扉の前で、すーっと深呼吸をする。一回、二回…
大丈夫、ただの日直としてのお仕事なんだから。
粗相のないように、失礼のないように、落ち着いて…
「お邪魔します…」
ガラリと宿直室の扉を開けると、糸色先生の顔が見えて、少し心拍数が上がった。
ここが、先生のお部屋…
「加賀さん?」
「は、すいません!すいません!ぼーっとしちゃって!これ、課題です!」
ずばっ、と集めた課題のプリントの束を渡した。
「はい確かに。ありがとうございます。」
「そんな、恐縮です!すいませんすいません!お邪魔しました!」
また、先生とうまく話せなかった。頭が真っ白になっちゃって…
そんな情けなさから逃げ出すように、踵を返したとき。
後ろで、ゴホッ、という音がした。
信じたくなかったけど、確かに聞こえてしまった。
振り返って見ると、先生がその口に手を当てている…やっぱり先生の咳だったんだ。
「もしかして私、くさいですか!?」
「はい?」
「だって先生、今、ゴホッって…すいません!すいません!」
「いや、そんなわけ…」
「こんな体で、先生のプライベートな場所に侵入して、異臭騒ぎを起こしてしまって!」
嫌われてしまう、いや、もう嫌われてしまったかもしれない。
今度は、まさに逃げ出すために、先生に背を向ける。
そのまま駆け出そうとした私の体を、がしっと抱きしめられた。
正面から。
「何言ってるんですか。愛ちゃん、全然くさくなんてないじゃないですか。」
「あなた…いつの間に現れたんですか?」
あまりに突然な登場に、私も先生も驚かされた。
「くさいどころか…すんすん…愛ちゃん、すっごい良い匂いですよ。」
「やっ…嗅がないでください!くさいですから、私くさいですから!」
私の首に顔を近づけて、くんくんと嗅いでいる。
息がかかって、むずかゆいし、恥ずかしい。
「ほんとに良い匂いなのにー…あ、先生も嗅いでみてくださいよ。」
先生に?そんなの考えただけでも、どうにかなってしまいそうだ…
「だめ、だめです!先生にそんなこと!」
「でも、においの感じ方って男女で違うらしいですし、男の人の意見も聞かないと。」
「…え、いやでもそれはちょっと…身動きの取れない嫌がる女生徒を嗅ぐ変態教師、と世間に…」
「そうですかぁ…先生ってば、愛ちゃんのにおい、嗅ぎたくないんだって…」
頭の中に大音量で、ガーン!と言う音が鳴り響いた。
「…」
「あ、愛ちゃん黙っちゃった…傷つけちゃいましたね、先生。」
「私のせいなんですかあ!?」
「さあ、先生!愛ちゃんのためですよ!」
そう言って、私の後ろ頭の結んで房になった部分を押し上げる。
そこを嗅いで、ということらしい。
どうあっても離してくれそうになかったので、私は、もう抵抗するのは諦めていた。
「ああ、PTA様に見つかりませんように…加賀さん失礼します。」
ひあ、と声が漏れた。そんな私を見ている彼女は、なんだかいつもより嬉しそうだ。
くんくんと鼻を鳴らす音と、うなじの辺りの空気の流れを感じ、顔が紅潮する。
恥ずかしすぎて、視界がチカチカした。でも、先生は…先生は、なんて言ってくれるんだろう?
