ガラ、ガタカタ・・・コト・・・・・・  
 
人気の無い放課後の廊下。通りがかりの保健室の中から聞こえてきた物音に、先生は足を止め、怪訝そう  
な顔をして入り口の方を振り返った。  
 
(・・・おかしいですね。智恵先生は今日はもう帰られたはず。―――小森さんは宿直室にいましたから、多  
分違いますよねえ・・・・・・)  
 
先生は入り口に近づき耳を澄ます。・・・パサッ、という軽い布のような音が聞こえる。取っ手に指を掛け、  
僅かに力を入れると鍵が掛かっていない事が分かった。  
中に誰かいる事は確かのようだった。先生は一呼吸置いて、ゆっくりと引き戸を開けてみる。  
 
「えー ・・・誰かいるのでしょうか?」  
 
まだ夕暮れには早い時刻だったが、照明の点けられていない室内は少々薄暗い。その室内に、入り口に  
背を向けて佇んでいた少女がこちらを振り返った。  
睨まれたような錯覚を受ける鋭い目線に、先生は一瞬怯むが、すぐにその相手が誰なのかを思い出した。  
 
「ああ、三珠さん。・・・どうされました? 怪我を・・・・・・されているのでしょうか?」  
 
先生は真夜の手元に視線を置いて、戸惑いながらそう尋ねた。  
智恵先生のデスクの上には、包帯や、ガーゼ、脱脂綿などが取り出してあり、その脱脂綿には血を拭いた  
様に赤い色で染まっている物が混じっている。  
真夜は先生に尋ねられて、首を捻ってデスクの上に広げた物に視線を落とした。  
―――と、その真夜の前髪の間から、赤い筋が眉間の間を通り、鼻筋の上へと流れ落ちた。  
 
「み、三珠さん・・・・・・!?」  
 
驚いた先生の言葉でそれに気が付いたのか、真夜は慌てて、流れ落ちた血をガーゼで押さえた。  
 
 
 
指で髪を掻き分けながら丁寧に消毒した傷口を、先生は脱脂綿で押さえた。  
「・・・傷自体は深くないようですが・・・・・・なにぶん頭ですからねえ。気分が悪かったりはしませんか?」  
真夜は丸椅子に腰をおろし、先生に手当てをしてもらいながら、軽く首を横に振った。  
先生は片手でパッケージを開けて包帯を取り出し、片端を、傷口を押さえた手で摘んでゆっくりと伸ばす。  
「しかし・・・三珠さん、どこかで頭をぶつけられたのでしょうか? 他に怪我は?」  
包帯を巻きながら先生に尋ねられ、真夜は再び、首を横に振る。  
 
数回巻きつけ、適当なところでハサミで切ると先生は紙テープを取り出した。包帯をテープで固定しながら  
ちょっと冗談めかした口調で、  
「まさか、誰かに殴られた――― なーんて・・・・・・」  
苦笑混じりのその言葉に真夜の両肩が ビクリ! と大きく震える。  
その反応に先生の動きが止まり、手に持っていたテープを落としてしまった。  
 
「ま、マジですか!? いや、ホントに誰かとケンカしたという事なのですか!?」  
 
強張った表情で自分の顔をのぞきこむ先生に、真夜は、やや間を置いてから首を横に振った。  
 
「三珠さん! 正直に言ってください。ケンカしたんですか? ・・・もしくは、イジメられたのですか?」  
 
真夜は何も答えず、気まずそうに先生から視線をそらした。  
先生は一つ咳払いすると、屈みこんで真夜の肩にそっと手を乗せる。  
 
「大丈夫です。先生に話してごらんなさい。・・・心配しなくても、誰かに話したりしませんから。」  
 
そう言って、真夜に微笑んでみせる。真夜は少し困ったように眉を寄せながら、先生の方に向き直った。  
先生は一つ頷いて、真夜の肩をポンポンと叩く。  
 
「安心して下さい。先生はそういった、乱暴したりとか、誰かに意地悪する人は、大嫌いですから。何でも話  
してごらんなさい。」  
 
ビックゥ!  
 
