恋が壊れるには、ほんの少しの時間があれば十分です―――  
 
 
 こんな言葉を彼女が教科書の片隅に書いているのを誰かが見たら、さぞ驚  
く事だろう。何しろ、彼女は超ポジティブ思考の持ち主とされている風浦可  
符香なのだから。  
 
 彼女が授業中に、こんな絶望的な落書きをしているのはおかしいと思うか  
もしれないが、これも彼女一流のポジティブシンキングと考えられる。  
 
 なぜなら、彼女は恋の崩壊を切望しているからだ。  
 
 彼女の属するクラス―――2年へ組にいる多くの女子は恋をしている。そ  
れも、共通の相手に。  
 風浦可符香は、それらの恋が壊れてしまえば良いと、いつも思っていた。  
 彼女もまた、皆と同じ相手―――担任の糸色望に恋をしていたから。  
 
 可符香の恋は、誰よりも早かった。  
 前髪のトンネルを開けられ望と対面したひきこもり少女より、心中の告白  
をされたストーカー少女より、寝台を共にしただけで結婚を迫る几帳面粘着  
質少女より…  
 そう、桃色ガヴリエルの下で初めて出逢った時からずっと、恋をしている  
のだ。  
 
 しかし、幼い頃から沢山辛い目に遭い、いつしか自分の心を閉ざして別の  
自分で表面を覆った彼女は、まともな愛情表現が出来なくなっていた。  
 
 好きなものにいたずらがしたくなって、すぐに炎ざたを起こしてしまう三  
珠真夜や、嫉妬のあまり猟奇的な行動に走ってしまう木津千里以上に、可符  
香の愛情表現は下手だった。  
 その結果、可符香は電波化し、いつしかクラスの黒幕的存在として、密か  
に皆から恐れられるようになってしまった。  
 
 無論、恋しい糸色望からも、である。  
 
「あなたは本当に、心のスキマに入り込むのが上手ですねえ」  
 望にそう言われた時、彼女はいつも通りの作った笑顔で応えた。だが心の  
中では、彼女は幾筋もの涙を流していた。それを、言った当人の望はおそら  
く気付いていないだろう。  
 
「可符香さん、大丈夫…?なんだか顔色がすぐれないようだけど…。授業も  
上の空だし…。」  
 前の席からの声。木津千里が心配そうに、振り返ってこちらを見ている。  
普段は本当に委員長キャラなのだ。  
 可符香は筆箱でそっと教科書の端の落書きを隠し、  
「いやだなぁ、私が体調を崩す訳がないじゃない」  
 いつもの笑顔で答えた。  
「そう…?それならいいんだけど…。本当に調子が悪かったら、無理しちゃ  
駄目よ。」  
 
 また黒板の方へ向き直った千里の、流れるようなストレートの黒髪をぼん  
やりと眺め、可符香は泣きたい気持ちになった。どうしてこんなにも、素直  
になれないのか…  
 
 泣きたい気分だが、彼女の表面を覆って乗っ取ったかのような笑い仮面の  
瞳からは、涙など流れてこない。  
 
(千里ちゃん…私、本当は重い病気なの…  
 お医者様でも、草津のお湯でも治らない……)  
 
 
人として軸がぶれている。  
 
だから報われない。  
 
日に日に想いはつのるばかり。  
 
明るく振る舞っているのもそろそろ辛くなってきた―――  
 
 下校の時刻を迎えた。  
 ショート・タイムの終わりを告げる鐘が鳴ると共に、望はそそくさと教室  
を出て行った。先程、可符香に優しい言葉をかけてくれた千里も、先生恋し  
さのため危険な人になる頃だからだ。  
 ストーカー少女・常月まといは驚くほどあざやかに望の背中にくっついて  
するりと教室を抜け出した。望も気付いていない程だろう。  
 
(1秒でも長く、先生の顔を見ていたい…)  
 
 そうは思うのだが、今の可符香にはとても絶望先生取り合いバトルに付き  
合う気力はない。  
 しょんぼらと鞄を抱えて下駄箱へ向った。  
 
「あっ…」  
 可符香は思わず立ち止まって声をあげた。しかし、その声はかすれるよう  
に小さく、おそらく下駄箱の前で靴を履き替えていた日塔奈美には聞こえな  
かったろう。  
 
(あのアピール合戦には参加しないんだ。やっぱり普通…?)  
 などと考えていると、可符香に気付いた奈美は弾んだ声で言った。  
「あ、カフカちゃん。一緒に帰ろ♪」  
「ぇ…あぁ、うん…」  
 
 夕日がガードレールをオレンジ色に染める黄昏時。可符香は普通少女・日  
塔奈美と肩を並べて歩いていた。  
 
「ねえ…カフカちゃん」  
 ふいに奈美が口を開いた。  
「カフカちゃんは…好きな人とかいるのかなぁ…?」  
 あまりに普通の女子高生らしい質問に、カフカはおもわずクスッとした。  
「奈美ちゃんは先生のことが好きなんだよね?」  
「えっ…やだ…そんな…」  
 夕日の射す中でも分かるほどに顔を赤らめて否定する奈美。本当に標準的  
な反応だ。  
 