怖いけど、後ろから聞こえる声に耳を澄ました。
「うん。くさいだなんて、とんでもありません。良い匂いですよ。」
「…愛ちゃんの匂い…先生好きだって…よかったね…」
耳元で、私だけに聞こえるように小声で囁かれた。
「おお、愛ちゃんの力が抜けていく!」
二人の言葉を受けて、足に力が入らなくなってしまった。そのまま畳にへたり込む。
「落ち着きましたか?」
「愛ちゃん大丈夫?」
座りこんでしまった私に、二人が声をかけてくれた。
先生は、ちょっとだけ顔が赤くなっていた。
「あ…はい、大丈夫です。すいません、ご迷惑をおかけして。」
「愛ちゃん、咳なんかであんな気にしなくていいんだよ。」
「そうですよ、私が保証します。」
さっきの先生の言葉のおかげか、二人の言葉が素直に入ってくる。
「ありがとうございます。」
「うんうん、愛ちゃんは良い匂い。」
また、くんくんと嗅がれる。くさくないにしても、やっぱり恥ずかしい。
「…すんすん……あれ?愛ちゃん…愛ちゃんの手、カニのにおいがする。」
予想外の発言に、私と先生は一瞬言葉を失った。
昼食に食べたカニだろうか、きっと私なんかが、たらばがにを食べたから、バチが当たったんだ。
「すいません!すいません!カニくさくてすいま」
はぷっ。
「ひゃん!」
唐突に指をくわえられた。
「ちょ、あなたいきなり何やってるんですか!?」
「カニの味がするかなー、って。しませんでしたが…もう一度やってみます。」
かぷっ、ちゅぅー。
「だめ、だめです!私の指なんて、カニのにおいのするような不潔な…やっ…あぁ…」
「そんなカニの味なんてするわけ」
「あ!今、一瞬カニの味がした気がします!」
「ええー!?」
「あ、疑うんですねー。なら先生も試してくださいよ。」
先生に指を?そんなの考えただけでも、どうにかなってしまいそうだ…
なんだか、似たような情景をほんの少し前に見た気がする。
……
宿直室の畳の上に、望と可符香が座りこんで話している。
「愛ちゃんは、くさくない、汚くない、って言いたかっただけなのに、大変な事になりましたねえ。」
「煽ったのはあなたでしょうが…」
二人の視線の先で、愛は望の左手を握り、左半身を下にして寝ていた。
先ほどまでに比べ、衣服が乱れている。靴下は脱がされたようで裸足だ。
「そういう先生だって、夢中になってたじゃないですか。」
「…カニを食べるときは無口になる、とでも言いましょうか…」
適当なことを言って誤魔化した。
「その例えはどうかと思います。でも、愛ちゃん…可愛かったですからねえ。
もう途中から、ずっと先生の指くわえて離さないし、先生が間違い犯しちゃったのも仕方のないことです。」
「やっぱり間違いなんですか、コレ…」
いわゆるどよんど、と呼ばれる空気が流れる。視線を落とし、望はため息をついた。
「でも、これでもう愛ちゃんは大丈夫ですね。加害妄想に取り付かれても、先生がいますから。」
「そうだといいんですが…」
「やだなあ、気付いてなかったんですか?愛ちゃんったら、さっきからずっと寝たフリしてるんですよ。」
びくっ、と愛がその身を小さく震わせた。
「え?」
「先生に甘えてるんですよお。もう、身も心も預けんばかりにべったりと。」
言われて愛を見やると、相変わらず目は閉じていたが、少し顔が赤くなっていた。
「さて、私はお先に失礼しますね。さようなら先生、甘えんぼの愛ちゃん。」
愛の頬を、指でふにゅっと押しながら、別れの挨拶をして、可符香は帰っていった。
宿直室には、未だ寝たフリをする愛と、そんな彼女にどうすべきか迷う望が残された。
愛は、望のお気に入りの生徒である、いや、もはやそれ以上だ。
だが、本当に自分でいいのだろうか…それ以前に、可符香が言ったことも確証がない。
眉間にシワを寄せて悩んでいると、繋いだ愛の手が少し震えたような気がして、彼女を見た。
愛のハの字の形をした眉が、先ほどより角度が上がっている気がする。
その不安そうな顔を見ていると、自然に顔が緩んでしまった。
天井を見上げ、ふぅ、と息を吐き、数秒の間目をつぶる。
そして、望は決意を固めた。