「困りましたね」
放課後の職員室、望の席のとなりに加賀が座っている。
今月になって、加賀が授業中に加害妄想の発作を起こし、校外に走って逃げて行って
しまう事件がもう3回も起きていた。
「加賀さんの気持ちも分かりますが、私にも立場がありますし」
望としては、加賀を探しに行くという名目で授業を中断し校外に行くのは別にかまわ
なかったのだが、スクールカウンセラーの新井先生に知られるところとなり、すぐに改
善策を立てないと校長に報告すると脅されていたのだ。
「すみません。すみません」
加賀としては、ただでさえ他人に迷惑を掛けることが苦痛でたまらないのに、先生に
呼びだされて放課後の時間を使わせている、と考えただけで、自責の念に押しつぶされ
そうである。まともな思考もできるはずがなく、ただうわ言のように「すみません」を
繰り返すばかりであった。
「でも、すみませんというだけじゃ何も解決しないですよ」
思いがけず厳しい言葉を口にしてしまい、望は自分でも少し驚く。ただでさえ自己主
張の強い生徒ばかりであるへ組の中で、加賀のような生徒はどちらかというと望が贔屓
したくなるタイプであった。しかし何度も探しに行かなければならなかったことと、あ
まりにも無反抗な態度に少し意地悪をしたくなった心を否定することはできなかった。
「どうなんですか? 加賀さん」
加賀の方の反応の方が強烈であった。もちろん先生に迷惑を掛けているという自覚は
ある。だが、一方で先生は自分のことを理解してくれているのではないか、自分を助け
てくれるのではないか、という甘えにも似た気持ちを持っていた。望の言葉を聞いて、
思わず体を震わせてしまった。
「 本当にすみません。迷惑かけてしまってすみません」
辛くて顔を上げることもできない。
「わかりました。先生、急いでやらなければならない仕事があります。こう見えても
やらなきゃならないことがたくさんあるんです。勤務時間外にもやっていることを考え
ると時給200円くらいですよ。教師なんて楽な仕事だと思っているかもしれませんが」
「そ、そんなことはありません。」
加賀は泣きそうである。
「今日は夕方は時間がありますから、悪いけど宿直室に来てくれませんか?」
「えっ」
加賀は即答できなかった。そもそも校内にいるだけで、他の生徒に迷惑を掛けないか
心配になってしまうため、授業が終わるとすぐに家に帰って部屋に閉じこもりたい方な
のである。
「もちろん今日あなたの都合が悪いなら、別の日でもかまいませんが」
加賀には自信というものがない、仕方なく「はい」とうなずいた。
先生に指定された時間まで時間をつぶす必要があった。最初は図書室で本でも読んで
過そうかと思ったが、もし自分が借りて読んでいる本を他の生徒が読みたかった場合
、迷惑を掛けてしまうのではと考えると恐ろしくなってしまった。
仕方なく、誰もいないといいのだが、と思いながら自分の教室へ戻る。が、残念なこ
とに教室には生徒がまだ残っていた。
「あら、加賀さん珍しいわね」
最初に声を掛けたのは木津である。加賀は彼女が苦手であった。意地悪をされている
わけではないことは分かっていた。むしろ根は面倒見のいい優しい性格であることは知
っていたが、どうしても言葉に厳しさを感じてしまい、上手に返事が出来ないことで相
手に迷惑を掛けていないか心配になってしまうのだ。
「はい、すみません」
「別に謝ることないのに」
「そ、そうですね。」
自分の席につき、意味もなく机の中にあったノートを広げる。
「宿題でもやるの?」
「そ、そんなことはないんですけど」
「そういえば今日みんなでカラオケに行くんだけど、加賀さんも行かない?」
「え」
カラオケ、と聞いただけで不安になってしまう。音を外したらどうしよう、誰かの持
ち歌を歌ってしまったらどうしよう、場に合わない歌を選んでしまったらどうしよう、
そう考えてただけで不安で頭が真っ白になってしまった。