「奈美ちゃんはいいな、普通の恋愛ができて…」  
「ふつ…」  
 奈美は普通という言葉に反応したが、可符香の様子がいつもと違うのに気  
がついて、お決まりの台詞を出しかけて止めた。そう、普段の周囲を疲れさ  
せるような元気さが、今日の可符香には見られない。  
「カフカちゃん…?」  
 心配そうな奈美の眼と、憂いを含んだ可符香の瞳がかち合った。  
 
 その時、可符香には何故だか、白無垢の花嫁衣裳を着た奈美の姿が見えた。  
 可符香の心のどこかに、「先生はこの普通少女に傾くかもしれない」とい  
う不安があったのかもしれない。実際、自分が男だったとして、あのクラス  
の女子の中から、一番嫁に貰いたい人を選ぶことになったら、可符香はおそ  
らく、他のどこか問題のある人たちより、奈美を選ぶだろう。大草さんも良  
いかもしれないが、彼女は既に人妻だ。  
 
 可符香は固まったように立ち止まった。いや、事実、表情は固まっていた。  
 
「カフカちゃん?どうしたの…?」  
「…忘れてた……私、こっちに用があったの!」  
 可符香はあくまで明るく、右へ曲がる道を指差し、  
「じゃあ!」と、奈美に手を振って走り出した。  
 
 何が何だか分からず、ぽかんとしている奈美を振り向きもせず、可符香は  
一心不乱に走った。  
 今、奈美と歩いてきた通りの一本脇の道に入り、学校へ向う。  
 
(先生……先生………会いたい!)  
 
 
「先生!」  
 息を切らして宿直室の扉を開けると、望はちゃぶ台を前に、湯呑みのお茶  
をすすっていた。  
 壮絶な女生徒の嵐はもう去っていたらしい。いつも望にくっついている筈  
のまといがいないのは、嵐に巻き込まれたためか。  
 
「ふ、風浦さん…!」  
 こわばった望の表情は、まるで「最大の敵が現れた」とでも言っているよ  
うで、可符香は心にチクリと痛みを感じた。  
 
 それでも笑顔は崩さず、  
「やだなぁ、そんなに怯えないで下さいよ。私はただ、先生がみんなから逃  
げきれたかどうかを見に来ただけですよ?」  
「そんな事を言って…あなたはまた、私の心のスキマにつけこんで酷い目に  
あわせようというんでしょう!」  
 
(先生は疲れてるんだ。千里ちゃんのスコップや、まといちゃんの包丁から  
逃げきって、クタクタになってるんだ…)  
 
 そうは考えて見たが、望にたいする恋慕の心が最高潮にも達している可符  
香にとって、この望の一声はきついものがあった。  
「そんな…怒鳴ることはないじゃないですか…私は本当に先生を心配して来  
たんですから」  
 しゅんとうなだれてしまった可符香の姿に、望はわずかに罪悪感を感じた  
が、すぐにハッとして言った。  
 
「もうその手には乗りませんよ!焼け太りの時もそうでした。あなたのその  
表情にすっかり騙されて、ひどい目に遭いましたからね!」  
 
 この言葉が可符香にとどめをさした―――  
 
 誰からも支えられず、震えていた。  
 震えを隠すため、ぶれまくった。  
 
 支えてくれるのはこの人しかいない―――そう思っていた人から、こうも  
続けざまに嫌悪の言葉をかけられたのは、今の可符香にとってこの上なく酷  
だった。  
 
「ぁ…」  
 
 かすかな声と共に、一粒の涙が―――可符香の頬を伝った。  
 自分でも思いがけない事だった。  
 可符香の本体が、笑い仮面を破って表へ出てきた瞬間と言っていい。  
 ここ何年も…いや、10年近く封じ込めていた涙は、ひとたび流れ始めると  
止まらなくなった。  
 
(嫌…先生に涙なんか、見られたくない…!)  
 
 だが、体に力が入らない。可符香は宿直室の畳にがくんと膝をついた。  
 
「ふ。風浦さん!?」  
 
 望は慌てて立ち上がり、放心状態で涙を流しつづける可符香の肩を掴んだ。  
 その動作があまりに素早かったためか、ちゃぶ台の上の湯呑みはかなり間  
を置いて倒れたかのように思えた。  
 
 可符香の眼からは涙が溢れつづけているが、泣き声といっては嗚咽の声ひ  
とつ聞こえない。彼女はただ無表情に、虚ろな瞳を濡らしつづけているのだ。  
 
「せん…せ…い…」  
 およそ1分程の沈黙ののち、可符香は口を開いた。  
 目の前には夕焼けを横顔に浴びた望が、心配を通り越して尋常ならざる面  
持ちでこちらを眺めている。  
(いつもはこういう時に、余計な事を言って先生に嫌われちゃうんだよね…  
 でも…今度こそ、今度こそは先生を逃さない…!)  
 可符香は望の胸に顔をうずめた。  
 
