「ようやく新居が見つかったんですよ」
何気ない望の言葉に、霧はピタリと箸を止める。
始まりは宿直室。交は当番制で他の女子の家に居るため、二人で食卓を囲んでいる時だった。
「中々いい物件なんですが、安く借りることが出来ました。
急ですが、明日にでも引っ越しの準備をして、明後日にもここを出ようかと思います。」
「へー。そうなんだ…良かったね、先生。」
平静を装い、笑顔を作り、再び箸を進める霧。
言葉の裏の僅かな動揺を、望は気付かない。
「ええ。これでもう小森さんに迷惑をかけずに済みそうです」
「そんな、迷惑だなんて…。私どーせヒマだし家の中のことは好きだし…」
「しかし、いつまでも生徒である貴女に甘えているわけには行きませんから…」
『生徒』
その言葉が鉛のように霧の中に落ち込んで行く。
「小森さん、今までありがとうございました。」
「そんな、先生。いいよ御礼なんて…」
頭を下げる望。
彼に今の霧の表情など見えていない…
◇
夜。
食事の後片付けをし、自分の部屋へと戻った霧は、
テレビを見る気にも、そのまま寝る気にもなれず、じっと窓の外を見ていた。
楽しかった時間がもうすぐ終わってしまう。
望が引っ越せば、以前と同じ退屈な日常が戻って来るだろう。
些細な義務感から始めたことだった。
まるで夫婦みたいだ、なんて馬鹿なことを思ったりもした。
望との距離が、少しずつ縮まっているという自信があった。
「…本当に…?」
そんなこと、ない。
あの人にとって私は、他の皆と同じ…結局ただの生徒の一人でしかない。
自分が、恥ずかしくて堪らない。
「私…今まで何してたんだろ…」
思い返すは糸色家であった『見合いの儀』
あの時先生に拒絶されてから…
もうそんな思いをするのが嫌で、他の皆みたいに積極的になるのが怖くなった。
元々自分の殻に篭っていただけの臆病者。先生のことが好きになって、場所を変えたけど、それだけだった。
私がしたのはずっと守っていることだけ。
『距離が縮まっている』だなんて、思い上がりもいい所だ。結局先生が宿直室を出て行ったら、またゼロに戻るだけ。
朝、目が覚めたように、何事もなかったみたいにいつもの日常が始まるだけ…
そう、夢だったんだ。楽しいけど、現実には何も影響なんてない。
ただの楽しいだけの、幻…
◇
その夜は殆ど眠れなかった霧は、翌日大失敗をしてしまった。
朝、いつも通りに起き、望の朝食を作ったまではよかったのだが、
眠気が襲い、自分の部屋で仮眠を取ろうとして、目が覚めたら…
「うそ…」
窓の外は赤く染まっていた。
情けなさすぎる自分に泣きそうになりながら、慌てて宿直室へと急ぐ。
到着すると、望は外套を羽織り、外出する準備をしていた。
「先生…?」
今日は準備だけだと聞いていたのに、もう行ってしまうのかと焦る霧
「ああ、小森さん」
望は霧に気付き振り向く。
「実は急に出張が入ってしまって…今日は向こうに泊まるので夕食は用意しなくていいです。
後、終わったら直接新居の方へ行きますので」
「あ…そうなんだ…」
「すみません…っと、電車の時間が…それでは!」
靴を履き、鞄を手に慌てて駆け出す望。
霧はその背中を黙って見守っていた。
「……」
宿直室の扉を開け、中に入ると、その様子が様変わりしていることに気付く。
部屋にある物で、望の私物は全て、昼間のうちに新居へと運ばれていったのだ。
「…あぁ…」
力が抜けていくのを感じ、その場にへたり込む。
「夢、もう終わっちゃった…」
◇
夜。
料理をする気にもなれず、冷凍庫の中に残っていた冷凍のパスタを温めた。
フォークで巻き取った麺を何度か口に運ぶも、全く食は進まない。