真夜は、目を見開き体を大きく震わせて息を飲み、その場に硬直した。  
ゴクリとその喉が鳴り、小さく震えている。  
 
「三珠・・・さん? どうしました? 気分でも悪いのですか?」  
顔色が変わった真夜の様子に気が付き、先生は首をかしげた。  
真夜はしばらく、口を小さくパクパクとさせていたが、やがて何かを思いついたように椅子を蹴って、突然そ  
の場に立ち上がった。  
 
「ど・・・・・どうしたんですか!?」  
 
先生の問いには答えず、真夜は戸を開けて廊下に飛び出すと、一目散に何処かへ駆け出していった。  
静かな廊下に反響する足音が遠ざかってゆく。  
 
「三珠さん!?」  
 
一瞬遅れて、訳が分からないといった顔のまま、先生も保健室を飛び出した。  
 
真夜は息を弾ませながら自クラスの教室に辿り着くと、少し震える手で自分の机の中に手を突っ込んで、詰  
め込んであるものを引っ張り出そうとする。  
掻き出すように集めた所で、ハッと気が付いたように顔を上げ、何かを探すように忙しなく教室内を見回す。 
その視線が、部屋の隅にあるくず入れで止まり、真夜はくず入れに駆け寄ると、容器に被せてあるゴミ袋  
を外し、再び自分の机に駆け戻る。  
 
「三珠さん?」  
 
ちょうどそこで、真夜を追いかけてきた先生が教室に姿を見せ、それに動揺したのか、真夜は机にぶつか  
ってしまった。  
その拍子で傾いた机から、出しかけていた物がバラバラとこぼれ落ち、真夜は反射的に手を伸ばして、最  
初に落ちてきたバットを掴む。  
しかし、勢いが付いていたらしく、机の中の物は次々と音を立てて床に落ち、散らばってしまった。  
 
バットがもう一本に、ハサミが数本と、着火マンがいくつも転がっていた。  
すべてに「まよ」と書かれた名前が貼り付けてあるのが見える。  
 
先生は言葉を失ったように呆然と床に散らばった品を見ているようだった。  
 
真夜はのろのろと、先生の顔と床を交互に見て、  
 
―――じわり と、その瞳に涙がにじむ。  
 
「・・・・・・あ」  
先生が声を掛ける間もなく、真夜は掴んだままのバットを持って身を翻し教室を飛び出して行ってしまった。  
 
 
「三珠さん・・・・・・」  
しばし、一人きりになった教室に立ちすくんでいた先生は、困ったように頭をかきながら真夜の落としていっ  
た物に近寄り、バットを手に持ってみる。  
「・・・わりと丸い文字なんですね。名前―――ひらがなで書くのがお好きなんでしょうかね・・・・・」  
指で文字をなぞり、苦笑を浮かべて肩をすくめると、先生は落ちている物を拾い集め、真夜の机に戻してい  
った。  
 
 
日が落ちかけた空は一面が茜色に染まっている。遠くを飛んいる二つの黒い影はカラスだろうか?  
彼方へと寄り添うように飛び去って行く影をぼんやりと眺めながら、真夜は橋の上に佇んでいた。  
手に握り締めたままのバットを見つめた。  
所々が変形して窪み、やや汚れているが、何度も巻きなおしたグリップはすっかり手に馴染み、隙間なく握  
り締める事が出来ている。  
目線に持ち上げたバットのの向こう側に、飴色に染まった川面が見えていた。  
流れは緩やかで、あまり水深も無いのか、鯉のような魚が泳いでいるのが見て取れる。  
 
真夜はしばらく川面を見つめていたが、やがて、バットを持った手をゆっくりと後ろに振りかぶった。  
 
―――と、大きく振りかぶった腕を誰かに掴まれ、真夜は少し後ろに仰け反り慌ててバランスを取り直す。  
 
腕を掴まれたまま首を捻って後ろを見ると、そこには困ったような笑みを浮かべた先生が立っていた。  
 
「・・・・・・悪い子ですねえ。」  
 
ぽつりと言った先生の言葉に、真夜は先生から目をそらした。  
先生は掴んでいた真夜の腕をそっと離した。真夜は、腕を下ろしたが、先生には背を向けたまま振り向こう  
とはしない。  
 
