その日、望は、可符香と都内のレストランで食事をしていた。  
 
と、奥の方で何やら女性のわめき声とともに、バシャッという水音がした。  
驚いて顔を上げた望達の横を、憤怒の表情をした女が通り過ぎて行く。  
望と可符香は顔を見合わせると、女性のいたテーブルの方向を振り返った。  
すると、望の目に映ったのは、自分とよく似た顔の青年。  
「命兄さん…。」  
命が、むすっとした顔で、髪からしたたる水をナプキンで拭いていた。  
 
「いったい、どうしたんですか、兄さん。」  
食事もそこそこに、望達は命と共にレストランを出た。  
命は、まだハンカチでシャツを押さえている。  
「ワインじゃなくて助かったな…あの女、それくらいの良識はあったらしい。」  
ぶつぶつ言っている兄に、望はあきれた目を向けた。  
「何をやって、食事の最中に水浴びをする羽目になったんですか。」  
命は、望の目を見ずに答えた。  
「別に…単に、会うのは今日で終わりだって話をしただけなんだがな。」  
 
望は眉をひそめた。  
命は、自分なんかよりも余程女性の扱いに長けている。  
不用意に、そんな女性を逆上をさせるような発言をするとは、らしくない。  
先ほどから、命が自分と目を合わせようとしないことも気になった。  
 
と、可符香が望をつんつんとつついた。  
「先生、今日は私、先に帰らせてもらいますね。」  
「え…、あ…じゃあ、送りますよ。」  
可符香は笑った。  
「やだなぁ、まだ宵の口じゃないですか、1人で大丈夫ですよ。それに…。」  
と、命の方をちらりと見て、望に頷いた。  
望は、じっと可符香の顔を見ると、頷き返した。  
「…そうですか、そうしたら、今日は申し訳ないですが…。」  
 
命が顔を上げて望を見た。  
「な…。お前達、食事もまだ途中だろ?」  
望は命の肩に手を回した。  
「いいんですよ。たまには、兄弟でゆっくり飲みましょうよ、兄さん。」  
そういうと、可符香に小さく手を上げて謝った。  
可符香はにこっと笑って手を振ると、「じゃ。」と夜の雑踏に消えていった。  
 
「…お前、男として、あんな状態で彼女を一人で帰しちゃダメだろう。」  
命は、ずっと不機嫌そうにウィスキーをロックで飲んでいた。  
結局、望は、ほとんど拉致するようにして命をバーに連れてきたのである。  
「女性に頭から水をぶっかけられた人の言葉とは思えませんね。」  
望は水割りのグラスを口にして笑った。  
命は、むっと眉を寄せた。  
 
2人は、しばらく黙って酒を飲んでいた。  
命が、手の中のグラスを覗いて、カラカラと氷を回した。  
「バーボンよりも、スコッチの方が好きなんだがな…。」  
「文句を言いながら、よく飲みますね。」  
「お前のボトルだからな。」  
「飲み尽くしちゃったら、兄さんが新しいボトル入れてくださいね。」  
望は、そういいながら兄のグラスに酒を注ぎ足した。  
もう少し、酔わせた方がいいと判断したのだ。  
 
すっかり命の目尻が赤く染まった頃、望は切り出した。  
「命兄さん…いったい何があったんですか?」  
「…。」  
命は答えない。  
命の手のグラスの中で、氷が、カランと音を立てた。  
「女性をあんなに怒らせるなんて…兄さんらしくないですよ。」  
命は、グラスに残っていた酒を一気にあおると、ふぅ、と息をついた。  
 
「…彼女が…。」  
「彼女?」  
「うちの看護師がね…。」  
ああ、と望は心の中で、糸色医院の看護師の元気な笑顔を思い浮かべた。  
「実家に、帰るかもしれない…。」  
「……それは、また。」  
望は、唐突な会話の流れに戸惑いながら答えた。  
 