一人での食事がこんなに寂しいと感じたのは、今までで初めてだった。
…嗚呼、夢から覚めたからといって、全てが元通りになるわけではなかったのだ…
戻れない。
自分以外の全ての人間を遠ざけていた頃は言うに及ばず、
放課後の誰もいない校内で一人で過ごしていた頃にさえ、もう戻れなくなっている。
「…っ…」
ここに来て初めて涙が溢れ出す。
襲い来るのはどうしようもない自己嫌悪。
「…、なんで…どうして私…」
どうしていつもこうなのだろうか…
最後に見た望の背中にさえ、何の声もかけられなかった。
自分が情けなくて、恥ずかしくて、憎かった。
この後に及んで見苦しいと、
解っていながらそれでも、言わずにはいられない自分が…
「…かえってきてよ…せんせぇ…」
◇
目を開けると、世界が横倒しになっていた。
「…あ…」
泣き疲れて眠ってしまったのか、床に寝転がっていた。
気付けばもう窓から朝日が差し込んでいる。
ちゃぶ台の上にはあまり手をつけなかったパスタがそのまま残っていた。
たった一晩だが、もう食べられないだろう。
生ゴミとして捨て、皿を洗った。
宿直室は家が放火された望が、学校側からの特別なはからいで借り受けていたものである。
望が引っ越してしまった以上、生徒である自分がいつまでも居ていい場所ではない。
にも関わらず、出ていく気にはなれなかった。
そのまま朝食も取らずに床に寝転がる。
ここに居たかった。
まだ夢の残り香があるうちは出ていく気になんて、なれない。
何時間経っただろうか。
廃人のようにただ床に横たわっていた霧は体を起こす。
足音が聞こえたからだ。
この部屋に誰かが近づいてくる。新しい宿直当番だろうか?
だとしたら、もう出ていかなければならない。無理に居座っても追い出されるだけだ。
それにこんな姿、誰にも見らたれくない。
立ち上がり、扉を開く。後は自分の部屋へと一直線。
しかし彼女は見てしまった。
足が止まる。呼吸が止まる。
もうここへは戻らないと思っていた人の姿が今、そこにあった。
「おや、小森さん。」
「せ、先生?どうして…」
霧は舞い上がりそうになっていた自分を必死になって抑えた。
話が出来すぎている。こういう場合は大抵ぬか喜びに終わるものだ。
「それが、まあ色々ありまして…とりあえず中に入ってもいいですか?」
頭を掻きながら苦笑する望。
「う、うん」
◇
「それで、どうしたの?先生」
茶を二人分淹れ、ちゃぶ台の前に座る望に一つ差し出し、自身もまた一つ取って対面に座る。
「それがですね…」
望は昨日出て行ってからの出来事を語り出した。
駅まで行こうと乗ったタクシーの運転手が定年で最後の仕事だったので海まで付き合ったり、
夕食をとったレストランで見ず知らずの他人の誕生会に巻き込まれたり、
宿泊したホテルで新成人を祝うイベントに巻き込まれたり、
顔がおかしなカップルの喧嘩に巻き込まれ不良扱いされたり…
その他にも尽く他人のドラマに巻き込まれてしまったのである。
そして荷ほどきに行った新居も例外ではなく、
そこは変死したカリスマ的ロッカーOZEKIの聖地として、ファンの交流の場となっていたのだった。
「あれではとても静かに暮らせませんよ…ファンの方々の聖地に居座るのも何だか悪い気がしますし…」
ちなみに交はOZEKIファンと仲良くなり延々と語り合っているという。
「まあ、そんな訳ですので…また暫くはここに住ませてもら…って小森さん!?」
「…っ…、ぁっ…」
いつのまにか霧の眼からは大粒の涙が流れ落ちていた。
「ちょっ!OZEKIの話はそんなに感動的でしたか!?