「・・・駄目じゃないですか。・・・不法投棄ですよ?」  
 
真夜は困惑した表情を浮かべて振り返り、先生を見上げる。そして、自分の持っているバットに気が付き、  
少し肩をすくめた。  
再び、背を向けて川面を見つめる真夜に、先生は苦笑を浮かべてその肩に手を置いた。  
 
「分かってますよ三珠さん。・・・先生は、分かっています。・・・・・・あれは、あなたじゃ無いんでしょう?」  
 
返事をしないまま、真夜は顔をそむけたまま、唇を強く横に結んでうつむいた。  
先生は少し口を開いて笑みを浮かべたように見えた。 ポンポンと、その肩を手で叩く。  
 
「・・・・・悪い子ですねぇ。ほんとに。」  
 
うつむいて、ただ川面を見つめ続ける真夜を見ながら、先生は、そっと後ろに隠し持っていた物を取り出し  
た。  
 
―――コツン  
 
何か硬い物が自分の頭に触れた感触に、真夜は驚いて振り返る。  
 
見覚えのあるバットが頭に当てられていた。  
それを握っている先生は、真夜が自分を見つめたタイミングに合わせるかのように、あっ、と口を開いて見  
せて、わざとらしく慌てて頭を掻いた。  
 
「―――はは。・・・先生も意地悪しちゃいましたよ。」  
一瞬の間を置いて、驚いた表情のままだった真夜の顔がほんのりと赤く染まった。  
先生は少し、はにかむように頬を指で掻いて、真夜の頭に手を乗せた。包帯の下の傷口には触れないよう  
に、優しくその頭をなでる。  
 
「三珠さん。先生は、余計な事を言わない子は大好きですから―――ね?」  
 
頭を撫でられながら、真夜は恥ずかしそうに先生から視線をそらした。  
 
 
ボチャン・・・  
 
不意に川面から聞こえた重い水音に反応し、先生は川を覗き込んだ。  
「・・・おや。この川、魚がいますね。・・・フナ・・・・・・いや、鯉でしょうかね?」  
誰とは無しに呟いた先生は、いつ間にか正面にいたはずの真夜の姿が無くなっている事に気が付いた。  
 
「・・・・・・え?」  
 
真夜の姿を確かめようとする間も無く。  
 
ゴッ!!  
 
唸りを上げてフルスイングされたバットが先生の背後から襲い掛かり、鈍い音と共に先生の体は宙に浮き、 
橋の欄干を越えて飛び出して頭から水面に突き刺さる。  
 
激しい水音に掻き消されたのか、先生の悲鳴は聞こえなかった。  
先生の姿は一旦水中に沈み、しばらく泡立つ水面だけが見えていたが、  
 
「死んだらどうする!?」  
 
叫び声と共に、水しぶきを上げて先生の上半身が水面に生えた。  
水位は腰までしか無い様で、水を滴らせて川の中に立ち上がりながら、先生は橋の上を振り返った。  
 
夕日が逆光になっていて、ほぼシルエットしか見えないが、真夜がバットを片手に、そこに佇んでいる様子  
は分かった。  
その顔は影になっているが、真夜の口が嬉しそうに笑みを浮かべているように見える。  
 
「・・・犯人なわけが無いです!」  
 
先生は一言叫んで、仰向けに倒れ、そのまま水面に浮いて見せた。  
その表情には苦笑が浮かんでいる。  
真夜は手すりから身を乗り出して先生を見つめると、紅潮したその顔に満面の笑みを浮かべ、  
 
―――先生に向かって、力一杯バットを投げつける。  
 
夕暮れの川辺に、悲鳴と水音が響き渡った。  
 
 
 

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