「命さんは、どうしてお医者様になろうと思ったの?」  
小首をかしげる女に、命は気が付かれないようにため息をついた。  
 
―――また、この質問か…。  
 
都内の某有名レストラン。  
女がどうしても、というので連れてきたのだが、  
―――この女とも、そろそろお終いかな…。  
命は、ワインを飲みながら思った。  
 
グラスをテーブルに置くと、悲しげな顔を作ってみせる。  
「実は、弟が不治の病で…医者に見離されてしまってね…。」  
口からでまかせの適当な話をしつつ、  
命は、どうやってこの後、この女を家に帰そうかと考えていた。  
 
 
「まったく…。」  
駄々をこねる女を何とかタクシーに放り込むと、  
命はジャケットを肩にかけ、夜の街をぶらぶらと歩き始めた。  
 
「理由がなくて医者になっちゃ悪いか。」  
不機嫌な声で独りごちる。  
 
命の場合、「気がついたら医者になっていた」というのが正解であった。  
 
命は、昔から何でもできる子供だった。  
手先も器用で頭も良い。運動神経も悪くない。  
 
一番難しいからと言うだけの理由で、最難関の医学部を受けた。  
医学部でも成績は常にトップだった。  
当然、国家試験にも難なく合格した。  
そうやって、いつの間にか医者になっていたのである。  
 
そんな彼に、周りの人間は常に期待と羨望の目を向けていたが、  
当の本人は、周囲の熱とは裏腹に、いつも一人、  
心の隙間に空風が吹いているような気持ちで生きてきた。  
 
それほど努力もせずに、結果が得られるということの不幸は、  
本人にしか分からない。  
がむしゃらに努力することがなければ、苦労の末に勝ち取った達成感もない。  
命の前には、どこまでも平坦ではあるが、味気のない人生が広がっていた。  
 
大学に残って欲しいという教授の頼みを振り切って開院したのは、  
これ以上、無意味な賞賛に耐えられなかったからだ。  
 
命は、ふぅ、と息をついた。  
少し、飲みすぎたようだ。  
どうも考えがネガティブな方向へと進んでいる気がする。  
 
「…望じゃあるまいし…。」  
 
先ほどの女との会話で、勝手に不治の病にしてしまった、  
実のところは至って健康である弟の名前を呟く。  
 
この弟は、いつも人生に絶望しては死にたがる、超ネガティブ性格であった。  
 
「…いや、違うな…。」  
 
弟は、本当はネガティブなんかではない。  
命は気が付いていた。  
 
―――むしろ、あいつは人生に対して余りに夢を抱きすぎてるんだ…。  
 
明日は何かいいことがあるはずだと思っていた子供時代。  
弟は、大人になった今でも、その、子供のような純粋な期待を、人生に抱いていた。  
だからこそ、何か期待通りに行かないことがあるたびに、絶望するのである。  
 
自分のように、そもそもはじめから人生に期待も希望も抱かなければ、  
あんな風に絶望することもないというのに。  
 
―――ああ、また、ネガティブな方向に考えがいってるな…。  
 
命はぼりぼりと頭をかくと、  
「今からマンションに帰るのも面倒だな…医院に泊まるか…。」  
そう呟いて、踵を返した。  
 
 
医院に着くと、意外にも窓から灯りが漏れていた。  
 
―――消し忘れか…?  
 
訝しみながらドアを開けると、受付にいた看護師が顔を上げ、  
目を丸くして命を見た。  
 
「命先生…どうなさったんですか!?」  
「それはこっちのセリフだよ…君こそ、こんな時間まで何をやってるんだ。」  
 
看護師は顔を赤くすると、テキストを掲げて見せた。  
「家だと、ついテレビを見たりして気を散らせてしまうので…。」  
「ああ、また、薬の勉強かい?…熱心だね。」  
 