「先日、彼女のご両親が、うちの医院に来てね…。  
 実家も、医者だったんだな…彼女を、返して欲しいって言って来た。」  
「返して欲しいって…物じゃあるまいし。」  
「まあ、そうだけどな…親としては、自分の医院で娘が看護師やってくれれば  
 それ以上の喜びはないだろうからな。」  
こんな流行らない医院で腐らせるよりはな、と命は自嘲気味に呟いた。  
 
「で、それが、どうやったら…。」  
さっきの女性に対する態度につながるんだ、と問いかけようとして、  
望はふと口をつぐみ、兄を見た。  
 
命は、自分で自分のグラスに酒を注ぐと、それを目の前に掲げた。  
その横顔は今にも泣き出しそうで、望は兄のそんな姿を見たのは初めてだった。  
 
「命兄さん、あなた、もしかして…。」  
「…でも、困るんだよな、彼女がいなくなると。」  
命は、酒を飲みながら、望の言葉を聞いていないかのように呟いた。  
「薬の置き場所だって私は知らないし、机を片付けてくれる人も必要だし…。」  
「……そういう、問題なんですか?」  
望は、静かに尋ねた。  
 
命は、再びグラスを眺めて黙り込んだ。  
望はそっとため息をついた。  
 
―――この人は……あれだけ何でもできるくせに、  
   なんで、こう、肝心なところで不器用なんでしょうね…。  
 
「、ミルク、ティー、が…。」  
「え、なんです?」  
命の小さな呟きに、望は顔を向けた。  
しかし、命は、すでにカウンターに突っ伏し、寝息を立てていた。  
「まったく…手のかかる兄ですね…。」  
 
―――この分だと、今日のことは覚えてないかもしれませんね…。  
望は苦笑すると、会計のためにカウンターの中に声をかけた。  
 
 
翌日。  
命の様子が気になって、望は学校の帰りに糸色医院に立ち寄った。  
彼を出迎えたのは、受付にいた、件の看護師の明るい笑顔。  
「あら、こんにちは!珍しいですね!」  
望は、彼女の顔を見て、一瞬ためらったが、尋ねることにした。  
「…実家に帰られるかもしれない、とお聞きしましたが…。」  
 
看護師は赤い顔をして手を口に当てた。  
「やだ、弟さんにまで話が行ってるんですか。帰りませんよ、実家になんか。」  
「…え?」  
望は、驚いた顔で看護師を見た。  
 
「うちは、私以外にも姉も妹も看護師やってるんですから、  
 わざわざ私が帰る必要なんかないんです。  
 うちの親の言うことなんか、うっちゃっておいてくださいって、  
 今朝、命先生にも言ったところなんですよ。」  
看護師はころころと笑った。  
 
だいたい、と腕組みをして看護師が続ける。  
「私がいなかったら、命先生、薬の置き場所1つ分からないだろうし、  
 それに、いつも飲んでるミルクティーだって…。」  
望は、顔を上げた。  
昨日、兄が沈没する前に呟いた言葉。  
 
看護師は、望の問いかけるような視線に、はっとしたような顔をすると、  
次の瞬間、真っ赤になった。  
「み、命先生だったら診療室ですよ!今なら患者さんいませんから!」  
いつもいないんじゃないか、という突っ込みは胸の中にしまって、  
望は首を振った。  
「いや、いいです、ちょっと近くまで来たから立ち寄っただけなので。」  
「そ、そうですか…。」  
 
そのとき、診療室から、地獄の底から響くような声が聞こえてきた。  
「…お〜〜い…。すまないが、氷の替えを持ってきてくれ〜…。」  
「はーい。」  
看護師は元気に返事をすると、望に向かって顔をしかめた。  
「命先生、今日、ひどい二日酔いなんですよ。全く何やってるんだか。」  
ぷりぷりと給湯コーナーに向かう看護師の後姿を見ながら、望は微笑んだ。  
そして、そっと糸色医院の扉を押して医院を後にすると、心の中で呟いた。  
 
―――大丈夫、これからは多分、兄さんが二日酔いになることはありませんよ…。  
 
「もう、先生ったら、もう少し医者としての自覚を持ってくださいね!!」  
望の背後では、だらしない院長を叱る看護師の、明るい声が響いていた。  
 
 

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