いえ、じゃなくて、先生が戻って来たのがいけないんですね!すみません!!」
そう言って、慌てて立ち去ろうとする望。
「ダメ!待…っ…待って!ちが…違うの…っ!」
霧は袴を掴みその足にしがみついた。
「え?えぇ!?ちょっ…小森さん!?」
困惑する望。霧は袴に顔をうずめて鳴咽を漏らす。
「こ、こういう場合はどうすれば…」
慌てふためく望を置いて、霧はただ泣き続けた。
◇
「落ち着きましたか…?」
ようやく泣きやんだ霧の顔を覗き込むと、彼女は望と眼が会ったことで顔を真っ赤にし、うつむいてしまった。
その拍子に、長い前髪で表情が隠れる。
「それで、一体どうしたのです?」
「え、あの…その…」
ようやく頭が冷え、冷静な思考が戻る。霧は再び自らを恥じた。
先生が戻るのが嬉しいからと、感情に任せて泣き付くなんて、なんて短慮だったんだろう。
理由なんて恥ずかしくて言える訳が無い。
「何でも、ないよ…先生。お腹空いたでしょ?待ってて。今何か作るから」
「えぇ?ちょっ…」
慌てて声をかけるも霧はすでに台所に入ってしまっていた。
「これは…まいりましたね…」
しかし望も一応教師であり、霧が自分に好意を抱いているということも知っている。
そのために、涙の理由も何となく察しがついた。
(まさかたった一晩であんなことになるとは…元々引きこもりの割に攻撃的な娘でしたし、あまりストレスを溜めすぎたら…)
望は、始めて霧と会った日のことを思い出し、身震いする。
あの少女は、あんな華奢な腕にもかかわらずテレビを投げ、一撃のもとに板張りしたドアを粉砕したのだ…
「か、考えないことにしましょう」
望は頭を振って浮かび上がってくる最悪のシナリオを消し去った。
ヤンデレなやっかいさんは一人で充分迷惑なのだ…
◇
早く作れるもの、ということで霧は炒飯を選んだ。
これなら、部屋に置き忘れたDSも使わずに何とか作れる。
「あの、味つけ大丈夫かな…?」
しかしやはり不安は残る。
味見はしたが、もし変だったらどうしよう…?
「ふむ、大丈夫。ちゃんとおいしいですよ。」
一口食べて笑顔になる望を見て、ようやく安心することができた。
霧も自分の分の炒飯を食べ始める。
(…ああ、やっぱり…)
昨日感じた寂しさはもはや完全に消えて失せていた。心には再び温かい火が燈っている。
…でも、と霧はスプーンを止める。
これはまた夢を見始めただけ。ただの夢の続きにすぎないのだ。
……変わる必要がある。一歩、距離を縮めるための一歩が必要だ。
「ねえ、先生。」
半分ほど食べ終わった所で切り出す。
「何ですか?小森さん」
「私…今日からここで寝てもいいかな?」
「ぶはっ!」
予想外の一言に飲もうとしていた水を吹き出しそうになる望。
「い、いきなり何を言い出すんですかあなたは!?」
「だって、家事するのに一々部屋を移動するの大変だし…私の部屋エアコンもこたつも無いし…」
「だ、だからと言って…いくらなんでも教師と生徒が同じ部屋で暮らすというのは…」
「駄目…かな?」
俯く霧。再び前髪によって隠れた顔に、望は再び、あの最初に会った日を思い出す。
(て、テレビで頭をかち割られるのは嫌だ…!)
しかしいくらなんでも一緒に暮らすのは教師として本当にマズすぎる。
そして悩んだ末、一つ妥協点を見つける。
「で、では…小森さんが交当番の時だけ…というのはどうでしょう?」
「…!」
霧の顔がぱっと明るくなる。
言ってはみたものの、答えはイチかゼロか、そのどちらかしかないと思っていた。そして帰ってくる答えは十中八九ゼロだ、とも。
しかし望が提案したのはゼロではなかった。これほど嬉しいことはない。
「うん!じゃあ、それでいい」
今思うと踏み出した一歩はとんでもない大ジャンプだったかもしれない。でももうどうでもいい。
夢なんかじゃない。ようやく確実に距離を縮められた感触。それは今までで一番嬉しいことだったから。
…一方望は…
(絶望した!きっぱり断れない自分に絶望した!!
…いえ、小森さんがヤンデレになってしまうよりはマシだと考えるのです!)
言ったことを少し後悔しつつ、なるべく自分に可能な限りポジティブに考えるよう、思考の海に沈む。
だが…彼は気付いていない。
扉の外でストーカーの持つ包丁がキラリと煌めいたことに…
窓の外の釣り目の少女が持つチャッカマンが淡い火を吹いていることに…
ヤンデレ予備軍は一人だけではないのだ…
望の苦悩の物語はまだ続く。