった。
「まさか私のところに教育実習にくるとは思いませんでした」
「私も驚きましたよ、先生。この学校に来ることになるのは知っていましたけど」
「教え子で教職に付いたものはいるのですが、教育実習に来たというのは初めてです
ねえ」
「そうなんですか? ところで私どうですか? 昔と比べて。それとも、私のことな
んて忘れていたとか?」
「まさか、木津さんのことは忘れようがないですよ。まあ、遠慮なしではっきり言わせ
てもらうと・・・ずいぶん丸くなりましたね」
「丸く・・・ですか。私そんなにきつかったですか?」
「はい、正直教師扱いされていなかったと思います」
「そんなことはないですけど」望の言葉を聞いて木津は笑い出した。
「木津さん、時間があるなら、帰りにお茶でも飲んでいきましょうか。ちょっと用事
をすませる間待っていてもらえるなら」
「はい、先生がよろしければ」
望が片づけをしたり、明日の教材の準備をしている間、木津は職員室の中で、甚六先
生たちに挨拶をしている。昔のことを話しているのだろうか、時折大きな声で笑ったり
するのが聞こえる。とても楽しそうだ。
三十分ほどが経ち、一緒に校門を出た。
「智恵先生がお辞めになったのは残念ですね。私もいろいろ相談にのってもらってい
たし」歩きながら木津が話しかけた。
「私には相談なんか一度もしてくれたことないですよね、そういえば」望は少し拗ねた
ような感じで言った。
「変わらないですねえ、先生。智恵先生が結婚したときは残念でしたか?」
「木津さんもそういう意地悪なところは変わってませんよ」
学校の近くの古い喫茶店に入った。木津が生徒の頃には、先生に会う可能性もあった
ので、あまり行かなかった場所であるが、数回晴美と一緒に来たことがあるので見覚え
がある。望も木津もコーヒーを注文した。
「木津さんはどうして先生になろうと考えたんですか?」
「ええと、そうですねえ・・・やっぱり糸式先生の影響だと思います」
「別にお世辞を言う必要ないですよ。教育実習の評価はちゃんと書いてあげますから」
「いや、本当です。大学2年までは特に何か考えていなかったんですけど、私が何を
やりたいか考えたら、あの頃のことを思い出して・・・あんな楽しい思い出をみんなに
作ってあげるような仕事がいいなあ、と思い始めて・・・。」
「そんなに楽しかったですか? あなたが一番文句を言っていたと思いますよ。授業
の内容については特に」
「確かにそうでしたね・・・。あの頃はすみませんでした」
思ったより真面目な顔をして木津が謝ったので、望は少し慌てた。
「いや、そんな謝ることではないですよ・・・考えてみると私も木津さんにはいろいろ
と挑発のようなことをしていたようです。」
「ええ、それは感じていました。ずいぶんからかわれはしたな、と」
「じゃあ、私も謝っておきます。ごめんなさい。もう許してくれますよね」
「はい」
二人は声を上げて笑った。
「先生はまだ宿直室に寝泊りしているんですか?」
「まさか。さすがに新しく家を借りていますよ」
「交君は?」
「交は親と一緒に地元に帰ってます。もう小学4年生ですからね」
「それじゃあご実家でやっとお兄さん夫婦と暮らしているわけですね。良かったで
すね」
一時間ほど喋ったあと、二人は喫茶店を後にした。
都電の駅が近づき、また明日、と別れの挨拶をしたあと、少し迷ってから木津がぽつ
んと言った。
「先生・・・結婚は・・・まだ考えてないんですか?」
「毎年見合いの話はありますけど」
「そうなんだ。じゃあ、私にもまだチャンスがあるかな?」
笑いながら、声だけは努めて真面目に、望は言った。
「木津さん、私はちゃんとした社会人でないと結婚の対象としては考えませんよ。そ
ういう妄想は教育実習が終わって無事に教員になれてから考えたらどうですか?」
「そうですね。」
「最近は教師も狭き門です。こんな楽な仕事そうそう空きがでるもんじゃありません
からね。教育実習が終わったぐらいで安心しちゃだめですよ」
「はい、私も絶望先生のような立派な先生になれるようがんばります!」
少しふざけてそう言うと、木津は改札をこえて駅の中に消えていった。
それを見ながら望は、自分が教師になってよかったと思っている事に気づいた。
(木津さんたちのおかげで、私も昔ほど絶望しなくて済むようになったのかもしれま
せんね・・・)
そんなことを考えながら、望は自宅に向かって歩き出した。
おわり