「わたし、わたし・・・」
「千里とカラオケ行くなんて嫌よねえ」藤吉がふざけていう。「音を外しただけで帰
してくれないし」
「行きたくないなんて・・・そ、そんなことはないですけど」
木津の好意に迷惑を掛けることを考えるとどう答えればいいのかわからなかった。
「せっかくだから行こうよ」
「あ、はい」
加賀は否定できずに答えるが、そこでやっと自分がなぜここで時間をつぶそうとしてい
たかを思い出した。
「わたし・・・やっぱり無理です。誘ってくださるのはすごく嬉しいんですけど、用事が
あって。嫌なんじゃないですが」なんとか言葉を搾り出す。
「今日先生と・・・話をしなければならなくて」
「先生と?」
「それじゃ仕方ないわね」やや怪訝な感じを表しながらそう言った木津に対し、加賀も
例によって、「すみません、すみません」を繰り返した。
私の曖昧な態度のせいでみんなに迷惑を掛けてしまった、そう考えるだけで胸が押し
つぶされそうな気がして早く教室から逃げ出したかった。それからは席に座って本を読
み、なんとか時間をつぶして、約束の時刻に遅れないよう早めに教室を出た。
5時少し前には宿直室へ着いた。引き戸についている小窓からは明かりはついていな
い様子だったが、念のためノックしてみる。
返事はない。仕方がないので廊下で待ち続けた。
約束の時間を20分ほど過ぎてから廊下の向うから絶望先生が姿を現した。
「遅くなりました。そんなところで立っていては疲れるでしょう。入って待っていて
もらえればよかったのに」
「でも」
望も加賀の性格なら勝手に入ることなどできるわけがないことに思い当たった。これ
が他の生徒なら勝手に入るどころか身辺調査から放火まで各人によって異なるが、勝手
にいろいろなことをされるのが当たり前なのであるが。
「まあ、入ってください」
「加賀さんの行動ですが、今月になってもう3回も授業中に無断で抜け出しています」
「はい、すみません」
「まあうちのクラスでは、勝手に抜け出したり遅刻をしたりは比較的自由なんですが、
あまり頻繁だとやはり問題になってしまいます。他の先生の手前もありますし」
望の心には、智恵先生の顔が浮かんでいた。やはり何とかしないと。加賀への心配よ
りは、ほとんどその恐怖心から動いているという感じだった。
「すみません」
余りに素直で、本当に反省しているのは間違いないのだが、望はこれではまた同じこ
とを繰り返すだけではないか、という疑いを持っていた。またその素直さ故に、もう少
し問い詰めてやりたいという衝動を抑えることが出来なくなった。単に自分が新井先生
に怒られてしまったことに対する八つ当たりなのかもしれなかったが。
「どうしたらいいでしょうね?」
「はい、すみません」
「いや、すみませんではなくてですね、どうして教室から飛び出すことになるんでしょ
う?」
「みんなに迷惑を掛けたくなくて。私なんていない方がいいと思いますし」
「加賀さんがああすることで、むしろみんなに迷惑を掛ける結果になっているんじゃ
ないですかねえ」
「はい、そ、そうかもしれません」
確かにその通りだ。結局授業は中断し、加賀を探しにクラス総出となってしまったこ
とさえあった。
「どうすればいいと思いますか? 加賀さんとしては」
「どうすればって・・・先生の言うとおりにします」
「なんでも人に決めてもらうようでは結局次に同じことを繰り返すだけだと思いますよ」
いつになく問い詰めるような先生の調子に、もうどう答えていいのかわからなくなっ
た。半分ぼぅっとしながらまた「すみません」を繰り返した。
「わかりました。今から『すみません』は禁句にしましょう」
「え…」
「加賀さんの謝りたいという気持ちはよくわかるんです。だからこれからはどう問題
を解決するかを考えた方がいいと思うんですよ」
望はそういったが、内心は加賀を困らせることにさらに快感を感じていた。
つづく