「だって、患者さんの大切な身体に、何かあったら大変ですもの。」  
まだ若いのに勉強熱心な看護師は、生真面目そうな顔を命に向けた。  
「私は、ほら、先生みたいに頭良くないですから…。」  
 
ふ、と唇を歪ませた命に、看護師は途中で口を閉ざした。  
 
「…先生、どうかされたんですか?」  
看護師が首をかしげて命を見る。  
命は、彼女の視線を避けるように顔をそらせた。  
「ああ…ちょっと飲みすぎた。…すまないね、君の勉強中に…。」  
 
看護師は、立ち上がると奥の給湯室に向かった。  
「紅茶でも入れましょうか。」  
「いいよ、気を使わないでくれ。」  
「いえ、私が飲みたいんです。ちょうど休憩したいと思ってました。」  
 
彼女は、いつもこうやってさりげなく命を労わってくれる。  
 
それは、患者たちに対しても同様で、  
いつも気持ちの良い笑顔で患者たちの間をくるくる動き回る彼女がいなければ、  
無愛想な医師しかいないこの医院など、とうにつぶれていたかもしれない。  
 
命は、ほっと息をつくと待合室のベンチに座り、足を投げ出した。  
 
しばらくして、看護師が湯気の上がるマグカップを持ってきた。  
「はい、先生。ミルクティーにしました。」  
 
マグを受け取ると、命は口をつけた。  
いい香りの湯気が優しく顔を包む。  
看護師も、自分のマグを持って命の向かいに腰を下ろした。  
 
「…先生、最近、お疲れじゃないですか?」  
「…え?」  
 
看護師は、真剣な顔で命を見ていた。尋ねてきた。  
「…なんだか、ため息をつかれていることが多いから…今だって。」  
 
命は、マグを持ったまま、黙り込んだ。  
まさか、味気ない人生に飽きがきたとも言えない。  
 
そんな命に、看護師は頭を下げた。  
「すいません、差し出がましいこと言って。  
 でも、先生。大変なときにはおっしゃってくださいね。」  
「え…。」  
「凡人の私には、先生の苦労は分からないけれど…。  
 でも、こうやって、ミルクティーを入れるくらいのことはできますから。  
 …しんどいときには、温かくておいしい飲み物、これが一番ですよ。」  
そう言うと、マグを掲げてにっこり笑ってみせた。  
 
「は…。」  
命は、面食らった。  
 
ミルクティー。  
解決方法のない、人生の根本的な悩みに対して、ミルクティー。  
なんて、単純で明快な。  
 
彼女は、いつもそうだった。  
何事にも、ストレートで、一生懸命で。  
多分、人生の虚しさなんて、思ってみたこともないのだろう。  
 
―――ミルクティーねぇ…。  
何となく、おかしさがこみ上げてきて、命はくつくつ笑い始めた。  
 
「ちょっと、先生、なんで笑うんですか?」  
看護師が気分を害したように頬を膨らませる。  
 
「いや…何でもない、悪かった。」  
 
命は、笑いながらほんのりと甘いミルクティーを一口飲んだ。  
 
かぐわしい紅茶の香りが、  
こわばった気持ちを優しくほぐしていってくれる気がする。  
 
「おいしいな…。」  
 
彼女の言っていることは、あながち間違いではないのかもしれない。  
 
人生で本当に大切なのは、こうした、温かい紅茶や何でもない会話、  
そういった、ほんの些細なことなのかもしれない。  
 
自分の人生には、希望も絶望もないけれど…でも、こうやって、  
温かい紅茶をおいしいと思うことは、まだできる。  
 
そして、その気持ちがあれば、いつかは、もしかして…。  
 
命は、小さい声で看護師に呟いた。  
「そうだね。また、こうやってちょくちょく紅茶を入れてもらえるかな…。」  
 
看護師は、一瞬目を見張ると、嬉しそうにうなずいた。  
「ええ、もちろんです、…喜んで!」  
 
命は、看護師に向かってにっこりと微笑むと、再び、紅茶を一口飲んだ。  
 
 

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