 初めて嗚咽の声が聞こえた。  
 
 
 宿直室の押入れでまどろんでいたひきこもり少女・小森霧は、押入れの外  
界のただならぬ気配にハッとして目を覚まし、そっと戸を3センチほど開け  
て様子を見て、ドキッとした。  
 それは何か、見てはならないものを見てしまったような驚きだった。  
 
 風浦可符香が、糸色先生にすがりついて、しきりにしゃくり上げている。  
 驚いているのは望とて同じだった。  
 
「風浦さん…一体どうしたんですか…!?」  
 さっきまでこの少女に感じていた苛立ちのような感情はすっかり消え失せ  
てしまい、予想外な状況に戸惑うより他ない…そんな様子だった。  
「すみません、先生が言い過ぎました。謝ります…だから…そんなに泣かな  
いで下さい。風浦さんらしくないですよ…?」  
 望がそう言っても、可符香は黙って首を振るばかりだった。  
 
 決着のつかない激闘を終え、宿直室に帰還を果たそうとした常月まといも、  
中で風浦可符香が泣き伏しているのを見て、思わずドアの陰に身を隠してし  
まった。  
 
 望の胸に押し付けていた頭を離した可符香。シンボルの髪留めでまとめた  
前髪も乱れている。  
 空を赤く染めていた夕日も既に沈んでいたが、可符香の頬はまだ紅潮して  
いた。潤んだ大きな瞳でじっと見つめられ、伏目がちな望も目をそらせなく  
なった。  
 
「これが糸色家のお見合いだったらいいのに…」  
 
 可符香が発した言葉は、望の聞きなれた作り物の、明るいトーンではな  
かった。それは、可符香が心から思っていることなのだ。  
 
 押し入れの中の少女は、赤くなって戸を閉めた。これ以上見てはいけない  
ような…そんな気がして、推し入れの中でじっと体をこわばらせた。  
 宿直室の扉の外にいる少女もまた、足音をたてないように小走りで走り  
去った。これ以上見ていたくない…そう思って。  
 
「先生は悪い先生です…生徒の本心を分かってくれない…」  
「風浦さん、あなたは…」  
「そうですね…私が駄目なんですよね…こんなに先生のことが好きなのに、  
いつもいつも嫌われるようなことばかり。人の弱味につけ込む悪い女なんて  
先生は嫌いですよね…」  
 
 ポジティブな電波少女の殻を破って出てきた可符香の本性は、望よりずっ  
とよく絶望を知った…心に深い傷を持つ痛々しい乙女だった。  
 太宰気取りの通称‘絶望先生’糸色望にもそれが分かり、眼から熱い涙が  
どっと溢れてきた。今度は自分から、可符香を引き寄せて強く抱きしめる。  
可符香の方でもつよい抱擁に応え、腕を望の背に回して抱きしめる。  
 
 ぶれぶれ人間でもきっと、先生がいたら変わる…  
 
 また可符香の眼から、涙が流れはじめた。  
 今度は、人並みの泣き声を伴って…  
 
 
 翌日。  
 始業のチャイムと共に教室へ入ってきた望を迎えたのは、真ん中分けの前  
髪をすっかり乱し、不安定なる精神状態を表したきっちり少女と、その後ろ  
に殺気を放ちながら控える小節あびる、日塔奈美、音無芽留らだった。  
 
「先生…。昨晩は、可符香さんが宿直室に行っていたそうですね…。一体何  
をしていたんですか…?」  
 静かな調子だが、一音一音に恨みがこもっている。  
 
 教卓の方をちらりと見ると、腫れぼったい眼をしたまといがじっとこちら  
を睨んでいる。一睡も出来なかったという様子だ。  
 まといに見られてしまったのか―――  
   
 予期せぬ可符香の闖入。まさに「鳶に油揚げ」で、同じように望を奪い合  
う好敵手の千里にまといが告げ口をしたとしても何の不思議はない。  
 
「木津さん、落ち着いて下さい…!昨晩、確かに風浦さんは来ましたよ。で  
も、私は何もやましいことはしていませんからね!風浦さんは疲れて寝てし  
まったので、添い寝をしただけですからね!」  
「へぇ…、可符香さんと一つ布団で…。それで、何もなかったと言い張るん  
ですか…?」  
 千里の前髪がさらに二房、三房はらはらと乱れる。  
 
「あぁっ!絶望した!PTAやマスコミに散々叩かれるであろう未来に絶望  
したぁ!!」  
 絶叫する望に、今しも躍りかからんとする女生徒陣。だが、  
 
「本当だよ、千里ちゃん」  
 
 という可符香の声に、皆ぴたりと動きを止めてしまった。  
 
「先生の言う通り……添い寝しか、してもらえなかった……」  
 
 ぽつりと放ったその言葉。千里をはじめとする、望に恋する少女達の耳に  
は、とても嘘には聞こえなかった―――  
 

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